第六話
やあ、と声を掛けられ振り返ると思っていたよりずっと近くに春日さんが立っていた。
数日間見なかった顔と距離に驚いて数歩下がる。
「春日さん…お久しぶりです」
ペコリとお辞儀をすると丁寧に同じように返してくれる。
この間もそうだったが、春日さんは親しみやすいなあと思う。
その雰囲気を少しでもわたしにいただけたら、久世さんとも上手くいけそうな気がするのに。
「灯さん、お久しぶりです」
(あ…)
「名前…」
「あ!久世だと少尉と同じだし、奥さまって呼ぶのもなぁと思って…馴れ馴れしかったですか?」
久しぶりに呼ばれた名前にすぐ反応ができなかった。
父がなくなってから誰にも呼ばれなかった自分の名前。
響きが少しくすぐったく感じてしまう。
申し訳なさそうに八の字に眉を動かす春日さんに、わたしは慌てて否定した。
「いえ!違うんです。名前、お教えしてないのにと思って」
「さすがに上司の奥さまの名前は把握してますよ〜」
それに堂前大尉の娘さんですし、と言われわたしは苦笑いをする。
凄いのは父であって、娘のわたしはなにも持っていない。
大尉の娘という立ち位置がわたしは少し、苦手だった。そういう立場で話しかけられることもあったなと思い出す。
「そういえば、この前あの行列ができるお菓子のお店で少尉を見かけたんですが、なにか頂けましたか?」
「えっ…?」
急に話題を振られ、すぐには言葉が理解できなかった。
(まさか、あのシベリア…!?)
いや、そんなまさかと考え直す。
わたしに対して厳しい久世さんが、わたし宛に買ってきてくれたとは思えない。
そもそもわたしに何かをあげようと思われるほど、好かれてはいないことは分かっている。
(ま、まさか他の人宛だったんじゃ…!)
サァと血の気が引いて春日さんに助けを求める。
「あの…シベリアは、確かに頂いたのですが、食べてしまいまして」
どうしましょうと相談すれば、春日さんがポカンと口を開ける。
「シベリアなので…食べていいと思いますが…」
「なので、わたしが食べてしまったんです!」
「えぇ!?だから食べていいんじゃないですか!?」
だから、わたしが食べてしまったんです!と半べそかきながら訴える。
春日さんは察しが良さそうだったのに、どうしてこんなにも噛み合わないのかと絶望する。
「灯さん宛ですって!」
ガシィっと肩を掴まれ揺さぶられる。
だから食べて良かったんですよ!と力強く言い切られる。
あの久世さんが、女性と家族連れしかいないお店に並ぶなんて未だに信じられなかった。
しかも、わたしのためにだなんて。
わたしが信じていないことを見抜いたのか、春日さんが後ろを指差す。
「信じられないなら、本人に聞いてみればいいですよ」
え、と後ろを振り向く。
ビクリと肩が揺れる。
そこには、不機嫌ですと顔に書いてある久世さんが立っていた。
(ヒ、ヒィ…!)
「春日…君、喋りすぎ」
「だって少尉〜、こういうのは言わないとダメですって」
どんどん機嫌が低下していく久世さんに焦り、わたしは慌てて二人の会話に割り込む。
「く、久世さん、あの、シベリアなんですが…」
「ああ。食べたの?」
また怒られるんだろうと思っていたのにアッサリした返事に驚く。
えっ…えっ…?
まさか、ほんとに久世さんが?
あの久世さんがわたしに買ってくれたのだろうか?
「あの…食べました…」
「そう。良かったね」
大きく開けて落としそうになるほど目を広げる。
言われた意味が、だんだんと理解できてきた。
(よ、良かったね…!?)
あの、久世さんが、わたしに…!?
まさしく青天の霹靂、枯れ木に花咲くと言ったところである。
「あの、わたし…」
フゥ、と一呼吸置く。
じんわりと手に汗をかいてきた。
また、嫌な気持ちにさせるかもしれない、不機嫌にさせてしまうかもしれないけど…。
でも、言わないと伝わらない。
ドン、と胸を小さく叩く。
(言うんだ…!)
出した声が少し枯れる。
「…う、嬉しいです」
言えたことにホっとして、また久世さんがわざわざ買ってきてくれたという事実に顔の筋肉がすべて落ちてへにゃりと笑う。
沢山失態を犯しているのに、気にかけてもらえた事実が嬉しかった。
「あ…うん…」
それだけ言って顔を逸らされる。
グっと久世さんの手に力が入るのが見えてしまい、なんとなく言葉が続けられずわたしたちの間には重たい沈黙が流れる。
パン、と春日さんが手を打つ音が響く。
「少尉、オレ遊びに来たんじゃなくて、ご相伴にあずかる変わりに仕事の相談に来たんですけど」
「そういえば…。君、悪いけど春日の分も食事を用意しておいて」
久世さんはそのままわたしの方も見ずに食卓へと向かう。
わたしは慌てて小走りで女中へ言伝を頼みに行った。
それでも、今までで一番足が軽やかだった。
(へへ…良かったね、かぁ)
今までの謝罪のつもりなのか、たまたま買ってきただけなのかは分からない。
気まぐれに優しくしてくれただけかもしれないけれど、今のわたしの気持ちを忘れないようにしたいと思った。
(お役に立つのはまた今度でも…いいのかな…)
きっとわたしは、今日のことを何度でも噛み締めてしまうだろう。
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