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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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8/22

第5章:『再起動(リブート)/あるいはヒロインの生成条件』

 深夜の激闘が嘘のように、学校から自宅までの帰り道には、穏やかな朝日が満ちていた。

 空は淡い青へと戻り、通学路には早起きの犬を連れた老人がいて、コンビニの前では配送トラックが荷物を下ろしている。

 世界は、何事もなかったみたいな顔をしていた。

 だが、月代幽の隣を歩く幼馴染――東雲琴子の横顔に、「穏やかさ」の欠片もない。


「……ねえ、幽くん」

「はい」

「さっきから隣で『ふふふ』って鼻歌歌ってる死神、どうにかしてくれない?」

「あら」


 白夜は、幽の右腕に自分の腕を絡めたまま、涼しい顔で首を傾げた。


「番犬さん、朝からずいぶんと血圧が高いですわね。寝不足は美容に障りますわよ?」

「誰のせいだと思ってんのよ! というか、アンタ。いつまで幽くんの腕にくっついてるわけ!?」

「これは、わたくしの所有権の行使ですわ」

「所有権!?」

「ええ。命を削って幽さまの傷を直して差し上げたのですもの。これくらいの利子は当然でしょう?」

「利子じゃなくてただの職権乱用でしょおおおッ!」

「職権ではなく姫権ですわ」

「余計悪い!」


 朝の住宅街に、琴子の怒号が響き渡る。

 通りすがりの犬が、びくりと尻尾を下げた。


「頼むから近所迷惑にならない程度に争ってくれ……」

「だったらこの女を引き剥がして!」

「嫌ですわ」

「即答するな!」


 二人の怒号と嘲笑の板挟みになりながら、幽はようやく自分のアパートに辿り着いた。

 見慣れた階段。

 安い鉄製の手すり。

 塗装の剥げたドア。

 昨夜はあれほど青白い幾何学模様に侵食されていた自分の部屋が、今は何事もなかったようにそこにある。

 けれど、幽の掌にはまだ、白銀の欠片が残っていた。

 冷たい。

 軽い。

 それなのに、不思議なほど捨てられない。

 銀嶺の、最後に残った論理核。

 プロトコル・アヤカシに「不完全」と評価され、破棄された少女の欠片。


「……」


 幽は、それをポケットの中で握り直した。

 白夜が、ちらりとその手元を見る。

 何も言わない。

 琴子も気づいているはずだった。

 けれど、彼女もまた、今は何も言わなかった。


   ○


 六畳一間の部屋に、三人がなだれ込んだ。

 狭い。

 散らかっている。

 床には3Dプリンタの失敗作が転がり、机の上には安物の呪符や魔導書もどきのコピー、黒歴史ノートの残骸、意味不明な幾何学図形のメモが積み重なっている。

 琴子は、部屋に入った瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 部屋中を、値踏みするように見渡す。


