第1章『幼馴染は、死神を許さない』(後編)
放課後の教室は、昼間とは別の顔をしていた。
西日が窓から斜めに差し込み、机と椅子の影を長く伸ばしている。
「”あれ”以外には……いないわね」
琴子は、幽に見られないように指で見えない線を作り、教室の四方を”祓って”いた。
教室の空気が一段引き締まる。
東雲家に伝わる呪法。――幽には見せられないやつだ。
琴子は、指先に残った違和感を確かめるように、そっと握った。
——今日も、何も起きていない。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
大好きな幽を守れること。
そんな大義名分のためにいつも幽のそばにいられること。
こんな日々がずっと続いていけばいいと思っていたし、続いていくと思っていた。
そこに現れたのが、あの「化け物」だ。
——見た瞬間、背骨の奥が冷えた。
白夜は、窓際の席に静かに座っていた。
授業中と同じ、完璧に「転入生」の振る舞い。
――違和感があるとすれば、それは馴染みすぎていることだった。
(……おかしい)
琴子は、少し離れた席から白夜を盗み見る。
初日。
転入生。
それなのに、誰も彼女を不審がらない。
教師も、生徒も、まるで「最初からそこにいた」かのように扱っている。
(認識……書き換えてる? それとも……もっと根本から?)
背中に冷たい汗が伝った。
退魔師の家系として、琴子は「本物」をいくつか見てきた。
だが――あれは、次元が違う。
(あれは……封じる対象じゃない)
白夜が、ふとこちらを見た。
視線が合う。
にこり、と微笑む。
その瞬間、琴子の脳裏に“直感”が走った。
――見られている。
――最初から。
(……ああ)
理解してしまった。
白夜は、琴子が“何者か”も、何をするつもりかも、全部分かっている。
それでも黙っているのは――
(遊ばれてる)
拳を、ぎゅっと握りしめる。
ふう……仕方ないわね。
白夜が、ふと窓の外へ目を向けた。茜色の光が、その横顔をひどく人間離れしたものに見せている。
「……ねえ、幽? なんか先生さ、用事があるって言ってたわよ。職員室に来てくれ、ってさ」
「え、本当?」
幽は立ち上がりかけて、止まった。嫌な予感がしたからだ。
「……今か?」
「今みたい。ほら、早く行きなさいよ。私、ここで待ってるから」
琴子はいつもの調子で言った。だが、その笑顔はどこか固い。
幽は、琴子を見た。次に、白夜を見る。
白夜は、窓際の席で静かに頬杖をついていた。
「あら。行ってらっしゃいませ、幽さま」
その声があまりにも穏やかで、逆に不気味だった。
「……お前、何かする気じゃないだろうな」
「まあ。そんなにわたくしが心配ですの?」
「心配っていうか、警戒してるんだよ」
「同じようなものでしょう?」
白夜は、くすりと笑う。
だがその直後、ごくわずかに眉を寄せた。
「それに、今日は先ほどから少々、力の回りがよろしくありませんの。この学校、思ったより窮屈でしてよ。暴れるほど元気ではございませんわ」
その言葉に、幽は少しだけ迷った。
嘘かもしれない。でも、少なくとも昨夜から今朝にかけて、白夜が完全ではないことだけは見ていた。
「……すぐ戻る」
幽は、白夜と琴子を順番に見た。
「本当に、すぐだ。二人とも、変なことするなよ」
「ええ」「わかってる」
二人の返事が、妙に綺麗に重なった。
それが逆に怖かった。
それでも、教師に呼ばれたとなれば、無視し続けるわけにもいかない。幽は何度も振り返りながら、教室を出ていった。
足音が廊下の向こうへ消えていく。
夕暮れの教室に、三人分あったはずの気配が、二つになった。
その瞬間。
――空気が、音を立てて変質した。
(来た)
琴子は、深く息を吸う。
逃げ道はない。
言い訳もいらない。
(……幽。ごめんね)
カバンの中に手を伸ばしながら、琴子は腹の底で、はっきりと決めた。
(この“死神”だけは、私が殺す)
◯
「……ようやく消えてくれたわね、あのバカ」
琴子の声から、先ほどまでの「幼馴染の温度」が完全に消えた。彼女はカバンの中から、大量の赤い呪符――幽がAmazonで買ったのとは訳が違う、血の匂いがする「真物」を取り出す。
「幽の前では大人しくしてあげたけど。……化け物。アンタ、今すぐここで消えなさい」
白夜は、幽の椅子に優雅に腰掛けたまま、窓の外の茜空を眺めていた。
彼女は一度も琴子を見ることなく、くすりと、鈴を転がすような声で笑った。
「あら。幽さまを守る『番犬』かと思っておりましたが、意外と血の気の多いことで。……東雲、と言いましたかしら。わたくしの前に立っていいのは、死ぬ覚悟ができた者だけですわよ?」
「黙れ、泥棒猫。……急!」
琴子の指が空を跳ねた。放たれた呪符が、生き物のように空中で折り畳まれ、八振りの「光の刃」へと姿を変える。
それらは一直線には飛ばなかった。
