第4章:『不完全、それとも未完成』
深夜三時。
月明かりに照らされた学び舎は、もはや幽たちの知る場所ではなかった。
校門をくぐった瞬間、視界に走ったのは、強烈なグリッド線のノイズだった。
校庭のアスファルトは、ワイヤーフレームの透かし彫りのように青白く崩れている。校舎の壁には、血管のように脈打つLANケーブルが幾重にも積層され、窓という窓にはQRコードめいた紋様が浮かんでいた。
学校。
そのはずだった。
けれど今ここにあるのは、教育機関というより、巨大な3Dプリンタの内部だった。
「……趣味の悪い内装ですわ」
白夜が不快そうに扇子を広げる。
「わたくしの美意識には、一ミリも触れませんわね」
その傍らで、琴子が桐箱を抱え直した。
箱の中で、蛇腹剣『朱音』が、ぎちり、と低く鳴る。
「幽くん、私の後ろから離れないで」
「いや、俺も何かするつもりではいるんだけど」
「いいから後ろ!」
「はい!」
琴子の声は、いつもの怒鳴り声に近い。
けれど、その奥にある緊張は隠せなかった。
「……ここの空気、全部あいつの命令で動いてる」
「あいつって、銀嶺か?」
「多分。でも、それだけじゃない」
琴子は校舎を睨んだ。
「もっと奥に、何かいる」
幽は息を呑んだ。
その時だった。
静まり返った校舎に、聞き覚えのあるメロディが響いた。
昼休みに流れる、あののんびりしたチャイム。
場違いなほど明るい音色が、深夜の校庭に広がる。
「……え?」
直後。
すべての教室のスピーカーから、ノイズ混じりの声が流れ出した。
それは、幽の声だった。
『……聞こえるか、金星の同胞たちよ』
幽の全身が凍った。
『俺の右腕に刻まれた紋章が、今、目覚めの時を告げている……。この力で、俺は世界の理を書き換える……』
「ひぎゃあああああああああああああああああッ!!」
幽はその場に膝から崩れ落ち、頭を抱えてのたうち回った。
「どうしたの、幽くん!?」
「あらあら」
白夜が、心底楽しそうに目を細める。
「幽さまったら、たいへん“いい趣味”をしてらっしゃるのですね?」
「やめてくれ白夜! そんな純粋な瞳で俺を見ないで!」
「純粋な興味ですわ」
「なお悪い!」
それは三年前。
中学一年生の冬。
誰にも見せないはずのボイスレコーダーに吹き込み、厳重に鍵をかけた箱に隠していたはずの、幽の黒歴史だった。
自称、漆黒の堕天使。
金星より堕ちし、選ばれし者。
あの頃の幽は、本気でそう名乗っていた。
『ククク……霊力出力、一五パーセント……。まだ、金星へ帰るには足りないか……。だが、俺はこの瞳に映るすべてを守ってみせる。それが、選ばれし者の宿命だからな』
「やめてくれ! 殺せ! いっそ俺を殺してくれぇぇぇ!!」
幽の叫びを無視して、銀嶺の冷たい声が校舎全体から響く。
『全校生徒、および周辺住民の皆様。これが旧バージョン・月代幽の深層ログです』
校舎の窓に、巨大なホログラムが浮かび上がった。
痛いポーズを決める中一の幽。
腕に黒マジックで紋章を描き、真剣な顔で夜空を見上げている幽。
その背景には、これでもかというほど金星の画像が合成されている。
『非論理的。非効率。嘲笑の対象でしかない羞恥ログ。これほどのノイズを抱えた個体が、周囲を不幸にしないはずがありません』
「お前、やめろよ! 人の黒歴史を校内放送するなよ! 社会的に死ぬだろ!」
『ご安心ください。恥も、後悔も、すべて私が整理します』
銀嶺の声は、穏やかだった。
穏やかだからこそ、残酷だった。
『すべてを削除し、清浄な最適解である私へと上書きしましょう。皆様の“消したい過去”も、“なかったことにしたい失敗”も、私がすべて消去してあげます』
「……幽さま」
白夜が、扇子で口元を隠したまま、幽の耳元へ顔を寄せる。
「金星の同胞、ですか。なかなか壮大なスケールですわね?」
「やめて! お願いだから、そこをそんな綺麗な発音で復唱しないで!」
「霊力出力、一五パーセント」
「やめろおおおおお!」
琴子は、しばらく黙っていた。
幽は、恐る恐るそちらを見る。
