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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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第3章:『白銀のスペアは、僕の幸せを食べて笑う』

「ふふふ。番犬さんは、わたくしたちの先を歩いて露払いでもしてらっしゃいな」

「何抜かしてんのよ、この死神ッ! アンタから目を離すわけにはいかないんだからねっ!」

「ま、まあ、仲良くしてくれよな……?」


 初デート。

 そう呼んでいいのか分からない出来事の帰り道。

 月代幽は、右に世界を壊す妖怪姫、左に自分を削って幽を守る幼馴染という、どう考えても胃に悪い布陣で、夕方の商店街を歩いていた。

 ……多分、仲良く。

 白夜の黒髪には、ヒビの入った星形のヘアピンが留まっている。

 幽が選んだ、安物の飾り。

 琴子が朱音で掠めてしまった、小さな星。

 白夜は、さっきから時々そのヘアピンへ指をやっていた。

 触るたびに、少しだけ眉を寄せる。

 壊れたなら捨てればいい。

 そう言いそうな白夜が、それを外さない。

 幽は、それを見て、なんだか胸の奥が落ち着かなかった。


「……何を見ておりますの、幽さま」

「いや、別に」

「気持ち悪い顔をしておりましたわ」

「そこまで言う?」

「ええ。言います」


 白夜は扇子で口元を隠す。

 その横から、琴子が刺すような目を向けてきた。


「幽くん」

「はい」

「鼻の下、伸びてる」

「伸びてない!」

「伸びてる」

「伸びてません!」

「伸びておりますわね」

「お前まで乗るな!」


 いつものような言い合い。

 少し前までなら、それだけで日常に戻れた気がした。

 けれど今日は違った。

 幽の足元には、まだ黒い樹脂の感触が残っている。

 首を測られる感覚。

 自分が自分ではなく、ただの座標として扱われる気持ち悪さ。

 そして、あの黒い樹脂の怪物が最後に残した、嫌なログ。

 壊れたはずの3Dプリンタ。

 自分の部屋に、まだ何かが残っているような気配。


「……」


 幽は無意識に喉元を押さえた。

 その瞬間。

 琴子が足を止めた。


「……何、今の」


 低い声だった。

 さっきまでの怒りとは違う。

 退魔師としての声。

 白夜も、ほとんど同時に目を細めた。


「あらあら。番犬さんも気づきましたのね」

「白夜、お前も?」

「ええ」


 白夜は、扇子を閉じた。

 赤い瞳が、幽の家の方角を見ている。


「帰り着けば分かりますわ」

「分かりたくない予感しかしないんだけど」

「でしたら、なおさら急いだ方がよろしいかと」


 白夜は静かに言った。


「明らかにおかしな“何か”が、生まれようとしておりますわよ」


   ○


 家の前に立った瞬間。

 幽は、「ただいま」という言葉を飲み込んだ。

 見慣れた玄関ドア。

 塗装の剥げた郵便受け。

 少し歪んだ表札。

 何度も見てきたはずの場所なのに、そこはもう、幽の知っている家ではなかった。

 玄関ドアの表面に、青白い幾何学模様が刻まれている。

 商店街の模型店に残っていた、あのQRコードめいた残像。

 それが、焼け焦げのようにドアへ貼りつき、脈打っていた。


「……待って」


 琴子が呪符を握りしめ、一歩下がる。


「空気が、痛い」


 街灯の光が、幽の家を境界線にして切り替わっていた。

 外は普通の夕暮れ。

 けれど玄関の内側だけが、妙に青白い。

 まるで、世界の表示設定がそこだけ変わっているみたいだった。


「……おや」


 白夜の声が低くなる。


「もう“刷り”が終わっておりますわね」

「すり?」

「世界に自分を印刷するための下準備、というところですわ」

「その説明だけで帰りたい」

「帰れば、家を失いますわよ」

「脅し方が直球!」


 幽は震える手で鍵を差し込んだ。

 鍵は回った。

 でも、開いた瞬間に分かった。

 この家は、幽を迎えていない。


   ○


 室内は、一見いつも通りだった。

 脱ぎっぱなしの靴。

