第4章:『不完全、それとも未完成』
深夜二時。
月明かりに照らされた学び舎は、もはや幽たちの知る場所ではなかった。
校門をくぐった瞬間、視界に走ったのは強烈な「グリッド線」のノイズだ。校庭のアスファルトはワイヤーフレームの透かし彫りのように崩れ、校舎の壁には、脈打つ血管のようなLANケーブルが幾重にも積層されている。
「……趣味の悪い内装ですわ。わたくしの美的の琴線に、一ミリも触れませんわね」
白夜が不快そうに扇子を広げる。その傍らで、琴子がジャラリと『朱音』を鳴らした。
「幽くん、私の後ろから離れないで。……ここの空気、全部“あいつ”の命令で動いてる」
その時だった。
静まり返った校舎に、聞き覚えのあるメロディが響いた。
――昼休みに流れる、あののんびりしたチャイムだ。
直後、すべての教室のスピーカーから、ノイズ混じりの「幽の声」が流れ出した。
『……聞こえるか、金星の同胞たちよ。俺の右腕に刻まれた紋章が、今、目覚めの時を告げている……。この力で、俺は世界の理を書き換える……』
「ひぎゃあああああああああああああああああッ!!」
幽はその場に膝から崩れ落ち、頭を抱えてのたうち回った。
「どうしたの、幽くん!?」
「あらあら、幽さまったら、”いい趣味”してらっしゃるのですね♪」
それは三年前、中一の冬。誰にも見せないはずのボイスレコーダーに吹き込み、厳重に鍵をかけた箱に隠していたはずの――「漆黒の堕天使(自称)」だった頃の黒歴史だ。
『ククク……霊力出力、一五パーセント……。まだ、金星へ帰るには足りないか……。だが、俺はこの瞳に映るすべてを守ってみせる。それが、選ばれし者の宿命だからな』
「やめてくれ! 殺せ! いっそ俺を殺してくれぇぇぇ!!」
幽の叫びを無視して、銀嶺の冷徹な声がスピーカーから追撃をかける。
『全校生徒、および周辺住民の皆様。これが、旧バージョン・月代幽の深層データです。これほど非論理的で、嘲笑の対象でしかないノイズ……すべてを削除し、清浄な最適解である、私へと上書きをしましょう。皆様の「恥」も「後悔」も、私がすべて消去してあげます』
「……幽さま。金星の同胞、ですか。なかなか壮大なスケールですわね?」
白夜が、幽の耳元でクスクスと愉悦に満ちた笑みを漏らす。
「やめて白夜! そんな純粋な瞳で俺を見ないで! 琴子も、その哀れむような目で見ないでくれぇぇぇ!」
「……バカ」
琴子が、幽の前に映し出されたホログラムの「痛いポエム」を、『朱音』で叩き割った。
「……あんたがそんなバカなことばっかり言ってるから、私は心配で、放っておけなかったんじゃない。あんたがそんな『変なもの』ばっかり集めてたから、余計に私はアンタを守るための理由ができたんじゃない! ……嬉しいけど(ボソッ)」
琴子の叫びに、幽はハッとして顔を上げた。
放送室……いや、サーバー室がある最上階を見上げる。
「……そうだ。俺は金星に帰りたかったし、霊力が見えるようになりたかった。……笑いたきゃ笑えよ、銀嶺!」
幽は立ち上がり、ポケットの中の「失敗作の樹脂」と、Amazonで買った伸縮呪棍を握りしめた。
「俺がバカみたいにオカルトにハマってなきゃ、三次元の魔法陣なんて作らなかった! そうしてなきゃ、白夜みたいな、本当に世界の理を書き換える妖怪に出会うことも、琴子と一緒にここに立つこともなかったんだ! お前の言う『正解』の未来には、こいつらはいない!」
幽の叫びに呼応するように、手の中の樹脂が青白く発光した。
積層がズレて、何にもなれなかったゴミ。
だが、それは幽が「選び、間違えた」証拠だ。
「俺の黒歴史は、お前には一ビットも渡さない! ――行くぞ、お前ら!」
「あんな幽くんの偽物、ぶっ潰してやるんだから! ……幽くんは一人だけでいいの」
「この世に産み落とされたことを、前世からの因縁から後悔させてやりますわ」
幽の黒歴史が、三人をいっそう強固にし、昂らせていく。
月曜日の朝、つまりタイムリミットまで、後三時間。
