第3章:『白銀のスペアは、僕の幸せを食べて笑う』
「ふふふ。番犬さんは、わたくしたちの先を歩いて露払いでもしてらっしゃいな」
「何抜かしてんのよ、この死神ッ! アンタから目を離すわけにはいかないんだからねっ!」
「ま、まあ、仲良くしてくれよな……?」
初デート。
そう呼んでいいのか分からない出来事の帰り道。
月代幽は、右に世界を壊す妖怪姫、左に自分を削って幽を守る幼馴染という、どう考えても胃に悪い布陣で、夕方の商店街を歩いていた。
……多分、仲良く。
白夜の黒髪には、ヒビの入った星形のヘアピンが留まっている。
幽が選んだ、安物の飾り。
琴子が朱音で掠めてしまった、小さな星。
白夜は、さっきから時々そのヘアピンへ指をやっていた。
触るたびに、少しだけ眉を寄せる。
壊れたなら捨てればいい。
そう言いそうな白夜が、それを外さない。
幽は、それを見て、なんだか胸の奥が落ち着かなかった。
「……何を見ておりますの、幽さま」
「いや、別に」
「気持ち悪い顔をしておりましたわ」
「そこまで言う?」
「ええ。言います」
白夜は扇子で口元を隠す。
その横から、琴子が刺すような目を向けてきた。
「幽くん」
「はい」
「鼻の下、伸びてる」
「伸びてない!」
「伸びてる」
「伸びてません!」
「伸びておりますわね」
「お前まで乗るな!」
いつものような言い合い。
少し前までなら、それだけで日常に戻れた気がした。
けれど今日は違った。
幽の足元には、まだ黒い樹脂の感触が残っている。
首を測られる感覚。
自分が自分ではなく、ただの座標として扱われる気持ち悪さ。
そして、あの黒い樹脂の怪物が最後に残した、嫌なログ。
壊れたはずの3Dプリンタ。
自分の部屋に、まだ何かが残っているような気配。
「……」
幽は無意識に喉元を押さえた。
その瞬間。
琴子が足を止めた。
「……何、今の」
低い声だった。
さっきまでの怒りとは違う。
退魔師としての声。
白夜も、ほとんど同時に目を細めた。
「あらあら。番犬さんも気づきましたのね」
「白夜、お前も?」
「ええ」
白夜は、扇子を閉じた。
赤い瞳が、幽の家の方角を見ている。
「帰り着けば分かりますわ」
「分かりたくない予感しかしないんだけど」
「でしたら、なおさら急いだ方がよろしいかと」
白夜は静かに言った。
「明らかにおかしな“何か”が、生まれようとしておりますわよ」
○
家の前に立った瞬間。
幽は、「ただいま」という言葉を飲み込んだ。
見慣れた玄関ドア。
塗装の剥げた郵便受け。
少し歪んだ表札。
何度も見てきたはずの場所なのに、そこはもう、幽の知っている家ではなかった。
玄関ドアの表面に、青白い幾何学模様が刻まれている。
商店街の模型店に残っていた、あのQRコードめいた残像。
それが、焼け焦げのようにドアへ貼りつき、脈打っていた。
「……待って」
琴子が呪符を握りしめ、一歩下がる。
「空気が、痛い」
街灯の光が、幽の家を境界線にして切り替わっていた。
外は普通の夕暮れ。
けれど玄関の内側だけが、妙に青白い。
まるで、世界の表示設定がそこだけ変わっているみたいだった。
「……おや」
白夜の声が低くなる。
「もう“刷り”が終わっておりますわね」
「すり?」
「世界に自分を印刷するための下準備、というところですわ」
「その説明だけで帰りたい」
「帰れば、家を失いますわよ」
「脅し方が直球!」
幽は震える手で鍵を差し込んだ。
鍵は回った。
でも、開いた瞬間に分かった。
この家は、幽を迎えていない。
○
室内は、一見いつも通りだった。
脱ぎっぱなしの靴。
読みかけの雑誌。
積み上がった段ボール。
コンビニでもらった割り箸が刺さったままのカップ麺容器。
いつもの生活の残骸。
けれど、何かが決定的に違う。
すべてのものが、妙に整っていた。
靴の向きが揃っている。
雑誌の角度が揃っている。
段ボールの積まれ方が、妙に美しい。
カップ麺容器の傾きまで、なぜか計算されたように見える。
汚いはずなのに、美しい。
散らかっているはずなのに、整っている。