 読みかけの雑誌。

 積み上がった段ボール。

 コンビニでもらった割り箸が刺さったままのカップ麺容器。

 いつもの生活の残骸。

 けれど、何かが決定的に違う。

 すべてのものが、妙に整っていた。

 靴の向きが揃っている。

 雑誌の角度が揃っている。

 段ボールの積まれ方が、妙に美しい。

 カップ麺容器の傾きまで、なぜか計算されたように見える。

 汚いはずなのに、美しい。

 散らかっているはずなのに、整っている。

 それが、たまらなく気持ち悪かった。


「……なんだよ、これ」


 幽は喉を鳴らした。


「俺の部屋、こんなに几帳面じゃないぞ」

「それは存じておりますわ」

「そこは否定してくれよ」


 白夜は答えなかった。

 ただ、氷のような瞳で部屋の奥を見据えている。


「幽さま」

「何だよ」

「この整い方、あなたの生活の整い方ではありませんわ」

「いや、見れば分かるけど」

「ええ。これは、誰かがあなたの部屋を片づけたのではありません」


 白夜の声が、わずかに低くなる。


「あなたを“測った”ものが、その比率に合わせて世界を置き直しているのです」

「測った……?」


 幽の首筋が、ぞわりと冷えた。

 商店街の模型店。

 黒い樹脂の怪物。

 首部座標。

 測定。

 基準尺。

 あの壊れたプリンタ音のような声が、耳の奥で蘇る。


「……あのエラー・モンスターか?」

「ええ」


 白夜は頷いた。


「あれは、幽さまを殺そうとしていたのではありません。少なくとも、最初の目的は違いますわ」

「じゃあ、何を」

「測っていたのです」


 白夜の赤い瞳が、幽の喉元へ向く。


「あなたの首を」


 琴子の顔が、明らかに強張った。


「白夜」

「隠しても無駄ですわ、番犬さん。ここまで来れば、どうせ知られます」

「……っ」


 幽は琴子を見る。


「琴子。知ってたのか?」


 琴子は、すぐには答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。


「……全部じゃない」

「全部じゃないってことは、少しは知ってたんだな」

「幽くんを怖がらせたくなかった」

「今めちゃくちゃ怖いんだけど」

「だから言いたくなかったの!」


 琴子の声が揺れた。

 白夜は、静かに続ける。


「幽さまの首は、ただ美しいから狙われるのではありませんわ」

「じゃあ、何なんだよ」

「基準です」

「基準?」

「現世と異界のものが、こちら側で形を保つための物差し。怪異が人の世界に自分を定義するための、基準尺ですわ。」


 幽は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。

 けれど、気持ち悪さだけは分かった。

 自分の首が。

 自分の身体が。

 誰かにとっての物差しにされている。


「人間の美の言葉で無理に呼ぶなら、黄金比に近い」


 白夜は部屋を見回した。


「この部屋は、幽さまの首から取得しかけた比率に合わせて、置き直されておりますの」

「……じゃあ、これ」

「ええ」


 白夜は、部屋の奥を見た。


「商店街で測定し損ねた何かが、あなたの部屋を使って続きを始めたのですわ」


 幽は靴を脱ぐのも忘れて、自分の部屋へ向かった。

 廊下のセンサーライトがついた。

 いや、つかなかった。

 幽が通っても、反応しない。

 その代わり、白夜が一歩進むと、薄く明滅した。


「……地味に傷つくんだけど」

「幽さま」


 白夜の声が、いつになく真面目だった。


「今のこの家は、あなたを主として認識しておりませんわ」

「やめろ。地味じゃなくて普通に傷つく」


 琴子が幽の腕を掴んだ。


「大丈夫。私は幽くんが幽くんなの、分かってるから」

「琴子……」


 幽が少しだけ救われた気持ちになった、その時。

 琴子のスマホが、震えた。

 画面が勝手に点灯する。

 連絡先一覧。

 その中にあったはずの名前が、青白くにじんだ。

 ――月代幽。

 文字がほどける。

 月が消える。

 代が消える。

 幽が消える。

 残ったのは、ただの電話番号だった。


「……え」


 琴子の声が、かすれた。