◯
扉を開けた瞬間、幽たちは「計算された地獄」に足を踏み入れた。
そこは三階建ての校舎とは思えないほどの広がりを見せていた。
幾千ものサーバーラックが、不気味なほど整然と――それは真言立川流の髑髏本尊を安置する『曼荼羅』の陣形を成して並んでいる。
中央には銀嶺が鎮座し、彼女の周囲では無数の3Dプリンタが、まるで経を唱えるかのように一定の駆動音を立てて回っていた。ノズルからは樹脂ではなく、凝縮された「魔力の粒子」が吐き出され、空間に複雑な幾何学模様を積層していく。
「あれは……3Dプリンタか?」
「……単なる出力機ではありませんわ。銀嶺という本尊の力を増幅させるための、デジタルな供物台ですわね」
白夜が不快そうに目を細める。銀嶺の背後には、幽の全身を透過したスキャンデータが浮かび上がり、その中心にある「黄金比の首」が、サーバーとリンクして脈打っていた。
「ようこそ。……残念ですが、上書き完了まであとわずかです。君という『バグ』は、ここで永遠に凍結されます」
銀嶺が指を鳴らす。
無数のLANケーブルが、髑髏本尊を縛る鎖のようにうねり、幽たちを包囲した。
「ふふ、よく仰いましたわ。わたくしが選んだ『首』を、あんな無機質なデータで上書きしたもので代わりにするなんて……無粋の極みですわね」
白夜が、手にした扇子をバッと開く。
「琴子! ケーブルを潰して! 白夜は空間のグリッドを削ってくれ! ――隙間は、俺が作る!」
「アンタ何言ってんのよ、とっくにやる気満々なんだからねっ!」
琴子が叫び、蛇腹剣『朱音』を解き放つ。
だが――。
◯
「……消去」
銀嶺が短く囁く。
琴子の放った刃が、白夜が削り取ったはずの空間が、接触した瞬間に「なかったこと」にされる。ポリゴンが崩れるように攻撃が無効化され、次の瞬間には元の状態へと『巻き戻って』いた。
「この力は、わたくしのと同じ……?」
「いえ、それ以上です。なぜなら誰の寿命も奪いませんからね。完璧に計算された因果の操作。それが私のプロトコル」
銀嶺は両手を広げ、慈悲深い神のような顔で三人を見つめる。
「……なぜ私が幽さんの『コピー』なのに、女なのかわかりますか?」
「知るかよ! どうせ男のままじゃ不完全だ、とかそんな理由だろう!」
「ははは、いいところ突いてますよ。男が陽なら、女は陰。陰と陽が対になることで、黄金比の首の力は完成する。――無限に近い魔力が、今私には備わっているのですよ」
銀嶺が再び指を鳴らす。
3Dプリンタが一斉に唸り、トレイの上に『エラー・モンスター』が次々と出力されていく。かつての測定用ではない。幽たちを物理的に排除するための、刃と爪を持つバグの軍勢だ。
「出でよ、”影喰らい”」
白夜が虚空から、影を編み上げたような漆黒の剣を取り出した。
「影のないものは、この世ならざるもの……。あなたもそれにしてさしあげますわ」
「私も、出し惜しみなんかしていられる状況じゃなさそうね!」
琴子も自らの血を『朱音』に塗り込み、寿命を削る覚悟で異様な殺気を放つ。
しかし、数に勝るエラー・モンスターと、銀嶺の「巻き戻し」の前に、二人はじりじりと後退を余儀なくされた。
「真の黄金比の首の力が、ここまでだったなんて……」
「わたくしが求めていたものではありませんが、ちょっとだけタチが悪うございますわね」
◯
白夜と琴子が苦戦する中、幽はポケットの中の「ゴミ」を握りしめていた。
「……なあ、銀嶺。『不完全』って、そんなにダメかな?」
幽の問いに、銀嶺は戦いを止めることなく冷ややかに答える。
「答えるまでもないことですね。人は『不完全』だからこそ苦しむ。あなた達のように、ね?」
「俺は思うんだよね。不完全って、『未完成』ってだけなんじゃないかって。まだ完成に向かうただの過程なんじゃないかな。ここを切り捨てたら、完成へたどり着けない」
「……詭弁ですね。消えなさい、オリジナル」
銀嶺が決定的な「削除」の光を幽に放とうとした、その時。
