プロローグ:『積層された地獄』
向かいのアパートの男が、石になっていた。
窓の向こう。
カーテンの開いた六階の部屋で、安っぽい部屋着姿の男が、スマホを片手に固まっている。
比喩ではない。
灰色の肌。
乾いた瞳。
驚きに開いた口。
冷蔵庫の前で振り返った姿勢のまま、その男は、完全な石像になっていた。
「……は?」
月代幽は、自分の部屋の窓際で、間抜けな声を漏らした。
夜だった。
風はない。
街の音も、ない。
さっきまで聞こえていた車の走行音も、どこかの部屋のテレビの音も、コンビニ袋を抱えた大学生の笑い声も、全部消えていた。
世界が、息を止めている。
その沈黙の中心に、少女がいた。
幽の六畳一間。
安物の3Dプリンタ。
焦げた樹脂の匂い。
床に散らばった黒い魔法陣の残骸。
その上に、彼女は裸足で立っていた。
夜を縫い固めたような黒髪。
雪みたいに白い肌。
赤い瞳。
そして、世界を壊すことなど息をするより簡単だとでも言いたげな、傲慢な微笑。
少女は幽を見ていた。
いや。
違う。
幽の目ではない。
顔でもない。
彼女の視線は、まっすぐ幽の喉元に吸い寄せられていた。
「まあ」
少女は、うっとりと息を吐いた。
「なんて美しい首」
「第一声それ!?」
幽は叫んだ。
叫んでから、向かいのアパートの石像をもう一度見た。
やっぱり石だった。
そのさらに奥の道路では、走行中だったはずのタクシーが、青白いライトを点けたまま静止している。
空には月。
部屋には妖怪じみた少女。
向かいには石化した男。
そして机の上には、まだ熱を持った3Dプリンタの造形台。
幽は両手で頭を抱えた。
「待て。待て待て待て。状況を整理させろ」
「整理?」
少女が首を傾げる。
「必要ございまして?」
「あるに決まってるだろ! 俺の部屋に知らない美少女が出現して、向かいの男が石になって、しかも第一声が首の感想なんだぞ! 整理しないと脳が死ぬ!」
「美少女」
少女は、その言葉だけを拾った。
「見る目はあるようですわね」
「そこじゃない!」
話は、二十七分前に戻る。
その時、月代幽はまだ、向かいの男が石になることも、自分の部屋に世界を壊す妖怪姫が降ってくることも知らなかった。
知っていたのは一つだけ。
今夜は、いつもよりまずい。
窓の外に、何かがいた。
人ではない。
顔もない。
ただ、黒い。
黒いものが、ベランダの手すりの向こうに立っている。
幽がカーテンの隙間から覗くと、それは少しだけ首を傾けた。
いや、首なんてなかった。
でも、確かにこちらを見た。
「……来るなよ」
幽は机に向き直った。
手が震えている。
マウスカーソルが、画面の上で小さく跳ねた。
ノートパソコンには、立体魔法陣のデータが表示されていた。
円。
星形。
護符から写した文字。
ネットで拾った出典不明の呪文。
そして、中学時代の幽が書いた、今すぐ燃やしたい黒歴史ノートの断片。
それらを無理やり積み重ね、3Dプリンタで出力できる形にしたもの。
名づけて、積層型立体魔法陣。
自分で名づけておいて、死ぬほど恥ずかしい。
でも、これしかなかった。
月代幽に、霊感はない。
祓えない。
戦えない。
呪文も効かない。
護符の貼り方だって、たぶん半分くらい間違っている。
ただ、向こうが幽を見つける。
天井の隅から垂れる黒い影。
押し入れの隙間に増える目。
夜道の電柱の陰に立つ、足首だけの何か。
それらはいつも、幽を見ていた。
見えているのではない。
見られている。
その違いだけは、嫌になるほど分かっていた。
だから、朝が好きだった。
夜明け前の空が、少しずつ青くなる時間。
そこに、一つだけやけに明るい星が浮かんでいる。
その星を見るたびに、幽は思った。
今日も死なずに済んだ。
あの星みたいに、暗い場所で一人でも光っていられたら。
そんなことを、本気で思っていた時期がある。
いや。
今でも、少し思っている。
「……第256回、出力開始」
幽はクリックした。
部屋の隅で、安物の3Dプリンタが唸り始める。
黒い樹脂が、造形台の上に吐き出される。
一層。
二層。
三層。
細い線が、円を作る。
円が星を抱く。