「……ここ、だったのね」

「何が?」

「幽くんが夜な夜な変なオカルト設定を積層させて、一人で金星に想いを馳せてた聖域は」

「その言い方やめてくれ。あと聖域って言うなら笑うな」

「笑ってない」

「目が笑ってる!」


 琴子は、足元に転がる歪んだ樹脂片を拾い上げた。

 何を作ろうとしたのか分からない、積層のずれた失敗作。

 琴子はそれを、しばらく黙って見つめていた。


「……思ったより狭いし、散らかってるし、変なものばっかりだけど」

「そこまで言う?」

「でも」


 琴子の声が、ほんの少し柔らかくなる。


「アンタ、ここでずっと一人で戦ってたんだ」


 幽は、何も言えなかった。

 戦っていた。

 というほど立派なものではない。

 夜中に3Dプリンタを動かし、失敗作を量産し、黒歴史ノートに恥ずかしい設定を書き、世界の理だの金星だのと本気で考えていた。

 でも、それはたしかに、幽が一人で積み上げてきたものだった。

 失敗だらけの、自分の巣。


「あら」


 その感慨を、白夜が優雅な足取りで踏みにじった。


「番犬さん、そこに立っていると邪魔ですわよ。お茶を淹れますから、どいていただける?」

「は?」


 白夜は、さも自分の家であるかのようにキッチンへ向かい、慣れた手つきで幽のマグカップを取り出した。


「幽さま。今日は少し、茶葉を多めにして差し上げますわね」

「あ、ああ、悪い……」

「ちょっと待てぇぇぇ!」


 琴子の声が跳ね上がる。


「なんでアンタが長年連れ添った糟糠の妻みたいな顔してんのよ!」

「糟糠などと。わたくしはもっと上等ですわ」

「そこじゃない!」

「わたくしはこの部屋で生まれて、この部屋で幽さまと暮らしているんですもの。多少の勝手は許されますわ」

「暮らしてるうううううう!?」


 琴子は幽を見た。

 目が怖い。


「幽くん」

「はい」

「この女、泊まってるの?」

「いや、その、行くところがないというか、生まれたのがここだったというか」

「つまり泊まってるのね?」

「はい」

「幽くん」

「はい」

「あとで正座」

「はい!」


 白夜は紅茶を淹れながら、愉快そうに微笑んでいる。


「ふふ。おわかりになればよろしくってよ、番犬さん」

「やっぱりムカつくわアンタあああああ!」


 部屋の中のボルテージが、再び臨界点に達しようとした時だった。

 幽は、ふとポケットの中の重みに気づいた。

 白銀の欠片。

 銀嶺の論理核。


「……」


 捨てるつもりだった。

 いや、捨てるべきなのかもしれない、とも思った。

 銀嶺は幽の席を奪おうとした。

 琴子の記憶から幽の名前を削った。

 黒歴史を晒し、幽の存在そのものを「不要」と言った。

 でも、最後に。

 彼女は、削除できなかった。

 そして、プロトコル・アヤカシに不完全として破棄された。

 ゴミ箱に入れるには、重すぎた。

 かといって机の上に置くには、冷たすぎた。

 だから幽は、深い考えもなく、部屋の隅へ向かった。

 瓦礫のように壊れた3Dプリンタ。

 最初に白夜が生まれた場所。

 銀嶺もまた、ここで生まれた。


「……ここなら、いいかなって」


 幽は小さく呟き、白銀の欠片を、壊れた3Dプリンタのトレイの上に置いた。

 その瞬間だった。

 死んでいたはずのプリンタが、断末魔みたいな駆動音を立てて震え出した。


「え」


 幽の顔が引きつる。


「ちょ、再起動!?」

「幽さま、離れて」


 白夜が幽の肩を引いた。

 砕けた筐体の隙間から、青白い光が漏れる。

 ノズルのないはずのヘッドが、がたがたと不自然に往復する。

 空中に、論理回路めいた幾何学模様が、不安定に積層されていく。

 昨夜、目の前で見た奇跡。

 受肉。

 だが、今回は違った。

 美しくない。

 整っていない。

 線がずれる。

 輪郭が欠ける。

 何度もエラー音が鳴り、そのたびに青白い光が散る。


「論理核が、自分の残骸を使って再起動を試みておりますわ」


 白夜の声は冷たい。


「もっとも、まともな出力は望めそうにありませんけれど」

「はああ? またあの偽物の魔力の残りカスが動いてるってこと!?」


 琴子が朱音に手をかける。

 その目に、先ほどまでの嫉妬とは別の色が宿った。

 警戒。

 敵を見る目だった。


「待って琴子。まだ分からない」

「分からないから斬るのよ」

「それはそれで早い!」


