剣聖様は少し変わった御方
泡を吹いて卒倒した元・婚約者のルキウス様と、その上でピクピクと痙攣している男爵令嬢フルウィアさん。
そして、私の「ちょっとした悪ノリ」の被害を被って床にへたり込んでいる無数の貴族たち。
地獄絵図、という言葉がこれほど似合う社交場も珍しいだろう。
私は一人、誰一人として近づこうとしない大広間の中央で、優雅にベリーのタルトをフォークでつついていた。
「うん、甘酸っぱくて美味しいわ。……まあ、誰も話しかけてこないから、お菓子が食べ放題なのはこの呪いの数少ないメリットよね」
そんな能天気な感想を抱いていた、その時のことだ。
——ドガァァァァァンッ!!
突如として、宴会場の天井近く——二階の観覧テラスから、一筋の黒い影が躍り出た。
影は放物線を描いて空を舞い、豪快な風切り音とともに、大広間の真ん中に「颯爽と」降臨した。
可憐な令嬢なら「きゃあっ!」と悲鳴を上げる場面だろうが、私は冷静にタルトを口に運びながらその光景を見ていた。
煙がサッと晴れる。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
漆黒の髪を無造作に流し、夜空を切り取ったかのような深い群青色の瞳を持つ、彫刻のように整った男だ。体に仕立ての良い濃紺の礼服を纏っているが、その隙間からでも分かる鍛え抜かれたしなやかな体躯。背中には、装飾を削ぎ落とした無骨な大剣を背負っている。
立ち姿だけで、周囲の空気を歪ませるほどの圧倒的な存在感。
……だが、私の視線は彼の顔ではなく、その足元に釘付けになった。
「……あら?」
男が着地した足元——王室御用達の最高級大理石の床が、見事なまでにクモの巣状にバキバキと粉砕されていたのだ。ヒビは半径三メートルほどに広がっており、いくつかの破片が派手に弾け飛んでいる。
颯爽と着地したのは良いが、弁償代が凄まじいことになりそうだ。
気絶から正気を保っていた一部の貴族たちが、その男の顔を見るなり、今度は別の意味でガタガタと震え上がり、口々に叫び始めた。
「あ、あのお方は……っ!?」
「まさか……大陸最高峰の剣術流派『木漏流』の現当主、セルウィウス・クラウディウス様か!?」
「なぜあのような雲上のお方がこの夜会に……! 各国の王族や、大陸屈指の富豪たちが大金を積んでも教えを乞う、最高位の宗家だぞ!?」
「『剣聖』セルウィウス様だぁぁぁっ!」
はあーん、と私は感心した。
セルウィウス・クラウディウス。噂には聞いたことがある。
弱冠二十代半ばにして、大陸のあらゆる剣士を赤子扱いし、一国を単身で滅ぼせるほどの武力を誇ると言われる、生きる伝説だ。
……まあ、どれだけ凄い人だろうと、私からすれば「大理石の床を弁償させられそうな人」でしかないのだが。
「ふむ……」
剣聖と呼ばれた男——セルウィウスは、破砕された床の感触を確かめるように一回だけ足踏みをすると、ゆっくりと頭を上げた。
そして、その深い群青色の瞳が、まっすぐに私をとらえた。
私と、目が合う。
「(あ、終わったわね)」
私は心の中で合掌した。
いくら大陸最強の『剣聖』だろうと、所詮は人間だ。私とバッチリ目が合ってしまった以上、彼も数秒後には白目を剥いて泡を吹き、剣聖の名にふさわしく豪快に卒倒することになるだろう。
だが——違った。
セルウィウス様は白目を剥くどころか、その整った眉をぴくりと動かし、どこか感心したような、あるいは空腹の猛獣が極上の獲物を見つけたかのような、妖しい笑みを唇に浮かべたのだ。
「ほう……」
彼は足元の大理石をさらに粉砕しながら、ゆっくりと私に向かって歩を進めてきた。
周囲の貴族たちが「ひっ、危険ですセルウィウス様!」「その化け物を見てはなりません!」と必死に制止の声を上げるが、彼は完全に無視している。
一歩、二歩。
私との距離が縮まる。
普通なら、私に近づく人間は全身の毛穴から冷や汗を吹き出し、恐怖で膝をガクガクさせ、最終的には吐血して倒れる。
だが、この男には一切の動揺が見られない。それどころか、私に近づくにつれて、その瞳に宿る熱量が増していくようにすら見えた。
ついに、私の一歩手前でセルウィウス様は足を止めた。
背の高い彼が見下ろしてくる。息が届きそうなほどの距離だ。
「あの……何かご用でしょうか、剣聖様?」
私が畏怖しながら首をかしげて尋ねると、セルウィウス様はスッと顔を寄せてきた。
そして、私の耳元に、低く、甘く、だがどこか狂気を含んだ声で、こう囁いたのだ。
「……君のその呪い、非常に美味そうだ。私に食べさせてくれないか?」
「………………はい?」
あまりにも脈絡のない、そして異質すぎる言葉に、私の思考回路が完全にフリーズした。
た、食べたい……?
呪いを……食べる?
えっ、何言ってるのこの人? ヤバい人じゃん。美味そうって何? 呪いって味あるの? どんな味? っていうか、私のこの顔を見て真っ先に思う感想が「美味そう」なの!?
驚愕のあまり開いた口が塞がらない私をよそに、セルウィウス様は満足そうに微笑むと、私の返答などハナから期待していなかったかのように、ガシッと私の右手を握りしめた。
握力が強い。公爵令嬢のひ弱な腕など、簡単にへし折られそうなほどの圧だ。
そして彼は、クルリと振り返ると、気絶した貴族たちと怯える衛兵たちに向かって、大広間全体を揺るがすような大声で言い放った。
「皆の者、よく聞け! このレティシア・コルネリアは、本日ただいまをもって、この私の婚約者となる! 異論のある者は、いつでも私の剣と語り合うがいい!」
静寂。
大広間を支配したのは、あまりの暴論と理不尽に対する、絶対的な沈黙だった。
「(ちょっと待ちなさいよーーーっ!?)」
私の脳内で、大音量の警報が鳴り響いた。
なんだこの超展開!? 婚約破棄された数十秒後に、見知らぬ剣聖から勝手に婚約宣言されるってどういうこと!?
「ち、ちょっと! セルウィウス様! 何を勝手なことをおっしゃって——」
「行くぞ、我が愛しき者よ」
「話を聞いてぇぇぇっ!?」
抗議も虚しく、私はセルウィウス様に強引に手を引かれ、大広間の出口へと歩き出された。
当然、私は抵抗した。全力で踏ん張り、踏み止まろうとした。
しかし、相手は大陸最強の剣聖だ。私がいくら足掻いたところで、巨大な熊に引っ張られる鼠のようなものである。ずるずると惨めに引きずられていく。
「た、たすけて! 誰か助けてくださぁぁい!」
私はなりふり構わず、周囲の衛兵や貴族たちに助けを求めた。
だが——
「ひっ……! 化け物が助けを求めている……っ!」
「無理だ! 剣聖様とあの化け物の双方に立ち向かうなんて、神への反逆と同義だ!」
「関わるな! 目を合わせるな! 存在を消せ!」
誰一人として助けに来てくれない。
どころか、私が視線を向けると、貴族たちは悲鳴を上げて一斉に目を逸らし、壁と同化しようと必死になっていた。
「この役立たずどもぉぉぉっ! 呪いじゃなかったら、本気で訴えてやるんだからぁぁぁっ!」
私の悲鳴虚しく、私は夜会の会場から強引に連れ出されたのだった。