「幽、くん……?」


 一瞬。

 本当に一瞬だけ。

 琴子の目が、幽を探した。

 見ているのに、見失ったみたいな目だった。

 幽の胸が、冷たく潰れる。


「琴子?」


 琴子は、はっとしたように目を見開いた。


「ご、ごめん! 違う、今の違う! 私は分かってる! 幽くんは幽くんだから!」


 琴子は必死に言った。

 必死すぎて、余計に怖かった。

 白夜が、琴子のスマホ画面を一瞥する。


「記録から削られ始めていますわね」

「削られるって……」

「幽さまが幽さまである証拠を、外側から剥がしているのです」

「なんでそんなこと」

「決まっておりますわ」


 白夜は、幽の部屋のドアを見た。

 その隙間から、青白い光が漏れている。


「あの中のものが、幽さまの席に座ろうとしているからですわ」


   ○


 ドアを開けた瞬間。

 幽の部屋は、静かだった。

 静かすぎた。

 昨日までそこにあったはずの雑音がない。

 古いパソコンのファンの音。

 積み上がった紙の擦れる音。

 どこかで緩んだ窓の軋み。

 そういう生活の音が、全部消えていた。

 部屋の隅。

 瓦礫のように壊れた3Dプリンタのトレイの上に、「それ」はあった。

 白銀に輝く、幽と瓜二つの首。

 目を閉じているそれは、彫刻のように美しかった。

 美しすぎた。

 幽が鏡で見る自分とは違う。

 寝不足もない。

 迷いもない。

 怯えもない。

 失敗もない。

 ただ、幽の首の比率だけを取り出して、世界にとって一番美しい形へ整えたようなもの。

 幽は息を呑んだ。


「……俺?」

「違う」


 琴子が即座に言った。


「幽くんじゃない」


 その声は震えていた。

 震えていたけれど、はっきりしていた。

 幽は、ほんの少しだけ救われた。

 琴子が呪符に指をかける。


「危ない。今のうちに――」


 だが、その腕を白夜の扇子が静かに制した。


「およしなさい、番犬さん」

「なんで止めるのよ!」

「今ここで壊せば、あれだけでは済みませんわ」


 白夜の視線は、銀の首から一度も逸れない。

 床には、青白い幾何学模様が広がっていた。

 机へ。

 ベッドへ。

 スマホへ。

 教科書へ。

 制服へ。

 写真立てへ。

 部屋のすべてを結ぶように。


「この部屋は、もう接続されておりますの」

「接続……?」

「幽さまの部屋。幽さまの端末。幽さまの生活。幽さまを覚えている小さなものたち」


 白夜が、扇子の先で床を示す。


「それらを足場にして、あれは自分を“月代幽”として定義している最中ですわ」


 琴子の顔色が変わった。


「じゃあ、今ここで斬ったら」

「あの首だけでは済みませんわね」


 白夜の声は、異様に静かだった。


「最初に裂けるのは、あれではなく、幽さまの席の方ですわ」

「俺の、席……?」

「幽さまを覚えているものですわ」


 白夜は淡々と言った。


「スマホの連絡先。学校の記録。部屋に残った痕跡。近しい者の認識。そういうものがまとめて吹き飛ぶ可能性が高い、ということです」


 幽は、自分の足元が消えるような気がした。

 命を狙われるのとは違う。

 首を測られるのとも違う。

 自分がいた場所が、最初からなかったことにされていく。

 その方が、ずっと嫌だった。

 その時。

 銀色の睫毛が、ぴくりと震えた。


 パキ。

 パキ。


 硬質な音が部屋に響く。

 首の断面から、白いノイズの糸があふれ出した。

 糸は空中で絡まり合い、肩を編み、胸を編み、腕を編み、指先を編み上げていく。

 まるで、世界の方が思い出しているみたいだった。

 そこに本来あるべき身体を。

 やがて、それは幽のベッドの上に腰を下ろした。

 白銀の髪。

 銀色の瞳。

 幽と同じ顔をした少女。

 けれど、幽ではなかった。

 幽の顔から、迷いと躊躇と寝不足と、失敗の痕跡だけを丁寧に削ぎ落としたようなもの。

 少女は、ゆっくりと微笑んだ。


「はじめまして、オリジナル」


 声まで似ていた。

 いや、似ているからこそ違った。

 幽の声から、言い淀みや照れや情けなさをすべて抜いたような、透明で、冷たい声。


「私は銀嶺(しろがね)


