第2章:『初めてのデートは、世界崩壊の味』(後編)
黒い樹脂の腕が、幽の首へ伸びてきた。
一本ではない。
二本。
三本。
五本。
八本。
層のずれた腕が、途中で枝分かれし、裂け、また繋がり、まるで出力に失敗した触手のように空間を這ってくる。
『首部座標。
測定。
測定。
測定』
「しつこい!」
幽は反射的に身を引いた。
だが、狭い模型店の中だ。
背中が塗料棚にぶつかり、缶がいくつも床に転がった。
白夜が扇子を振るう。
黒い影が花弁のように広がり、迫る腕をまとめて飲み込んだ。
「幽さまに、触れないでくださる?」
声は冷たい。
しかし、その声の底に、いつもの余裕はなかった。
黒い影に呑まれた腕は、一度ぐしゃりと潰れた。
だが、次の瞬間。
一層。
二層。
三層。
潰れた断面から黒い樹脂が積み上がり、腕はまた同じ形に戻っていく。
「再生してる……!」
「再生ではありませんわ」
白夜が舌打ちする。
「出力し直しているのです」
『破壊命令、中和。
欠損部、再積層。
測定、続行』
「なんで俺の失敗作がそんなに勤勉なんだよ!」
「作った本人に似たのではなくて?」
「俺そんな勤勉じゃない!」
「威張るところではございませんわ!」
黒い腕が再び伸びる。
白夜は幽の前に立ち、黒い影でそれを叩き落とした。
そのたびに、模型店の床が軋む。
棚のプラモデルが崩れる。
塗料の瓶が割れ、シンナーの匂いと焦げた樹脂の匂いが混ざった。
幽は、自分の喉元を押さえたまま動けなかった。
見られている。
いや、違う。
測られている。
人間としてではなく。
幽としてでもなく。
ただの座標。
ただの寸法。
ただの基準。
その感覚が、気持ち悪かった。
「幽くん!」
店の入口から声がした。
振り返ると、琴子が立っていた。
赤い編み紐で結ばれた黒髪が、肩の後ろで揺れている。
その手には、小さな桐箱。
朱い封印紐が、ほどけかけていた。
「琴子、来るな!」
「来るなで済む状況じゃないでしょ!」
琴子は幽を睨み、それから白夜を睨み、最後に黒い樹脂の怪物を睨んだ。
「……あれが、幽くんの首を狙ってるの?」
「狙っているというより、測っておりますわ」
白夜が答える。
「大差ないでしょ」
「ええ。不快という点では同意いたします」
白夜と琴子の視線が、一瞬だけ交差した。
昨日なら、そのまま殺し合いになっていたかもしれない。
だが今、二人の前には、幽の首へ伸びる黒い腕がある。
琴子は桐箱を胸の前に持ち上げた。
「……朱音」
その名を呼んだ瞬間、箱の中で何かが鳴った。
ぎちり。
刃が、鞘の内側から歯を立てるような音。
「琴子、それって」
「下がってて、幽くん」
「いや、でも」
「いいから!」
琴子の声が鋭くなった。
幽は思わず黙る。
琴子は、赤い編み紐の端を指で引いた。
髪を束ねていた紐の一部が、するりとほどける。
赤い糸が、まるで生き物のように桐箱へ伸びた。
箱の封印紐と、琴子の髪を結んでいた赤い編み紐が絡み合う。
朱い光が走った。
「東雲流、封抜き」
琴子の声が低くなる。
「一寸だけ、起きなさい――朱音」
桐箱の蓋が、わずかに浮いた。
中から現れたのは、刃というにはあまりにも歪なものだった。
赤銅色の節。
細かく分かれた刃片。
蛇の背骨のように連なる、短い剣。
完全な形ではない。
まだ封の中に半分以上縛られている。
それでも、その刃が現れた瞬間、店内の空気が変わった。
白夜が、わずかに眉をひそめる。
「貴方みたいに、品の悪い刃ですこと」
