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その日から、私、レティシア・コルネリアの「解呪」という名目の、甘く恐ろしく、そして限りなくおかしな共同生活が幕を開けた。
セルウィウス様が「家」と呼ぶ、この神の領域にそびえ立つ巨大な白亜の大樹。その内部は、外から見るよりもはるかに広大で、かつ複雑な構造をしていた。大樹の幹をくり抜いて作られた無数の部屋は、どれも信じられないほど豪奢で、自然の息吹と魔法の力が完璧に調和した空間だった。
彼は私に「この広すぎる家の中は、どこをどう使ってもいい。自由にしてくれ」と言い放ち、私のための専属の使用人(全員が愛らしいスプリガンたちだ)を何人もつけてくれた。
初日こそ、未知の世界への恐怖と混乱で部屋の隅に縮こまっていた私だったが、人間の順応性というのは恐ろしいものである。
何より、ここでは誰も私の顔を見て悲鳴を上げないのだ。
スプリガンのメイドたちは、私の顔を直視しながら「お嬢様、今日のドレスはこちらになさいますか?」「お嬢様、髪を梳かさせてくださいませ」と、極めて普通に、優しく接してくれる。
物心ついた頃から、実の親にすら顔を背けられてきた私にとって、この「普通に扱われる」という経験は、涙が出るほど嬉しく、そして心地の良いものだった。
だからこそ、私はこの大樹の家での生活を思い切り楽しむことに決めた。時間を潰すための娯楽には事欠かなかったからだ。
午前中は、スプリガンたちが用意してくれた極上の食事をいただいた後、大樹の図書館にあたる部屋で読書に耽る。そこには、人間界ではとうの昔に失われたとされる古代魔法の書物や、神々の時代の歴史書が山のように積まれていた。
気晴らしのために、クリスタルでできた竪琴のような楽器を奏でてみたり、テラスから見える空飛ぶ植物魚たちの幻想的な姿をキャンバスに絵の具で描いてみたりした。
さらには、スプリガンたちが紡いでくれた月光の糸を使って、見よう見まねで裁縫を楽しんだりもした。
午後になると、体を動かすアクティビティの時間だ。
安全だと保証された森の一部を散歩し、時には「乗馬」も楽しんだ。とはいえ、乗るのは馬ではなく、セルウィウス様が手配してくれた『銀色の毛並みを持つ、巨大で気品あふれる狼のような始化の眷属』だった。最初は恐る恐るだったが、背中に乗せてもらうと風を切る感覚が心地よく、私はすっかりその美しい獣の虜になった。
護身術の一環として、クロスボウ(石弓)の的射撃の練習も始めた。さらには、好奇心から錬金術にも初挑戦した。スプリガンのメイドたちと一緒に、夜になると星のように発光する薬草や、噛むとパチパチと弾ける不思議な果物を森で収穫し、それらをすり鉢で潰してフラスコで煮詰め、怪しげなポーションらしきものを作って遊んだりもした。
「ふふっ、この青い薬草をいれると、液体の色がピンクに変わるのね! 面白いわ!」
「お嬢様、あまり煮詰めすぎると爆発しますからお気をつけくださいね」
「えっ? 爆発?」
ドカン! と小さな音を立ててフラスコが割れ、顔中を煤だらけにしてスプリガンたちと一緒に大笑いする。およそ公爵令嬢らしからぬ振る舞いだが、ここでは誰に咎められることもない。
用意されたものは何でも最高級。自由気ままで、誰からも恐れられない夢のような日々。
もし、この生活がただの「バカンス」であったなら、私は一生ここから出たくないと言い出していたかもしれない。
——だが、現実はそう甘くはなかった。
私には避けては通れない、心臓に悪すぎる「日課」があったのだ。
何一つ不自由のない、夢のような生活。
人間界の陰湿な公爵邸で暮らしていた頃が嘘のようだった。
……そう、『セルウィウス様の過剰な解呪』さえなければ、間違いなく満点満刻の天国だったのだが。
「レティシア、少し動きが硬いぞ。もっと肩の力を抜け」
「ひゃいっ!?」
乗馬の練習をしていた時のことだ。
私が聖獣の手綱を握り、背筋を伸ばして乗っていたところ、唐突に背後から温かな体温が押し当てられた。
見上げれば、いつの間にか私と同じ聖獣の背に跨がったセルウィウス様が、私の後ろからすっぽりと抱きかかえるような体勢をとっていたのだ。
彼の大きな手が、私の上から手綱を包み込む。
背中に当たる、鍛え抜かれた胸板の圧倒的な厚み。首筋にかかる、彼の甘く落ち着いた吐息。
「セ、セルウィウス様!? なぜ後ろに乗っていらっしゃるのですか!?」
慌てて振り返ろうとした私に対し、セルウィウス様は至って真面目な、澄み切った群青色の瞳で私を見つめ、さも当然のように言い放った。
「解呪のためだ。乗馬の指導をしつつ、こうして体に触れていれば、効率よく呪いの魔力を吸い上げられる」
「指導にかこつけて密着していません!? っていうか、距離が近すぎますわ!」
「何を言う。乗馬とは馬との一体感、そして指導者との呼吸の同調が不可欠だ。……ほら、力を抜け。君の体は小さくて、少し力を入れただけで折れてしまいそうだ」
そう言って、彼は手綱を握る私の指を、ひとつひとつ優しくほぐすように自分の指を絡めてきた。
(な、ななな……っ!? 指を絡めるなんて聞いてないわよぉぉぉっ!!)