 銀色の少女は、幽をじっと見つめて続ける。


「最適化済みの月代幽です」

「最適化、済み……?」

「はい」


 銀嶺は、微笑んだ。


「最適化って、何だよ」

「君が失敗するたびに生まれる損失を、私が引き受けます」

「損失って、何だよ」

「誰かの寿命。誰かの涙。誰かの心配。誰かの手間。君が失敗することで増え続ける、不幸なログです」


 銀嶺は、机の上のスマホへ指を伸ばした。


「あ、おい!」


 幽が駆け寄ろうとした瞬間、床の幾何学模様が脈打った。

 青白い線が蛇のように走り、幽の足元をかすめる。

 足が止まる。

 スマホの画面が点灯した。

 幽が何度触っても反応しなかった画面が、銀嶺の指先には従った。


『SNSアカウントを削除しますか?』

「やめろ!」


 幽が叫ぶ。

 画面に、赤い文字が浮かんだ。


『UNAUTHORIZED』


 幽を拒む文字。

 自分のスマホに、自分が拒絶されている。


「削除ではありません」


 銀嶺は静かに言った。


「整理です」


 画面の中で、アカウント名が白く抜けていく。

 写真フォルダが開く。

 琴子と撮った、昔の写真。

 小学生の頃、夏祭りの屋台の前で、変な顔をしている幽。

 隣で怒った顔をしている琴子。

 その写真から、幽の輪郭だけが薄くなる。

 白く抜けた幸福の部分が、細い光になって銀嶺の髪へ流れ込んだ。

 白銀の髪が、一房だけ、さらに淡く輝く。


「……何、してるの」


 琴子の声が震えた。


「不要な思い出を整理しています」

「不要じゃない!」

「琴子さん」


 銀嶺が琴子を見る。


「君は、オリジナルの失敗に何度も泣かされています。心配させられています。巻き込まれています。君の幸福から見れば、それは削除対象です」

「勝手に決めないで!」

「君自身も、そう思ったことがあるはずです」


 琴子の顔が、凍った。

 その反応を見て、幽の胸が痛んだ。

 ある。

 きっとある。

 幽が失敗したせいで、琴子に迷惑をかけたこと。

 琴子に怒られたこと。

 琴子を泣かせたこと。

 いくつも、ある。

 銀嶺は嘘を言っていない。

 それが、ひどく嫌だった。

 壁に貼ってあった古い学校プリントの名前が、青白く滲む。

 月代幽。

 その文字がほどけ、銀嶺、と組み替わりかける。

 机の上のノートの表紙。

 教科書の記名欄。

 通販の配送ラベル。

 幽の名前が、少しずつ白く剥がれていく。

 その中で。

 机の下に転がっていた3Dプリンタの失敗作だけが、何も変わらずそこにあった。

 積層がずれた樹脂の塊。

 何を作ろうとしたのかも分からない、歪んだゴミ。

 青白い模様は、その失敗作だけを避けていた。

 銀嶺の視線が、一瞬だけそこへ向く。

 銀色の瞳に、ほんの小さなノイズが走った。


「……未分類」


 銀嶺は呟いた。


「不要物。意味なし。記録価値なし」


 幽は、その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸の奥に火がついた。

 意味なし。

 記録価値なし。

 それは、たしかにゴミだ。

 何度も失敗した。

 何にもならなかった。

 でも。

 銀嶺は、机の上のスマホから指を離した。


「オリジナル」

「……何だよ」

「もう、苦しまなくていい」


 その声は、優しかった。

 優しいからこそ、気持ち悪かった。


「君が失敗するたびに、白夜さんは誰かの寿命を奪って世界を直す。琴子さんは君を守るために自分を削る。君の存在は、君の大切な人を傷つけ続ける」

「それは……」


 幽は言い返せなかった。

 だって、そうかもしれない。

 白夜は寿命を削った。

 琴子はずっと何かを隠して、自分を守っていた。

 幽が白夜を呼ばなければ。

 幽が失敗しなければ。

 幽がいなければ。

 誰かの二十年は、奪われずに済んだのかもしれない。

 銀嶺は微笑んだ。


「私は誰も殺さない。君の失敗する未来を整理し、成功した未来へ置き換えるだけです」

「置き換える……?」

「はい」


 銀嶺は立ち上がった。

 部屋の光の比率まで、彼女に合わせて整った気がした。


