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「仕組みさえ知っていれば、そう恐れるものでもない。この神の領域の森は、空間が複雑に折りたたまれ、幾つもの層となって連なっているのだ。特定の位置にある岩の影や、特定の木々の間を通ることで、別の森へと移動できる」
「移動……?」
「そうだ。だが、正解の経路を知らずに適当な場所を通れば、君のように空間の歪みによって永遠に同じ森をループすることになる。個別の『出口』という明確な境界線は、元々存在しない。ガイアード様以外に、この領域全体がどれほどの広さを持っているかを知る者は、この世に存在しないのだ」
「……聞けば聞くほど怖くなるじゃないですか!」
私は思わず声を張り上げた。
なんだその超欠陥構造の森は! 一歩間違えたら永遠に空間の狭間に閉じ込められるということではないか! 迷い込んだのがセルウィウス様のいる森で本当によかったと、今さらながら背筋が凍る思いだった。いや、連れて来られたのだが……。
私はふと違和感を覚えて空を見上げた。
そこには、相変わらずどんよりとした紫灰色の空が広がっている。太陽の姿はない。だが、全体的にほの暗く明るい。
「……そういえば、セルウィウス様。この世界に来てからずっと気になっていたのですが……太陽が、全く動いていませんわよね? 夜になったり朝になったりする感覚はありましたけれど、太陽の位置が変わった様子がありませんもの」
私の指摘に、セルウィウス様は感心したように目を丸くした。
「ほう……よく気づいたな、レティシア。察しが良い」
「まあ、伊達に二週間もここで暮らしていませんわ」
「そうだな。君が『夜』だと思っていた時間は、単に太陽が沈んでいたわけではない。空を泳ぐあの巨大な生き物たちが、上空を通過して太陽の光を遮っていただけだ」
「……あ」
ポン、と頭の中で手を打つ音がした。
すべての謎が解けた。
「道理で……! 夜の時間が極端に短かったり、逆に妙に長かったりしたわけですわ! 太陽が沈んでいたのではなく、単に巨大な魚が日陰を作っていただけだったなんて……!」
「そうだ。この領域の太陽は、一年かけて沈み、一年かけて昇る。常に天頂に固定されているという感覚も正しい。だから時間感覚が狂いやすいのだ」
納得がいった。人間界の常識をそのまま持ち込もうとしていたから混乱していたのだ。ここは文字通り、神と怪異が棲まう別世界なのだから。
「だが、心配する必要はない」
セルウィウス様が、スッと顔を近づけてきた。
彼の長くて美しい指先が、私の頬に触れ、さらりと耳元の髪をかき上げる。そして、あの独特のロマンチックな笑みを浮かべ、低い声で囁いてきた。
「私がいれば、どんな未知の領域だろうと君を安全に導いてみせる。……だから、怖がらずに私に身を委ねるといい」
「…………」
また始まった。
息をするように自然な接触と、無駄に顔が良い男による甘い言葉の投下。
二週間で耐性がついたとはいえ、至近距離でこれをやられると心臓に悪いことこの上ない。
私は彼の胸を両手で軽くポンと押し返し、華麗に彼のロマンチックモードをスルーすることにした。
「……はいはい、感謝いたしますわ。で、セルウィウス様。ロマンチックな解説は結構ですので、結局どうやってここから脱出するおつもりですの? 空飛ぶ馬車はどこにも見当たりませんけれど」
私の完璧なスルーに、セルウィウス様は拍子抜けしたように苦笑した。
だが、すぐにその表情は引き締まり、始化の当主たる威厳に満ちたものへと変わった。
「他の森の脱出方法は私も知らん。……だが、森の層から外の領域へ抜ける『最短のルート』なら知っている」
「はい?」
私が首を傾げた、次の瞬間だった。
——ゴーッ……!!