琴子は、哀れむような、怒っているような、泣きそうなような顔をしていた。
「琴子、その目やめてくれ。俺に効く」
「……バカ」
琴子はそう言って、朱音を引き抜いた。
赤銅色の蛇腹剣が、夜気を裂いて伸びる。
そして、幽の前に浮かんでいた痛いポエムのホログラムを、真正面から叩き割った。
青白い文字が、ガラス片のように砕け散る。
「……あんたがそんなバカなことばっかり言ってるから」
琴子の声は震えていた。
「私は心配で、放っておけなかったんじゃない」
「琴子……」
「あんたがそんな変なものばっかり集めてたから、あんたが夜中に空見上げて金星がどうとか言ってたから、あんたが自分は何か特別なものになれるんじゃないかって本気で信じてたから――」
琴子は、朱音を握る手に力を込めた。
「だから、私はあんたを守る理由を見つけちゃったんじゃない」
最後の方は、ほとんど独り言だった。
けれど幽には聞こえた。
胸の奥に、刺さった。
幽は、ゆっくりと立ち上がった。
まだ顔は熱い。
逃げたい。
穴があったら入りたい。
金星まで逃亡したい。
けれど、逃げるわけにはいかなかった。
「……そうだよ」
幽は、校舎を見上げた。
放送室。
いや、サーバー室のある最上階。
そこにいる銀嶺へ向かって、言う。
「俺は金星に帰りたかった」
白夜が、少しだけ目を細める。
「霊力が見えるようになりたかった。世界を守る選ばれし者になりたかった。自分は何か特別なんだって、そう思いたかった」
笑えよ、と幽は思った。
自分でも笑える。
痛い。
恥ずかしい。
馬鹿みたいだ。
「でも」
幽は、ポケットの中の失敗作の樹脂片を握りしめた。
ずれて、欠けて、何にもなれなかったゴミ。
でも、銀嶺が最後まで整理できなかったもの。
「あの時の俺には、本気だったんだ」
校舎のグリッドが、一瞬だけざらついた。
「俺がバカみたいにオカルトにハマってなきゃ、三次元の魔法陣なんて作らなかった。作らなきゃ、白夜を呼ばなかった。琴子と一緒にここに立つこともなかった」
幽は息を吸う。
「お前の言う“正解”の未来には、こいつらはいない」
白夜が静かに笑った。
琴子が、何かを堪えるように唇を噛んだ。
幽は校舎に向かって叫ぶ。
「俺の黒歴史は、俺のものだ! お前に綺麗に消されてたまるか!」
手の中の樹脂片が、青白く光った。
積層がずれて、何にもなれなかったゴミ。
けれどそれは、幽が選び、間違え、それでも捨てられなかった証拠だった。
「行くぞ、お前ら!」
「あんな幽くんの偽物、ぶっ潰してやるんだから!」
琴子が朱音を構える。
「……幽くんは、一人だけでいいの」
白夜は扇子を閉じた。
「この世に産み落とされたことを、後悔させて差し上げますわ。ええ、前世から丁寧に」
「そこまで!?」
「当然ですわ」
さっきまで幽を殺していた黒歴史が、今はなぜか、三人の足元を支えていた。
月曜日の朝。
全校生徒が登校し、朝のホームルームが始まるまで。
残り、五時間。
○
サーバー室の扉を開けた瞬間。
幽たちは、計算された地獄に足を踏み入れた。
そこは、三階建ての校舎の一室とは思えないほどの広がりを見せていた。
幾千ものサーバーラックが、不気味なほど整然と並んでいる。
ただの列ではない。
ラックの配置は、巨大な曼荼羅のようだった。
けれど仏のためのものではない。
中心に鎮座しているのは、白銀の少女。
銀嶺だった。
彼女の周囲では、無数の3Dプリンタが、まるで経を唱えるかのように一定の駆動音を立てて回っていた。
ノズルから吐き出されているのは樹脂ではない。
凝縮された魔力の粒子。
それが空間に幾何学模様を描き、積み上がり、また消え、また出力されていく。
擬似本尊サーバー。
積層演算曼荼羅。
幽の頭に、そんな言葉が勝手に浮かんだ。
「……何だよ、これ」
「銀嶺という本尊の力を増幅させるための、デジタルな供物台ですわね」
白夜の声は冷たい。
「ありがたみは皆無ですけれど」
銀嶺の背後には、幽の全身を透過したスキャンデータが浮かび上がっていた。
