プロローグ:『積層された地獄』
――また、来た。
月代幽が、参考書から顔を上げた瞬間、天井の隅から「それ」が滴り落ちてきた。
……いや、正確には「参考書」ではなく、つけっぱなしのテレビから流れる経済ニュースから、目を離した瞬間、だった。
『――次世代インフラを統括する新進気鋭のIT企業、デジタル・モンスター社の朱知圭CEOが、本日――』
画面に映る、爽やかな笑顔の青年。整った顔立ち、自信に満ちた眼差し。まるで未来を掴んでいるような、輝かしい姿。
「胡散臭いな……」
だが、幽がそれ以上見る暇はなかった。
湿ったシミのような「影」が、重力を無視して、ゆっくりと、確実に、幽の首元を狙って落ちてくる。
「――っ!」
反射的に、首元の護符――Amazonで三枚セット二九八〇円(税込)だった「本物」だと謳う怪しい代物――を握りしめ、床を転がる。
ドチャッ。
生肉を叩きつけたような音が、六畳一間の部屋に響いた。幽がさっきまで座っていた椅子が、ドロドロの粘液で侵食され、白煙を上げて溶けていく。
「……七回目、か」
声が震える。
今月だけで、七回。
死に片足を突っ込んだ回数が、七回。
普通の高校生が送る生活じゃない。
幽には、魔力なんてない。
霊感も、ない。
オカルト研究は趣味でやってるだけで、本当に「見える」わけじゃなかった。
なのに。
得体のしれない化け物たちは、毎晩のように幽を狙ってくる。
理由はわからない。
わかるのは、「狙われている」という事実だけ。
「……もう、限界だ」
幽は、床に散らばった魔除けの護符を見つめた。
どれも効かなかった。
Amazonで買った安物も、怪しげな霊能者から買った高額なものも、全部。
――頼れる大人はいない。
高校生の一人暮らし。
事情があって、実家には戻れない。
友達にも、先生にも、こんな話は信じてもらえない。
つけっぱなしのテレビからは、相変わらず経済ニュースが流れている。
『朱知圭CEO率いるデジタル・モンスター社は、全国の公共インフラのデジタル化を推進し――』
画面の中の青年は、華やかなスタジオで、笑っていない目をしたまま笑っている。
表舞台で、堂々と。
「……いいよな。あんな風に、表舞台で活躍できる奴は」
幽は、誰もいない六畳一間を見回した。
安いフローリング。
壁の染み。
一口コンロのキッチン。
高校生が一人で住むには、あまりにも狭く、あまりにも寂しい部屋。
「……俺は、一人だ。誰も助けてくれない」
そして、気づいた。
――このままじゃ、いつか死ぬ。
それは、確信だった。
◯
守れない。
逃げられない。
頼れない。
なら――。
「……怪異を、飼えばいい」
幽は、部屋の隅で唸りを上げる「3Dプリンタ」を見つめた。
馬鹿げた発想だ。
でも、それしかなかった。
怪異に勝つためには、「怪異に勝てる怪異」を召喚する。
守護霊、使い魔、式神――呼び方は何でもいい。
とにかく、自分を守ってくれる「何か」が必要だった。
二次元の魔法陣では足りない。
紙に書いた円では、守れない。
ならば――三次元に、高密度に、呪いを「積層」すればいい。
3Dプリンタが、静かな夜に駆動音を響かせる。
樹脂の焦げる、嫌な臭い。
画面には、幽が半年かけて作り上げた「積層型立体魔法陣」の進捗が表示されている。
255回。
失敗した回数だ。
魔法陣の形を変え、素材を変え、出力の精度を上げ――それでも、何も起きなかった。
「……頼む。256回目こそ」
奇しくもデジタルが扱える極限の階調。
最後の一層が、プリントされる。
画面に「完了」の文字が表示された、その瞬間――。
「――溢れた」
その言葉が、幽の口から漏れた。
パキィン!!
