第2章:『初めてのデートは、世界崩壊の味』(前編)
土曜日の朝。
月代幽は、人生初のデートに浮かれている自分を殴りたくなっていた。
相手は、世界を壊すために生まれた妖怪姫。
目的は、その妖怪姫を惚れさせて、世界を壊す気をなくさせること。
ついでに昨日、彼女は自分の寿命を少し削った。
そして、幼馴染の東雲琴子は、その妖怪姫を本気で殺そうとしていた。
「……字面が終わってる」
幽は、鏡の中の自分に向かって呟いた。
休日用のパーカー。
少し色落ちしたジーンズ。
履き慣れたスニーカー。
いつもなら何も考えずに選ぶ服装なのに、今日は妙に落ち着かない。
鏡の中の自分は、明らかに寝不足だった。
目の下に薄い隈。
寝癖を直しきれていない髪。
それから、首。
白夜が、美しいと言った首。
幽は無意識に喉元へ手をやった。
「まあ。幽さま、先ほどからずっとご自分のお首を触っていらっしゃいますわね」
背後から、涼しげな声がした。
振り返ると、白夜がベッドに腰掛けていた。
黒いレースを幾重にも重ねたワンピース。
細い足首を包むブーツ。
手には、骨だけが白い扇子。
そして、夜を溶かしたような黒髪。
名前は白夜なのに、その髪は夜そのものだった。
白い肌と赤い瞳が、その黒の中に浮かび上がっているせいで、幽の六畳一間だけが、どこか別の世界に繋がってしまったように見える。
いや。
実際、繋がってしまったのだ。
幽が、繋げてしまった。
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「わたくしですの?」
「九割お前だよ」
「残り一割は?」
「俺の情緒」
「脆いですわね」
「人間だからな!」
白夜は扇子で口元を隠し、ころころと笑った。
その笑い声だけなら、普通の少女のようだった。
けれど幽は、昨日の教室を忘れていない。
白夜が、世界を壊すと告げた声。
琴子が、死神と呼んだ目。
寿命が削られる感覚。
自分の知らないところで、自分の命がやり取りされていたという事実。
怖い。
当然、怖い。
それなのに、白夜が少し楽しそうにしているだけで、幽の胸は妙に落ち着かなくなる。
そのことが、さらに怖かった。
「一応聞くけど」
幽は白夜を見た。
「今日は世界を壊さないよな?」
「善処いたしますわ」
「その返事、本当にやめてくれ」
「では、努力いたします」
「同じだろ、それ」
「幽さまは注文が多いですわね」
白夜は軽く首を傾げる。
「人間を惚れさせるには、もっと余裕というものが必要なのではなくて?」
「お前を惚れさせる側なんだけどな、俺」
「ええ。ですから、がんばってくださいませ」
完全に他人事だった。
幽は深く息を吐いた。
世界を救う方法。
白夜を惚れさせること。
馬鹿げている。
あまりにも馬鹿げている。
けれど、馬鹿げているからといって、放り出せる話ではなかった。
白夜を部屋に閉じ込めるのでも、琴子に任せるのでもない。
自分が呼んだものとして、自分で向き合う。
「行くぞ」
「はい、幽さま」
白夜は、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「初めての逢瀬ですわね」
「デートって言え」
「では、初めてのデート」
「言われるとそれはそれで照れるな……」
「面倒な方」
白夜は立ち上がり、当たり前のように幽の隣へ並んだ。
玄関を出て、アパートの階段を降りる。
その途中で、白夜はふと幽の手を見た。
「幽さま」
「何だよ」
「人間のデートでは、手を繋ぐのでしょう?」
「……知識どこから仕入れた」
「昨晩、幽さまの部屋にあった漫画を読みました」