「学校のメインサーバーに私の定義を積層します。朝になれば、皆が正しい月代幽を思い出す」

「正しい、月代幽……?」

「失敗しない君です」


 銀嶺は、首を傾げる。


「ねえ、オリジナル。どちらが正義に近いのかな」


 幽は言葉を失った。

 白夜の扇子が、ぎり、と鳴る。

 琴子が朱音の桐箱へ手を伸ばす。

 だが、銀嶺は二人を見ていなかった。

 幽だけを見ている。


「君の席は、もう空けておいてくださいね」


 その言葉は、刃ではなかった。

 もっと滑らかで、もっと清潔で、もっと残酷なものだった。

 銀嶺はドアへ向かう。

 琴子が呪符を握りしめた。


「待ちなさい!」


 白夜が扇子で制する。


「まだですわ」

「何でよ!」

「今ここでやれば、あの娘だけでは済みません」


 白夜の瞳は、氷のように細められていた。


「行かせなさい。定義し終わる前に、外で狩る方がまだ損が少ない」


 銀嶺は振り返らなかった。


「非効率な記憶は、上書きされる方が幸せです」


 部屋のドアが開く。

 廊下のセンサーライトが、幽を無視して、銀嶺のためだけに明るく灯った。

 彼女が通った跡には、あのQRコードの残像が、アスファルトに青白く焼きついていく。

 その背中が夜へ溶けるまで、誰も一歩も動けなかった。


   ○


 幽は、自分の手を見た。

 震えていた。

 みっともなく。

 情けなく。

 何ひとつ、銀嶺の言葉に反論できなかった。

 俺がいなくなれば。

 白夜は誰かの寿命を奪わなくて済むのかもしれない。

 琴子は、危ない目に遭わなくて済むのかもしれない。

 銀嶺が俺になれば、誰も不幸にならない正しい毎日が始まるのかもしれない。

 そう思ってしまった。

 思ってしまった自分が、嫌だった。

 その時、視界の隅に、机の下のゴミが映った。

 3Dプリンタの失敗作。

 歪んで、欠けて、何を作ろうとしたのかも分からない樹脂の塊。

 銀嶺の青白い模様が、最後まで触れなかったもの。

 幽は、それを見た瞬間。

 中学一年生の夏を思い出した。


   ○


 幽は、昔から後悔ばかりの人生だった。

 いわゆる、どんくさいタイプの少年だった。

 中学一年生の頃、琴子が上級生に絡まれていたことがある。

 歯に衣を着せない琴子は、いじめをしていた上級生が許せなかった。

 まあ、そういうことを普段からしている連中が、琴子の正論を素直に受け入れるわけがない。

 多勢を頼みに、琴子を取り囲み、謝らせようとしていた。

 当然のように、琴子が謝るわけもない。

 自分は間違っていないからだ。

 けれど、そこへ通りがかった幽は震え上がった。

 琴子が上級生に絡まれている。

 その事実だけで、頭の中が真っ白になった。

 なんとかしなければ。

 でも、足が動かない。

 声も出ない。

 相手は上級生だ。

 人数も多い。

 幽が飛び出したところで、どうにかなるわけがない。

 それでも、このままでは琴子が酷い目に遭うかもしれない。

 琴子は強い。

 口も強い。

 気も強い。

 でも、絶対に傷つかないわけじゃない。

 そんな当たり前のことに気づいた瞬間、幽の喉から裏返った声が出た。


「やめろぉっ!」


 大声を出せば、勢いになる。

 勢いがあれば、身体も動く。

 そのまま琴子と上級生たちの間に割り込んだ。

 はずだった。


「んわわわわああああああっ!」


 ちょうど琴子たちの真ん中で、幽は盛大にすっ転んだ。

 しかも、顔面から。

 鼻の奥に、熱い痛みが走る。

 次の瞬間、夥しい量の鼻血が噴き出した。


「お、おい……お前、大丈夫かよ……?」


 絡んでいた上級生の一人が、普通に心配して声をかけてきた。

 助けに入ったはずなのに。

 なぜか敵に心配されている。

 その事実が、痛みよりも恥ずかしかった。

 だが、そこへ追い打ちをかけたのは琴子だった。

 幽が怪我をしたせいで、怒り心頭。

 怒髪天を突いた状態の琴子が、上級生たちを睨みつける。


「そもそもアンタたちがつまんないことしてるから、幽くんがこんなことになっちゃったんでしょ! 今すぐここから消えないと、アンタたちが幽くん殴ったってことにしてもいいんだからね!? ……それとも、今すぐ私が消してあげてもいいんだけど?」