突如として、圧倒的な密度の魔力が大気を揺らした。
セルウィウス様の全身が、眩いばかりの濃紺と真珠色の光に包まれる。風が巻き起こり、白亜の大樹の葉が一斉にざわめいた。
光が弾け、収束していく。
そこに現れたのは——言葉を失うほどに、美しく、そして恐ろしい存在だった。
「……っ!」
息が止まった。
目の前に横たわっていたのは、王城よりも大きい、巨大な『ドラゴン』だった。
その全身を覆う鱗は、まるで幾千年も大地に芽吹いてきた大樹のように、深い緑色と煌びやかな光を放っている木肌のよう。研ぎ澄まされた美しい角、しなやかでありながら一撃で山を粉砕しそうな強靭な四肢。背中には、空を覆い尽くすほどの巨大な植物の対翼が広がっていた。
神々しく、あまりにも荘厳な姿。
これが、彼の真の姿——『原初の獣』であり『始化』の当主たる、竜の姿だった。
あまりの美しさと圧倒的な存在感に、私の心は完全に奪われそうになっていた。
ああ、なんて美しい生き物だろう。これが神の眷属。これが彼の本性なのだと。
……しかし。
感動に震えていた私の視線が、彼の首元から胴体にかけて移動した時、私は猛烈な違和感を覚えてピタリと思考を止めた。
「………………あの、セルウィウス様?」
『なんだ?』
低く、脳内に直接響く念動の声。ドラゴンとなった彼が、私を見下ろしている。
私は指をさし、どうしても抑えきれなかったツッコミを口にした。
「……なんでドラゴンなのに、ところどころ、ゴリゴリの鎧を身につけているのですか?」
そう。
せっかくの美しい深い緑の植物鱗の上から、なぜか厳つくて重厚な鱗と同色のアーマーが、完璧に装着されていたのだ。竜に鎧。あまりにも不自然な光景である。
ドラゴンのセルウィウス様は、少し翼を折りたたみ、動かした。
『……地上にはハイオーク(ドラゴンハンター)という、始化の力を狙う厄介な連中が少なからずいてな。いくら私がガイアード様の祝福受けているとはいえ、万が一ということもある。防具を着けていて損はあるまい』
「いや、ドラゴンならその鱗自体が最強の鎧なのでは……? どんだけ慎重派なのですか、あなた!」
最強の剣聖の意外すぎる「超・慎重派」な一面に、私の感動は一瞬で吹き飛んだ。
『……行くぞ、レティシア』
セルウィウス様がそう言った瞬間、私の体がふわりと浮き上がった。
念動の力だ。私の体はゆっくりと上昇し、彼の広大な背中の上——首根っこのあたりの、最も太くて安定した場所へと優しく降ろされた。
「うわっ……た、高い……!」
彼の背中に跨がると、想像以上の高さに足がすくんだ。地面が遥か下に見える。
すると、私の足元にあったドラゴンの鱗が、カチカチカチ……と生き物のように形を変え始めた。
重なり合う深い青の鱗が隆起し、私を全方向から包み込むように動き、あっという間に私の周囲に頑丈な箱型を作り上げたのだ。前方にだけ、外の景色が見える透明な魔力の膜が張られている。
「これなら落ちる心配はありませんわね……でも……」
素晴らしい配慮だ。さすがは慎重派のドラゴンである。
だが、私がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
『では、衝撃に備えろ。一気に空間の歪みを突破する』
「え? あ、あの、セルウィウス様? 私、実は高所恐怖症というか、あまり高いところや速いものは……」
言いかけた私の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
——ドォォォォォォォッ!!
爆音とともに、世界が弾け飛んだ。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!??!?」
絶叫。
私の悲鳴が、神の領域の空に空しく響き渡った。
セルウィウス様の巨大な翼が一羽ばたきした瞬間、周囲の景色が音速で後ろへと流れて行ったのだ。凄まじい重力が体に押し寄せ、鱗の箱の中で、私は必死に彼の背中にしがみついた。
下に見えていた大樹が、一瞬で豆粒のような大きさになる。
紫灰色の空を突き抜け、雲を突き破り、幾重にも重なる空間の歪みを、青き竜は強大な力で強行突破していく。
「速い! 速すぎますわぁぁぁぁぁっ! 落ちる! 魂がベリッと剥がれ落ちますわぁぁぁぁっ!」
『安心しろ、私の鱗は完璧だ!』
「そういう問題じゃありませぇぇぇぇんっ!」
恐怖で涙目になりながら、私は心の中で叫び続けた。
やっぱりこの男はどこかおかしい! 慎重なくせにやることは豪快すぎるのだ!
そのまま高速飛行していき、山を軽く二十は越えた。
空間が激しく歪み、視界が眩い白い光で満たされる。
山脈に大きく空いた穴に一切減速することなく突っ込んでいく。
私は風圧で100歳は老けた顔となり、その迫り来る現実をただ受け入れるしかなかった。