 白夜は扇子を構えたまま、目を細める。


「油断はなさらないことですわ。ポンコツでも、核は核。あれは一度、幽さまの席を奪おうとした存在ですもの」


 青白い光が、ひときわ強くなる。

 不安定な幾何学模様が重なり、人の形を取っていく。

 銀の髪。

 幽と同じ顔。

 だが、そこに現れた少女は、ついさっきまでの“完璧な銀嶺”とは明らかに違っていた。


「……リソース不足」


 銀嶺の声がした。

 かつての冷たい透明さは薄れ、どこかノイズが混じっている。


「演算精度、著しく低下。身体構築プロセス、優先。被服生成プロセス……失敗」


 その一言で、幽はすべてを理解した。


「見るなあああああああああああッ!」


 叫んだのは幽だった。

 次の瞬間、幽は壁に向かって全力で反転する。

 ほぼ同時に、琴子が幽の後頭部を鷲掴みにして、さらに壁へ押しつけた。


「幽くん、そのまま。一ミリでも振り向いたら、首の角度を人間の限界まで曲げるから」

「もう向いてません! 向いてないです! というか首の話は今シャレにならない!」


 銀嶺の周囲では、青白い出力光と長い銀髪が、異様なほど都合よく揺れていた。

 まるで世界そのものが、

 ――ここから先は描写してはいけない。

 と判断したみたいだった。


「被服生成に必要な演算領域を、存在維持へ優先配分しました」


 銀嶺は淡々と告げる。


「現在の私は、合理性を重視しています」

「重視する場所が違うだろおおおおお!」

「羞恥反応、未実装です」

「実装しろ! 今すぐ!」

「あらあら」


 白夜だけが、扇子の陰で楽しそうに笑っていた。


「見えないからこそ、想像力が働くというものですわね」

「働かせるなああああ!」

「幽くん」


 琴子の声が低くなる。


「想像した?」

「してません!」

「本当に?」

「人生で一番何も考えてません!」

「よろしい」


 琴子は幽の後頭部を壁へ固定したまま、銀嶺へ向き直った。


「銀嶺」

「はい」

「今から十秒以内に何か着なさい。でなければ、私があなたの定義を服が必要ない存在へ変更する」

「定義変更の内容が不明です」

「不明なまま怖がりなさい」

「記録しました。琴子は危険」

「遅いわよ」


 銀嶺は、一歩踏み出そうとして、ふらついた。

 幽は反射的に振り向きかける。


「振り向くなああああ!」


 琴子の叫びで、幽は再び壁を向いた。


「オリジナル。私の論理核は現在、瓦解寸前です。生存、および演算維持のため、『同期(リンク)』を要求します」

「り、リンクぅ!?」

「はい。物理的接触によるデータ安定化が最適です。……さあ、ここに」


 銀嶺は幽の腕を掴み、自分の胸元へ引き寄せようとする。


「待て待て待て待て!」

「…………お前、私、殺す」


 背後から、聞いたことのないくらい平坦な声がした。

 振り返ると、ハイライトの消えた目で朱音をゆっくり引き抜く琴子が立っていた。


「ま、待て琴子! これは事故で、不可抗力で、こいつが勝手に――!」

「お前、私、殺す。……幽くん、死ね。……女、消す。……全員、ミンチ」

「なんか琴子が怒りすぎて語彙を置いてきてるうううう!?」


 そこへ白夜が、極めて上品な顔で追撃する。


「あらあら。同期(リンク)なら、わたくしも毎日しておりますわ。ねえ、幽さま?」


 白夜が幽の背中にぴたりと密着し、耳元で熱い吐息を漏らす。


「昨夜も、幽さまの腕の中で朝までぐっすり接続しておりましたもの。スペアさんには、負けていられませんわね?」

「その言い方やめろ白夜ァ! ただの添い寝をとんでもない関係みたいに言うなァ! って琴子ぉ!? 目が怖い! 目が完全に破壊神のやつだろそれ!」

「オマエラ……コロス……!!」


  ○


「と、とりあえず服! 服を先に!」

「被服、要求」

「お前が要求する側なのかよ!」


 幽はクローゼットを開け、手探りで一番大きいTシャツを引っ張り出した。

 視線は壁。

 腕だけを後ろへ伸ばす。


「これ着ろ! 頼むから!」

「貸与を確認」


 衣擦れの音がした。

 数秒後。


「着用完了」

「本当に?」

「本当よ。幽くん、こっち見てもいい」


 琴子の声で、幽はおそるおそる振り向いた。

 銀嶺は、幽の大きめのロングTシャツを着て、ベッドの端にちょこんと腰を下ろしていた。

 裾はだいぶ長い。

 袖は少し余り、指先が半分見えない。