「アンタに褒められるために持ってきたんじゃない」
「でしょうね。わたくしを斬るためでしょう?」
「……今は、あれを斬るためよ」
琴子はそう言った。
けれど、その声には小さな棘があった。
幽にも分かった。
今は。
その二文字が、嘘ではないことも。
全部ではないことも。
黒い樹脂の怪物が、首のない顔を琴子へ向けた。
『異常刃、検出。
現世接続、危険。
排除』
樹脂の腕が琴子へ向かう。
琴子は赤い編み紐を引いた。
朱音の刃が、しなる。
短い剣だったはずのそれが、蛇のように伸びた。
赤い軌跡が、空間を裂く。
「切れろ!」
朱音が、黒い腕に触れた。
斬る、というより、引き剥がすような音がした。
ばつん。
黒い樹脂の腕が、空中でほどける。
ただ壊れたのではない。
この世界に食い込んでいた糸を、根元から喰い切られたように、腕の一部がぼろぼろと崩れ落ちた。
「効いた!」
幽が叫ぶ。
琴子は荒い息を吐きながら、朱音を引き戻した。
「当たり前でしょ。これは怪異の縁を切る刃なんだから」
「縁を……?」
「現世に居座るための繋がりよ。あいつ、幽くんを測るために、この世界へ無理やり接続してる。その接続を切れば――」
琴子の言葉が止まった。
黒い樹脂の怪物が、ぐらりと揺れた。
だが、倒れない。
一層。
二層。
三層。
切られた腕の根元に、また黒い樹脂が積み上がる。
ただし、さっきよりも遅い。
朱音が切った場所だけ、積層が乱れている。
「完全には切れない……!」
「封を半分も開けていないのですから、当然ですわ」
白夜が言う。
「うるさいわね。アンタの消去よりは効いてるでしょ」
「ええ。そこだけは認めて差し上げます」
「上から言うな」
「下から言われる趣味はございませんわ」
「この状況で喧嘩するな!」
幽が叫んだ。
しかし、黒い樹脂の怪物は待ってくれない。
『測定妨害、確認。
障害、排除。
基準尺、取得優先』
今度は、腕の半分が琴子へ、残り半分が幽へ向かった。
白夜が幽を庇う。
琴子が朱音で腕を切る。
二人の動きは合っていない。
合っていないのに、幽だけは守られていた。
白夜の影が押し返し、琴子の朱音が接続を切る。
黒と朱。
妖怪姫の力と、退魔師の刃。
相性は最悪のはずなのに、その一瞬だけ、二つの力は幽の前で噛み合っていた。
「……何で、アンタと並んで戦ってるのよ」
「奇遇ですわね。わたくしも吐き気がしております」
「幽くんを守るためよ」
「ええ」
白夜の赤い瞳が、横目で琴子を見る。
「幽さまを守るためだけ、ですわね?」
琴子の手が、わずかに止まった。
その一瞬を、白夜は見逃さなかった。
「……何が言いたいの」
「いいえ。番犬さんは、ずいぶんと自分に言い聞かせるのがお上手だと思っただけですわ」
「黙って」
琴子の声が低くなった。
朱音が、ぎちりと鳴る。
黒い樹脂の怪物が、再び腕を伸ばす。
琴子は朱音を振るった。
狙いは、怪物の腕だった。
少なくとも、最初は。
だが、朱音は怪異の縁を切る刃だ。
現世に無理やり接続しているもの。
この世界に本来存在しないもの。
ここにいるべきではないもの。
そのすべてに、刃は反応する。
朱音の赤い軌跡が、黒い樹脂の腕を裂いた。
そして、その先へ伸びた。
白夜の足元。
彼女の影が、この世界に結んでいる黒い縁へ。
「琴子!」
幽が叫ぶ。
琴子の目が見開かれた。
一瞬だけ、迷いが走る。
けれど、その迷いは刃を止めなかった。
朱音は、白夜の影をかすめた。
白夜がエラーの腕を弾きながら、ほんの一瞬だけ反応を遅らせる。
