世界で一番恐ろしい(?)令嬢
——瞬時に、静まり返る大広間。
数秒前まで華やかな音楽と高笑いが満ちていた会場が、まるで時が止まったかのように凍りついた。
私の姿が入口に現れた瞬間、給仕は高級なシャンパンが入ったグラスを床にぶちまけ、ヴァイオリン奏者は弦を弾きちぎり、着飾った貴婦人たちは「ひっ……!」と短く悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「皆様、ごきげんよう。素晴らしい夜ですわね」
私が優雅に微笑み(のつもりで)挨拶をしながら一歩踏み出すと、前方にいた貴族たちが波が引くようにサーッと左右に割れた。モーセの十戒もびっくりな離れ業である。
誰も私と目を合わせようとしない。床に額を押し付けて祈りを捧げる者、必死に失神したフリをする者、失禁を耐えるために必死で太ももを抓る者。
「(相変わらず、みんなオーバーリアクションなんだから……ほんと、呪いじゃなかったらこれイジメよイジメ)」
一人で内心ツッコミを入れながら、壁際に置かれたケーキをつまもうと歩みを進めていた、その時だった。
「——そこまでだ! 悪鬼のごとき化け物め!!」
静まり返った会場に、無駄に通りが良い、だが少し上ずった声が響き渡った。
見ると、大広間の中央、一段高くなった壇の上に、私の婚約者であるルキウスが立っていた。
その隣には、なにやら庇うようにして可愛らしい男爵令嬢——たしかフルウィアとかいう名の娘を抱き寄せている。
ルキウスは私から極力目を逸らし、斜め45度上空の天井付近を凝視しながら、冷や汗を滝のように流して叫んでいた。足が生まれたての小鹿のようにガクガクと震えているのが、遠目からでもハッキリと分かる。
「レティシア・コルネリア! 俺はお前との婚約を破棄する! 今この瞬間をもって、お前のようなおぞましい、見るに堪えない怪物を我がウァレリウス家の妻として迎える撤回を宣言する!!」
……あらあら。
ついにやっちゃいましたか、ルキウス様。
会場の貴族たちが息を飲んだ。いや、恐怖で息が止まっているだけかもしれない。
ルキウスは、私が直接自分を見つめていない(と彼は思っている)ことに気を良くしたのか、あるいは恐怖の限界を突破してヤケクソになったのか、さらに言葉を続けた。
「お前のその顔! その悪魔よりも恐ろしい凶相は、我がウァレリウス家の名誉を傷つけるものだ! 俺が愛するのは、この可憐で美しいフルウィアだけだ! お前のような化け物は、一生暗い部屋に閉じこもっていればいいのだ!」
ルキウスの腕の中で、フルウィアという令嬢もブルブルと震えている。ただし、彼女が震えているのはルキウスへの愛ゆえではなく、単に私の存在に対する本能的な恐怖のせいだ。目を見開いたまま固まっている。
私はケーキを一口でパクリと平らげると、優雅にレースのハンカチで口元を拭い、ルキウスの方へと向き直った。
「ルキウス様。急な婚約破棄のお申し出、驚きましたわ。ですが……そのような暴言、公爵家の娘として見過ごすわけにはいきませんわね?」
私は至って普通に、少し困ったような笑顔を作った。
しかし、周囲の人間からすれば、それは「死の神が微笑んだ」のと同義だったらしい。
「ひいぃぃっ! 話しかけるな! こっちを見るな!」
ルキウスは悲鳴を上げ、喉をかきむしるように叫んだ。
「お、おい! 衛兵! 何をしている!! この化け物を今すぐ捕らえろ! 捉えて地下牢にぶち込めぇぇぇっ!!」
ルキウスの命令を受け、大広間の入口付近に控えていた重装の衛兵たちが、剣を抜いた。
……抜いたのだが。
「え、衛兵!? 早くしろ! 早くあの化け物を押さえつけろ!」
ルキウスが叫ぶが、衛兵たちは一向に動かない。
いや、動けないのだ。
「む、無理です……ルキウス様ぁ……っ!」
「あんな……あんなおぞましいお顔のお方にお近づきになれるわけがございませんんんっ!」
「近づいたら……近づいたら魂が吸い取られて死にます! 命が幾つあっても足りませんっ!」
屈強な全身鎧に身を包んだ衛兵たちが、剣をカチカチと震わせながら、ボロボロと涙を流して首を横に振っている。中には恐怖のあまり、自分から手枷をはめて「降伏します! 命だけは!」と叫び出す者まで出る始末だ。
「な、なんだと!? お前たち騎士だろうが! 国の盾だろうが!!」
ルキウスが焦って怒鳴り散らす。
「騎士だって怖いものは怖いんですうぅぁぁああっ!」
衛兵の隊長らしき大男が、ついに剣を投げ捨てて頭を抱えて丸くなった。
「まったく……頼りにならない衛兵さんたちですこと」
私はフッとため息をついた。
そして、ルキウスに向かって、ほんの少し——本当にほんの少しだけ、歩みを進めた。
タッ、と私のハイヒールが床を叩く音が、静寂に響く。
「ひ……ひぃっ!?」
ルキウスの顔から完全に血の気が引いた。
彼が必死に目を逸らそうとしているのが分かる。だが、私はあえて、彼とバッチリ目を合わせるように、首を少し傾けて微笑んであげた。
さらにもう一歩、踏み出す。
「ルキウス様。私を『化け物』とおっしゃいましたわね? 衛兵にも見捨てられ、頼みの綱もない状態で、私にそのような口を利いて……どうなるか、お分かりですの?」
ほんの少し、意地悪な気分の「悪ノリ」だ。
声を少し低くして、妖しく微笑んで見せた。
ただそれだけ。
ただ、美しいドレスを着た令嬢が、婚約者に少しお小言を言おうと近づいただけなのだ。
だが、ルキウスの視界の中では、おそらく「この世の全ての地獄が凝縮された混沌の巨神が、己の魂を喰らいに一歩を踏み出した」ように見えたのだろう。
「ぎやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっ!!??!?」
大広間の天井が割れんばかりの、見事な悲鳴だった。
ルキウスは白目を剥き、口から盛大に泡を吹いた。
そして、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちたのである。ドスン、と間抜けな音が響いた。
「ル、ルキウス様ぁぁぁっ!?」
隣にいた男爵令嬢フルウィアも、巻き添えを食らう形で恐怖の限界を迎え、ルキウスの上に重なるようにして失神した。
静寂。
静寂だけが、大広間を包み込んでいた。
気絶してピクピクと痙攣している元・婚約者と、その愛人。
遠巻きにそれを見て、震えながら「たすけて……」と呟いている貴族たち。
腰が抜けて立ち上がれない衛兵たち。
私は、誰も近寄ろうとしない円形の間の中央で、ぽつんと一人佇んでいた。
「……あらやだ。私、ただ『どういうおつもりですの?』って聞こうとしただけなのに」
溜息をつきながら、私は自分の顔を手鏡で確認する。
そこに映るのは、相変わらず可憐で上品な、ごく普通の私の顔だ。
「まあいいわ。婚約破棄は成立したみたいだし……ケーキの続きでも食べようかしら」
私は倒れた二人をあっさりとスルーし、誰もいなくなったバイキングテーブルへと優雅に歩き出したのだった。
この時の私は、まだ知らなかった。
この大混乱の夜会の様子を、会場の二階テラスから面白そうに見下ろしていた「ある人物」がいたことを。
そして、その人物だけが、なぜか私の顔を見ても正気を保っていたということを——。