眉間。
鼻筋。
唇。
喉元。
そして中心で脈打つ、黄金比の首。
幽という人間を、一本の美しい線へ削り落としたもの。
青白い光がサーバーラックとつながり、学校中の端末へ伸びている。
「ようこそ、オリジナル」
銀嶺が微笑んだ。
「残念ですが、上書き完了まであとわずかです。君というバグは、ここで永遠に凍結されます」
「バグ扱いすんな」
「バグです」
銀嶺は即答した。
「君は不完全です。失敗し、迷い、恥を抱え、他者を巻き込む。世界の幸福を最大化するには、不要な誤差です」
銀嶺が指を鳴らす。
無数のLANケーブルが、鎖のようにうねり、幽たちを包囲した。
琴子が朱音を振るう。
赤銅色の刃が、ケーブルをまとめて裂いた。
白夜が扇子を振る。
影が空間のグリッドを削り取り、青白い演算線を消し飛ばす。
だが。
「消去」
銀嶺が短く囁いた。
次の瞬間、琴子が裂いたはずのケーブルが元に戻る。
白夜が削り取ったはずの空間が、巻き戻る。
ポリゴンが崩れ、再構築されるように、攻撃そのものがなかったことにされていく。
「この力……!」
白夜の赤い瞳が細くなる。
「わたくしの消去に似ていますわね」
「似ているだけです」
銀嶺は両手を広げた。
「あなたのそれは、誰かの寿命を代償にした粗雑な修正です。私のプロトコルは違う。損失を出さず、最適解へ巻き戻す」
「随分と大きく出ましたわね」
「事実です」
銀嶺は幽を見た。
「なぜ私が、あなたと同じ顔をしていながら、異なる性で出力されたのか、分かりますか?」
「知るかよ!」
「オリジナルは現実値。私は補正値です」
銀嶺の背後で、幽のスキャンデータが回転する。
「君の欠落。後悔。削除したかった羞恥。届かなかった願望。それらを反転し、最適化した出力体。それが私です」
「反転……」
「古い言葉で呼ぶなら、陰と陽」
銀嶺は、冷たい微笑みを浮かべる。
「けれど、これは呪術ではありません。演算です」
白夜が鼻で笑った。
「古いものに敬意を払わぬ演算ほど、つまらないものはございませんわね」
「美意識は不要です」
「その一言で、あなたが偽物だとよく分かりますわ」
銀嶺は表情を変えない。
指を鳴らす。
3Dプリンタが一斉に唸りを上げた。
トレイの上に、黒い樹脂の怪物が次々と出力されていく。
商店街の模型店で現れた、あの測定用の怪物ではない。
刃。
爪。
牙。
幽たちを物理的に排除するために最適化された、バグの軍勢。
「出でよ、影喰らい」
白夜が虚空から、影を編み上げたような漆黒の剣を取り出す。
「影のないものは、この世ならざるもの。あなたがたには、よくお似合いですわ」
「私も、出し惜しみなんかしていられる状況じゃなさそうね!」
琴子も朱音へ自らの血を落とし、刃を真紅に染める。
その瞬間、琴子の首筋に赤い呪印が浮かんだ。
「琴子!」
「見てないで自分の心配しなさい!」
琴子が叫び、エラー・モンスターの群れへ飛び込む。
白夜の影喰らいが、黒い怪物たちの輪郭を削り取る。
琴子の朱音が、その現世接続を断ち切る。
けれど、銀嶺の巻き戻しが、壊れた端からすべてを修復していく。
数で押される。
演算で戻される。
白夜と琴子は、じりじりと後退を余儀なくされた。
「……なかなか面倒ですわね」
「強がってる場合じゃないでしょ!」
「強がりではございません。事実を控えめに申しただけですわ」
「なお悪い!」
その中で、幽はただ、ポケットの中の失敗作を握りしめていた。
ズレた樹脂片。
銀嶺が整理できなかった、未分類のゴミ。
幽は、銀嶺の背後に浮かぶ自分のスキャンデータを見た。
美しかった。
完璧だった。
幽自身よりも、ずっと幽らしく見えるほどに。
「……なあ、銀嶺」
幽は言った。
「不完全って、そんなにダメかな」
銀嶺は、戦いを止めないまま答えた。
「当然です」
「即答かよ」
「不完全だから苦しむ。不完全だから間違える。不完全だから誰かを傷つける。君が、その証明です」
「そうだな」
幽は小さく笑った。
喉が震えている。
怖い。
逃げたい。
でも、もう逃げたくなかった。