 無表情。

 だが、そのTシャツの裾を、なぜか両手できゅっと握りしめている。

 完璧だった銀嶺は、そこにはいなかった。

 今いるのは、壊れた論理核から発生した、不完全な銀嶺。

 敵としての銀嶺は死んだ。

 ここにいるのは、残骸から再生成された別状態の少女だった。

 ……たぶん。


「……で」


 琴子が、低い声を出した。

 さっきまでの騒がしさが、すっと消える。


「アンタ、戻ってきて何がしたいの?」


 銀嶺は顔を上げた。


「存在維持。および、オリジナルとの再接続」

「幽くんをまた消すつもり?」

「現在、そのプロセスは停止しています」

「現在、ね」


 琴子の指が、朱音の柄に触れた。


「私はまだ、アンタを許してない。幽くんの名前を消したことも、居場所を奪おうとしたことも、全部覚えてる」


 銀嶺は少し沈黙した。


「記録しました」

「記録じゃない。反省しなさい」

「……反省」


 銀嶺は、その言葉を内部で検索するように目を伏せた。


「定義が不安定です」

「じゃあ、そこから始めなさい」


 幽は、琴子を見た。

 怒っている。

 当然だ。

 けれど、斬らなかった。

 それが琴子なりの最大限の譲歩なのだと分かった。

 白夜は紅茶を啜りながら、銀嶺を見ていた。


「スペアさん」

「その呼称は不正確です」

「では、不完全スペアさん」

「精度が低下しました」

「よろしい。では、不完全スペアさん」

「抗議します」

「抗議は受理しませんわ」


 白夜は微笑む。


「あなた、ずいぶんと演算がガタついておりますのね?」

「否定できません」


 銀嶺は素直に認めた。


「現在の私の演算能力は、プロトコル・アヤカシによる破棄、およびオリジナルの傷による定義干渉の影響で、九十二パーセントを喪失しています」

「つまりポンコツね」


 琴子が即答した。


「ポンコツではありません」


 銀嶺は、少しだけ間を置いて言った。


「暫定的に演算優先順位が変化しているだけです」

「それを世間ではポンコツって言うのよ」


 白夜が肩を震わせる。


「ふふ。完璧な正解を失い、ただのバグへと堕ちるとは。たいへん趣深いですわね」

「バグではありません」

「不完全な出力体?」

「……そちらの方が正確です」


 幽は、銀嶺の様子を見ていた。

 さっきまでの冷徹さは、ほとんどない。

 無表情ではある。

 でも、どこかワンテンポ遅い。

 言葉を選ぶたびに、内部で何かを検索しているみたいだった。


「再起動確認」


 銀嶺の瞳に、うっすら青白い光が走る。


「未来予測、開始します」


 琴子の肩がぴくりと動いた。

 かつて幽たちを追い詰めた、あの絶対的な先読み。


「予測。三秒後、琴子という個体が怒りのあまりマグカップを投擲します」

「投げないわよ! 失礼な!」

「予測。五秒後、オリジナルが鼻をすすります。カウント開始。三、二、一」


 沈黙。

 幽は鼻をすすらない。

 琴子もマグカップを握ってはいるが、投げる気配はない。


「……一。エラー。予測地点への到達に失敗」

「……プッ」


 琴子が吹き出した。


「あははははは! 何それ! 全然当たってないじゃない! さっきまでの完璧な未来はどこ行ったのよ!」

「……演算リソースが不足しています」

「だからってそこまで外す!?」

「原因を特定」


 銀嶺は、自分が着ているTシャツの裾を見下ろした。


「現在、不要データの解析に処理領域を圧迫されています」

「不要データ?」

「この布地です」


 銀嶺は、Tシャツの裾をきゅっと握りしめた。


「温度保持。繊維の柔らかさ。残留しているオリジナルの匂い。摩擦係数。予測以上に処理領域を使用しています」


 沈黙。

 幽、琴子、白夜の三人が、同時に固まった。


「……それ」


 幽が、恐る恐る言う。


「たぶん、落ち着くって言うんだよ」


 銀嶺は、ゆっくり瞬きをした。


「落ち着く」


 初めて覚えた単語を保存するみたいに、彼女は小さく繰り返す。


「……この布地は、落ち着きます」

「お、お前……」


 幽が変な声を漏らすと、琴子が再び笑い出した。


「なによそれ! 完璧な未来を見るどころか、幽くんのTシャツの着心地で頭いっぱいじゃない!」

「不本意です」


 銀嶺は無表情のまま答える。

 だが、その耳だけは、ほんの少し赤い気がした。