3Dプリンタの筐体が、内側から爆ぜた。
飛び散るのは樹脂ではない。
沈丁花の、あまりにも高貴で、鼻をつくほどに濃密な香り。
そして――漆黒の「虚無」。
幽は、息を呑んだ。
部屋の温度が、急激に下がる。
窓の外の街灯が、一斉に明滅する。
空気が、きしり、と音を立てて歪んでいく。
そして、その中心に――彼女はいた。
幾重にも重なるフリル。
夜の闇を織り上げたような、漆黒のゴスロリドレス。
月明かりを吸い込むほどに白い肌。
少女が、瓦礫と化した3Dプリンタの上に、おしとやかに腰を下ろしていた。
「あら、あら……」
鈴の鳴るような、透き通った声。
貴族令嬢を彷彿とさせる、穏やかで、しかし一切の感情の揺らぎを感じさせない微笑。
幽は、声が出なかった。
美しい、なんてものじゃない。これは――「格」が違う。
人間と、同じ次元の存在じゃない。
「随分と、不細工で愛おしい檻で、わたくしを招いてくださったのですね」
「……成功、したのか?」
幽は、震える声で問いかけた。
「お前が、俺の『使い魔』か?」
少女は、ふふ、と上品に口元を隠して笑った。
「使い魔? 面白いことをおっしゃるのですねえ」
彼女は立ち上がり、優雅に一礼する。
「わたくし、白夜と申します。六万五千五百三十六の妖怪を束ねる、妖怪王の姫ですわ。お見知り置きを」
――六万五千、五百三十六。
その数字の重みに、幽の背筋が凍った。
「……魔法陣で呼ばれたのではなく、ただ――」
白夜が、幽を見つめる。その瞳は、深い深い闇を湛えていた。
「――あなたのその『首』があまりに美味しそうだったので、自らこちらへ這い出てまいりましたの」
パチン、と彼女が指先を鳴らす。
瞬間、幽が半年かけて作り上げた積層型立体魔法陣が、青い炎に包まれ、一瞬で灰へと変わった。
唯一の希望が、彼女の「退屈しのぎ」にすらならなかった。
◯
「俺の『首』? どういう――」
幽は、反射的に自分の首筋に手を当てた。
「あら、そちらではございませんわよ?」
白夜が、幽の手を優しく退ける。
そして、その白い指先で――幽の「顔」を、ゆっくりとなぞった。
額から、眉間。
鼻筋を通って、唇。
顎のラインから、そして首へ。
「ふふ……完璧ですわ」
白夜の瞳が、恍惚とした光を帯びる。
「この『比率』。この『均整』。……ああ、素晴らしい」
彼女の指先が、幽の喉元で止まる。
「本当は一刻も早く、この美しい『首』を刈り取って、わたくしのコレクションに加えたいのですが」
「ちょ、待て! 刈り取るって、まさか――」
「ええ、『首級』ですわ」
白夜が、さらりと言い放つ。
「『顔』では軽すぎますもの。わたくしたちにとって、価値があるのは――『首』から上、全てですの」
幽の背筋に、氷のような悪寒が走った。
自分の「首」を蕩けるような視線で見つめる美女。ここまで戦慄を感じたことは、初めてだった。
「さて、そんなことより他にやらねばならないことがございますの」
「なんだそれは? お前は何をしに来たって言うんだ!」
「『お前』……?」
白夜が、少しだけ目を細める。
「故郷ではわたくしをそう呼べるのは、父上だけでしたわね」
「い、いいだろ別に。それで、何をする気なんだよ!」
「わたくしの故郷の掟ですわ」
白夜は、明日の天気を語るような軽やかさで、告げた。
「十六歳の誕生日までに、こちらの世界をすべて『お掃除』……いえ、滅ぼさなくてはなりませんの。しきたりですから、仕方ありませんわね?」
世界滅亡。
その言葉が、幽の頭の中で何度も反響した。
◯
「ふざけるな!」
幽が叫ぶ。
「世界を滅ぼされたら、俺が生き残る意味なんてないじゃないか! なんのために俺は魔法陣を描いてきたっていうんだよ!」
半年間。
一人で。
誰にも頼れず、誰にも助けてもらえず。
それでも必死に、生き延びるために足掻いてきた。
それが全部、無駄になる。
「それを回避する方法は……ないのか?」
白夜は首をかしげ、幽の「首」を、うっとりと見つめた。
「あらあら、そんなに必死になって……。可哀想に」
彼女は、幽の鼻先まで顔を近づける。
冷たい。生きている人間の温度じゃない。
「……そうですね、一つだけ、わたくしの気が変わる方法があるとするならば」
「方法が、あるのか!?」
「ええ」
白夜が、微笑む。
「わたくしが、あなたのことを『好き』になってしまえば――」
白夜が、初めて真剣な顔をする。
「――掟を破る理由になりますわ。わたくしの父、妖怪王に逆らってでも、あなたを……いえ、この世界を守る理由になりますの」
「本当に、そんなことできるのか?」
「ええ。ただし――」