「俺は間違えた。白夜を呼んだ。琴子を巻き込んだ。自分の寿命も削っちまった」
「ならば、消えるべきです」
「でもさ」
幽は一歩、前に出る。
「完成してないなら」
エラー・モンスターの爪が、幽の頬をかすめた。
琴子が悲鳴に近い声で叫ぶ。
「幽くん、下がって!」
「まだ、続きがあるってことだろ!」
幽は走った。
銀嶺の背後に浮かぶ、完全な月代幽のスキャンデータへ。
けれど、銀嶺は冷たく指を向けた。
「削除対象、接近」
青白い光が、幽の足元を縛る。
身体が動かない。
黄金比のスキャンが、幽の喉元を照らす。
正しい首。
正しい比率。
正しい幽。
そこには傷もない。
迷いもない。
失敗もない。
黒歴史もない。
ただ美しく、整っている。
幽は、失敗作の樹脂片を見た。
ずれて、欠けて、何にもなれなかったゴミ。
銀嶺が最後まで整理できなかった、不格好な記録。
「……怖いよ」
幽は小さく呟いた。
それは、誰に向けた言葉でもなかった。
自分への確認だった。
「でも、これしかない」
次の瞬間。
幽は迷わず、その欠けた樹脂片を、自分の額へ押し当てた。
鋭い痛みが、視界を白く焼く。
血が、一筋、眉間から鼻筋へ落ちた。
「幽くんんんんんんッ!?」
琴子の悲鳴が、サーバー室を裂いた。
白夜の笑みが消える。
「……幽さま」
初めて、彼女の声に怒りではない震えが混じった。
幽は、額から流れる血を拭わなかった。
血の一滴が、空中に浮かぶ黄金比のスキャンデータへ落ちる。
青白い輪郭が、ぎしりと歪んだ。
「エラー検出」
銀嶺の声が、初めて揺れた。
「黄金比が、崩れる……? 違う。これは、削除済みの失敗ログ……!」
「削除してない」
幽は息を切らしながら言った。
「俺が持ってた」
血の赤と、樹脂片の歪みが、青白いスキャンへ食い込んでいく。
完璧だった首の線が、不格好に乱れる。
「さあ、これで“完全な月代幽”は壊れた」
幽は銀嶺を見据えた。
「傷も、失敗も、黒歴史も、俺の積層だ」
「非合理的です」
銀嶺の顔が、ノイズで歪む。
「自分で自分を傷つけるなんて、非合理的です。そんなものは幸福ではありません。そんなものは、最適解では――」
「知るかよ」
幽は笑った。
痛みで顔が引きつっていた。
けれど、その目だけは逸らさなかった。
「俺は、完成品じゃない」
サーバーラックが一斉に火花を散らす。
銀嶺の周囲に組まれていた演算曼荼羅が、ずれ始める。
陰と陽。
現実値と補正値。
黄金比と反転出力。
そのすべてを支えていた“完全な月代幽”の定義が、幽自身の傷によって崩れていく。
白夜が、すっと目を細めた。
その瞳には、いつもの気まぐれな愉悦ではない、冷え切った怒りが宿っていた。
「……ようやく綻びましたわね」
扇子の向こうで、白夜は笑う。
だが、その声はひどく冷たい。
「計算、最適化、上書き。ええ、確かに美しいのでしょうね。あなたの中では」
白夜が一歩、前に出る。
その足元で、影がゆらりと波打った。
「けれど、ようやく分かりましたわ」
銀嶺が、白夜を見る。
「私は、最適化された月代幽です」
「いいえ」
白夜の背後に、夜そのものを切り取ったような漆黒の刃が幾重にも浮かぶ。
「あなたは、ただの定規ですわ」
銀嶺の瞳が揺れた。
「定規……?」
「傷も、迷いも、愚かしさもない首など、ただの定規ですわ」
白夜の黒い刃が、銀嶺の外殻を撫でるように裂いた。
「わたくしが選んだ首を、あなたのような無機質な模造品で置き換えるなど、無粋にもほどがあります」
銀嶺の輪郭が、さらに乱れる。
「完全であれば、美しい。最適化されていれば、幸福になる。違いますか」
「違いますわね」
白夜は、ヒビ入りの星形ヘアピンに触れた。
「傷も、迷いも、愚かしさも、執着も。そういうノイズを喰らってなお輝くからこそ、本物は美しいのですもの」
「その定義は、ノイズです」
「ええ、そうですわ」
白夜が扇子を翻す。
「わたくしは元より、ノイズと怪異の側の姫君ですもの」
黒い刃が走り、銀嶺の身体を覆っていた幾何学的な光の層を、外殻から一枚ずつ剥がしていく。