「いや、詭弁じゃないよ。なぜなら、今から俺が目的を『完成』させるからさ」
——怖い。けど、これしかない。
幽は、机の下から拾ってきた3Dプリンタの残骸を、迷わず自分の額に突き立てた。
グチャッ、という鈍い音。視界が真っ赤に染まる。
「幽くんんんんんんん!何してるのおおおおおおおお!?」
琴子の悲鳴。
幽は、垂れ落ちる鮮血を拭いもせず、銀嶺を見据えた。
「……さあ、これで『黄金比』と『陰陽の対称性』は壊れた。俺という器に、お前の計算にはない『傷』というノイズを積層してやったよ。これが俺の目的。……『完成』だ」
「そ、そんな……自分で自分を傷つけるなんて非合理的な……!? 計算が、曼荼羅の配列が……合わない!?」
完璧だった銀嶺の顔が、ノイズでぐにゃりと歪む。
対称性が崩れたことで、サーバーから供給されていた無限の魔力が逆流し、サーバー室全体が激しく火花を散らした。
白夜が、すっと目を細めた。
その瞳には、いつもの気まぐれな愉悦ではない、冷え切った怒りが宿っている。
「……ようやく綻びましたわね」
扇子の向こうで、白夜は笑う。だが、その声はひどく冷たい。
「計算、最適化、上書き。……ええ、確かに美しいのでしょうね。あなたの中では。けれど――」
白夜が一歩、前に出る。
その足元で、影がゆらりと波打った。
「わたくしが選んだ『首』を、あなたのような無機質な模造品で置き換えるなど、無粋にも程がありますわ」
白夜の背後に、夜そのものを切り取ったような漆黒の刃――『影喰らい』が幾重にも浮かぶ。
「完全であれば美しい? 冗談ではありませんわ。傷も、迷いも、愚かしさも、執着も――そういうノイズを喰らってなお輝くからこそ、本物は美しいのですもの」
銀嶺の輪郭が、さらに乱れた。
「や、やめて……その定義は、ノイズです……!」
「ええ、そうですわ。わたくしは元より、ノイズと怪異の側の姫君ですもの」
白夜が扇子を翻す。黒い刃が走り、銀嶺の身体を覆っていた幾何学的な光の層を、外殻から一枚ずつ剥がしていく。
「均整は崩れましたわ。……番犬さん? 今なら“幽さまでない部分”だけを裂けます」
その言葉に、琴子の目が見開かれる。
「言われなくても、わかってる!」
『朱音』を握る琴子の腕が、怒りに震えた。
怒りだけじゃない。悔しさと、恐怖と、守れなかったかもしれない自分への苛立ちと――それでもなお、幽を手放したくないという、どうしようもなく剥き出しの感情。
「最適解? 成功した未来? 笑わせないで……!」
琴子が、床を蹴る。
「幽くんは、そんな綺麗に整っただけの奴じゃない!」
蛇腹剣『朱音』が、激しく唸る。真紅の呪印が、琴子の首筋から腕へ、指先へと燃えるように走った。
「転ぶし! バカだし! 変なものばっかり集めるし! どうでもいいところでカッコつけて、結局いつも痛い目見てるし!」
琴子の声が、震える。けれど刃は、一度もぶれない。
「でも、それでも前に出るの! 怖くても、情けなくても、自分が傷ついても、大事なものの前には立つのよ! そんな幽くんが、幽くんなの! アンタみたいな“綺麗なだけの偽物”に、代われるわけないでしょおおおおおッ!!」
銀嶺の瞳に、初めて明確な動揺が走った。
「……理解、不能……。そんな非効率な個体を、なぜ肯定できるの……!?」
「肯定なんかじゃないわよ!」
琴子は、涙を散らしながら叫ぶ。
「腹が立つし、心配だし、放っておけないし、見てるとイライラするし……でも、だから守りたいの! 幽くんは一人だけでいいのよッ!!」
白夜の『影喰らい』が、銀嶺の定義を支える最後の光の骨組みを断ち切る。
「さあ、番犬さん。幕引きですわ」
「うっさいわね――バラバラになりなさい、このバグ野郎ッ!!」
琴子が叫び、漆黒の刃を纏った『朱音』を解き放つ。
白夜が剥がした“偽物の均整”の隙間へ、蛇腹剣が真っ直ぐに食い込んだ。
銀嶺の身体が、大きく裂ける。
「やった!?」
だが――
ジジジジッ!!