赤い刃が、黒髪を掠めた。
ちり、と音がした。
星形のヘアピンに、細い亀裂が走った。
「……」
白夜の動きが止まった。
幽が、息を呑む。
ヘアピンは砕けていない。
けれど、透明な硝子の星に、一本だけ深いヒビが入っていた。
琴子も、それを見た。
見てしまった。
「……違う」
琴子は、掠れた声で言った。
「私は、そんなものを狙ったんじゃ」
白夜が、ゆっくりとヘアピンに触れた。
指先が震えていた。
幽は、その震えを見た。
昨日、自分の寿命を削った妖怪姫。
世界を壊すと言った怪物。
人間を愚かだと笑っていた少女。
その白夜が、たった一つの安物のヘアピンに触れて、震えていた。
「これは」
白夜の声が低くなる。
「幽さまが、わたくしに選んだものですわ」
琴子の喉が動いた。
「だから何」
「分かりませんの?」
白夜が顔を上げる。
赤い瞳に、初めて怒りとは違うものが混じっていた。
「わたくしにも、分かりませんわ」
白夜は、ヒビの入った星を押さえたまま笑った。
笑おうとして、失敗していた。
「分からないのに、腹が立ちますの」
店内の空気が、凍った。
白夜の足元から、黒い影が噴き上がる。
さっきまでの影とは違う。
もっと深く。
もっと古く。
もっと冷たい。
模型店の床に落ちた影が、まるで夜そのもののように膨れ上がった。
琴子が、一歩後ずさる。
「何よ、それ……」
「知りませんわ」
白夜が低く呟く。
「わたくしが、知りたいくらいです」
その声は、少しだけ震えていた。
幽は、ヒビの入ったヘアピンを見た。
それから、琴子の顔を見た。
琴子は、白夜を見ていなかった。
幽を見てもいなかった。
自分の手の中の朱音を、怖いものみたいに見ていた。
琴子は、朱音を握ったまま固まっている。
顔が白い。
怒っているようにも、傷ついているようにも、泣きそうにも見えた。
「琴子」
幽は言った。
責めるつもりはなかった。
でも、声が硬くなった。
「今のは、違うだろ」
琴子の顔が、さらに白くなる。
「……幽くん」
「白夜を止めたいのは分かる。俺のこと心配してくれてるのも、たぶん分かる。でも」
幽は、白夜の髪に留まったヒビ入りの星を見た。
「今のは、俺を守るためだけじゃなかっただろ」
琴子は、何も言えなかった。
朱音の赤い刃が、ぎちりと鳴る。
琴子は唇を噛んだ。
「私は、幽くんを守るために」
言いかけて、止まる。
守るため。
その言葉は、ずっと正しいと思っていた。
何度も使ってきた。
その言葉で、幽に隠してきた。
その言葉で、自分をごまかしてきた。
けれど今。
幽が選んだ、小さな星を傷つけた。
白夜ではなく。
幽でもなく。
たった一つの安物のヘアピン。
それなのに、幽の顔が痛そうに歪んだ。
琴子は、胸の奥を冷たい手で掴まれた気がした。
「……ごめ」
琴子が言いかけた瞬間。
黒い樹脂の怪物が、動いた。
『感情ノイズ、増大。
基準尺、取得優先。
月代幽、固定』
床に落ちた黒い樹脂が、一気に広がった。
幽の足元に絡みつく。
「うわっ!」
逃げようとした時には遅かった。
黒い樹脂が、靴を飲み込み、足首を固め、膝へ這い上がってくる。
白夜が影を伸ばす。
琴子が朱音を振るう。
しかし、怪物は二人を無視した。
いや、違う。
切られても、潰されても構わないのだ。
ただ幽の首へ届けばいい。
それだけの命令で動いている。
「幽さま!」
「幽くん!」
二人の声が重なった。
幽は黒い樹脂に引きずられ、作業台へ叩きつけられた。
背中に衝撃が走る。
息が詰まる。
