12
光の破片が乱反射する空間の歪みを突き抜け、耳をつんざくような風切り音とともに視界が開けた。
「……あ、あひぃ……っ!?」
絶叫しすぎて掠れた声が、喉の奥から漏れ出た。
重力と衝撃の嵐が去り、周囲の風景が急激に変化したことに気づいた私は、恐る恐る目を開けた。
そこは、見覚えのある薄青い空だった。神の領域の空ではなく、私が慣れ親しんだ人間界の、どこまでも澄み渡る太陽の光が降り注ぐ空だ。雲が眼下に広がっており、遠くには小さく王都の尖塔群が見えている。
元の世界に戻ってこられた。その事実に対して安堵の溜息を漏らそうとした——まさにその瞬間。
私の視線は、自分が乗っている「足元」へと滑り落ちた。
「……え?」
血の気が、音を立てて引き引いていくのが分かった。
ない。
足元が、ない。
さっきまで私を頑丈に囲み、落下の恐怖から守ってくれていたはずの、あの深い緑色の巨大な竜の鱗が、綺麗さっぱり消えていたのだ。
いや、消えたのではない。まるで極上のクリスタルのように完全に無色透明になり、透けてしまっているのだ。
視界を遮るものが何一つなくなった足元には、はるか数千メートルの上空から見下ろす、玩具のように小さく広がる山々や街道、そして果てしない大地のパノラマが、これでもかとばかりに広がっていた。
高所恐怖症の私にとって、それはもはや拷問以外の何物でもなかった。
「ひ……ひぃぃぃぃぃっ!!? ス、スケスケですわ!? 足元がスケスケですわよセルウィウス様ぁぁぁぁぁっ! 落ちる! 落ちてしまいますわぁぁぁぁっ!!」
私は自分が空中にそのまま浮いているような錯覚に陥り、狂乱してその場にへたり込んだ。足元の「見えない床」を必死に手でペタペタと叩く。触感としては確かに硬い鱗の壁が存在しているのだが、視覚がそれを完全に否定して「お前は今、何も無いの空中に投げ出されている」と脳に異常アラートを鳴らし続けているのだ。
過呼吸を起こし、喉がヒッヒッと引きつる。心臓が早鐘どころか、鐘楼ごと崩壊する勢いで暴れ回っていた。
すると、私のパニックを察したセルウィウス様の声が、脳内に直接優しく響いてきた。
『レティシア。何の問題もない。人間界の空を飛ぶにあたって、巨大な竜の姿のままでは目立ちすぎるだろう? だから私の身と君の姿を外界から遮断するために、ただの不可視化——【透化】の術式を展開しただけだ。見えないだけで、君を護る鱗の箱は堅固に存在している。落ちることなど万に一つもないぞ』
「そ……そういう問題ではありませんわぁぁぁぁっ!!」
私は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、透ける床にしがみついて叫んだ。
「見えないということは! 私の脳にとっては存在しないのと同じことですの! 見えちゃっているんです、地表が! 砂場みたいな畑が! 豆粒みたいな牛や馬が! あれに激突したら私、ペチャンコの肉片になってしまいますわぁぁぁ!!」
『視覚的な恐怖というやつか。だが、すぐ慣れる。気持ちを切り替えて、風を切る感覚を楽しんでみるといい』
「楽しめるわけがありませんでしょうこのイカれドラゴン!!」
いくら「落ちない」と頭で理解しようとしても、本能が全力で拒否反応を示していた。
視界がぐにゃりと歪む。息がうまく吸えない。指先の感覚が失われていき、頭の中が真っ白な恐怖に塗りつぶされていく。
「あ……だめ……息が……っ」
『レティシア?』
「気……気絶します……っ」
私の意識はプツリと断ち切られ、深い闇の中へと落ちて行ったのだった。
───
「……ん?」
