第1章『幼馴染は、死神を許さない』(前編)
朝が来た。
正確に言えば、夜が終わっただけで、月代幽は一睡もしていなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、やけに白く、やけに現実味を帯びて、六畳一間を照らしている。
壊れた3Dプリンタ。
焦げた樹脂の匂い。
床に散らばった黒い魔法陣の残骸。
そのすべてが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを証明していた。
幽は窓の外を見た。
向かいのアパートの六階。
カーテンの開いた部屋。
昨夜、石になっていた男の部屋だ。
男は、何事もなかったようにベランダへ出て、眠そうな顔で伸びをしていた。
生きている。
幽は、少しだけ息を吐いた。
だが、安堵は長く続かなかった。
胸の奥に、細い空洞のような感覚が残っている。
昨夜、白夜が男を戻した時、幽の中から何かが引き抜かれた。
寿命。
白夜は、それを“鍵”にしたと言った。
足りない分は自分の妖力で補った、とも。
けれど、幽にはまだ分からない。
自分の命が、どれくらい短くなったのか。
あの夜明けが遠ざかるような感覚が、どれほどの時間に相当するのか。
「……くそ」
幽は顔を洗い、制服に袖を通した。
部屋の奥を振り返る。
そこには、昨日と同じように、昨日まで存在しなかった少女がいた。
夜をそのまま仕立てたような黒いゴスロリ服。
雪みたいに白い肌。
赤い瞳。
そして、こちらの世界の朝日など自分には関係ないとでも言いたげな、優雅な微笑。
白夜は、瓦礫になった3Dプリンタの横で、どこから取り出したのか分からないティーセットから、紅茶を口に運んでいた。
「おはようございます、幽さま。随分とお疲れのご様子ですわね」
「そりゃそうだろ……誰のせいだと思ってるんだよ」
「まあ。わたくしのせいにされますの?」
「九割くらいはお前だよ」
「残り一割は?」
「俺の出力ミス」
「自覚がおありで安心しましたわ」
白夜はくすりと笑った。
幽は鞄を掴み、玄関の方へ向かいかけて、足を止めた。
「学校、行かなくちゃいけないんだ」
「学校」
白夜は、初めて聞く楽器の名前でも口にするように、その言葉を繰り返した。
「人間の子どもを、一ヶ所に集めて管理する場所でしたわね」
「言い方」
「間違っておりますの?」
「間違ってないけど、嫌な正しさだな」
白夜は楽しそうに目を細めた。
「それで、わたくしはどうすれば?」
幽は、すぐには答えられなかった。
置いていきたくはない。
昨夜、白夜は現れただけで向かいの男を石にした。
本人に悪意はなかった。
だからこそ、余計にまずい。
だが、連れていけるはずもない。
世界を壊すために生まれた妖怪姫を、学校に連れていく。
冷静に考えれば、退学どころでは済まない。
「……ここで、大人しく待っててくれ」
「大人しく?」
「ああ。絶対に何もするな。窓の外を石にするな。世界を壊すな。知らない人の寿命を勝手に使うな。俺の寿命も勝手に使うな」
「注文が多いですわね」
「お前相手だと、これでも足りないくらいだよ」
白夜は紅茶のカップを置き、少しだけ首を傾けた。
「ですが、幽さま」
「なんだよ」
「わたくしを惚れさせると、昨夜おっしゃいましたわよね?」
「……言った」
「そのわりに、朝から放置とは。人間の求愛というものは、随分と雑ですのね」
幽は言葉に詰まった。
たしかに、そう言われると弱い。
白夜を惚れさせなければ、世界は壊れる。
だが、学校へ行くから部屋で待っていろ、というのは、攻略どころか初手放置である。
「……帰ってきたら、何か考える」
「まあ。何か」
「悪かったな、無計画で」
