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「私は至って真剣だ、レティシア」
その言葉が、さきほどから私の頭の中でぐるぐると反響して止まない。
高級な馬車のふかふかなシートに深く沈み込みながら、私は自分の両手で顔を覆っていた。指の隙間から漏れる吐息が、自分でも驚くほど熱い。
(どどど、どうしよう……っ! 私、今すごく顔が赤くなってる気がする!)
無理もない。人生において「恋愛」というものを一度も経験してこなかったのだ。
もとい、私が七歳で例のお粗末極まりない悪魔の呪いを受けて以来、異性との接触など皆無だったのだ。
同年代の貴族令息たちは、私の顔を遠くから見ただけで「ひぎぃっ!」と悲鳴を上げて逃げ去っていったし、屋敷の男性使用人たちは私とすれ違う際、壁に張り付いて息を殺し、まるで嵐が過ぎ去るのを待つかのようにやり過ごしていた。
男性と手を繋いだ、最後で唯一の記憶。
それは、呪われる前日のこと。公爵家の広大な庭園を散歩していた時、はしゃいで転ばないようにと、大好きだったお父様としっかりと手を繋いだ、あの温かな記憶だけだった。
それ以来、十年間。私は誰の手も握らず、誰からも愛を囁かれず、ただ一人で「恐怖の化け物」として振る舞ってきたのだ。
だからこそ、いきなり大陸最強の剣聖(自称かもしれないが)に「惚れた」などとストレートに言われ、手を握られた衝撃は計り知れなかった。心臓が口から飛び出そうなくらい、バクバクと早鐘を打っている。
「……レティシア?」
向かいの席に座るセルウィウス様が、私を覗き込むように声をかけてきた。
「な、なんでもありませんわ! 話しかけないでくださいませ!」
私は顔を覆ったまま、そっぽを向いた。
その時だった。
——ギギィィィィンッ!!
突如、馬車がけたたましい音を立てて急停車した。
「きゃっ!?」
慣性の法則に逆らうことなどできず、私の体は前へと投げ出された。顔面から床に激突する——と覚悟してギュッと目を瞑った瞬間。
ドスッ、という鈍い音とともに、私は硬くもしなやかな何かにすっぽりと受け止められていた。
ふわりと香る、清潔で、どこか森の木々を思わせるような落ち着く匂い。
「おっと。危ないところだったな」
頭上から降ってきたのは、どこか楽しげな、そして非常に「わざとらしい」男の声だった。
恐る恐る目を開けると、私の目の前にはセルウィウス様の逞しい胸板があった。私は勢い余って、向かい側に座っていた彼にダイブし、すっぽりとその腕の中に収まってしまっていたのだ。
見上げると、セルウィウス様は至極満足そうに、口角を上げて微かに微笑んでいる。
「なっ……!?」
私はあまりの出来事にたじろぎ、バネ仕掛けのおもちゃのようにバッと飛び退いた。
「し、失礼いたしました……っ!」
元の座っていた場所に慌てて戻り、シートの隅っこで小さく縮こまる。
(わざとだ! 今の絶対わざとですわよね!? 馬車の急ブレーキに乗じて、私を抱き止めようとしたんですわ!)
恥ずかしさと混乱で、全身から火が噴き出しそうだった。
顔が熱い。耳の先まで茹で上がっているのが自分でも分かる。耐えられない。これ以上この密室で、この胡散臭くて顔が良い男と二人きりでいたら、心臓が爆発して死んでしまうかもしれない。
いたたまれなくなった私は、逃げるように窓の外へと視線を向けた。
「……え?」
そこで、私は目を丸くした。
窓の向こうに広がっていたのは、見慣れた王都の華やかな街並みではなかった。
木一本、草一本生えていない、見渡す限りの黒い岩肌。そして、どんよりと淀んだ紫がかった灰色の空。荒涼とした、全く見知らぬ異様な高原が広がっていたのだ。
「着いたぞ」
いつの間にか馬車の扉を開け、外に降り立っていたセルウィウス様が、私に向かって手を差し伸べていた。
じっと静かに、私が降りてくるのを待っている。
(ここは……どこ? ついさっきまで、王都近郊にいたはずなのに)
気まずい空気と、得体の知れない景色への不安。それに耐えきれなくなった私は、逃げるように、つられるようにして馬車から降りた。
「さあ」
セルウィウス様がエスコートのために手を貸してくれたが、私はその大きな手から慌てて自分の手を離し、自力で地面に降り立った。
「け、結構ですわ。自分で歩けます」
強がってみせたものの、足元は少し震えていた。
「こっちだ」
私が手を払ったことなど全く気にした様子もなく、セルウィウス様は踵を返し、荒涼とした岩肌の先にある、黒々と鬱蒼と茂る森の中へと歩き出した。
私は慌ててその後を追いながら、ふと気になって後ろを振り返った。
乗ってきた絢爛豪華な馬車。
だが、その御者席には——誰も乗っていなかった。手綱すら結ばれていない。
「(誰も……いない? じゃあ、一体誰が馬車を操縦していたの……?)」
背筋に冷たいものが走る。
一人で内心、先ほどの異性との接触に未だたじろいでいた私だったが、周囲のあまりにも妙な景色と状況に、ハッと我に返った。
周囲は真っ暗だった。
空はどんよりと濁り、太陽の光はどこにも見当たらない。
目の前に広がる森は、王都の近くにあるような爽やかな林ではない。うごめくようにねじ曲がった巨大な樹木が密集し、葉の一枚一枚が刃物のように鋭く黒光りしている、奇妙で不気味な森だった。
(やばい……。この人、やっぱり信用できないわ)
冷静に考えてみれば、おかしなことだらけだ。
婚約破棄の現場に、大陸一の剣聖が都合よく空から降ってくる?
