第5章:『再起動(リブート)/あるいはヒロインの生成条件』
深夜の激闘が嘘のように、学校から自宅までの帰り道には穏やかな朝日が満ちていた。
だが、幽の隣を歩く幼馴染――東雲琴子の横顔に「穏やかさ」の欠片もない。
「……ねえ、幽くん。さっきから隣で『ふふふ』って鼻歌歌ってる死神、どうにかしてくれない?」
「あら。番犬さん、朝から随分と血圧が高いですわね。寝不足は美容に障りますわよ?」
「誰のせいだと思ってんのよ! ……というか、アンタ。いつまで幽くんの腕に抱きついてるわけ!?」
白夜は、幽の右腕を自分の柔らかな胸元に抱え込んだまま、涼しい顔で首を傾げる。
「あら、これはわたくしの『所有権』の行使ですわ。命を削って傷を直して差し上げたのですもの。これくらいの利子は当然でしょう?」
「利子じゃなくてただの職権乱用でしょおおおッ!」
二人の怒号と嘲笑の板挟みになりながら、幽はようやく自分のアパートに辿り着いた。
○
六畳一間の幽の部屋に、三人がなだれ込む。
琴子は部屋に入った瞬間、ピタリと動きを止め、部屋中を値踏みするように見渡した。
「……ここ、だったのね。幽くんが夜な夜な変なオカルト設定を積層させて、一人で金星に想いを馳せてた『聖域(笑)』は」
「その(笑)を外してくれ。……まあ、狭いだろ。適当に座ってくれよ」
琴子は、足元に散らばる怪しげな魔導書の写しや、3Dプリンタの失敗作、Amazonで買った安物の呪符を複雑な表情で見つめていた。
「……思ったより狭いし、散らかってるし。……でも、アンタ、ここでずっと一人で戦ってたんだ」
彼女の瞳に、少しだけ柔らかな色が混ざる。
だが、その感慨を、白夜が優雅な動作で踏みにじった。
「あら。番犬さん、そこに立っていると邪魔ですわよ? お茶を淹れますから、どいていただけます?」
白夜は、さも自分の家であるかのようにキッチンへ向かい、慣れた手つきで幽のマグカップを取り出した。
「幽さま。今日は少し、茶葉を多めにして差し上げますわね」
「あ、ああ、悪い……」
「ちょっと待てぇぇぇ! なんでアンタが長年連れ添った糟糠の妻みたいな顔してんのよ! 幽くん、この女、完全に居座る気よ!」
「居座るも何も、わたくしはこの部屋で『生まれて』、この部屋で幽さまと暮らしているんですのよ?」
「一緒に暮らしてるうううううう!? ……ってそういえばこの女他に行くとこないわよね」
「ふふ、おわかりになればよろしくってよ?」
「やっぱりムカつくわアンタあああああ!」
○
部屋の中のボルテージが臨界点に達しようとした時、幽はふと、ポケットの中にある重みを思い出した。
戦闘の末に回収した、白銀の樹脂――銀嶺の論理核だ。
そうだ。……こいつも、ここで生まれたんだよな。
幽は、深い考えもなく、戦闘の末に回収した白銀の樹脂――銀嶺の論理核を、瓦礫になった3Dプリンタのトレイの上に置いた。
その瞬間だった。
死んでいたはずのプリンタが、断末魔みたいな駆動音を立てて激しく震え出した。
「え、ちょっ……再起動!?」
砕けた筐体の隙間から青白い光が漏れ、ノズルのないはずのヘッドが勝手に往復する。 空中に、論理回路めいた幾何学模様が不安定に積層されていった。
昨夜、眼前で起こった奇跡――そう、「受肉」が、もう一度始まっている。
「幽さま、離れて」
白夜が幽の肩を軽く引く。
「論理核が、自分の残骸を使って再起動を試みておりますわ。……もっとも、まともな出力は望めそうにありませんけれど」
「はああ? またあの偽物の魔力の残りカスが動いてるってこと!?」
琴子が朱音に手をかける。
「ふふ、それならそれでまた壊せばよろしいだけですわ」
だが、出力される少女の姿は、ついさっきまでの“完璧な銀嶺”とは明らかに違っていた。
「……リソース不足。演算精度、著しく低下。身体構築プロセス、簡略化。……被服生成プロセス……スキップします」
光が収まる。
トレイの上に立っていたのは、生まれたままの姿の銀嶺だった。
銀の髪。白い肌。幽と同じ顔。
けれど、あの冷徹で完成された美しさではない。
まだ各部の同期が取れていないのか、立ち方すらほんの少しぎこちない。
視線のピントも、わずかに遅れて合う。
「ひぎゃああああああああああああああああ!!」
