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ザッ、ザッ、ザッ……。
空飛ぶ植物大魚の威容に圧倒され、地面にへたり込んでいた私の耳に、重々しい足音が迫ってきた。
視線を前方に戻した私の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。
そこにいたのは、一言で言えば「巨大なイノシシ」だ。
だが、普通の獣ではない。体高は数台の馬車を積み重ねたほどで、その頑強な肉体は、太い倒木やうねるような根が複雑に絡み合って構成されている。背中からは鬱蒼としたシダ植物や苔がたてがみのように生い茂り、鼻先には鋭く尖った大木の牙が二本突き出ていた。そして、赤い木の実のように不気味に光る眼球が、爛々と前方を見据えている。
「ヒッ……」
喉の奥で、情けない音が鳴った。
イノシシ植物が、ドシッ、ドシッと地響きを立てながらこちらへ向かってくる。
この獣道のような場所は、両脇をねじ曲がった黒い大樹が隙間なく塞いでいる。そして、道のど真ん中には、腰を抜かした私が座り込んでいる。
どう見ても、私がここにいては向こうは通れない。普通なら立ち止まるか、迂回するはずだ。
しかし。
その巨大なイノシシは、石ころのような私の存在など完全に無視するかのように、全くスピードを緩めずに真っ直ぐに進んできたのだ。
「お、おた……お助け……ッ!」
私は悲鳴すらまともに上げられず、公爵令嬢としての矜持も、最高級のシルクのドレスが汚れることもすべてかなぐり捨てて、四つん這いになりながら無我夢中で道の脇へと這いずり逃げようとした。
しかし、いかんせん相手の歩幅が大きすぎる。
ドスン! と私のすぐ後ろに、丸太のような巨大な前足が踏み下ろされた。地面が激しく揺れ、土塊が私の頬を掠める。
(あ、これ踏まれる。私、ペシャンコになるやつだわ)
私の脳裏に、自らの無惨な最期が鮮明によぎり、ギュッと目を瞑った。
次の瞬間——。
ふわっ、と私の体が宙に浮き上がった。
「え……?」
重力が消えたような奇妙な浮遊感。気づけば私の体は軽々と持ち上げられ、さっと道の脇の安全な場所へと移動していた。そして、壊れ物を扱うかのような丁寧さで、優しく地面に下ろされたのだ。
「…………」
目の前を、地響きを立てながら巨大なイノシシ植物が通り過ぎていく。ものすごい風圧と土埃を残して、イノシシ植物は森の奥へと姿を消していった。
呆然と座り込んでいる私の視界に、スッと大きな手が差し出された。
見上げると、そこには見慣れた(といっても出会って数時間だが)瞳があった。
「勝手に離れるからだ。……だが、無事で良かった」
セルウィウス様が、少しだけ困ったような、だがどこか深く安堵したような微笑みを浮かべて立っていた。
差し出された彼の手を、私は反射的に取ってしまった。彼は私の細い腕を傷つけないように優しく引き上げ、立たせてくれた。
「今度は、離れないように手をつないで行こう」
彼は私の右手を、自分の左手でしっかりと、だが柔らかく包み込んだ。
「あっ……!」
振り払うタイミングを完全に見失った。
命を救われた直後ということもあり、私の体は彼の掌から伝わる大きな体温に、不思議と安堵を覚えてしまっていたのだ。
そのまま、私はセルウィウス様になすがままに手を引かれ、再び森の奥へと歩き出した。
「あ、あの……セルウィウス様」
私は歩きながら、恐る恐る口を開いた。
「ここは、一体何なのですか? 王都の近くに、こんな場所があるなんて聞いたことがありませんわ。それに、あの空を飛ぶ大きな魚や、さっきの巨大なイノシシ……到底、人間のいていい世界とは思えません」
セルウィウス様は前を向いたまま、静かに答えた。
「ここは『ガイアード』の領域の一つだ。始化である我らや、ガイアードの祝福を受ける者たちが集う場所。一度足を踏み入れれば、空間の理が違うゆえに、容易には出られない」
「神の、領域……」
私は絶句した。
聖書に記された、地上の唯一の神、ガイアード。その神が住まうとされる不可侵の神域。
「神の領域に、私のような人間を連れてきたというのですか!?」
「そういう事だ」
彼は短く、事も無げに答えた。
「なっ……なんで、わざわざこんなところに!? 婚約者にするからって、いきなり神の領域に連れ込むなんて、手順をすっ飛ばしすぎていますわ! 私、父上にもまだ何も言ってないのに!」
私の抗議に対し、セルウィウス様は振り返らず、ただ繋いだ手を少しだけきゅっと握り直して言った。
「もうすぐ分かる」
それだけだった。
優しく、だが絶対的な自信に満ちた声。
(もうすぐ分かるって、一体何が……?)