 その気迫に、上級生たちは奇声を上げながら一目散に逃げていった。

 結果だけ見れば、琴子が勝った。

 幽は、鼻血を出して地面に転がっていただけだった。


「はあ……幽くん、大丈夫?」


 琴子がしゃがみ込む。

 怒っている。

 でも、目は泣きそうだった。


「無茶しないでよ。私だったら大丈夫だったのに」

「だってさ……」


 幽は鼻を押さえながら言った。

 鼻血で声が変だった。


「琴子って、結構転んだりするだろ? 俺、心配でさ」

「それでアンタが転んでたら世話ないでしょおおおおお!」

「でも……心配だったんだ」


 幽は、まだ鼻血を垂らしながら、妙に真面目に言った。


「俺、昔から琴子に世話になってばっかりだし。いつも返さないと、って思ってるんだ」

「……」

「だって、琴子のこと大切だからさ」


 琴子の顔が、一気に赤くなった。


「た、大切ッ!? わ、私のことを!? ほ、ホントにッ!?」

「ああ。本当だ」


 幽は、鼻を押さえたまま頷いた。


「大切な大切な……唯一無二の友達だと思ってるよ」


 その直後。

 琴子の拳が、幽の顔面を打ち抜いた。

 せっかく止まりかけた鼻血が、また盛大に噴き出した。


   ○


 ……そうだ。

 あの時も、痛かった。

 鼻の奥が焼けるみたいに痛くて、恥ずかしくて、情けなくて。

 助けたかったのに、助けられたのは自分の方だった。

 琴子には怒られて、殴られて、結局また心配された。

 銀嶺なら、きっとあんな失敗はしない。

 転ばない。

 鼻血も出さない。

 余計なことも言わない。

 琴子を泣かせない。

 でも。

 あの痛みも。

 あの恥ずかしさも。

 琴子の怒った顔も。

 拳の痛みも。

 それでも前に出た自分も。

 銀嶺の言う最適解には、きっと入っていない。

 だから。

 幽は、机の下に転がっていた3Dプリンタの失敗作を拾った。

 ズレた樹脂の角が、掌に食い込む。

 痛い。

 でも、その痛みが、今は必要だった。


「……消させない」


 声は小さかった。

 でも、震えていなかった。


「俺の失敗は、俺のものだ」


 琴子が息を呑んだ。

 白夜が、ゆっくりと幽を見る。

 幽は、失敗作を握りしめたまま、顔を上げた。


「銀嶺が正しいのかもしれない」


 琴子の顔が強張る。

 白夜の赤い瞳が、細くなる。


「俺がいなければ、誰かの二十年は奪われなかったかもしれない。俺が失敗しなければ、白夜も、琴子も、こんなことに巻き込まれなかったかもしれない」


 掌の中で、樹脂の欠片が皮膚を裂いた。

 痛みがあった。

 幽は、その痛みを握りしめる。


「でも」


 幽は言った。


「それでも俺は、俺の失敗まで他人に渡したくない」


 白夜が、扇子の陰で笑った。

 いつもの愉快そうな笑みではない。

 もっと冷たく。

 もっと鋭く。

 怒っていた。


「……よく仰いましたわ」


 白夜は、ヒビ入りの星形ヘアピンに指先で触れる。


「幽さまの失敗まで削るなど、無粋にもほどがあります」

「白夜……」

「わたくしが選んだ首を、あんな無機質なデータで上書きするなど、矜持が許しませんもの」

「結局そこは首なんだな」

「当然ですわ」


 白夜は、いつものように笑う。