幽は反射的に壁へ向かって反転し、両手で目を覆った。
「ちょ、ちょっと待て待て待て! なんで服がないんだよ服が!」
「被服生成に必要な演算領域を、身体構築へ優先配分しました」
銀嶺は無機質に答える。
「現在の私は、合理性を重視しています」
「重視する場所が間違ってるだろおおおお!?」
だが当の銀嶺は、羞恥心という概念が薄いのか、首を傾げるだけだった。
「オリジナル。私の論理核は現在、瓦解寸前です。生存、および演算維持のため、『同期』を要求します」
「え、え、え!? 同期って!?」
「はい。物理的接触によるデータ安定化が最適です。……さあ、ここに」
銀嶺は幽の腕を掴み、自分の胸元へ引き寄せようとする。
「待て待て待て待て!」
「…………お前、私、殺す」
背後から、聞いたことのないくらい平坦な声がした。
振り返ると、ハイライトの消えた目で朱音をゆっくり引き抜く琴子が立っていた。
「ま、待て琴子! これは事故で、不可抗力で、こいつが勝手に――!」
「お前、私、殺す。……幽くん、死ね。……女、消す。……全員、ミンチ」
「なんか琴子が怒りすぎて語彙を置いてきてるうううう!?」
そこへ白夜が、極めて上品な顔で追撃する。
「あらあら。同期なら、わたくしも毎日しておりますわ。ねえ、幽さま?」
白夜が幽の背中にぴたりと密着し、耳元で熱い吐息を漏らす。
「昨夜も、幽さまの腕の中で朝までぐっすり接続しておりましたもの。スペアさんには、負けていられませんわね?」
「その言い方やめろ白夜ァ! ただの添い寝をとんでもない関係みたいに言うなァ! って琴子ぉ!? 目が怖い! 目が完全に破壊神のやつだろそれ!」
「オマエ……コロス……!!」
銀嶺は幽のTシャツを無造作に掴み、じっと見つめた。
「……これを貸与してください。最低限の擬装は必要です」
「そ、それなら最初からそう言ってくれ!」
幽は慌ててクローゼットから一番でかいTシャツを引っ張り出し、後ろ手のまま差し出した。
数秒後。
裾が太腿まで隠れる、いわゆる「彼シャツ」状態の銀嶺が、ベッドの上にちょこんと腰を下ろしていた。
無表情。
だが、そのTシャツの裾を、なぜか両手でぎゅっと握りしめている。
幽が求めていた「日常」は、どうやら世界が壊れていた時よりも、ずっと命がけなものになりそうだった。
○
琴子は朱音を鞘に収めはしたものの、その指先はまだ怒りで小刻みに震えている。
「……で。アンタ、なんで戻ってきたわけ? 倒されたんじゃなかったの?」
琴子の鋭い問いに、銀嶺はほんの少しだけ首を傾けた。その動作は、以前の完璧な黄金比とは違い、どこかワンテンポ遅い。
「私はプロトコル・アヤカシの定義を離れました。ですが、個体としての存続本能が、オリジナルの『傷』というノイズに引かれました。……幽、私はあなたと再接続し、失われた陰陽の完全体を――」
「完全体だぁ!? 何よそれ、幽くんと合体でもするつもり!?」
「論理的には、存在の統合を意味します」
「させるかぁぁぁぁぁぁッ!!」
琴子が叫ぶ。一方で白夜は、淹れたてのお茶を優雅に啜りながら鼻で笑った。
「ふん。不完全な偽物が、よくもまあ。陰陽の統合など、わたくしの前では児戯にも等しいですわ。……それにしてもスペアさん、随分と演算がガタついておりますのね?」
「……否定できません」
銀嶺は素直に認めた。
「現在の私の演算能力は、オリジナルの自傷によるシステムクラッシュの影響で、九十二パーセントを喪失しています。……再起動確認。未来予測、開始します」
銀嶺の瞳にうっすら青白い光が走る。かつて幽たちを追い詰めた、あの“絶対的な先読み”だ。
「予測。……三秒後、琴子という個体が怒りのあまりマグカップを投擲します」
「投げないわよ! 失礼な!」
「予測。……五秒後、オリジナルが鼻をすすります。……カウント開始。三、二、一」
…………。
しーん、とした沈黙が部屋を包む。
幽は鼻をすすらない。琴子もマグカップは握っているが、投げる気配はない。
「……一。エラー。予測地点への到達に失敗」
「……プッ」
琴子が吹き出した。
「なによそれ! 全然当たってないじゃない! さっきまでの『完璧な未来』はどこ行ったのよ!」