「均整は崩れましたわ。番犬さん」
白夜が横目で琴子を見る。
「今なら、“幽さまでない部分”だけを裂けます」
その言葉に、琴子の目が見開かれる。
「言われなくても、分かってる!」
朱音を握る琴子の腕が、怒りに震えていた。
怒りだけじゃない。
恐怖。
悔しさ。
守れなかったかもしれない自分への苛立ち。
そして、それでもなお幽を手放したくないという、どうしようもなく剥き出しの感情。
「最適解? 成功した未来? 笑わせないで……!」
琴子が床を蹴った。
「幽くんは、そんな綺麗に整っただけの奴じゃない!」
蛇腹剣『朱音』が、激しく唸る。
真紅の呪印が、琴子の首筋から腕へ、指先へと燃えるように走った。
「転ぶし! バカだし! 変なものばっかり集めるし! どうでもいいところでカッコつけて、結局いつも痛い目見てるし!」
「琴子、それ今言うことか!?」
「うるさい! 今言うの!」
琴子の声が震える。
けれど刃は、一度もぶれなかった。
「でも、それでも前に出るのよ! 怖くても、情けなくても、自分が傷ついても、大事なものの前には立とうとするの!」
琴子の目に、涙が滲む。
「その失敗を怒るのは、私の役目なの! 勝手に消すな!」
銀嶺の瞳に、初めて明確な動揺が走った。
「理解、不能……。そんな非効率な個体を、なぜ肯定できるのですか」
「肯定なんかじゃないわよ!」
琴子は、涙を散らしながら叫ぶ。
「腹が立つし、心配だし、放っておけないし、見てるとイライラするし……でも、だから守りたいの!」
朱音が、銀嶺の核へ伸びる。
「幽くんは、一人だけでいいのよッ!!」
白夜の影喰らいが、銀嶺の定義を支える最後の光の骨組みを断ち切る。
「さあ、番犬さん。幕引きですわ」
「うっさいわね――バラバラになりなさい、このバグ野郎ッ!!」
琴子が叫び、漆黒の刃を纏った朱音を解き放つ。
白夜が剥がした偽物の均整の隙間へ、蛇腹剣が真っ直ぐに食い込んだ。
銀嶺の身体が、大きく裂ける。
けれど今度は、再構築されなかった。
なぜなら、銀嶺が戻るべき“完全な月代幽”の定義は、もう崩れていたから。
白銀の身体が、少しずつ粉になっていく。
「……理解、不能」
銀嶺は、幽を見た。
「不完全を、保存……。失敗を、所有……。そんなものに、価値が……」
「あるよ」
幽は、床に落ちた白銀の樹脂片を拾い上げた。
額の痛みで視界が滲む。
けれど、声はちゃんと出た。
「少なくとも、俺にはある」
銀嶺は何かを言おうとした。
その唇が、わずかに震える。
「……非効率ですが」
銀嶺は、初めて困ったように笑った。
「削除、できませんでした」
その瞬間。
幽のスマホが、ポケットの中で震えた。
画面には、一件の音声ファイルが戻っていた。
中学一年生の冬。
金星へ帰ると本気で言っていた、痛すぎる幽の黒歴史ログ。
幽は、それを見て、ほんの少しだけ笑った。
「……ありがとな」
銀嶺の銀色の瞳が、かすかに揺れた。
けれど、返事はなかった。
すべてのファンが、同時に止まった。
音が消えた。
朝の光だけが、サーバー室に差していた。
その静寂の中で。
停止したはずのサーバーラックの奥に、ひとつだけ青白いランプが点いた。
次に、二つ。
三つ。
十。
百。
校舎全体が、眠りから覚めるように低く唸り始める。
銀嶺の表情が止まった。
まるで、見えない糸で顎を持ち上げられたように、銀色の瞳が虚空を向く。
『PROTOCOL:AYAKASHI』
それは声ではなかった。
命令文だった。
『接続完了』
『テストページ、出力結果を確認』
『個体名:銀嶺』
『評価――不完全』
銀嶺の瞳に、初めて明確なノイズが走った。
「……不完全」
その声は、ほんの少しだけ小さかった。
『破棄します』
白銀の身体が、内側からほどけた。
「待っ――」
幽が手を伸ばす。
だが、届かなかった。
銀嶺の身体は、朝の光に溶けるように崩れた。
残ったのは、幽の掌の中にある白銀の欠片だけだった。
冷たい。
けれど、ただの物ではない。