星が文字を噛む。
失敗は、もう255回積み上がっていた。
棚には、歪んだ魔法陣の残骸が並んでいる。
ただのゴミ。
そう言われれば、それまでだ。
でも幽には、それが朝まで生き延びた記録に見えた。
その時だった。
テレビが、勝手についた。
『――急速に成長を続けるデジタル・モンスター社の代表、朱知圭氏は本日の会見で――』
「……またこいつか」
画面の中で、若い男が笑っていた。
朱知圭。
最近、どのニュースにも出てくる男だ。
教育、行政、医療、交通、通信。
全部を接続する。
全部を最適化する。
世界をもっと正しく、もっと便利に、もっと無駄なくする。
そう語る朱知の笑顔は、清潔で、穏やかで、完璧だった。
だからこそ、幽は呟いた。
「胡散臭いな……」
直後。
画面が乱れた。
砂嵐。
ノイズ。
朱知圭の笑顔が、上下に裂ける。
そして一瞬だけ、青白い文字が浮かんだ。
「……NO USER」
背後で、窓ガラスが鳴った。
こつん。
こつん。
誰かが、外から叩いている。
ここは六階だ。
「……嘘だろ」
押し入れの隙間が、内側から開く。
天井の隅から、黒い雫が落ちる。
床に触れたそれが、蜘蛛のように脚を伸ばした。
「まずい、まずいまずいまずい……!」
幽は3Dプリンタに目を向けた。
ノズルが震えている。
造形台の上の魔法陣が、熱を持っていた。
黒い樹脂の表面に、朱色の文字が浮かび上がっている。
幽は見覚えがあった。
深淵なる明星。
偽りの理。
真の積層。
選ばれし魂。
「やめろ!」
幽は叫んだ。
「俺の黒歴史を勝手に発光させるな!」
遅かった。
魔法陣は、完成した。
いや。
完成ではない。
溢れた。
造形台から、黒い線が浮かび上がる。
空中に、円が重なる。
星が回る。
文字がほどける。
部屋の壁が、内側から赤く染まった。
窓の外にいた黒いものが、はっきりと後ずさった。
押し入れの目が、潰れる。
天井の影が、悲鳴もなく蒸発する。
幽は椅子ごと後ろへ倒れた。
空中に、人の形が現れていた。
長い黒髪。
白い肌。
赤い瞳。
そして、夜そのものを従えるような笑み。
少女は、ゆっくりと床へ降り立った。
裸足の足が畳に触れる。
その瞬間、世界が止まった。
ここで時間は、冒頭へ戻る。
「わたくしは白夜」
少女は、扇子を広げた。
扇面に、無数の妖怪の影が蠢いている。
「六万五千五百三十六の妖を束ねる、妖怪王の姫にして――」
赤い瞳が、幽の首を見つめる。
「この世界を壊すために生まれた者ですわ」
向かいのアパートの男は、まだ石のままだった。
幽の部屋には、焦げた樹脂の匂いが満ちている。
テレビ画面には、砂嵐の奥で、朱知圭の笑顔が一瞬だけ残っていた。
幽は、唾を飲み込んだ。
「……世界を壊すって、比喩?」
「いいえ」
白夜は微笑んだ。
「そのままの意味ですわ」
「帰ってくれ」
「無理ですわね。あなたが呼びましたもの」
「呼んでない! 俺は守護霊的なやつを呼ぼうとしてただけで、世界滅亡担当の姫を召喚した覚えはない!」
「出力ミスでは?」
「否定できないのがつらい!」
白夜はくすりと笑った。
その笑顔だけなら、普通の少女に見えた。
その背後で、向かいの男が石のままなのを除けば。
「戻せるのか」
幽は言った。
「向こうの人」
「戻せますわ」
白夜は軽く答えた。
「ただし、代償は必要です」
「代償?」
「わたくしの寿命と、どこかの誰かの寿命を、少々」
幽の喉が詰まる。
「……少々って」
「この程度なら二十年ほどで足りましょう」
「二十年は少々じゃねえ!」
白夜は不思議そうに首を傾げた。
本気で分かっていない。
幽はその顔を見て、理解した。
この少女は、人間ではない。
会話はできる。
笑う。
からかう。
美しい。
でも、命の重さが違う。
幽は向かいの石像を見た。
灰色の男は、窓の向こうで凍ったままだ。
「戻してくれ」
「あら。命令ですの?」
「頼んでる。その代わり――俺のを使え」
「何をですの?」
「俺の寿命だ」
白夜の赤い瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