それが、たまらなく気持ち悪かった。
「……なんだよ、これ」
幽は喉を鳴らした。
「俺の部屋、こんなに几帳面じゃないぞ」
「それは存じておりますわ」
「そこは否定してくれよ」
白夜は答えなかった。
ただ、氷のような瞳で部屋の奥を見据えている。
「幽さま」
「何だよ」
「この整い方、あなたの生活の整い方ではありませんわ」
「いや、見れば分かるけど」
「ええ。これは、誰かがあなたの部屋を片づけたのではありません」
白夜の声が、わずかに低くなる。
「あなたを“測った”ものが、その比率に合わせて世界を置き直しているのです」
「測った……?」
幽の首筋が、ぞわりと冷えた。
商店街の模型店。
黒い樹脂の怪物。
首部座標。
測定。
基準尺。
あの壊れたプリンタ音のような声が、耳の奥で蘇る。
「……あのエラー・モンスターか?」
「ええ」
白夜は頷いた。
「あれは、幽さまを殺そうとしていたのではありません。少なくとも、最初の目的は違いますわ」
「じゃあ、何を」
「測っていたのです」
白夜の赤い瞳が、幽の喉元へ向く。
「あなたの首を」
琴子の顔が、明らかに強張った。
「白夜」
「隠しても無駄ですわ、番犬さん。ここまで来れば、どうせ知られます」
「……っ」
幽は琴子を見る。
「琴子。知ってたのか?」
琴子は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……全部じゃない」
「全部じゃないってことは、少しは知ってたんだな」
「幽くんを怖がらせたくなかった」
「今めちゃくちゃ怖いんだけど」
「だから言いたくなかったの!」
琴子の声が揺れた。
白夜は、静かに続ける。
「幽さまの首は、ただ美しいから狙われるのではありませんわ」
「じゃあ、何なんだよ」
「基準です」
「基準?」
「現世と異界のものが、こちら側で形を保つための物差し。怪異が人の世界に自分を定義するための、基準尺ですわ。」
幽は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
けれど、気持ち悪さだけは分かった。
自分の首が。
自分の身体が。
誰かにとっての物差しにされている。
「人間の美の言葉で無理に呼ぶなら、黄金比に近い」
白夜は部屋を見回した。
「この部屋は、幽さまの首から取得しかけた比率に合わせて、置き直されておりますの」
「……じゃあ、これ」
「ええ」
白夜は、部屋の奥を見た。
「商店街で測定し損ねた何かが、あなたの部屋を使って続きを始めたのですわ」
幽は靴を脱ぐのも忘れて、自分の部屋へ向かった。
廊下のセンサーライトがついた。
いや、つかなかった。
幽が通っても、反応しない。
その代わり、白夜が一歩進むと、薄く明滅した。
「……地味に傷つくんだけど」
「幽さま」
白夜の声が、いつになく真面目だった。
「今のこの家は、あなたを主として認識しておりませんわ」
「やめろ。地味じゃなくて普通に傷つく」
琴子が幽の腕を掴んだ。
「大丈夫。私は幽くんが幽くんなの、分かってるから」
「琴子……」
幽が少しだけ救われた気持ちになった、その時。
琴子のスマホが、震えた。
画面が勝手に点灯する。
連絡先一覧。
その中にあったはずの名前が、青白くにじんだ。
――月代幽。
文字がほどける。
月が消える。
代が消える。
幽が消える。
残ったのは、ただの電話番号だった。
「……え」
琴子の声が、かすれた。
「幽、くん……?」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
琴子の目が、幽を探した。
見ているのに、見失ったみたいな目だった。
幽の胸が、冷たく潰れる。
「琴子?」
琴子は、はっとしたように目を見開いた。
「ご、ごめん! 違う、今の違う! 私は分かってる! 幽くんは幽くんだから!」
琴子は必死に言った。
必死すぎて、余計に怖かった。
白夜が、琴子のスマホ画面を一瞥する。
「記録から削られ始めていますわね」
「削られるって……」