手をつなぐことへの、人生初の心臓が破裂しそうなほどのドキドキ。
人知を超えた神の領域という、未知への絶対的な恐怖。
これから自分の身に何が起きるのか全く分からないという、底知れぬ不安。
そして、隣を歩く男の顔が無駄に良すぎることへの理不尽な苛立ち。
様々な感情が私の頭の中でミキサーにかけられたように入り乱れ、処理能力の限界を超えてショートしかけていた。正直、失神寸前である。
私はもう、フラフラと彼の手に引かれてついていくしかなかった。
──
うつむきながら、力なく真っ黒な地面を見つめて歩く。
どれくらい歩いただろうか。
ふと、周囲の空気が変わったのを感じた。
鬱蒼としていた黒い木々の気配が消え、代わりに、暖かく柔らかな光が私の足元を照らし始めたのだ。
私は思わず顔を上げた。
「あっ」
前を歩いていたセルウィウス様が唐突に足を止めたため、私は彼の広い背中にコツンと軽くぶつかってしまった。
「痛っ……ご、ごめんなさい」
鼻をさすりながら横へずれた私は、目の前に広がる光景に、言葉を完全に失った。
そこには、巨大な『大樹』があった。
いや、大樹という言葉では陳腐すぎる。見上げるほど高く、横幅は王城の敷地すら超えるかもしれないほどの途方もない巨木だ。
幹は雪のように真っ白で、内側から淡い真珠色の光を放っている。枝葉は天を覆うように広がり、そこにはルビーのような赤、サファイアのような青、エメラルドのような緑と、様々な色で発光する巨大な木の実が無数に生え揃っていた。
周囲には澄み切った泉が湧き、美しく発光する花々が咲き乱れ、先ほどの陰鬱な黒い森とは打って変わって、まるで楽園のような空間が広がっていた。
あまりの美しさ、あまりの神々しさに、私は口を開けたまま立ち尽くした。
「ここが、私の家だ」
セルウィウス様が、自慢するでもなく、ごく自然な口調で言った。
そして、呆然とする私の肩に優しく手を置き、そっと促すように、大樹の根元に開いた巨大な空洞——玄関らしき場所へと導いていった。
家の中に入ると、そこはさらに驚きの空間だった。
空洞の中だというのに、中は驚くほど明るく、広々としていた。
壁や天井はなめらかな白い木肌で覆われ、そこから自然に生え出たような形の階段や回廊が上へと続いている。
配置された家具も、人間界のそれとは全く異なっていた。テーブルは巨大なキノコの傘を磨き上げたようなもので、椅子やソファは生きた蔦や巨大な葉っぱが編み込まれて形作られている。魔石のようなものが光源として浮かび、魔法と植物を掛け合わせたような、幻想的で自然豊かな内装だった。
「お帰りなさいませ、セルウィウス様」
不意に、鈴を転がすような声が響いた。
見ると、部屋の奥から数人の「使用人」たちが歩み寄ってきた。
彼らは人間の形をしているが、人間ではなかった。髪の毛はしなやかな緑の蔦や葉でできており、肌は樹皮のような質感を持っている。瞳は琥珀色に輝き、森の精霊——神話に出てくる「スプリガン」そのものの姿だった。
(あ、また私、悲鳴を上げられるパターンね……)
私は身構えた。
相手が精霊だろうと何だろうと、私の顔には「全ての人間が狂い散らかすほどの恐ろしい化け物に見える呪い」がかかっているのだ。彼らも私の顔を見た瞬間、卒倒するか逃げ出すに決まっている。