「俺の黒歴史棚を勝手に読むな!」
「大変参考になりましたわ。三巻で幼馴染の負け犬化が進んでおりました」
「やめろ! 変な予習するな!」
「それで、繋がないのですか?」
白夜が、すっと手を差し出した。
白い指。
細くて、綺麗で、冷たそうな手。
幽は一瞬ためらった。
昨日、この手は自分の命に触れた。
昨日、この少女は世界を壊すと言った。
それでも。
幽は、その手を取った。
白夜の手は、冬の朝の窓ガラスみたいに冷たかった。
「……冷たっ」
「人間とは、ずいぶん熱を持って歩く生き物なのですね」
「お前が冷たすぎるんだよ」
「そうですの?」
白夜は繋いだ手を不思議そうに見つめた。
「幽さまは、今、どきどきしていらっしゃるのですか?」
「してない」
「嘘ですわね」
「してない」
「脈が速いですわ」
「測るな!」
幽は慌てて手を振りほどこうとしたが、白夜は離さなかった。
それどころか、少しだけ指を絡めてくる。
「なるほど。これが手を繋ぐというものですのね」
「そこで観察対象みたいに言うな」
「観察しておりますもの」
「デートだろ」
「ええ。ですから、デート観察ですわ」
「最悪の自由研究だな」
幽が頭を抱えると、白夜はまた笑った。
その横顔が、少しだけ楽しそうに見えてしまった。
幽は、そんな自分をもう一度殴りたくなった。
○
同じ頃。
アパートの向かいの電柱の陰で、東雲琴子は息を殺していた。
制服ではない。
薄手のパーカーに、短めのスカート。
休日の女子高生としては、別におかしくない格好。
けれど、その黒髪だけは違っていた。
普段よりも高い位置で、きつく結ばれている。
黒髪を束ねているのは、赤い編み紐だった。
ただの髪飾りではない。
東雲家の呪を、一本一本の糸に編み込んだもの。
髪をまとめるというより、自分自身を戦える形に縛り直すための紐。
その赤が、朝の光の中で、血のように沈んで見えた。
琴子は鞄の紐を握りしめる。
鞄の奥には、小さな桐箱が入っている。
朱い封印紐で縛られた箱。
蓋には、古い墨で一文字。
――朱音。
怪異を斬る刃ではない。
怪異が現世に結んだ縁を喰い切る、東雲の禁具。
昨夜、琴子はその封を少しだけ緩めた。
まだ開けてはいない。
開ければ、祖父に必ず気づかれる。
見つかれば、ただでは済まない。
それでも、持ってきた。
白夜が幽の寿命を削った死神なら。
幽の首を欲しがるものなら。
幽を、自分の知らない場所へ連れていくものなら。
切る。
現世との縁ごと。
「……違う」
琴子は小さく呟いた。
「これは監視。デートを邪魔したいわけじゃない。監視だから」
自分で言って、苦しくなった。
幽が白夜と手を繋いで歩いている。
白夜が楽しそうに幽を見上げている。
幽が困ったように、でもどこか放っておけない顔で白夜に突っ込んでいる。
胸の奥が、じりじりと焼けた。
「……幽くんの馬鹿」
琴子は鞄の紐を握りしめ、二人の後を追った。
○
幽が最初に白夜を連れて行ったのは、駅前の商店街だった。
正直、選択肢は多くない。
水族館。
映画館。
遊園地。
そういう分かりやすいデートスポットも一瞬考えた。
だが、世界を壊す妖怪姫をいきなり大型施設に連れていく勇気はなかった。
人が多すぎる。
壊れものが多すぎる。
そして、幽の財布にも優しくない。
その点、商店街ならまだ慣れている。
小さい頃から歩いてきた場所だ。
古いパン屋。
駄菓子屋。
雑貨屋。
模型店。
駅前のファミレス。
最近できた、妙に綺麗なデジタル・モンスター社の広告看板。
幽にとっては、ただの街だった。
白夜にとっては、違ったらしい。
「まあ」
白夜は、アーケードの入り口で立ち止まった。