「幽さまが幽さまである証拠を、外側から剥がしているのです」
「なんでそんなこと」
「決まっておりますわ」
白夜は、幽の部屋のドアを見た。
その隙間から、青白い光が漏れている。
「あの中のものが、幽さまの席に座ろうとしているからですわ」
○
ドアを開けた瞬間。
幽の部屋は、静かだった。
静かすぎた。
昨日までそこにあったはずの雑音がない。
古いパソコンのファンの音。
積み上がった紙の擦れる音。
どこかで緩んだ窓の軋み。
そういう生活の音が、全部消えていた。
部屋の隅。
瓦礫のように壊れた3Dプリンタのトレイの上に、「それ」はあった。
白銀に輝く、幽と瓜二つの首。
目を閉じているそれは、彫刻のように美しかった。
美しすぎた。
幽が鏡で見る自分とは違う。
寝不足もない。
迷いもない。
怯えもない。
失敗もない。
ただ、幽の首の比率だけを取り出して、世界にとって一番美しい形へ整えたようなもの。
幽は息を呑んだ。
「……俺?」
「違う」
琴子が即座に言った。
「幽くんじゃない」
その声は震えていた。
震えていたけれど、はっきりしていた。
幽は、ほんの少しだけ救われた。
琴子が呪符に指をかける。
「危ない。今のうちに――」
だが、その腕を白夜の扇子が静かに制した。
「およしなさい、番犬さん」
「なんで止めるのよ!」
「今ここで壊せば、あれだけでは済みませんわ」
白夜の視線は、銀の首から一度も逸れない。
床には、青白い幾何学模様が広がっていた。
机へ。
ベッドへ。
スマホへ。
教科書へ。
制服へ。
写真立てへ。
部屋のすべてを結ぶように。
「この部屋は、もう接続されておりますの」
「接続……?」
「幽さまの部屋。幽さまの端末。幽さまの生活。幽さまを覚えている小さなものたち」
白夜が、扇子の先で床を示す。
「それらを足場にして、あれは自分を“月代幽”として定義している最中ですわ」
琴子の顔色が変わった。
「じゃあ、今ここで斬ったら」
「あの首だけでは済みませんわね」
白夜の声は、異様に静かだった。
「最初に裂けるのは、あれではなく、幽さまの席の方ですわ」
「俺の、席……?」
「幽さまを覚えているものですわ」
白夜は淡々と言った。
「スマホの連絡先。学校の記録。部屋に残った痕跡。近しい者の認識。そういうものがまとめて吹き飛ぶ可能性が高い、ということです」
幽は、自分の足元が消えるような気がした。
命を狙われるのとは違う。
首を測られるのとも違う。
自分がいた場所が、最初からなかったことにされていく。
その方が、ずっと嫌だった。
その時。
銀色の睫毛が、ぴくりと震えた。
パキ。
パキ。
硬質な音が部屋に響く。
首の断面から、白いノイズの糸があふれ出した。
糸は空中で絡まり合い、肩を編み、胸を編み、腕を編み、指先を編み上げていく。
まるで、世界の方が思い出しているみたいだった。
そこに本来あるべき身体を。
やがて、それは幽のベッドの上に腰を下ろした。
白銀の髪。
銀色の瞳。
幽と同じ顔をした少女。
けれど、幽ではなかった。
幽の顔から、迷いと躊躇と寝不足と、失敗の痕跡だけを丁寧に削ぎ落としたようなもの。
少女は、ゆっくりと微笑んだ。
「はじめまして、オリジナル」
声まで似ていた。
いや、似ているからこそ違った。
幽の声から、言い淀みや照れや情けなさをすべて抜いたような、透明で、冷たい声。
「私は銀嶺」
銀色の少女は、幽をじっと見つめて続ける。
「最適化済みの月代幽です」
「最適化、済み……?」
「はい」
銀嶺は、微笑んだ。
「最適化って、何だよ」
「君が失敗するたびに生まれる損失を、私が引き受けます」
「損失って、何だよ」
「誰かの寿命。誰かの涙。誰かの心配。誰かの手間。君が失敗することで増え続ける、不幸なログです」
銀嶺は、机の上のスマホへ指を伸ばした。
「あ、おい!」
幽が駆け寄ろうとした瞬間、床の幾何学模様が脈打った。
青白い線が蛇のように走り、幽の足元をかすめる。
足が止まる。
スマホの画面が点灯した。
幽が何度触っても反応しなかった画面が、銀嶺の指先には従った。