裂けた断面から、銀色のノイズが逆流し、銀嶺の身体を再構築しようと蠢く。
「嘘!? まだ――」
「当然ですわね。あれだけ自分を“正しい”と信じているのですもの。一度や二度壊した程度で、諦めるはずがありませんわ」
白夜が、琴子の肩にそっと手を置いた。
「番犬さん。もう一度、いきますわよ」
琴子は荒い息を吐きながら、歯を食いしばる。
「……言われなくても、わかってる!」
いつのまにか、幽もそこにいた。
「俺も、入れてくれよ」
「あら、なんて心強いこと……今度は、核ごと喰らい尽くしますわね」
「それだったら――私が、断ち切る!」
三人の『九龍三重積層』。
幽の決意と白夜の虚無が『朱音』へと深く深く染み込み、琴子の執着がそこへさらに積層される。 漆黒と真紅が渦を巻き、一本の“否定の刃”へと収束した。
「行きますわよ」「ええ――!」
「やってやれええええええ!」
「「これが、本物よ(ですわ)ッ!!」」
漆黒の影と真紅の蛇腹剣が、完全に歪み切った銀嶺の「首」を、今度こそ真正面から両断した。
今度こそ、銀嶺の身体は再生しない。
白銀の樹脂の粉となって、さらさらと空中へ崩れ落ちていく。
「……なぜ……。こんな……不完全なデータに……」
銀嶺の声は、もうどこか遠い。
「……不完全だから、重いんだよ。銀嶺」
幽は、床に転がった白銀の樹脂――彼女の核を拾い上げた。
◯
窓の外。夜の帳が明け、月曜日の朝日が校庭を照らし始める。全校生徒への「上書き」は阻止された。
「幽さま、あまり無茶をしないでくださいまし」
白夜が駆け寄り、幽の額の傷に手をかざす。
「いいんだ白夜。これを直したら、また誰かの寿命が――」
「いいえ。これはわたくしの我儘。……わたくしの寿命だけ、使いますわ」
「え……?」
「幽さまが”黄金比”でなくなるのは、困るのです。わたくしの獲物は、最高に美しくなくては」
白夜が囁いた瞬間、傷跡は熱と共に消え、幽の身体は元通りになった。
朝日の中で、彼女は死ぬほど美しい微笑みを浮かべ、幽の首筋と頬に触れた。
白夜の指先が一瞬だけ冷たくなり、呼吸がわずかに浅くなる。
「ふふ、幽さまはやはりその方がかっこいいですわ♪――幽さま、世界を滅ぼすのをやめる条件、覚えてらっしゃいますわね?」
「……ああ。お前を、メロメロにさせる。だろ?」
「うふふ。……頑張ってくださいな、『金星人』の幽さま♪」
「……だから、その呼び方はやめろって言っただろ!!」
「でも、金星って……ちょっとだけ、引っかかりますわ」
「ん?どういうこと?」
そこに割り込んでくるように、琴子が「またベタベタして!」と怒鳴り、幽たちの騒がしい日常が再び動き出す――。
はずだった。
停止したはずのサーバーたちが、突如として青白い光を放ち、一斉にファンが唸りを上げた。
スピーカーから、銀嶺とは違う、もっと巨大で、もっと無機質な「声」が校舎全体に響き渡る。
「……はじめまして。私の名前は”プロトコル・アヤカシ”」