「人間が、こんなにも自分の欲しいものを並べておりますのね」
「店だからな」
「食べ物。布。金属。玩具。紙。匂い。音。欲望。見栄。退屈しのぎ」
「急に商店街の本質をえぐるな」
「悪くありませんわ」
白夜は目を細めた。
「壊しがいがあります」
「壊すな」
「では、観察いたします」
「観察で頼む」
二人は並んで歩いた。
白夜は何にでも興味を示した。
パン屋の焼きたてメロンパンを見て、
「小麦の死骸に砂糖をまとわせたものですの?」
と言った。
幽は買う前に店員へ謝った。
駄菓子屋では、白夜が瓶ラムネに釘付けになった。
「幽さま。これは?」
「ラムネ」
「飲み物ですの?」
「うん。こうやって、ビー玉を落として飲むんだよ」
幽が店先の台でラムネ瓶を開けると、ぽん、と軽い音がした。
白夜はその音に少しだけ肩を揺らし、それから瓶の中に沈んだビー玉をじっと見つめた。
「……出られない宝石ですわね」
「ビー玉な」
「なぜ閉じ込めますの?」
「そういう構造なんだよ」
「人間は、小さなものを閉じ込めるのがお好きですわね」
その言い方に、幽は少しだけ返事に困った。
白夜は、幽の首もそういう目で見ている。
美しいから欲しい。
世界を壊すために必要。
自分の庭に飾りたい。
昨日、白夜が当たり前みたいに口にした言葉が、幽の喉元に冷たく残っている。
幽はラムネ瓶を傾けた。
「……俺は、閉じ込められるの嫌だけどな」
白夜の赤い瞳が、幽を見る。
「そうですの?」
「当たり前だろ」
「では、番犬さんに守られるのも?」
幽は足を止めた。
「琴子は、別にそういうんじゃ」
言いかけて、昨日の琴子の顔を思い出した。
死神、と白夜を呼んだ目。
幽に何も知らせず、守ろうとする声。
自分の命を小銭みたいに出すな、と怒った言葉。
琴子は、ずっと自分を守っていたらしい。
でも、何から。
どうやって。
なぜ隠していたのか。
幽は何も知らない。
「……分かんねえ」
幽は正直に言った。
「琴子が俺を守ってくれてたのは、たぶん本当なんだと思う。でも、俺はそれを知らなかった。知らないまま守られてた」
「不満ですの?」
「不満っていうか」
幽はラムネ瓶の中のビー玉を見た。
「俺のことなのに、俺だけ知らないのは嫌だ」
白夜は、少しだけ黙った。
それから、小さく笑う。
「では、わたくしのことは知りたいですの?」
「そりゃ、知らないと困るだろ。世界壊すとか言ってるし」
「困るから?」
「……それだけじゃない」
口にしてから、幽は自分で驚いた。
白夜が、じっとこちらを見ている。
言葉を間違えた気がした。
でも、取り消すのも違う気がした。
「お前がどういうやつなのか、まだ全然分かんないから」
「分からないものは、怖いでしょう?」
「怖いよ」
幽は即答した。
「でも、怖いから全部殺せって言われるのも、違う気がする」
白夜は扇子を開きかけて、やめた。
その仕草が、少しだけ人間っぽく見えた。
「幽さまは」
白夜は、ゆっくりと言った。
「本当に、面倒な方ですわね」
「よく言われる」
「でしょうね」
白夜は楽しそうに笑った。
その笑顔を、少し離れた物陰から琴子が見ていた。
琴子は、鞄の中の桐箱を強く握る。
「……笑わないでよ」
自分でも、誰に向けた言葉か分からなかった。
○
商店街の奥には、小さなクレープ屋があった。
古いアーケードの中では少し浮いている、若い店主が始めた新しい店だ。
白い看板。
手書きのメニュー。
苺とクリームの写真。
白夜はその前で、ぴたりと立ち止まった。
「幽さま」
「今度は何だ」
「あれは、動物の心臓を模した供物ですの?」
「ストロベリークレープだよ!」