『SNSアカウントを削除しますか?』
「やめろ!」
幽が叫ぶ。
画面に、赤い文字が浮かんだ。
『UNAUTHORIZED』
幽を拒む文字。
自分のスマホに、自分が拒絶されている。
「削除ではありません」
銀嶺は静かに言った。
「整理です」
画面の中で、アカウント名が白く抜けていく。
写真フォルダが開く。
琴子と撮った、昔の写真。
小学生の頃、夏祭りの屋台の前で、変な顔をしている幽。
隣で怒った顔をしている琴子。
その写真から、幽の輪郭だけが薄くなる。
白く抜けた幸福の部分が、細い光になって銀嶺の髪へ流れ込んだ。
白銀の髪が、一房だけ、さらに淡く輝く。
「……何、してるの」
琴子の声が震えた。
「不要な思い出を整理しています」
「不要じゃない!」
「琴子さん」
銀嶺が琴子を見る。
「君は、オリジナルの失敗に何度も泣かされています。心配させられています。巻き込まれています。君の幸福から見れば、それは削除対象です」
「勝手に決めないで!」
「君自身も、そう思ったことがあるはずです」
琴子の顔が、凍った。
その反応を見て、幽の胸が痛んだ。
ある。
きっとある。
幽が失敗したせいで、琴子に迷惑をかけたこと。
琴子に怒られたこと。
琴子を泣かせたこと。
いくつも、ある。
銀嶺は嘘を言っていない。
それが、ひどく嫌だった。
壁に貼ってあった古い学校プリントの名前が、青白く滲む。
月代幽。
その文字がほどけ、銀嶺、と組み替わりかける。
机の上のノートの表紙。
教科書の記名欄。
通販の配送ラベル。
幽の名前が、少しずつ白く剥がれていく。
その中で。
机の下に転がっていた3Dプリンタの失敗作だけが、何も変わらずそこにあった。
積層がずれた樹脂の塊。
何を作ろうとしたのかも分からない、歪んだゴミ。
青白い模様は、その失敗作だけを避けていた。
銀嶺の視線が、一瞬だけそこへ向く。
銀色の瞳に、ほんの小さなノイズが走った。
「……未分類」
銀嶺は呟いた。
「不要物。意味なし。記録価値なし」
幽は、その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸の奥に火がついた。
意味なし。
記録価値なし。
それは、たしかにゴミだ。
何度も失敗した。
何にもならなかった。
でも。
銀嶺は、机の上のスマホから指を離した。
「オリジナル」
「……何だよ」
「もう、苦しまなくていい」
その声は、優しかった。
優しいからこそ、気持ち悪かった。
「君が失敗するたびに、白夜さんは誰かの寿命を奪って世界を直す。琴子さんは君を守るために自分を削る。君の存在は、君の大切な人を傷つけ続ける」
「それは……」
幽は言い返せなかった。
だって、そうかもしれない。
白夜は寿命を削った。
琴子はずっと何かを隠して、自分を守っていた。
幽が白夜を呼ばなければ。
幽が失敗しなければ。
幽がいなければ。
誰かの二十年は、奪われずに済んだのかもしれない。
銀嶺は微笑んだ。
「私は誰も殺さない。君の失敗する未来を整理し、成功した未来へ置き換えるだけです」
「置き換える……?」
「はい」
銀嶺は立ち上がった。
部屋の光の比率まで、彼女に合わせて整った気がした。
「学校のメインサーバーに私の定義を積層します。朝になれば、皆が正しい月代幽を思い出す」
「正しい、月代幽……?」
「失敗しない君です」
銀嶺は、首を傾げる。
「ねえ、オリジナル。どちらが正義に近いのかな」
幽は言葉を失った。
白夜の扇子が、ぎり、と鳴る。
琴子が朱音の桐箱へ手を伸ばす。
だが、銀嶺は二人を見ていなかった。
幽だけを見ている。
「君の席は、もう空けておいてくださいね」
その言葉は、刃ではなかった。
もっと滑らかで、もっと清潔で、もっと残酷なものだった。
銀嶺はドアへ向かう。
琴子が呪符を握りしめた。
「待ちなさい!」
白夜が扇子で制する。
「まだですわ」
「何でよ!」
「今ここでやれば、あの娘だけでは済みません」
白夜の瞳は、氷のように細められていた。