樹脂の触手が、幽の腕に絡みつく。
胸を押さえつける。
首へ伸びる。
『首部座標、再確認。
基準尺、取得。
保存形式、未定』
「保存とか言うな! 俺はデータじゃねえ!」
幽は必死にもがいた。
その時、作業台の下に落ちていた自分の鞄が目に入った。
そうだ。
持ってきていた。
昨日の反省を踏まえ、念のために持ってきていた。
ネット通販で買った、定価三千五百円の伸縮呪棍。
レビュー欄には「初心者でも安心」「護身用に最適」「霊的効果には個人差があります」と書いてあった。
霊的効果には個人差があります。
今ほどその言葉を恨んだことはない。
「くそっ……!」
幽は片腕だけを無理やり動かし、鞄の口を引っ張った。
中から、安っぽい金属棒が転がり出る。
伸縮呪棍。
黒い樹脂の触手が幽の首へ伸びる。
幽は呪棍を握り、振った。
かしゃん、と情けない音を立てて伸びる。
「うおおおおお!」
幽は叫びながら、触手を叩いた。
ぺちん。
ほとんど効いていなかった。
「弱っ!」
「でしょうね!」
琴子が叫ぶ。
「幽さま、なぜそれでどうにかなると思いましたの!?」
「男には、どうにもならないと分かっていても振らなきゃいけない三千五百円があるんだよ!」
「ありませんわ!」
白夜が黒い影で触手を引き裂く。
琴子が朱音で現世接続を切る。
だが、幽に絡みついた樹脂は増え続ける。
首へ。 首へ。 首へ。
黒い触手の先端が、幽の喉元に触れた。
ぞわり、と背筋が凍る。
見られる。
測られる。
自分が、自分ではなくなっていくような感覚。
幽は、必死に息を吸った。
その時だった。
黒い樹脂の表面に、ほんの小さな乱れが見えた。
層が、ずれている。
一層目と二層目が噛み合っていない。
途中でノズルが詰まった時のように、細い線が途切れている。
再出力された部分だけ、わずかに浮いている。
幽は、それを知っていた。
知っているどころではない。
二百五十五回、見てきた。
失敗した。
目詰まりした。
比率が狂った。
層がずれた。
朝までかけて出力したものが、最後の最後で崩れた。
完璧に出力されたものなんて、一つもなかった。
「……違う」
幽は呟いた。
白夜が振り返る。
「幽さま?」
「こいつ、怪異じゃない」
「何ですって?」
「いや、怪異ではあるんだろうけど……違うんだ」
幽は黒い樹脂を睨んだ。
「こいつは、出力ミスだ」
怪物の触手が、幽の首を固定しようとする。
幽は、片手で伸縮呪棍を握り直した。
その持ち手に、昨日ふざけ半分で貼った安物の護符が巻きついている。
神社の土産コーナーで買った、交通安全と学業成就がなぜか一緒になったような護符。
効くとは思えない。
効かなくていい。
「白夜!」
幽は叫んだ。
「こいつを消そうとするな!」
「では、どうしろと!?」
「琴子!」
「何!?」
「切るな! いや、切るんだけど、根元じゃなくて――ずらせ!」
「説明が雑!」
「俺も今それどころじゃない!」
幽は必死に黒い樹脂の欠けを見た。
積層ズレ。
再出力の継ぎ目。
白夜の消去で歪み、琴子の朱音で接続を切られ、無理やり積み直した部分。
そこだけが、不自然に浮いている。
「そこだ……!」
幽は伸縮呪棍から護符を引き剥がした。
指先が黒い樹脂に飲まれかける。
喉元に触手が迫る。
それでも幽は、護符を欠けに押し当てた。
「効かなくていい」
幽は歯を食いしばった。
「混ざれ」
護符が、黒い樹脂の欠けに貼りついた。
一瞬、何も起こらなかった。
次の瞬間。
ジジジジジジジジッ!
