14
あのカチコチ頭の狂乱から、早一ヶ月の月日が流れていた。
神の領域にそびえる白亜の大樹の自室で、私は静かに目を覚ます。
朝の柔らかい光が葉の隙間から差し込み、私を包み込んでいた。
「おはよう、私の愛しいレティシア。今日の世界も、君の存在だけで眩しいくらいだ」
耳元で響く、甘く低いバリトンボイス。
一ヶ月前なら、この声と至近距離の顔面美だけで心臓が口から飛び出し、パニックを起こしてベッドのフレームに頭を打ち付けていただろう。
だが、今の私は違う。
私は薄目を開けると、私の頭を愛おしそうに撫で、そのまま額に優しく唇を押し当ててくるセルウィウス様を見つめ、クスリと小さく微笑んで見せた。
「おはようございます、セルウィウス様。朝からそんなに甘い言葉ばかり吐いていると、お口の中が砂糖漬けになってしまいますわよ?」
「ほう……? ならば、君のその小さな唇で確かめてみるかい?」
彼が戯れに顔を近づけてくると、私はその整いすぎた胸板を細い指先でトンと軽く押しのけ、余裕の表情を装ってみせた。
「おあいにく様。私は朝食前の身ですの。甘いおやつは食後にいただきますわ」
「くっ……くはは! 言うようになったな。最初の頃は真っ赤になって逃げ回っていたうぶな小鳥が、今や私の扱いにすっかり慣れてしまった」
セルウィウス様は心底楽しそうに喉を鳴らして笑うと、私の髪を慈しむようにすくい上げ、その手に優しく口づけた。
そう、私は変わったのだ。
彼が毎日のように「解呪」という名目で与えてくれた、あまりにも甘く、劇的で、ロマンチックなスキンシップの数々。最初は恥ずかしさに耐えかねて悶絶していた私だったが、次第に彼の言葉に軽口で返せるほどには慣れてしまった。
……そして同時に、私は自覚してしまっていたのだ。
自分が、どれほど深く、この大陸最強で、過保護で、いささかロマンチストすぎる竜の剣聖に恋をしてしまっているかを。
彼はいつだって私を「化け物」としてではなく、「一人の愛おしい女性」として扱ってくれた。顔の煤を拭ってくれたあの日も、空を飛んで恐怖で気絶させたあの日も、彼の手のひらから伝わってくるのは、どこまでも深く温かい愛だった。
しかし、その穏やかで幸せな日々に、突如として終わりの気配が訪れる。
朝食を終えた後、テラスで紅茶を淹れてくれたセルウィウス様が、ふと真面目な眼差しで私を見つめたのだ。
「レティシア。……君の体の中にあった悪魔の呪いは、もうほぼ残っていない」
「……え?」
私の手が、ピタリと止まる。
「昨日、君の魂の深層まで探ってみたが、不吉な魔力の滓すら綺麗に浄化されていた。君はもう、完全に自由だ。誰かを傷つけることも、恐怖に陥れることもない。……つまり、私と君の『解呪のための共同生活』は、ここで目的を果たしたということになる」
彼の言葉は至極穏やかで、私の回復を心から祝うものだった。
だが、私の胸の奥は、まるで冷たい氷を押し当てられたかのようにキュッと締め付けられた。
解呪が終わった。
それは、私が人間界に戻り、本来の公爵令嬢としての生活へと帰ることを意味している。この夢のような大樹での生活も、毎朝の甘い口づけも、私を「解呪」するための理由がなくなってしまうのだ。
「……そうです、か。完全に……解けたのですね」
うつむいた私の声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。
指先が冷たくなっていく。彼が私のために淹れてくれたハーブティーの湯気が、なんだか酷く遠い出来事のように感じられた。
(嫌だ……)
胸の奥から、溢れ出して止まらない想いがあった。
私はもう、あの孤独な暗闇の公爵邸に戻りたいのではない。私を「化け物」と恐れた世界へ帰りたいのではない。
私がいたいのは、この温かな腕の中なのだ。
「セルウィウス様」
私は意を決して顔を上げた。ポロポロと目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえ、彼の深い群青色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私……帰りたくありません」
「レティシア?」
「呪いが解けたからといって、私を追い出さないでくださいませ。……私は、あなたと一緒にいたいのです」
言葉が一度口から飛び出すと、もう止まらなかった。
うぶで、臆病で、自分の気持ちを言うことすら恐れていたはずの私が、セルウィウス様の胸元にしがみつき、彼の服をぎゅっと力任せに握りしめていた。
「解呪のためなんかじゃありません! 私は……私は、セルウィウス様をお慕いしておりますの! あなたが私を『解呪の対象』としてしか見ていなかったとしても、私は……あなたが好きなんです! だから、どうか……私をここに置いてください……っ!」
溢れ出た涙が、彼の上着を濡らしていく。
切なくて、愛おしくて、胸が張り裂けそうだった。もし振られてしまったら、私は今度こそ生きていけないかもしれない。
沈黙が、静かにテラスを包み込んだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
セルウィウス様の手が、そっと私の背中に回された。そして、折れてしまいそうなほど強く、けれど壊れ物を扱うように優しく、私をその胸へと抱き寄せたのだ。
「……まったく、君という人は」
頭上から聞こえた彼の声は、酷く愛おしそうに、そしてどこか感極まったように震えていた。
「私が君をただの『解呪の対象』として見ていただと? 最初に会ったその日に、私は君に惚れたと言ったはずだ。……私ともあろう者が、二ヶ月近くも必死に手塩にかけて愛でてきた愛しい乙女を、簡単に手放すはずがないだろう」
「……え?」
泣き顔のまま顔を上げると、そこには今までに見たこともないほど濃厚な熱と、溢れんばかりの愛を宿したセルウィウス様の顔があった。
「私は最初から、君を解放するつもりなどなかったのだよ、レティシア。君が私を選んでくれるまで、どれほど時間がかかろうと待ち続けるつもりだった。……だが、君の口からその言葉を聞けたことが、私の長い人生の中で、最も誇らしく、嬉しい」
彼の大ぶりの手が私の頬を包み込み、涙を優しく親指で拭っていく。
「私と共に来てくれるかい? 我が愛しい、永遠の妻よ」
「……はいっ! はい、セルウィウス様……っ!」
私は彼に抱きつき、その胸に顔を埋めた。
切なさは吹き飛び、甘い幸福感だけが私の全身を満たしていく。二人の吐息が重なり合い、私たちは静かに唇を重ねた。解呪のためではない、真実の愛の誓いの口づけを。