暖かな陽の光と、草の匂い。
どこか懐かしい、大地と土の香りが鼻腔をくすぐり、私はゆっくりと目やまぶたを開いた。
「……ここは?」
頭が重い。ぼんやりとした視界に映ったのは、青々とした草が生い茂る野原と、澄み切った青空だった。
上空でのあの悪夢のような浮遊感はない。背中に伝わるのは、どっしりとした大地の確かな感触だ。
「目が覚めたか」
すぐ頭上から、聞き慣れた声が降り注いだ。
ハッと息をのんで顔を上げると、そこには竜の姿から人間の姿へと戻ったセルウィウス様がいた。私はどうやら、彼の太ももの上——膝枕のような状態で、彼に寄りかからされていたらしい。
「セ、セルウィウス様!?」
慌てて体を起こし、ガバッと距離を取る。
彼は特に気に留めた様子もなく、立ち上がると優雅に服のホコリを払った。
「すまない。君がそこまで高い場所を怖がるとは思わなかったのだ。配慮が足りなかったな」
「ほんとうですよ……! 死ぬかと思いましたわ……」
胸を押さえて荒い息を吐き出す。しかし、周囲を見渡して、私はここがどこなのかを悟った。
そこは、王都の城壁の外側に広がる、郊外の平民街に近い空き地だった。遠くには王都を囲む立派な石造りの城壁が見え、街道を行き交う馬車の姿も確認できる。本当に、人間界に戻ってきたのだ。
そして、その空き地の中央付近では——。
「キャッキャッ!」「待て〜!」
数人の小さな平民の子供たちが、素朴な木切れやボールを使って、楽しそうにおにごっこをして遊んでいた。うだるような陽気の中、元気に駆け回る子供たちの声が響いている。
私はその光景を、息をのんで見つめた。
子供たち。人間界の、普通の人間たち。
「さあ、レティシア」
セルウィウス様が、私の背中にそっと手を添えた。その掌から伝わる体温が、震える私の心を落ち着かせる。
「子供たちに会いに行くといい。大丈夫だ、今の君なら……きっと受け入れてくれるはずだ」
「セルウィウス様……」
私の心臓が、上空での恐怖とは全く別の意味で、強く打ちはじめた。
実地テスト。
彼が言っていたのは、そういうことだったのだ。
この二週間、彼に与えられた甘い生活と、激しいスキンシップによる「解呪の儀式」。私の体にまとわりついていたあの不吉で黒い悪魔の呪いは、確かに弱まっていると彼は言った。
もし……もし、本当に呪いが解けているのだとしたら。
私はもう、「顔を見た者を発狂させる化け物」ではないということだ。
誰かを笑顔で傷つけることもなく、誰かに恐怖の絶叫をあげさせることもなく、普通に会話ができる人間になれたということだ。
七歳のあの日から、実に十年以上。
家族にすら忌み嫌われ、暗い自室に閉じ込められ、絶望の中で生きてきた私の苦しみ。それが今、この瞬間に解き放たれるかもしれない。
胸の奥から、言葉にならない得も言われぬ感情が溢れ出してきた。
期待、不安、祈り、そして恐れ。感情の波が押し寄せ、視界がじんわりと熱く滲む。
「……行って、まいりますわ」
私は震える脚を踏み出し、子供たちが遊ぶ空き地へと一歩一歩、歩みを進めた。
踏みしめる草の感触が、やけに鮮明だった。
風が私のドレスを揺らし、髪をなでていく。
あと十歩。あと五歩。
やがて、ザザッと草を踏み鳴らす私の足音に気づいたのか、遊んでいた子供たちがピタリと動きを止めた。
一人、二人と振り返り、一斉にこちらを見てくる。
(ああ……みんな、私を見ているわ)
今までの私なら、この視線を感じた瞬間に相手は泡を吹いて倒れるか、狂ったように悲鳴を上げて逃げ出していた。
だが、子供たちは倒れない。ただ、目を見開いて私を凝視している。