白夜はメニュー写真をじっと見つめている。
真っ赤な苺。
白いクリーム。
薄い生地に包まれた、甘い食べ物。
「赤く、柔らかく、白い脂肪に包まれておりますわ」
「絶対に店の人の前で言うなよ」
「人間は、これを食べて喜びますの?」
「喜ぶ人は多いな」
「では、幽さまも?」
「まあ、普通に好きだけど」
「では、わたくしも食べます」
「急に素直だな」
「幽さまを惚れさせるための調査ですもの」
「逆。俺がお前を惚れさせるの」
「では、幽さまがわたくしに買ってくださいませ」
「そこは合ってるのかよ」
結局、幽はストロベリークレープを二つ買った。
財布の中身が、少し心許なくなる。
世界を救うには金がかかる。
そんな情けない現実を噛みしめていると、白夜がクレープを両手で持って、じっと眺めていた。
「どうやって食べるんだ?」
「……これは、上から喰らうべきですの? それとも、下から?」
「下から食うな。惨事になる」
「人間の食べ物は、作法が難しいですわね」
白夜は恐る恐る、クリームの端を口にした。
赤い瞳が、わずかに見開かれる。
「……甘い」
「そりゃクレープだからな」
「冷たくて、柔らかくて、すぐに崩れてしまいます」
白夜はもう一口食べた。
「壊れる前に、舌の上で消えるのですね」
その言い方が、妙に静かだった。
幽はクレープをかじりながら、白夜を横目で見た。
壊れる前に壊せばいい。
白夜はさっき、そんなことを言った。
けれど今、彼女は崩れそうなクリームを、こぼさないように慎重に食べている。
「白夜」
「何ですの?」
「口についてる」
「え?」
白夜の口元に、白いクリームが少しだけついていた。
幽はポケットから紙ナプキンを出し、何も考えずに白夜の口元を拭った。
その瞬間。
白夜が、ぴたりと止まった。
「……」
「ん? どうした?」
「幽さま」
「何だよ」
「今のは、どういう行為ですの?」
「どういうって、クリームついてたから」
「人間は、他者の口元に触れるのですか?」
「あー……いや、まあ、相手による」
「わたくしは、その相手なのですか?」
幽は、紙ナプキンを持ったまま固まった。
白夜がじっと見上げてくる。
赤い瞳。
黒い髪。
白い頬。
さっきまで世界を壊すだの供物だの言っていた少女が、妙に静かな顔でこちらを見ている。
「……嫌だったか?」
幽が聞くと、白夜は少しだけ視線を逸らした。
「無礼ですわ」
「ごめん」
「ですが」
白夜は、クレープを持つ指に少しだけ力を込めた。
「不快では、ありませんでした」
幽の心臓が、変な音を立てた。
やめろ。
相手は世界を壊す妖怪姫だぞ。
昨日、寿命を削られたばかりだぞ。
可愛いと思うな。
幽は自分にそう言い聞かせた。
その一部始終を、少し離れた柱の陰で琴子が見ていた。
「……幽くんの、無自覚ナチュラルボーンジゴロ」
声が震えていた。
笑えるはずだった。
いつもの幽くんの、いつもの鈍さだと。
ああいうところが危なっかしいのだと。
また後で説教してやればいいのだと。
でも、笑えなかった。
白夜が、その鈍さに触れている。
琴子がずっと守ってきた、幽の何気ない優しさ。
危なっかしくて、放っておけなくて、だからずっと隣で見張ってきたもの。
その場所に、白夜が入り込んでいる。
琴子は、鞄の奥の桐箱を押さえた。
「……私は、監視に来ただけ」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
○
クレープ屋を出たあと、幽は白夜を小さな雑貨屋へ連れていった。
商店街の端にある、古い店だった。
ガラス細工。
ヘアピン。
安っぽいアクセサリー。