「行かせなさい。定義し終わる前に、外で狩る方がまだ損が少ない」
銀嶺は振り返らなかった。
「非効率な記憶は、上書きされる方が幸せです」
部屋のドアが開く。
廊下のセンサーライトが、幽を無視して、銀嶺のためだけに明るく灯った。
彼女が通った跡には、あのQRコードの残像が、アスファルトに青白く焼きついていく。
その背中が夜へ溶けるまで、誰も一歩も動けなかった。
○
幽は、自分の手を見た。
震えていた。
みっともなく。
情けなく。
何ひとつ、銀嶺の言葉に反論できなかった。
俺がいなくなれば。
白夜は誰かの寿命を奪わなくて済むのかもしれない。
琴子は、危ない目に遭わなくて済むのかもしれない。
銀嶺が俺になれば、誰も不幸にならない正しい毎日が始まるのかもしれない。
そう思ってしまった。
思ってしまった自分が、嫌だった。
その時、視界の隅に、机の下のゴミが映った。
3Dプリンタの失敗作。
歪んで、欠けて、何を作ろうとしたのかも分からない樹脂の塊。
銀嶺の青白い模様が、最後まで触れなかったもの。
幽は、それを見た瞬間。
中学一年生の夏を思い出した。
○
幽は、昔から後悔ばかりの人生だった。
いわゆる、どんくさいタイプの少年だった。
中学一年生の頃、琴子が上級生に絡まれていたことがある。
歯に衣を着せない琴子は、いじめをしていた上級生が許せなかった。
まあ、そういうことを普段からしている連中が、琴子の正論を素直に受け入れるわけがない。
多勢を頼みに、琴子を取り囲み、謝らせようとしていた。
当然のように、琴子が謝るわけもない。
自分は間違っていないからだ。
けれど、そこへ通りがかった幽は震え上がった。
琴子が上級生に絡まれている。
その事実だけで、頭の中が真っ白になった。
なんとかしなければ。
でも、足が動かない。
声も出ない。
相手は上級生だ。
人数も多い。
幽が飛び出したところで、どうにかなるわけがない。
それでも、このままでは琴子が酷い目に遭うかもしれない。
琴子は強い。
口も強い。
気も強い。
でも、絶対に傷つかないわけじゃない。
そんな当たり前のことに気づいた瞬間、幽の喉から裏返った声が出た。
「やめろぉっ!」
大声を出せば、勢いになる。
勢いがあれば、身体も動く。
そのまま琴子と上級生たちの間に割り込んだ。
はずだった。
「んわわわわああああああっ!」
ちょうど琴子たちの真ん中で、幽は盛大にすっ転んだ。
しかも、顔面から。
鼻の奥に、熱い痛みが走る。
次の瞬間、夥しい量の鼻血が噴き出した。
「お、おい……お前、大丈夫かよ……?」
絡んでいた上級生の一人が、普通に心配して声をかけてきた。
助けに入ったはずなのに。
なぜか敵に心配されている。
その事実が、痛みよりも恥ずかしかった。
だが、そこへ追い打ちをかけたのは琴子だった。
幽が怪我をしたせいで、怒り心頭。
怒髪天を突いた状態の琴子が、上級生たちを睨みつける。
「そもそもアンタたちがつまんないことしてるから、幽くんがこんなことになっちゃったんでしょ! 今すぐここから消えないと、アンタたちが幽くん殴ったってことにしてもいいんだからね!? ……それとも、今すぐ私が消してあげてもいいんだけど?」
その気迫に、上級生たちは奇声を上げながら一目散に逃げていった。
結果だけ見れば、琴子が勝った。
幽は、鼻血を出して地面に転がっていただけだった。
「はあ……幽くん、大丈夫?」
琴子がしゃがみ込む。
怒っている。
でも、目は泣きそうだった。
「無茶しないでよ。私だったら大丈夫だったのに」
「だってさ……」
幽は鼻を押さえながら言った。
鼻血で声が変だった。
「琴子って、結構転んだりするだろ? 俺、心配でさ」
「それでアンタが転んでたら世話ないでしょおおおおお!」
「でも……心配だったんだ」
幽は、まだ鼻血を垂らしながら、妙に真面目に言った。
「俺、昔から琴子に世話になってばっかりだし。いつも返さないと、って思ってるんだ」
「……」
「だって、琴子のこと大切だからさ」
琴子の顔が、一気に赤くなった。