怪物の全身に、ノイズが走った。
『異物混入。
出力層、不一致。
再計算。
再計算。
再計算不能』
黒い樹脂の表面が波打つ。
腕が震える。
首の長い身体が歪む。
格子模様が乱れ、QRコードのような紋様が崩れる。
白夜の目が細くなった。
「……なるほど」
琴子も、息を呑む。
「接続じゃない。層そのものがずれた……!」
「今だ!」
幽は叫んだ。
「白夜、琴子! そいつ、崩れたぞ!」
白夜と琴子が動いた。
今度は、同時だった。
白夜が黒い影を広げる。
だが、消すためではない。
黒い影は怪物の身体を包み込み、崩れかけた層を押さえつけた。
「番犬さん」
「その呼び方やめろ」
「今だけ、あなたの刃に乗せて差し上げます」
「誰がアンタの力なんか」
「幽さまを助けるのでしょう?」
琴子は奥歯を噛んだ。
一瞬だけ、幽を見る。
幽は黒い樹脂に縛られたまま、必死に頷いた。
「……今回だけだから」
「ええ。吐き気がするほど同感ですわ」
白夜の黒い影が、朱音の刃に絡みついた。
赤銅色の節に、黒い樹脂めいた光が染み込んでいく。
朱音が、ぎちぎちと鳴った。
それは悲鳴にも、歓喜にも聞こえた。
琴子の赤い編み紐がほどけ、髪が少しだけ乱れる。
頬に赤い呪印が浮かんだ。
「うっ……!」
「耐えなさい。あなたの執着、こういう時だけは役に立ちますわ」
「ほんっと、アンタ嫌い……!」
「わたくしもです」
二人の声が重なる。
朱音が伸びた。
赤と黒の軌跡が、店内を斜めに裂く。
「幽くんから」
琴子が叫ぶ。
「離れろおおおおおお!」
刃が、怪物の身体を貫いた。
ただ斬るのではない。
白夜の影が層を押さえ、琴子の朱音が現世接続を切り、幽の護符が混入した異物として再計算を狂わせる。
三つが重なった。
黒い樹脂の怪物が、初めて悲鳴のような音を立てた。
『測定不能。
基準尺、未取得。
保存失敗。
保存失敗。
保存――』
言葉が途切れる。
怪物の身体に、無数の亀裂が走った。
一層。
二層。
三層。
積み上がっていたものが、逆再生のように剥がれていく。
幽を縛っていた樹脂が崩れる。
幽は床へ落ちた。
「ぐえっ!」
「幽さま!」
「幽くん!」
白夜と琴子が同時に駆け寄ろうとする。
その前で、黒い樹脂の怪物は最後の力を振り絞るように、首のない顔を幽へ向けた。
『基準尺。
未取得。
代替保存。
失敗ログ、転送』
床に、青白い格子模様が浮かんだ。
QRコードに似ている。
だが、少し違う。
文字でもあり、魔法陣でもあり、エラーコードでもあるような模様。
幽は、それを見た瞬間、ぞっとした。
読んではいけない。
スマホを向けてはいけない。
理解してはいけない。
そう本能で分かった。
次の瞬間、怪物の身体が砕けた。
黒い樹脂が、塵のように空中へ散る。
模型店の照明が戻った。
テレビの画面も消えている。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、店内にはプラモデルと塗料の匂いだけが残っていた。
床には、焼け焦げたような格子模様が薄く刻まれている。
幽は、しばらく息ができなかった。
○
「……生きてる?」
琴子の声で、幽は目を開けた。
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「首はついてる」
「確認の基準が嫌すぎるんだけど」
琴子は膝をつき、幽の顔を覗き込んでいた。
その顔には、いつもの怒りが半分。
泣きそうな色が半分。
幽は、少しだけ笑おうとして失敗した。
「琴子」
「何」
「助かった」
琴子は目を伏せた。
「……別に。幽くんを守るのは、私の」
そこまで言って、言葉が止まる。