星や月を模したキーホルダー。
白夜は店に入るなり、また足を止めた。
「……ここは、小さな供物を閉じ込めておく部屋ですの?」
「雑貨屋だよ」
「用途の分からないものが、これほど大量に並んでおりますわ」
「まあ、用途が分からないけど欲しくなるものを売る店ではある」
「人間は、不思議な無駄を愛するのですね」
「無駄って言うな。そういうのが楽しいんだよ」
白夜は、棚に並んだガラス細工を覗き込んだ。
小さな猫。
小さな鳥。
小さな家。
小さな星。
どれも、指先で弾けば割れてしまいそうなものばかりだった。
「壊れやすいものが、本当に多い」
「まあな」
「幽さまの世界は、壊れやすいものばかりでできておりますのね」
その言い方が、いつもの傲慢な調子と少し違っていた。
幽は、棚の中から小さな星形のヘアピンを一つ取った。
透明な硝子に、淡い金色の粒が散っている。
「これとか、白夜に似合いそう」
「わたくしに?」
「うん。髪、黒いし。星っぽいやつ、映えるんじゃないかと思って」
白夜は、ヘアピンを見つめた。
それから、幽を見た。
「幽さまは、わたくしを飾りたいのですか?」
「言い方が不穏なんだよ。似合うかなって思っただけ」
「わたくしは、妖怪王の姫ですわ。人間の作った硝子細工などで飾られる存在ではございません」
「あ、そう……」
幽が棚に戻そうとすると、白夜がその手首を掴んだ。
「戻すとは言っておりませんわ」
「どっちだよ」
「幽さまが選んだのでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「でしたら」
白夜は、少しだけ顎を上げる。
「つけてみても、よろしいですわ」
幽は一瞬、固まった。
「俺が?」
「他に誰がいますの?」
「店員さんとか」
「幽さまが選んだのでしょう?」
二度目だった。
幽は、妙に緊張しながら白夜の髪へ手を伸ばした。
白夜の黒髪は、見た目よりもずっと細くて、冷たかった。
指先が触れると、白夜の肩がほんの少しだけ揺れる。
幽は、星形のヘアピンを黒髪の横に留めた。
夜を溶かしたような髪に、小さな星が灯る。
「……うん」
「どうです?」
「似合う」
幽は、素直に言った。
「すごく」
白夜は、何も言わなかった。
ただ、店の小さな鏡に映る自分の姿をじっと見つめていた。
黒い髪。
赤い瞳。
人間ではないもの。
その横に、安っぽい星のヘアピン。
「……人間の飾りというものは」
白夜は、鏡の中の自分に向かって、ぽつりと言った。
「ずいぶん弱そうですのね」
「まあ、安いやつだしな。ぶつけたら割れるかも」
「では、大切にしなければなりませんわね」
幽は、少しだけ返事に詰まった。
壊れやすいなら、壊れる前に壊してしまえばよい。
さっき、白夜はそう言った。
なのに今、彼女は幽が選んだ小さな星を、大切にすると言った。
それだけのことなのに。
幽の胸の奥で、何かが小さく熱を持った。
少し離れた棚の陰。
琴子は、その光景を見ていた。
白夜の黒髪に、幽が選んだ星が留まっている。
白夜が、それを外さない。
むしろ、少し嬉しそうに見える。
「……何よ」
琴子の声は、さっきより低かった。
「何、普通の女の子みたいな顔してるのよ」
鞄の奥で、桐箱が震える。
今度は、はっきりと。
かたかた、と。
「……黙ってて」
琴子は、鞄を押さえた。
「まだ、違う。まだ、幽くんは危ないことされてない」
そう言い聞かせる声が、自分でも苦しい。
危ないこと。
それは何だろう。
白夜が幽の寿命を削ること。
白夜が幽の首を狙うこと。
白夜が幽を、怪異の側へ連れていくこと。
それだけのはずだった。