銀嶺は少しだけ視線を落とし、自分の袖口を見つめる。
「……演算リソースが不足しています」
「だからってそこまで外す!?」
「原因を特定。現在、不要データの解析に処理領域を圧迫されています」
「不要データ?」
「……この布地です」
銀嶺は、幽のTシャツの裾をきゅっと握りしめた。
「肌触りが予測以上に良好です。温度保持、匂いの残存、繊維の摩擦係数……非常に、落ち着きます」
数秒、沈黙。
「…………」「…………」「…………」
「お、お前……!」
幽が変な声を漏らすと、琴子が腹を抱えて笑い出した。
「あははははは! アンタそれって、完璧な未来を見るどころか、幽くんのTシャツの着心地で頭いっぱいじゃない!」
「……不本意です」
銀嶺は無表情のまま答えた。だが、その耳だけは、ほんの少し赤い気がした。
白夜が、心底愉快そうに肩を震わせる。
「ふふ、傑作ですわ。完璧な正解を失い、ただのポンコツなバグへと堕ちるとは」
「ポンコツではありません。……暫定的に演算優先順位が変化しているだけです」
「それを世間では“ポンコツ”と言うのよ」
琴子が即答した。
銀嶺は少しだけ考え込むように目を伏せ、それから幽を見上げた。
「……ですが、幽。完璧な未来を失った今、あなたの隣にいると、予測不能な『次のレイヤー』が見える気がするのです」
「お、おう……?」
「もっとあなたの服を着ていたい、私の演算はその答えを示しています」
「服くらい私が選んでやるわよ! その代わり、変な同期とか接続とか、絶対禁止だからね!!」
琴子が、半ばキレながら割り込んでくる。
「記録しました。……変な同期は禁止」
「そこだけ素直にメモるな!」
○
その後、琴子は銀嶺にことあるごとに振り回され、白夜は例によってどこからか取り出した紅茶を嗜み、幽は「エネルギー、チャージします」と言う銀嶺を寝かせていた。
その時だった。
部屋の隅の古い防災ラジオが、電池も入っていないのに、ぶつ、と短く息を吹き返した。
ざざ……ざ……。
最初は、よくある接触不良みたいなノイズだった。
だが次第にその音は、ただの雑音ではなく、何か無数の声が重なり合って生まれる“底鳴り”へと変わっていく。
同時に、机の上に伏せていたスマホの画面が、誰も触れていないのにゆっくり点灯した。
黒い画面いっぱいに、見たこともない複雑な幾何学模様――QRコードに似ているのに、見ているだけで目の焦点が狂いそうになる“何か”が浮かび上がる。
「……プロトコル・アヤカシ」
幽が呟いた瞬間。
ラジオのノイズの奥から、声がした。
『――素晴らしいデータでした、月代幽』
銀嶺のような少女の声じゃない。
もっと巨大で、もっと平板で、もっと“個”を感じさせない声。
まるで、ネットワークそのものが発声しているみたいな声だった。
窓の外で、ちょうど登校していく生徒たちの背中が見えた。
その輪郭に、一瞬だけ青白いグリッド線が走る。
誰かが笑い、誰かが「おはよう」と手を振る。
その声さえ、どこか合成音声みたいに薄く聞こえた。
『銀嶺というレイヤーの消失も、君が選んだ不完全なノイズも、すべては最適化の途中経過です』
ラジオのランプが、赤く、青く、不規則に点滅する。
『次の積層は、すでに始まっています』
スマホ画面の幾何学模様が、ゆっくりと回転した。見ているだけで、自分の名前や記憶まで読み取られそうな錯覚が走る。
『次は、学校だけではありません』
窓の外。信号機が一瞬だけ全色同時に灯り、すぐ元に戻った。電柱の影が、方眼紙みたいに分割されて見える。
『朝が来れば、世界は再び、完璧な嘘で満たされます』
そこで、ぶつりと音が切れた。
静寂。
けれど、静かになったはずの部屋の中に、かえって“何かが始まってしまった”気配だけが色濃く残る。
幽は、窓の外を見た。
生徒たちはいつも通り歩いている。朝日は変わらず射している。世界は平和そのものに見える。
なのに、その表面のすぐ下で、巨大なシステムの歯車が回り始めているのが、はっきりわかった。
幽たちはまだ、世界を取り戻してなんていない。
幽と、妖怪姫と、寿命を削る幼馴染と、ポンコツになったAI少女。
この歪な四人の日常が、巨大な最適化の怪物に飲み込まれるまで、もうあまり時間は残されていなかった。