 けれどその目だけは、本気だった。

 琴子は、顔を伏せていた。

 肩が震えている。

 泣いているのか、怒っているのか、分からなかった。

 やがて彼女は、赤い編み紐を強く握りしめた。


「幽くんの失敗はね」


 琴子は言った。


「私が覚えてる」


 その声は、震えていた。

 でも、折れていなかった。


「転んだことも、鼻血出したことも、変なこと言って私を怒らせたことも。全部、私が覚えてる。勝手に消すなって、あいつに言ってやる」

「琴子」

「勘違いしないでよね」


 琴子は顔を上げた。

 目元が少し赤い。

 でも、いつものように睨んできた。


「幽くんの失敗を消していいのは、私が説教し終わってからなんだから」

「消すんだ?」

「場合による!」

「そこは残してくれよ!」

「うるさい! とにかく行くわよ!」


 琴子は桐箱を取り出した。

 朱音が、箱の中でぎちりと鳴る。

 前よりも、少しだけ黒い筋が混じっていた。

 商店街の模型店で、白夜の影を纏った痕だ。

 朱い刃に、黒い記録のようなものが残っている。

 幽は、自分の鞄を拾った。

 中から、三千五百円の伸縮呪棍が転がり出る。

 先端が黒く焦げていた。


「……なんか、こいつも焦げてる」

「捨てなさい」


 琴子が即答した。


「いや、でも三千五百円したし」

「命と三千五百円を天秤にかけないで!」


 白夜が、扇子の陰からそれを見た。


「いいえ」


 その声が、少しだけ低くなる。


「それ、捨てない方がよろしいですわ」

「え?」

「黒いものが、残っております」


 幽は伸縮呪棍を見た。

 焦げ跡だと思っていた黒い線が、ほんの一瞬だけ文字のように揺れた。

 読めない。

 でも、見られている気がした。


「……何だよ、これ」

「今は分かりませんわ」


 白夜は微笑む。


「ですが、幽さまの安物にしては、少しだけ面白くなってまいりました」

「安物言うな」

「三千五百円でしょう?」

「安物だった」


 幽は伸縮呪棍を握った。

 ポケットには、3Dプリンタの失敗作。

 手には、焦げた伸縮呪棍。

 背後には、寿命を削る幼馴染。

 隣には、世界を壊す妖怪姫。

 どう考えても、正しい主人公の装備ではなかった。

 でも、それでいい。

 幽は顔を上げる。

 銀嶺が向かったのは、学校だ。

 学校のメインサーバー。

 月曜日の朝になれば、全員が正しい月代幽を思い出す。

 失敗しない幽。

 誰も心配させない幽。

 誰も巻き込まない幽。

 誰にとっても都合のいい幽。


「冗談じゃない」


 幽は、ドアへ向かった。


「俺の席は、俺が取り返す」


 白夜が楽しそうに笑う。


「共闘デートですわね、幽さま」

「デート要素どこだよ」

「夜道を三人で歩きますわ」

「肝試しだろそれ」

「わたくしは構いませんわ。幽さまとなら」

「そこで照れること言うな!」


 琴子が朱音の箱を抱えたまま、割り込んでくる。


「白夜。アンタのことは大嫌いだけど、あいつはもっと嫌い」

「あら、光栄ですわ。番犬さんの嫌悪ランキングで二位に降格ですのね」

「今すぐ一位に戻してあげようか?」

「やめろ! 敵を間違えるな!」


 幽の叫びが、夜の廊下に響いた。