なのに、琴子の胸を一番強く刺したのは、幽が白夜の髪にヘアピンを留めた瞬間だった。
その事実が、琴子自身を一番苛立たせた。
「……違う」
琴子は、もう一度呟いた。
「私は、幽くんを守りたいだけ」
けれど、その声に自分でも納得できなかった。
○
雑貨屋を出たあと、白夜は何度も髪の横へ手をやった。
星形のヘアピンが、黒髪の上で小さく光っている。
「気に入った?」
幽が聞くと、白夜はすぐに扇子で口元を隠した。
「幽さまがどうしてもとおっしゃるので、仕方なく身につけているだけですわ」
「俺、そこまで言ってないよな」
「言いました」
「言ってない」
「わたくしの記憶では、幽さまは泣いて頼んでおりました」
「記憶改竄するな」
白夜は楽しそうに笑った。
その笑顔が、ほんの少しだけさっきまでと違って見えた。
幽は、その変化をうまく言葉にできない。
ただ、白夜が商店街を見ている目が、最初より少しだけ柔らかくなった気がした。
「次、俺がよく行ってた店があるんだけど」
「まあ。秘密の逢瀬場所ですの?」
「ただの模型店だよ」
「幽さまの黒歴史製造所ですわね」
「まだ何も言ってないのに当てるな」
模型店は、商店街の端にあった。
店主のおじさんは、たぶん昼飯を買いに出ているのだろう。
この店ではよくあることだった。
自動ドアが半開きで止まっているのも、古いセンサーのせいだと、幽は最初そう思った。
古いプラモデルのポスター。
塗料の匂い。
工具の並ぶ棚。
奥には、3Dプリンタ用の樹脂や部品が置かれている。
幽は、この店によく来ていた。
安い樹脂。
ノズルの替え。
失敗した時に必要な掃除道具。
夜を越すために。
怖さをごまかすために。
何かを作っているふりをするために。
何度も、ここで買った。
白夜は、棚に並ぶ失敗作のサンプルを眺めた。
歪んだ猫。
途中で崩れた城。
層がずれて顔の半分が溶けたフィギュア。
「これは?」
「失敗作だろ」
「なぜ置いてありますの?」
「店のおじさんが言ってた。失敗例も見せた方が、初心者が安心するって」
「失敗を、見せる」
白夜は、不思議そうに繰り返した。
「妖怪の宮では、失敗したものは隠しますわ」
「そうなのか」
「ええ。美しくありませんもの。弱さを見せれば、喰われます」
白夜は、歪んだ猫を棚へ戻した。
「人間は、変ですわね」
「そうか?」
「失敗を並べて、安心するなんて」
幽は少し考えた。
「俺は、ちょっと分かるけどな」
白夜が幽を見る。
「俺の部屋に、失敗した魔法陣がいっぱいあっただろ」
「ええ。ひどい出来でしたわ」
「遠慮ないな」
「事実ですもの」
「まあ、そうだけど」
幽は苦笑した。
「あれ、捨てられなかったんだよ。失敗なんだけど、失敗した夜は、少なくとも朝まで生きてたってことだから」
白夜の赤い瞳が、わずかに揺れた。
「朝まで」
「うん」
幽は棚の樹脂ボトルを指で軽く叩いた。
「俺、夜が苦手だったから。今も苦手だけど。何か作ってないと、怖くてさ」
白夜は何も言わなかった。
壊すために生まれた姫は、失敗作の並ぶ棚を見ている。
幽には、その表情が少しだけ読めなかった。
その時。
店の奥で、古いテレビがついた。
勝手に。
『――デジタル・モンスター社は本日、新たな都市接続サービスの試験運用を発表し――』
幽は顔をしかめた。
「また朱知圭か」
画面には、清潔すぎる笑顔の男が映っていた。
朱知圭。
最近、どこにでも出てくる若い実業家。
全部を接続する。
全部を最適化する。
世界をもっと正しくする。
昨日の夜にも、テレビに映っていた。
そして、画面が乱れた。
砂嵐。
ノイズ。
一瞬だけ浮かぶ青白い文字。
――NO USER.