「た、大切ッ!? わ、私のことを!? ほ、ホントにッ!?」
「ああ。本当だ」
幽は、鼻を押さえたまま頷いた。
「大切な大切な……唯一無二の友達だと思ってるよ」
その直後。
琴子の拳が、幽の顔面を打ち抜いた。
せっかく止まりかけた鼻血が、また盛大に噴き出した。
○
……そうだ。
あの時も、痛かった。
鼻の奥が焼けるみたいに痛くて、恥ずかしくて、情けなくて。
助けたかったのに、助けられたのは自分の方だった。
琴子には怒られて、殴られて、結局また心配された。
銀嶺なら、きっとあんな失敗はしない。
転ばない。
鼻血も出さない。
余計なことも言わない。
琴子を泣かせない。
でも。
あの痛みも。
あの恥ずかしさも。
琴子の怒った顔も。
拳の痛みも。
それでも前に出た自分も。
銀嶺の言う最適解には、きっと入っていない。
だから。
幽は、机の下に転がっていた3Dプリンタの失敗作を拾った。
ズレた樹脂の角が、掌に食い込む。
痛い。
でも、その痛みが、今は必要だった。
「……消させない」
声は小さかった。
でも、震えていなかった。
「俺の失敗は、俺のものだ」
琴子が息を呑んだ。
白夜が、ゆっくりと幽を見る。
幽は、失敗作を握りしめたまま、顔を上げた。
「銀嶺が正しいのかもしれない」
琴子の顔が強張る。
白夜の赤い瞳が、細くなる。
「俺がいなければ、誰かの二十年は奪われなかったかもしれない。俺が失敗しなければ、白夜も、琴子も、こんなことに巻き込まれなかったかもしれない」
掌の中で、樹脂の欠片が皮膚を裂いた。
痛みがあった。
幽は、その痛みを握りしめる。
「でも」
幽は言った。
「それでも俺は、俺の失敗まで他人に渡したくない」
白夜が、扇子の陰で笑った。
いつもの愉快そうな笑みではない。
もっと冷たく。
もっと鋭く。
怒っていた。
「……よく仰いましたわ」
白夜は、ヒビ入りの星形ヘアピンに指先で触れる。
「幽さまの失敗まで削るなど、無粋にもほどがあります」
「白夜……」
「わたくしが選んだ首を、あんな無機質なデータで上書きするなど、矜持が許しませんもの」
「結局そこは首なんだな」
「当然ですわ」
白夜は、いつものように笑う。
けれどその目だけは、本気だった。
琴子は、顔を伏せていた。
肩が震えている。
泣いているのか、怒っているのか、分からなかった。
やがて彼女は、赤い編み紐を強く握りしめた。
「幽くんの失敗はね」
琴子は言った。
「私が覚えてる」
その声は、震えていた。
でも、折れていなかった。
「転んだことも、鼻血出したことも、変なこと言って私を怒らせたことも。全部、私が覚えてる。勝手に消すなって、あいつに言ってやる」
「琴子」
「勘違いしないでよね」
琴子は顔を上げた。
目元が少し赤い。
でも、いつものように睨んできた。
「幽くんの失敗を消していいのは、私が説教し終わってからなんだから」
「消すんだ?」
「場合による!」
「そこは残してくれよ!」
「うるさい! とにかく行くわよ!」
琴子は桐箱を取り出した。
朱音が、箱の中でぎちりと鳴る。
前よりも、少しだけ黒い筋が混じっていた。
商店街の模型店で、白夜の影を纏った痕だ。
朱い刃に、黒い記録のようなものが残っている。
幽は、自分の鞄を拾った。
中から、三千五百円の伸縮呪棍が転がり出る。
先端が黒く焦げていた。
「……なんか、こいつも焦げてる」
「捨てなさい」
琴子が即答した。
「いや、でも三千五百円したし」
「命と三千五百円を天秤にかけないで!」
白夜が、扇子の陰からそれを見た。
「いいえ」
その声が、少しだけ低くなる。
「それ、捨てない方がよろしいですわ」
「え?」
「黒いものが、残っております」
幽は伸縮呪棍を見た。
焦げ跡だと思っていた黒い線が、ほんの一瞬だけ文字のように揺れた。
読めない。
でも、見られている気がした。
「……何だよ、これ」
「今は分かりませんわ」
白夜は微笑む。
「ですが、幽さまの安物にしては、少しだけ面白くなってまいりました」
「安物言うな」
「三千五百円でしょう?」
「安物だった」