幽のさっきの言葉が、まだ残っているのだろう。
今のは、俺を守るためだけじゃなかっただろ。
琴子は唇を噛んだ。
「……ごめん」
小さな声だった。
幽は一瞬、何に対する謝罪か分からなかった。
いや、分かっていた。
ヘアピンだ。
幽は白夜を見た。
白夜は少し離れた場所に立っていた。
黒髪の横で、星形のヘアピンが光っている。
透明な硝子の星には、細いヒビが入ったままだ。
白夜は、それに指先で触れていた。
「白夜」
幽が声をかけると、白夜はゆっくり振り返った。
「怪我は?」
「わたくしを誰だと思っておりますの?」
「世界を壊す妖怪姫」
「分かっているなら、心配など不要ですわ」
いつもの調子だった。
けれど、指先はまだヘアピンに触れている。
幽は少し迷ってから言った。
「それ、割れちゃったな」
「割れてはおりません」
「ヒビ入ってる」
「割れては、おりません」
白夜は、少し強く言った。
幽は黙った。
白夜は、ヒビの入った星を外そうとした。
けれど、途中で手を止めた。
「……壊れたなら」
白夜は、小さく呟いた。
「捨てればよろしいのでしょう?」
誰に聞いているのか分からない声だった。
幽も、琴子も、何も言わなかった。
白夜は、ヘアピンを外さなかった。
「ですが」
白夜は、目を伏せる。
「捨てたくありませんの」
その言葉は、模型店の中に静かに落ちた。
白夜自身が、一番驚いているようだった。
幽は胸の奥が痛くなった。
琴子は、顔を歪めた。
朱音の刃はすでに桐箱の中へ戻っている。
赤い封印紐が、ひとりでに箱を縛り直していく。
琴子の赤い編み紐は少しほどけ、黒髪の一部が肩に落ちていた。
琴子は、白夜のヘアピンを見ないようにしている。
けれど、見ないようにしている時点で、見ているのと同じだった。
「……帰ろう」
幽は、ようやく身体を起こした。
「店の人に説明できないし」
「そうですわね」
「あと、たぶん俺、二度とこの店来られない」
「自業自得ではなくて?」
「否定できないのがつらい!」
幽は立ち上がろうとして、足元の格子模様を見た。
さっき怪物が最後に残したもの。
焼け焦げたような、薄いログ。
幽は、思わずスマホを取り出しかけた。
でも、手が止まった。
読んではいけない。
そう思った。
幽がスマホをしまうと、白夜がそれを見ていた。
「賢明ですわ」
「やっぱり、まずいのか?」
「ええ。あれは、文字ではありません。読めば、読んだものを通路にします」
「怖すぎる説明をさらっとするな」
「では、怖がってくださいませ」
「もう十分怖いよ」
幽は首を押さえた。
白夜も、琴子も、黒い樹脂の怪物も。
みんな自分の首を見ていた。
欲しい。
守りたい。
測りたい。
保存したい。
誰も、幽本人を見ていない。
そう思いかけて、幽は首を振った。
違う。
少なくとも、さっきの白夜は。
壊れたヘアピンを捨てられないと言った白夜は。
少しだけ、違った気がした。
○
夕方。
商店街を出る頃には、空が赤くなっていた。
結局、初デートは散々だった。
ラムネを飲んだ。
クレープを食べた。
ヘアピンを買った。
模型店でエラー・モンスターに襲われた。
白夜の消去が効かなかった。
琴子が朱音を抜いた。
幽は三千五百円の伸縮呪棍でほとんど何もできなかった。
デートとして点数をつけるなら、たぶん赤点だ。
それでも。
白夜は、ヒビの入った星形ヘアピンを外さなかった。
琴子は、少し離れて歩いている。
帰り道、三人の間に会話は少なかった。
それでも、昨日とは違う沈黙だった。
「幽さま」
アパートの前で、白夜が口を開いた。
「何だ?」
「人間の壊れものは、不便ですわね」
「まあな」