中で、何かがまだ迷っているような気がした。
「……銀嶺」
幽が呟く。
琴子は何も言えなかった。
白夜も、笑わなかった。
ただ、ヒビ入りの星形ヘアピンに指を添えたまま、幽の掌の欠片を見ていた。
「捨てろって、言わないんだな」
幽が言うと、白夜は少しだけ目を細めた。
「壊れたものをすぐ捨てるほど、わたくしも無粋ではなくなりましたの」
その言葉に、幽は何も返せなかった。
サーバーラックの青白い光が、さらに強くなる。
「幽くん!」
琴子がはっと我に返ったように、幽の額を見る。
その顔が、みるみる青ざめていく。
「バカ! バカバカバカ! 何してんのよ! 何で自分でそんなことするのよ!」
「いや、作戦上やむを得ず」
「やむを得るな!」
「はい!」
琴子は泣きながら怒っていた。
幽は返す言葉もなく、ただ頷くしかなかった。
白夜も近づいてくる。
いつものように笑っている。
だが、その笑みは硬かった。
「幽さま」
「……怒ってる?」
「ええ」
白夜は即答した。
「大変、怒っておりますわ」
「白夜が?」
「ええ。わたくしが」
白夜は幽の額に手をかざした。
「幽さま、あまり無茶をしないでくださいまし」
「ごめん。でも、これを直したら、また誰かの寿命が――」
「いいえ」
白夜は静かに言った。
「これは、わたくしの我儘」
「え?」
「わたくしの寿命だけ、使いますわ」
幽は目を見開いた。
「そんなこと、できるのか?」
「できますわ。ひどく不愉快ですが」
「不愉快ならやめろよ!」
「嫌です」
白夜は、幽の額にそっと触れた。
冷たい指先。
けれど、その奥に熱があった。
「幽さまが黄金比でなくなるのは、困るのです。わたくしの獲物は、最高に美しくなくては」
「……結局そこなのかよ」
「当然ですわ」
白夜が囁いた瞬間、額の傷が熱を帯びた。
痛みが遠ざかる。
血の跡が消える。
幽の身体が、元通りになっていく。
傷は消えた。
けれど、額の奥に残った熱だけは、しばらく消えそうになかった。
朝日の中で、白夜は死ぬほど美しい微笑みを浮かべていた。
けれど、ほんの一瞬だけ。
彼女の指先が冷たくなり、呼吸がわずかに浅くなった。
白夜は一瞬だけ、立っている場所を見失ったように揺れた。
けれどすぐに、何事もなかったように笑った。
「白夜」
「ふふ、幽さまはやはりその方が格好いいですわ」
白夜は何でもないことのように笑う。
「幽さま。世界を滅ぼすのをやめる条件、覚えてらっしゃいますわね?」
「……ああ」
幽は小さく息を吐いた。
「お前を、メロメロにさせる。だろ?」
「うふふ。頑張ってくださいな」
白夜は、ヒビ入りの星形ヘアピンに触れながら、いたずらっぽく目を細めた。
「金星人の幽さま?」
「だから、その呼び方はやめろって言っただろ!」
「でも、金星って……」
白夜の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「少しだけ、引っかかりますわ」
「ん? どういうこと?」
「さあ。今はまだ、わたくしにも分かりません」
そこへ、琴子が割り込んだ。
「またベタベタして!」
「治療ですわ」
「首触ってたでしょ!」
「治療ですわ」
「額の傷なのに!?」
「治療ですわ」
「絶対違う!」
幽は、二人の間で深くため息をついた。
騒がしい。
面倒くさい。
胃が痛い。
でも、戻ってきた。
いつもの日常が。
失敗だらけで、怒られてばかりで、未完成な日常が。
戻ってくる。
そう思った。
だが。
白夜の笑みが、すっと消えた。
「……違いますわね」
「何が?」
「あの娘は、本体ではございません」
白夜は、青白く点灯していくサーバーラックを睨んだ。
「今のが、本体ですわ」
スピーカーが、ざらりと鳴る。
『基準尺候補、再測定を開始します』
幽は、思わず喉元を押さえた。
掌の中では、白銀の欠片が、冷たく沈黙している。
朝日が差し込むサーバー室で、幽はようやく理解した。
銀嶺は、怪物ではなかった。
怪物が出力した、たった一枚のテストページだったのだ。