白夜が、幽の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「――わたくしが本気で惚れた場合に限りますわ。生半可な好意では、掟は破れません。……わたくしの心の底から、あなたを『愛する』と思えた時だけ」
幽の背筋に、冷たいものが走る。
「だから、頑張ってくださいな、幽さま。わたくしを――本気で、『惚れさせて』みてくださいまし」
白夜が、楽しそうに笑う。
「……あ、言い忘れておりましたわ。幽さま、それと」
白夜が、不意に窓の外を指さす。
「わたくしがここにいるだけで、周囲の理が壊れてしまいますの」
幽は、窓の外を見た。
そして――凍りついた。
◯
「……嘘、だろ」
隣の家の窓から見えるのは、いつもゲームをしている同級生の後ろ姿のはずだった。
でも、そこにあったのは――「石像」だった。
いや、石像じゃない。
人間が、そのまま石になっている。
ゲームのコントローラーを握ったまま。
画面を見つめたまま。
生きていた瞬間の姿のまま、灰色の石へと変わり果てている。
「……あいつ、昨日の朝、挨拶してくれたのに」
幽の声が震える。
一人暮らしの幽にとって、隣人との他愛もない挨拶は、数少ない「普通」だった。それが、今――。
「……今のところ、半径100メートルほどですわ。時間が経てば、この街全体が――いえ、もっと広がるかもしれませんわね」
幽は窓の外を見た。
隣の家だけでなく、通りを歩いていた人々も、車も、全てが石になっている。
「お急ぎにならないと、明日にはこの街の『地図』が変わってしまっているかもしれませんわよ?」
白夜が、楽しそうに微笑む。
「……待て」
幽の拳が、震えた。
「元に、戻せ。……その、隣の奴を、元に戻してくれ!!」
白夜は小首をかしげ、不思議そうに微笑んだ。
「あら、どうして? 壊れた玩具を直すことに、何の意味がございますの? 幽さま。放っておけば、すぐに塵となって風に溶けますわ。それがこちらの世界の『寿命』というものですもの」
「うるさい!」
幽が叫ぶ。
「俺のせいで、俺がお前を呼んだせいで、あいつがそんな……石になるのは、耐えられないんだよ!」
幽が縋るように白夜の細い肩を掴むと、彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、獲物を見定めるような、深い、深い悦びに満ちた笑みを浮かべる。
「ふふ、ふふふ……。面白い方」
白夜は、幽の頬に手を添える。
「……よろしいですわ。わたくしを『惚れさせる』と仰るのならば、そのくらいの我が儘、聞いて差し上げましょう」
白夜が、虚空を指先でなぞる。
その瞬間――白夜の顔色が、ほんの少しだけ青白くなった。
「……っ」
白夜が、一瞬だけ息を呑む。
幽には見えなかったが、彼女の指先が微かに震えていた。
窓の外の「石像」に、ヒビが走る。
パキパキ、と音を立てて、灰色の表面が剥がれ落ちていく。
数秒後。
隣の同級生は、何事もなかったかのようにゲームを続けていた。
「……ふう」
白夜が、小さく息をつく。
「"直して"差し上げましたわ」
白夜が満足げに微笑むが、その額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「……ただし、完全とは申しませんわよ? わたくしの力で『戻した』ものは、必ず何かが欠けますの。……そして、わたくし自身も、少しばかり代償を支払いますわ」
「代償?」
「ええ。この世界で力を使うたびに、わたくしの本来の力が削られていきますの。……ですから、あまり多用はできませんわね?」
白夜の指先が、幽の頬をやさしく撫でる。
「……さあ、幽さま、おっしゃってくださいな。このわたくしに”代償”を払わせた今、わたくしをどうしてくださるの?」
自分が召喚んでしまったのだ。この、現世を喰らおうとする化物を。
そして、自分の首をも狩ろうとしている。
迷っている時間は、ない。
……幽は奥歯を噛み締め、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて、吼えた。
「――やってやるよ! 惚れさせてやる!」
声が、震える。でも、引けない。
「世界も、俺の日常も、隣のあいつの命も、全部守るために……お前を、俺にメロメロにさせてやるよ!」
「まあ……」
白夜が、心底楽しそうに微笑んだ。
「楽しみにしておりますわ、幽さま」
白夜が満足げに微笑んだ瞬間、部屋の明かりがパッと消えた。
闇の世界から現れた「妖怪姫」は、漆黒の闇の中で静かにかつ、不穏に微笑んでいた。