「いいえ」
白夜は楽しげに笑った。
「その未完成ぶり、嫌いではありませんわ」
幽は、妙に胸がざわつくのを感じた。
怖い。
危険だ。
人間の命の重さも分かっていない。
それなのに、白夜が笑うと、ほんの一瞬だけ、ただの綺麗な少女に見えてしまう。
幽はその感覚を振り払うように、スマホを手に取った。
画面には、勝手におすすめ動画が表示されていた。
『加賀美サニーの朝メイク♡ 今日から“いちばん好きな自分”になれるよ』
銀色がかった髪の少女が、画面の中で完璧な笑顔を浮かべている。
幽は、なぜかその笑顔から目を離せなかった。
綺麗なのに、落ち着かない。
明るいのに、冷たい。
笑っているのに、こちらを覗き込まれているような気がする。
「……最近、よく流れてくるんだよな、この人」
白夜が背後から画面を覗き込んだ。
赤い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「あれは、鏡ではございませんわ」
「鏡?」
「覗いた者のほうが、映されておりますの」
「……どういう意味だよ」
「今は、お気になさらず」
白夜はそれだけ言うと、もう興味を失ったように紅茶へ視線を戻した。
スマホの画面が、ふっと暗くなる。
黒い画面には、寝不足で青白い幽の顔が映っていた。
幽はしばらくそれを見つめてから、スマホを鞄にしまった。
「とにかく、絶対に待ってろよ」
「ええ。善処いたしますわ」
「その言葉が一番信用できないんだよ……」
幽は深く息を吐いて、部屋を出た。
○
アパートの階段を降りたところで、背後から凄まじい勢いの足音が近づいてきた。
「月代!」
振り向くより先に、幽の口が柔らかい手で塞がれた。
「……っ!?」
「声出さないで。歩きながら聞きなさい」
耳元で、低く抑えた声がした。
東雲琴子だった。
幼馴染。
同じ学校に通う同級生。
普段なら朝からやたら元気で、幽の寝癖や顔色にいちいち口を出してくる少女。
だが、その朝の琴子は違った。
手が震えている。
目が赤い。
怒っているのに、泣きそうだった。
「昨日のあれ、何?」
琴子は幽の口を塞いだまま、通学路をずんずん進んでいく。
「アンタ、何を呼んだの? 私が……私が、どれだけ……っ」
途中で声が詰まった。
幽は、その反応で理解した。
琴子は知っている。
昨夜、幽の部屋に何かが現れたことを。
白夜が、普通の存在ではないことを。
登校中の生徒の姿が見えるたび、琴子は速度を落とし、いつもの顔を無理やり作った。
そして人目が切れると、また低い声に戻る。
「変なこと言わないで。今は、誰にも聞かれちゃいけない」
手が離れた瞬間、幽は小さく息を吸った。
「琴子……お前、昨日のこと」
「全部じゃない」
琴子は前を向いたまま言った。
「でも、見た。ものすごい“何か”が、幽くんの部屋に現れた。空気が、街ごとひっくり返るみたいに歪んで……近づこうとしたら、身体が動かなかった」
幽は、白夜が現れた瞬間の圧を思い出した。
琴子の言葉は、嘘ではない。
「……怖かった」
琴子は、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
「初めてよ。守れないかもしれないって、思ったの」
幽の胸が、嫌な音を立てた。
「守るって……」
「知らなくていい」
琴子は即答した。
その声には、踏み込ませない硬さがあった。
「知られたら、守れなくなることもあるの」
「なんだよ、それ」
「こっちの話」
琴子は立ち止まった。
電柱の影。
登校中の生徒の流れから、少しだけ外れた場所。
そこでようやく、琴子は幽を真正面から見た。
「幽くん。あれは何?」
幽は答えられなかった。
世界を壊す妖怪姫。