教室の四方に、見えない杭を打ち込みながら、白夜を包囲するように軌道を変えていく。
白夜の指先が、すっと動いた。
教室の風景が歪む。
刃は白夜に届く直前、空間ごと削り取られ、虚無へ吸い込まれて消えた。
だが――琴子は息を呑んだ。
白夜の足元の床が、一瞬だけ黒く軋んだからだ。
(……効いてる)
ほんのわずか。
それでも確かに、この教室に張った東雲流の結界が、白夜の力を乱している。
「あら」
白夜が初めて、少しだけ不快そうに目を細めた。
「今の術式……四百年ほど前に滅んだ『東雲流』の生き残りかしら。ふふ、私のご先祖様に対しても指一本にすら届かず全滅したはずですが……思ったより、鬱陶しいこと」
「――まだよっ!」
琴子はスカートを翻し、脚に隠していた聖銀の鎖を解き放った。机と椅子がガタガタと震え、白夜を包囲する檻へと組み替わっていく。
「幽くんは、アンタに渡さない。世界がどうなろうと、アンタだけは私が殺す!」
琴子の「執着」が、実体化した殺気となって白夜を襲う。
白夜は椅子から立ち上がった。その所作は優雅だったが、先ほどまでの余裕とは少し違う。
「……この世界では、あまり思ったようにいきませんわね」
低く漏らした声は、苛立ちを含んでいた。
「脆いくせに、妙なところで頑固ですこと」
白夜が指を掲げる。
その瞬間、琴子の視界から「色」が消えた。
足元から影が這い上がり、指先が、砂のようにパラパラと崩れ始める。
「な、に……これ……っ」
「世界を滅ぼす、というのはね。こういうことですのよ」
身体が重い。
動けない。
だが昨夜の街のように、一瞬で“完全に消える”わけではない。
琴子は、歯を食いしばった。
(……消し切れてない)
東雲流の結界が、教室という小さな箱の中で、白夜の術をわずかに食い止めている。
白夜の顔色が、ほんの少しだけ青白くなる。
額に汗が滲み、指先がわずかに震えた。
「本来なら、もっと綺麗に壊せますのに」
白夜が、静かに笑う。
「やはり現世というのは、不出来ですわ」
彼女が、琴子の喉元へ手を伸ばした、その時。
「――おーい! 待たせたな!」
ガラッ、と教室の扉が開いた。
その瞬間。
白夜が教室全体に広げていた“消去”の位相が、ぶれた。
幽を巻き込まないよう、無意識に外していた中心へ、本人がそのまま踏み込んできたのだ。
均衡が、崩れる。
パリン、と何かが割れるような音がした。
「……え?」
琴子が呆然と立ち尽くす。
崩れかけていた指先は元に戻り、教室を満たしていた死の気配も一気に霧散していく。
白夜は、小さく息をついた。
「……ふふ。ちょうど休憩したいと思っておりましたの」
白夜は、誰にも見えないように、自分の手を握りしめた。
口調とは違い、指先が――少し震えている。
◯
幽の目には、椅子に座って微笑む白夜と、その横で少し顔色の悪い琴子が立っている「普通の放課後」にしか見えていなかった。——そう“見せられて”いる。
「なんだ、琴子。そんな怖い顔して。……まあいいや」
幽は、照れ隠しに頭を掻きながら、白夜の前に立った。
「……白夜。その、約束だ。明日、土曜日だろ?案内してやるよ。デートっていうか、その……お前を惚れさせるための、お出かけだ!」
一瞬の沈黙。
琴子が、白夜の背後に隠された「見えない死の刃」が消えるのを、肌で感じて震えた。
間違いなく琴子には今、死神の鎌が首にかかっていたのだ。
しかし白夜は、何もなかったようにうっとりと幽を見つめ、花が綻ぶように微笑んだ。
「まあ。……嬉しい。幽さまにお誘いいただけるなんて、わたくし、光栄ですわ」
白夜は椅子から立ち上がると、幽の腕にそっと自分の腕を絡めた。そして、幽には聞こえないほどの、氷よりも冷たい声で琴子の耳元に囁く。
「……ふふ、命拾いしましたわね、退魔師さん」
琴子の背中に、生々しい悪寒が走る。
「今のうちに、彼に別れの挨拶でも済ませておくことですわ。……次、わたくしの邪魔をしたら。あなたのその綺麗な『首』を、わたくしの庭の飾りにさせていただきますもの」
白夜はそう言い残すと、幽に向かって「行きましょうか、幽さま」と、この世で最も愛らしい少女の顔で微笑んだ。
「お、おう! じゃあな琴子、また月曜!」
幽に引かれるようにして、白夜が教室を出ていく。
一人残された琴子は、ガタガタと震える自分の手を見つめ、膝から崩れ落ちた。
「……死神。あいつ……本物の、死神じゃないの……」
彼女は涙を浮かべながら、幽が出ていった扉をじっと見つめる。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの、どろりとした「狂気的な独占欲」が宿っていた。
「……渡さない。絶対に、幽くんは渡さない。……明日、デートなんて、させないんだから……」
琴子は、カバンの中から古びた、何重にも封印された禁忌の香りがする「最終兵器」を取り出したのだった。