私のような気味の悪い呪いのかかった令嬢を、見初めて呪いを食べたいと言って強引に連れ去る?
そして、馬車に乗った数分後には、王都から遠く離れたこんな異界のような場所に着いている?
三文芝居の吟遊詩人でも、もう少しまともな筋書きを唄う。
(そうだわ……この男、やっぱり剣聖なんかじゃない! きっと姿を変える変身魔法か何かを使った、質の悪い偽物なんだわ! 私の公爵家としての財産や地位を狙った、ただのナルシストの異常者よ!)
私の脳内で、見事な自己正当化と名推理(?)が完成した。
そうと決まれば、こんな得体の知れない男についていく義理はない。
「私から離れるなよ」
少し先を堂々と歩いているセルウィウス様が、ちらりと振り返って言った。
「はいっ。分かっておりますわ」
私はすかさず、至って従順な令嬢を演じて軽く返事をした。
そして、彼が再び前を向いて歩き出した瞬間。
ササッ、と音を立てずに横道に逸れ、巨大な木の幹の裏へと隠れた。
心臓がドキドキと音を立てる。恋愛的な意味ではなく、純粋な逃走の緊張感からだ。
セルウィウス様が気付かずに森の奥へと進んでいくのを見届けると、私は木陰から木陰へと素早く移動し、来た道を戻り始めた。
(馬車に乗って、何とか王都に帰る方法を探さなきゃ。最悪、歩いてでも……)
ドレスの裾を少し持ち上げ、ヒールで音が鳴らないように慎重に歩を進める。
だが、少し戻ったところで、私はピタリと足を止めた。
「……おかしいわ」
周囲を見渡す。
右も左も、ねじ曲がった黒い樹木ばかり。
こんなに森の奥深くへは入っていなかったはずだ。馬車から降りて、歩いたのはほんの数十メートル。振り返れば、すぐにあの荒涼とした岩肌の高原が見えるはずだった。
しかし、戻っても、戻っても。
一向に元の場所に戻れないのだ。
景色が変わらない。いや、まるで空間そのものが歪んで、同じ場所をぐるぐると回らされているような感覚に陥る。
「い、一体何なのよ……っ!」
軽くパニックになってきた。
私は顎に手を当て、下を向きながら考え込んだ。
この森はどうなっているの? 魔法の迷いの森?
それとも、私が方向音痴なだけ? いや、いくらなんでも一本道を少し戻っただけで迷うはずがない。
セルウィウス様のところに戻った方が安全だろうか? いや、でもあの男は信用できない。狂言病患っている変質者かもしれないし。
思考が堂々巡りになり、足元だけを見つめてブツブツと呟きながら歩いていた、その時だった。
「こんにちわ」
ふと、前方から可愛らしい声が聞こえた。
私は笑顔で顔を上げた。
「はい、こんにちわ」
貴族の習慣とは怖いものだ。私は無意識に、完璧な令嬢の笑みを浮かべて明るく答えていた。体に染み付いてしまっていたのだ。
しかし、すれ違い声をかけてきた者は。
私よりも頭一つ分は大きい、見上げるほどに巨大な、真っ白なシャクヤクのような花だ。
立派な緑色の茎が二股に分かれて足のようになっており、優雅に地面を踏みしめながら歩いている。顔があるわけではないが、幾重にも重なった美しい花弁がふわりと揺れ、まるで上品にお辞儀をしているように見えた。
花は私とすれ違い、そのまま優雅な足取りで森の奥へと歩き去っていく。
私もそのまま、何事もなかったかのように数歩歩を進めた。
一歩。二歩。三歩。
そこで、私はピタリと足を止めた。
我に返る。
「……え!?」
ゆっくりと振り返る。
そこには、見事な真っ白な花弁を揺らしながら、二本足(茎?)でテクテクと歩いていく巨大なシャクヤクの背中(?)があった。
「……………………」
あまりの異様な出来事に、私は完全に呆然と立ち尽くした。
歩く花。話しかけてくる花。それに律儀に挨拶を返す私。
公爵令嬢としての礼儀作法が、こんなところで裏目に出るとは思わなかった。
「もう……わけが分からないわ……」
膝から崩れ落ちそうになった、まさにその瞬間だった。
突如として、大地が軋むような、地鳴りに似た音が響き渡った。
いや、ただの地鳴りではない。
それは「声」のようだった。波の満ち引きのように周期的に揺らぐ音。
どこか悲しげで、遠い過去を懐かしむような、途方もなく幻想的で美しい声。
私は弾かれたように、声の聞こえる上方——空を見上げた。
息を呑んだ。
空を何かが覆い尽くしていた。
「魚」のようだったが、海を泳ぐ魚ではない。とてつもなく巨大な体が、すべて緑色の「植物」で構成されているのだ。
幾重にも重なった硬い葉が鱗の役割を果たし、しなやかな蔦と枝がヒレとなって、ゆったりと空気を掻いている。空という名の広大な海を、悠然と泳いでいるのだ。
その圧倒的な質量と、畏怖すら感じる異界の光景。
ここは人間の来ていい場所ではない。セルウィウス様が言っていた「始化」——原初の獣たちの世界なのかもしれない。
あまりの光景の壮大さに、私の足から完全に力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
圧倒的な神秘の前に、ただ空を見上げることしかできなかった。
すると。
ザッ、ザッ、ザッ……。
目の前から、誰かが草を踏みしめて歩いてくる足音が聞こえた。
私はハッとして、空から視線を戻し、前方を見る。