白夜。
六万五千五百三十六の妖を束ねる王の娘。
幽の首が必要で、世界を救うためには惚れさせなければならない存在。
そんなことを言えば、琴子がどう動くかは想像できた。
今の顔を見れば分かる。
琴子は白夜を殺しに行く。
「……ごめん。今は言えない」
空気が、すっと冷えた。
琴子はしばらく幽を見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
いつもの琴子の笑顔に似ていた。
だが、目が笑っていなかった。
「そ。言えないんだ」
「琴子」
「いいよ。無理に聞かない」
琴子は幽のネクタイを掴み、ぐっと顔を近づけた。
「その代わり、あれには近づかないで」
「……え?」
「昨日の“それ”。女の形をしてたでしょ」
幽の心臓が跳ねた。
「見たのか」
「見なくても分かる」
琴子は低く言った。
「あれはね、死神の類いよ」
死神。
その言葉は、白夜が名乗った「世界を壊す姫」よりも、妙に生々しかった。
「近くにいるだけで、運命が狂う。人が死ぬ。街が壊れる。そういうもの」
幽は昨夜の白夜を思い出した。
現れただけで、向かいの男を石にした少女。
人間の寿命を細かすぎて測れないと言った少女。
それでも、幽の頼みを聞いて男を戻した少女。
「だから」
琴子は、静かに言った。
「あれは、私が止める」
背筋が冷えた。
「何言って――」
「幽くんは、何も知らなくていい」
琴子は、いつもの幼馴染の声で笑った。
だが、その笑みはひどく薄かった。
「いつも通り学校行って、授業受けて、帰ってきなさい」
幽は、その時はまだ気づけなかった。
琴子の「守る」が、幽の知っている言葉とは少し違う形をしていることに。
○
教室に入ると、いつも通りの朝があった。
騒がしい声。
机を引く音。
誰かの笑い声。
黒板に残った昨日の落書き。
幽は席に着き、鞄を置いた。
その瞬間、背中に嫌な予感が走る。
白夜は、部屋で待つと言った。
正確には、善処すると言った。
幽は、頭を抱えたくなった。
ガラッ、と教室の前の扉が開く。
担任が入ってきた。
「はい、席につけー。朝のSHR始めるぞ」
いつもの気だるい声。
だが、次の瞬間、担任は不自然に首を傾けた。
「ええと……今日は転入生が一人いる。昨日連絡があったんだ……よな。なんか、よく覚えてないが」
幽の心臓が、落ちた。
「入ってきなさい。ビャクヤサンダ」
担任の声が、棒読みになった。
教室の扉が開く。
鈴の鳴るような声がした。
「失礼いたします」
白夜だった。
制服を、どこをどう改造したのか、ゴスロリ風に着こなしている。
異常なほど場違いなのに、異常なほど似合っていた。
白夜は教室の前に立ち、穏やかに微笑んだ。
「皆さま、初めまして。白夜と申します」
ただ、それだけ。
だが、教室の空気が変わった。
疑問が生まれる前に、溶けていく。
不自然さが、不自然でなくなっていく。
まるで、白夜が最初からこの学校にいることを、世界の方が思い出したようだった。
幽には、それがおかしいと分かった。
何も起きていない。
だが、何も起きていないことそのものが、幽にはおかしかった。
「美人……」
「映画の人みたい」
「え、制服かわいくない?」
教室がざわめく。
白夜は幽を見つけると、ほんの一瞬だけ、唇の端を上げた。
善処。
幽は、その言葉の意味を理解した。
彼女なりには、善処したのだ。
世界を壊さずに、学校へ来ただけ。
最悪だった。
横を見る。
……琴子が白夜を見ていた。
顔色が悪い。
笑おうとして、失敗している。
その指先は、机の下で何かを握りしめていた。
幽は声をかけようとした。
だが、その前に、琴子の目が変わった。
怒り。
恐怖。
そして、それらを塗りつぶすような殺意。