心臓がバクバクと暴れ出す。
脳内で警報が鳴り響くが、私は必死に自分に言い聞かせた。
(落ち着くのよレティシア! これは解呪! 医療行為よ! お医者様の手術みたいなものなんだから! 照れたら負けよ、照れたら負け!!)
だが、私の決意など、彼の「解呪」の前には一瞬で粉砕されることとなる。
またある日は、的に向かってクロスボウを構えていた時のことだ。
「的に集中しようとすると、どうしても姿勢が崩れてしまって……」
私が呟くと、またしても彼は颯爽と背後から現れた。
「腰の引き方が甘いな。こうだ」
ガシッ、と力強い手が私の腰に回された。
私の華奢な腰を引き寄せ、彼の体にぴったりと密着させる。そして、私の右肘を彼の手で優しく支え、頬が触れ合いそうなほどの至近距離で、標的を見つめさせてきた。
「息を吐ききった瞬間に放つんだ。……いいな、レティシア」
耳元で低く囁かれる声。
腰に回された手の熱さ。
彼の髪から香る、森林の爽やかな香り。
(む、無理無理無理! 的どころじゃないわ! 狙いを定める前に私の寿命が尽きる!!)
「あ、あの! 腰! 腰の手を離してくださいませ!」
「ダメだ。こうして骨盤の位置を固定しなければ、狙いがブレる。それに……ほら、こうして接触を深めたことで、君の髪の先から呪いのモヤが少し吸い出されたぞ?」
「絶対嘘ですわよね!? 証拠がないのをいいことに好き勝手言っていません!?」
さらに別の日。
チェンバロで優雅に旋律を奏でていると、セルウィウス様が「連弾をしよう」と隣に腰掛けてきた。
いくら広めの椅子とはいえ、彼のような大男が隣に座れば、当然のように肩と太ももが隙間なく密着する。
彼が奏でる力強くも美しい低音の旋律。
それに合わせて、私の手が鍵盤の上を踊るのだが、彼の手が重なるように私の手の上に置かれ、指先と指先が滑るように触れ合う。
「綺麗な音だ。君の手はとても小さくて、愛らしいな」
「〜〜〜〜っ! 演奏に集中させてくださいませ!」
読書をしていれば、いつの間にか私の膝に頭を乗せて「少し疲れた。膝枕を頼む」と瞳を閉じ(解呪のためだそうだ)。
絵を描いていれば、私の背後に立ってキャンバスを持つ手を包み込み(解呪のためだそうだ)。
錬金術の実験で薬草を千切っていれば、「手に傷がついたら大変だ」と私の手を取って指先一本一本に愛おしそうに口づけを落とす(もちろん解呪のためだそうだ)。
日常生活のあらゆる場面で、彼は至極平然と、当たり前のように甘い接触を図ってくるのだ。
「君の負担を減らすためだ」
「呪いの魔力が活発になっているからな」
「これは『解呪』のためだと。こうして君と肌を触れ合わせることで、君の魂に根付いた呪いを少しずつ私の体内へと移し、浄化しているのだ。私とて、遊びでやっているわけではないぞ」