「脆くて、傷つきやすくて、戻し方も分からない」
「うん」
「それなのに」
白夜は、ヒビの入ったヘアピンに触れた。
「捨てづらい」
幽は、白夜を見た。
白夜はいつものように胸を張っていない。
少しだけ、不機嫌そうで。
少しだけ、困っているようで。
少しだけ、寂しそうに見えた。
「それが普通なんじゃないか」
「普通?」
「大切なものって、たぶんそういうもんだろ。壊れたからって、すぐ捨てられるなら、最初からそんなに大切じゃなかったんだよ」
白夜は、しばらく黙っていた。
「……面倒ですわね」
「人間だからな」
「そればかり」
「便利な言葉なんだよ」
白夜は小さく笑った。
笑って、またヘアピンに触れた。
琴子は、その二人を少し後ろから見ていた。
何も言わない。
言えない。
赤い編み紐で結ばれた黒髪が、夕風に揺れていた。
幽は振り返る。
「琴子」
「……何」
「今日は、ありがとな」
琴子の目が揺れた。
「……うん」
「あと」
幽は少し言いにくそうにしてから、続けた。
「今度、ちゃんと話してくれ。俺のこと。琴子の家のこと。俺の首のこと」
琴子は息を呑んだ。
それから、目を逸らした。
「……まだ、言えないこともある」
「うん」
「でも」
琴子は赤い編み紐を握った。
「全部隠したままには、しない」
幽は頷いた。
「分かった」
白夜が横から口を挟む。
「でしたら、わたくしの知らないところで幽さまを囲い込むのはおやめなさいな」
「アンタは黙ってて」
「嫌ですわ。幽さまのことですもの」
「ほら、そういうところが死ぬほどムカつくのよ」
「死ぬほど? では、死んでくださる?」
「やっぱり今ここで斬る」
「やめろ! 今日もう十分だから!」
幽の叫び声が、夕方の商店街に虚しく響いた。
散々な初デートだった。
でも、白夜は少しだけ人間の壊れやすさを知った。
琴子は、自分の中にある正しさ以外のものを見てしまった。
幽は、自分の失敗作が自分を測りに来ることを知った。
何も解決していない。
むしろ、分からないことは増えた。
それでも三人は、ひとまず帰ることにした。
世界は、まだ壊れていない。
ただ、ほんの少しだけ。
昨日とは違う形に、歪んでいた。
○
その夜。
月代幽の六畳一間で。
壊れたはずの3Dプリンタが、ひとりでに震えていた。
幽はいない。
白夜もいない。
部屋には誰もいない。
それでも、プリンタは動いていた。
一層。
二層。
三層。
黒ではない。
白い樹脂でもない。
銀に近い、冷たい光を帯びた何かが、出力トレイの上に積み上がっていく。
液晶画面に、青白い文字が浮かぶ。
――基準尺、未取得。
――代替保存、開始。
――白夜/破壊命令、混入。
――朱音/縁切断痕、混入。
――不明護符/異物判定不能。
――外部縁傷、補正値取得。
昼間、模型店で失敗した測定ログ。
幽の首を取得し損ねたエラー。
白夜の消去命令。
朱音の縁切り。
幽の安物護符。
それらが、混ざっていた。
混ざって、歪んで、再計算されていた。
出力されているのは、首だけではない。
人の形。
少女の形。
白銀の髪。
白銀の肌。
眠るように閉じられた瞼。
その顔立ちは、どこか幽に似ていた。
特に、首の比率だけが。
あまりにも正確だった。
プリンタの小さな液晶画面に、青白い文字が浮かぶ。
――SPARE OUTPUT:82%
ノズルが震える。
一層。
二層。
三層。
やがて、白銀の少女の指先が、ぴくりと動いた。
誰もいない部屋で。
壊れたはずの3Dプリンタが、最後の工程へ入っていく。
液晶画面の文字が、ゆっくりと変わった。
――基準尺、代替保存中。
そして。
白銀の少女が、銀色の瞳を開いた。