「……」
幽の背筋が冷えた。
「白夜」
「ええ」
白夜は、さっきまでの柔らかい表情を消していた。
「何かおりますわね」
店内の照明が、一度だけ瞬いた。
棚の奥。
3Dプリンタ用の黒い樹脂ボトルが、ひとりでに震え始める。
一層。
二層。
三層。
どこからともなく、あの音がした。
3Dプリンタのノズルが動く音。
樹脂を吐き出す、細くて不快な機械音。
「……嘘だろ」
幽は後ずさった。
店の作業台の上に置かれていた展示用の3Dプリンタが、勝手に動いていた。
電源は入っていない。
ケーブルも抜けている。
なのに、ノズルが震えている。
黒い樹脂が、何もないはずの空中に積み上がっていく。
円ではない。
星でもない。
文字でもない。
乱れた層。
潰れた線。
途切れた命令。
失敗した出力ログ。
それらが、無理やり人の形になろうとしていた。
「幽さま」
白夜が幽の前に出た。
「下がって」
「何なんだよ、これ」
「おそらく、あなたの出力した魔法陣の残滓ですわ。昨夜の召喚で、世界の層が少し歪んだ。その歪みに、霊的な塵と失敗ログが積もったのでしょう」
「俺のせいみたいに言うな」
「だいたいあなたのせいですわ」
「否定できないのがつらい!」
空中の樹脂が、ぐにゃりと曲がった。
人型。
いや、人型になりそこねたもの。
首だけが異様に長い。
顔はない。
胴体には、格子状の幾何学模様が浮かんでいる。
腕は層がずれて、何本にも裂けていた。
それは幽を見る。
目はない。
けれど、確かに見た。
見えているのではない。
見られている。
幽の喉が、凍った。
『――測定』
音がした。
声ではない。
プリンタの駆動音と、壊れたスピーカーのノイズを混ぜたような音。
『基準座標、確認。
月代幽。
首部、測定開始』
「……俺の首、人気すぎないか?」
「喜ぶところではございませんわ」
白夜が扇子を広げた。
扇面に、無数の妖怪の影が蠢く。
「下がりなさい、幽さま」
白夜の影が床を走る。
黒い花のように広がり、エラーの怪物を包み込もうとした。
「消えなさい」
白夜が言った。
世界を壊す姫の声だった。
空気が潰れる。
店の棚が軋む。
樹脂ボトルが一斉に震える。
エラーの怪物が、黒い影に飲み込まれる。
消える。
はずだった。
ぎぎ、と音がした。
黒い影の中で、幾何学模様が反転する。
格子模様が、白夜の影を読み取るように光った。
次の瞬間、白夜の消去が、歪んだ。
「……っ」
白夜が、一歩下がった。
幽は初めて見た。
白夜の顔から、余裕が消えるのを。
「白夜?」
エラーの怪物は、消えていなかった。
崩れかけた身体を、再び積み直している。
一層。
二層。
三層。
壊れたところから、また出力される。
『逆位相、確認。
破壊命令、中和。
測定、続行』
白夜の赤い瞳が細くなる。
「わたくしの消去を、食いましたの?」
その声には、怒りよりも先に、わずかな困惑があった。
幽の背中を、冷たい汗が伝う。
店の外。
物陰にいた琴子が、桐箱を握りしめたまま立ち尽くしている。
「……何、あれ」
赤い編み紐で結ばれた黒髪が、わずかに揺れる。
朱い封印紐が、ひとりでに震えた。
箱の中で、何かが鳴る。
ぎちり。
ぎちり。
まるで、刃が鞘の中で歯を鳴らすように。
エラーの怪物が、幽へ向かって一歩踏み出した。
『月代幽。
首部座標。
測定、開始』
白夜が幽を庇うように立つ。
その黒髪に、幽が選んだ小さな星が揺れていた。
けれど、その横顔にはもう、いつもの傲慢な笑みはなかった。
幽は、喉元を押さえた。
昨日まで、夜の怪異に見つけられていた。
今日は、自分の失敗作に見つけられている。
そして、理解した。
これは白夜だけの問題ではない。
琴子だけの問題でもない。
自分が作ったものが、自分を測りに来た。
黒い樹脂の怪物が、機械音のように鳴いた。
『積層エラー、現世接続。
基準尺、取得予定』
白夜の扇子が、ぎり、と鳴る。
「幽さま」
「何だよ」
「初デートは」
白夜は、珍しく苦々しそうに言った。
「少々、面倒なことになりましたわね」
幽は引きつった笑みを浮かべた。
「少々で済むか、これ?」
答えの代わりに、エラーの怪物の腕が、いくつにも裂けた。
そのすべてが、幽の首へ向かって伸びてきた。