 その声に、今度はセンサーライトが反応した。

 ちか、と。

 幽の足元だけが、少し遅れて明るくなる。

 それだけで、幽は少しだけ息を吸えた。

 まだ、自分の家は完全には奪われていない。

 まだ、戻れる。

 まだ、間に合う。


   ○


 夜の街。

 学校へ続く、長く暗い坂道。

 街中のデジタル時計が、月曜日の朝に向けて、無機質なカウントダウンを刻み始めていた。

 幽は走る。

 琴子が隣を走る。

 白夜は、少し浮いているみたいな軽やかさでついてくる。


「幽さま」

「何だよ!」

「今度はあまり多用させないでくださいましね?」

「何を!」

「わたくしの力ですわ。寿命、もったいないですもの」

「減るのは白夜の寿命じゃないだろ!」

「ええ。ですから、もっともったいないのです」


 白夜は笑った。

 その笑みは、いつもよりほんの少しだけ、不機嫌だった。


「わたくしの知らぬ誰かの二十年で、幽さまの失敗まで整えられてたまるものですか」


 幽は、返事ができなかった。

 白夜の言葉は相変わらず傲慢だった。

 でも、その傲慢の中に、少しだけ違うものが混じっている気がした。

 琴子が前を睨む。


「幽くん」

「何?」

「あいつ、絶対に許さない」

「うん」

「幽くんの失敗を消していいのは、幽くんじゃない。あいつでもない。私でもない」


 琴子は、少しだけ言葉に詰まった。

 それから、言い直す。


「……消さなくていい。多分」

「多分なんだ」

「うるさい。全部は許してないんだからね」

「はい」

「でも」


 琴子は、前を向いたまま言った。


「私は、幽くんが転んだことも、鼻血出したことも、馬鹿みたいなこと言ったことも、覚えてるから」


 夜風が吹いた。

 赤い編み紐が揺れる。


「勝手に、上書きなんかさせない」


 幽は、伸縮呪棍を握りしめた。

 先端の黒い焦げ跡が、ほんの一瞬、文字のように揺れた。

 読めない。

 でも、今はそれでいい。


   ○


 遠く。

 深夜の学校の屋上で、銀嶺が街を見下ろしていた。

 白銀の髪が、夜風に揺れる。

 その手には、幽のスマホから抜き取った写真の残像が浮かんでいた。

 夏祭り。

 鼻血。

 琴子の怒った顔。

 幽の情けない笑顔。

 そのひとつひとつが、白く薄れていく。

 けれど完全には消えない。

 どこかに引っかかっている。

 歪んだ樹脂片。

 無価値な失敗作。

 そこに紐づいた記録だけが、銀嶺の指先から逃げていた。


「……未整理ログ」


 銀嶺は、静かに呟く。


「不完全。非効率。削除困難」


 それから、微笑んだ。


「見て、オリジナル」


 屋上の下。

 学校のサーバールームへ続く非常階段の扉が、青白く開いていく。


「不幸な君なんて、もうどこにも必要ないでしょう?」


 銀嶺の背後で、学校中の端末が一斉に点灯した。

 画面には、同じ文字が浮かんでいる。

 ――月代幽、定義更新準備中。

 そして、カウントダウンが始まった。

 

 終了予定時刻は、月曜日の朝八時三十分。

 ……朝のホームルームが、幽の消える時刻だった。

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