幽は伸縮呪棍を握った。
ポケットには、3Dプリンタの失敗作。
手には、焦げた伸縮呪棍。
背後には、寿命を削る幼馴染。
隣には、世界を壊す妖怪姫。
どう考えても、正しい主人公の装備ではなかった。
でも、それでいい。
幽は顔を上げる。
銀嶺が向かったのは、学校だ。
学校のメインサーバー。
月曜日の朝になれば、全員が正しい月代幽を思い出す。
失敗しない幽。
誰も心配させない幽。
誰も巻き込まない幽。
誰にとっても都合のいい幽。
「冗談じゃない」
幽は、ドアへ向かった。
「俺の席は、俺が取り返す」
白夜が楽しそうに笑う。
「共闘デートですわね、幽さま」
「デート要素どこだよ」
「夜道を三人で歩きますわ」
「肝試しだろそれ」
「わたくしは構いませんわ。幽さまとなら」
「そこで照れること言うな!」
琴子が朱音の箱を抱えたまま、割り込んでくる。
「白夜。アンタのことは大嫌いだけど、あいつはもっと嫌い」
「あら、光栄ですわ。番犬さんの嫌悪ランキングで二位に降格ですのね」
「今すぐ一位に戻してあげようか?」
「やめろ! 敵を間違えるな!」
幽の叫びが、夜の廊下に響いた。
その声に、今度はセンサーライトが反応した。
ちか、と。
幽の足元だけが、少し遅れて明るくなる。
それだけで、幽は少しだけ息を吸えた。
まだ、自分の家は完全には奪われていない。
まだ、戻れる。
まだ、間に合う。
○
夜の街。
学校へ続く、長く暗い坂道。
街中のデジタル時計が、月曜日の朝に向けて、無機質なカウントダウンを刻み始めていた。
幽は走る。
琴子が隣を走る。
白夜は、少し浮いているみたいな軽やかさでついてくる。
「幽さま」
「何だよ!」
「今度はあまり多用させないでくださいましね?」
「何を!」
「わたくしの力ですわ。寿命、もったいないですもの」
「減るのは白夜の寿命じゃないだろ!」
「ええ。ですから、もっともったいないのです」
白夜は笑った。
その笑みは、いつもよりほんの少しだけ、不機嫌だった。
「わたくしの知らぬ誰かの二十年で、幽さまの失敗まで整えられてたまるものですか」
幽は、返事ができなかった。
白夜の言葉は相変わらず傲慢だった。
でも、その傲慢の中に、少しだけ違うものが混じっている気がした。
琴子が前を睨む。
「幽くん」
「何?」
「あいつ、絶対に許さない」
「うん」
「幽くんの失敗を消していいのは、幽くんじゃない。あいつでもない。私でもない」
琴子は、少しだけ言葉に詰まった。
それから、言い直す。
「……消さなくていい。多分」
「多分なんだ」
「うるさい。全部は許してないんだからね」
「はい」
「でも」
琴子は、前を向いたまま言った。
「私は、幽くんが転んだことも、鼻血出したことも、馬鹿みたいなこと言ったことも、覚えてるから」
夜風が吹いた。
赤い編み紐が揺れる。
「勝手に、上書きなんかさせない」
幽は、伸縮呪棍を握りしめた。
先端の黒い焦げ跡が、ほんの一瞬、文字のように揺れた。
読めない。
でも、今はそれでいい。
○
遠く。
深夜の学校の屋上で、銀嶺が街を見下ろしていた。
白銀の髪が、夜風に揺れる。
その手には、幽のスマホから抜き取った写真の残像が浮かんでいた。
夏祭り。
鼻血。
琴子の怒った顔。
幽の情けない笑顔。
そのひとつひとつが、白く薄れていく。
けれど完全には消えない。
どこかに引っかかっている。
歪んだ樹脂片。
無価値な失敗作。
そこに紐づいた記録だけが、銀嶺の指先から逃げていた。
「……未整理ログ」
銀嶺は、静かに呟く。
「不完全。非効率。削除困難」
それから、微笑んだ。
「見て、オリジナル」
屋上の下。
学校のサーバールームへ続く非常階段の扉が、青白く開いていく。
「不幸な君なんて、もうどこにも必要ないでしょう?」
銀嶺の背後で、学校中の端末が一斉に点灯した。
画面には、同じ文字が浮かんでいる。
――月代幽、定義更新準備中。
そして、カウントダウンが始まった。
終了予定時刻は、月曜日の朝八時三十分。
……朝のホームルームが、幽の消える時刻だった。