幽は、初めて見る幼馴染の顔に息を呑んだ。
○
昼休みの学食は、いつも通り騒がしかった。
唐揚げ定食の列に並ぶ生徒。
カレーを片手に友人を探す男子。
箸を落として笑う女子。
日常が、何事もなかったかのように流れている。
白夜はトレーを前に、興味深そうに周囲を眺めていた。
「まあ……人間というのは、こんなにも密集して栄養を摂取するのですね」
「普通だよ、普通」
「普通」
白夜は、その言葉を転がすように口にした。
カレーを一口食べる。
そして、満足げに目を細めた。
「悪くありませんわ。生き物の命の味がします」
「嫌な言い方で感想言うなよ」
幽はそう突っ込みながらも、白夜の横顔を見た。
綺麗だと思ってしまう。
そう思った自分に、少し腹が立つ。
昨夜、この少女は人を石にした。
戻すために、幽の寿命を鍵として使った。
それを、まるで紅茶に砂糖を入れるくらいの感覚で語った。
幽は、スプーンを置いた。
「なあ、白夜」
「あら。なんですの?」
「昨日のこと、もう一回確認したい」
白夜の赤い瞳が、幽を見る。
「向かいの男の人を戻す時、俺の寿命を鍵にしたって言ったよな」
「ええ」
「どれくらい持っていかれた」
「人間の単位では測っておりませんわ」
「測れ」
「無茶をおっしゃいますわね」
白夜は、悪びれもせず微笑んだ。
「人間の命は、あまりに短く、細かいのですもの。けれど、ご安心なさいませ。丸ごと二十年などではございません。あなたの寿命は、あくまで術式を通すための鍵。足りない分は、わたくしの妖力で補いましたわ」
「安心できる説明じゃない」
幽の声は、自分でも驚くほど低かった。
「今後は、勝手に使うな」
「まあ。幽さまがお命じになるのですか?」
「頼んでる」
幽は、白夜の目をまっすぐ見た。
「俺のでも、誰かのでも、人の寿命を軽く扱うな」
白夜は、少しだけ黙った。
学食の騒がしさが、遠くなったような気がした。
「……不思議ですわね」
白夜は小さく笑った。
「あなたは昨日、自分の寿命を差し出したではありませんか」
「あれは、俺が決めたことだ」
「同じことでは?」
「違う」
幽は即答した。
「勝手に使われるのと、自分で決めるのは違う」
白夜は、幽をじっと見ていた。
その表情からは、怒りも反省も読み取れない。
ただ、未知のものを観察しているようだった。
「……人間は、本当に面倒ですわね」
「そうだよ。面倒なんだよ」
「ですが」
白夜はカレーをもう一口食べた。
「嫌いではありませんわ」
幽は返事に困った。
その時、視線を感じた。
少し離れた席。
琴子が、食事もせずにこちらを見ていた。
いや、見ていたのは幽ではない。
白夜だ。
その顔は、今朝よりもさらに青白かった。
幽は、琴子に聞かれたことを悟った。
寿命。
鍵。
白夜。
幽。
必要な言葉は、すべて彼女に届いてしまっていた。
琴子の手が、机の下で震えている。
その震えは恐怖だけではなかった。
「幽さま」
白夜が、何事もなかったように言った。
「この学校、やはりとても壊れやすいですわね」
「……触るなよ」
「人も、空気も、規則も。少し触れれば、簡単に形を変えてしまう」
「だから、触るなって言ってるだろ」
「ふふ。善処いたしますわ」
その言葉が、朝よりもずっと信用ならなく聞こえた。
そして。
少し離れた席で、琴子だけが笑っていなかった。
机の下で握りしめられた赤い呪符が、血を吸ったように濃く濡れていく。
幽は、それに気づかなかった。
白夜は、気づいていた。
それでも、何も言わなかった。
琴子の瞳に、幽の知らない光が宿る。
――殺す。
その言葉は声にはならなかった。
けれど、放課後の教室で何が起こるのかは、この時すでに決まっていた。