なぜか、意外そうに。
「……あなた、自分が何を差し出しているか、分かっておりますの?」
「分かってるかどうかは知らない。でも」
幽は、窓の向こうの石像を見た。
冷蔵庫の前で固まったままの男。
たぶん、名前も知らない。
明日すれ違っても、きっと顔も分からない。
それでも。
「全然知らない人の寿命を勝手に使うよりは、マシだろ」
白夜は、しばらく幽を見つめていた。
やがて、心底楽しそうに笑った。
「ふふふっ……本当に、妙な方ですわね」
白夜が指を伸ばす。
夜のような影が、窓の外へ滑っていった。
向かいの部屋の石像に触れる。
灰色だった肌に、少しずつ血の色が戻る。
その瞬間、幽の胸の奥で、何かが細く引き抜かれた。
「……っ」
息が詰まる。
心臓が、一拍だけ遅れる。
たった一瞬なのに、夜明けが遠ざかったような気がした。
男は、その場に崩れ落ちた。
スマホが床に落ちる。
生きている。
幽は、肺の奥に溜まっていた息を吐いた。
「今ので……どれくらい持っていかれた?」
「さあ」
白夜は、扇子で口元を隠した。
「人間の寿命など、わたくしには細かすぎて測れませんわ」
「怖いことをさらっと言うな!」
「ですが、安心なさいませ。丸ごと二十年などではございません。今回は、あなたの寿命を“鍵”にして、足りない分はわたくしの妖力で補いましたの」
「それ、安心していいやつか?」
「少なくとも、今すぐ死にはしませんわ」
「最低ラインが低すぎる!」
白夜は笑った。
けれど、扇子を持つ指先が、ほんのわずかに止まっていた。
幽から抜き取った寿命の熱が、まだそこに残っている。
人間の命など、夜露より軽い。
そのはずなのに。
「なぜかしらね?」
白夜はまた、楽しそうにころころと笑った。
完璧な笑顔だった。
完璧すぎて、嘘に見えた。
「それで、幽さま」
「なんで名前知ってんだよ」
「あなたが呼びましたもの。名も、恐怖も、願いも、恥ずかしい文言も、全部この魔法陣に積まれておりましたわ」
「恥ずかしい文言って言うな!」
死にたい。
だが、今は死んでいる場合ではない。
白夜は、幽の首に指を近づけた。
「あなたの首は、ただ美しいだけではございません」
「また首か」
「世界の形を測るための、特別な座標を持っております」
「急に設定が重い!」
「ですから、わたくしはあなたの首が必要です」
「断る」
「即答ですのね」
「あたり前だろ。世界を壊すのに俺の首が必要です、はいどうぞ、ってなる人類はいない」
白夜は、楽しげに目を細めた。
「では、もう一つの方法を教えて差し上げますわ」
「嫌な予感しかしない」
「わたくしを、惚れさせなさい」
沈黙。
幽は、石から戻った向かいの男を見た。
焦げた3Dプリンタを見た。
世界を壊す妖怪姫を見た。
最後に、自分の首を押さえた。
「……今なんて?」
「わたくしを本気で惚れさせるのです。妖怪王の姫であるわたくしが、人間に心を奪われれば、世界を壊す資格を失います」
「首を渡すか、口説くかの二択なの?」
「簡潔でよろしいでしょう?」
「最悪の恋愛ゲームかよ!」
白夜は笑った。
危険で、傲慢で、でも少しだけ楽しそうに。
幽は思った。
怖い。
無理だ。
意味が分からない。
逃げたい。
けれど、向かいの男は生きていた。
白夜は戻した。
寿命を代償にして。
世界を壊すと言いながら。
人間の命の重さを知らない顔で。
それでも、今この瞬間、彼女は一人を戻した。
幽は、震える拳を握った。
朝が来ることだけを祈っていた自分には、もう戻りたくなかった。
「分かった」
白夜の目が、少しだけ丸くなる。
「分かった、とは?」
「やってやるよ」
声は震えていた。
でも、出た。
「お前を惚れさせてやる」
白夜は、幽をじっと見つめた。
それから、扇子で口元を隠す。
「まあ」
赤い瞳が、嬉しそうに細められる。
「それはそれは」
世界を壊す妖怪姫は、夜よりも深く笑った。
「退屈しなさそうですわね、幽さま」
こうして、月代幽の六畳一間に、世界を壊す妖怪姫が居座ることになった。
そして翌朝。
幽は幼馴染に、その妖怪姫を「死神」と呼ばれ、全力で殺されかけることになる。