 白夜が、心底愉快そうに扇子を揺らす。


「ヒロインの生成条件とは、ずいぶんと安上がりですのね」

「白夜、その言い方やめろ」

「何か間違っております?」

「だいたい合ってるのが腹立つ」


 銀嶺は、少しだけ考え込むように目を伏せた。

 それから幽を見上げる。


「幽」

「おう」

「完璧な未来を失った今、あなたの隣にいると、予測不能な次のレイヤーが見える気がします」

「……それは、いいことなのか?」

「定義不能です」


 銀嶺はTシャツの裾を握ったまま言った。


「ですが、悪くありません」


 琴子が、すかさず割り込む。


「服くらい私が選んでやるわよ。その代わり、変な同期とか接続とか、絶対禁止だからね」

「記録しました。変な同期は禁止」

「そこだけ素直にメモるな!」

「では、通常同期を要求します」

「言い方変えてもダメ!」


 幽は頭を抱えた。

 白夜は紅茶を啜っている。

 琴子は怒っている。

 銀嶺はTシャツの裾を握ったまま、なぜか少し落ち着いている。

 幽が求めていた日常は、どうやら世界が壊れていた時よりも、ずっと命がけなものになりそうだった。


   ○


 その後、琴子は銀嶺にことあるごとに振り回された。

 銀嶺が「水分補給」と言って紅茶に砂糖を十杯入れようとすれば、琴子が止める。

 銀嶺が「防御性能が高い」と言って幽の布団を身体に巻こうとすれば、琴子が止める。

 銀嶺が「同期効率の高い位置」と言って幽の隣に座ろうとすれば、琴子が間に割り込む。

 白夜は例によって、どこからか取り出した茶葉で二杯目の紅茶を淹れ、優雅にそれを眺めている。


「白夜も止めてくれよ」

「あら。わたくしは観察中ですわ」

「何を」

「ポンコツAI少女が、いかにしてヒロインへと生成されていくかを」

「章タイトルみたいなこと言うな」

「実際、そういう状況でしょう?」


 幽は否定できなかった。

 銀嶺は、まだ敵ではない。

 でも、味方とも言い切れない。

 可愛いかもしれない。

 危険かもしれない。

 不完全で、ポンコツで、幽のTシャツを握りしめて落ち着いているくせに、その奥にはまだ、プロトコル・アヤカシの残滓が沈んでいる。

 それを一番分かっているのは、銀嶺自身だった。


「幽」


 ベッドの端に座ったまま、銀嶺が言った。

 銀嶺は、Tシャツの裾を握った。

 強く握る必要はない。

 落ちないようにするだけなら、そんな力はいらない。

 けれど、指を離すと、胸の奥の演算が少しだけ乱れる気がした。


「……不可解です」

「何が?」


 幽が聞くと、銀嶺は自分の手元を見下ろした。


「この布地を保持していると、処理が安定します」

「落ち着くってことか?」

「落ち着く」


 銀嶺は、その言葉をもう一度だけ繰り返した。


「はい。私は今、落ち着いています」


 それから、幽を見た。


「幽」

「おう」

「私は、あなたの味方でありたいと判断しています」


 琴子がぴくりと反応する。

 銀嶺は続けた。


「しかし、私の奥にはまだ、プロトコル・アヤカシの呼び声があります」


 部屋の空気が、少しだけ冷えた。


「それは……危ないのか?」

「危険です」


 銀嶺は淡々と答える。


「私は通信端末になり得ます。私は観測点になり得ます。私は再び、あなたの不完全さを測定する入口になり得ます」


 琴子が低い声で言う。


「やっぱり斬った方がいいんじゃない?」

「否定できません」

「そこで否定しなさいよ」

「ですが」


 銀嶺は幽を見る。


「あなたは、私を捨てませんでした」


 幽は、ポケットの中に入れ直した白銀の欠片を思い出した。

 捨てられなかった。

 ただ、それだけだった。


「だから、私も記録します」


 銀嶺は言った。


「不完全を、保存する意味を」


 白夜が、ヒビ入りの星形ヘアピンに触れる。


「……面白いことを言うようになりましたわね」

「学習中です」

「その学習が幽さまに害を及ぼすなら、わたくしが跡形もなく喰らいますわ」

「記録しました」

「素直ですわね」

「敵対時のリスク評価です。あなたは危険です」

「あら、光栄ですわ」


 琴子は深いため息をついた。


「ほんと、何なのよこの部屋……」


 幽も同じことを思った。

 世界を壊す妖怪姫。

 寿命を削って幽を守る幼馴染。

 最適化に失敗した白銀のスペア。

 そして、失敗作と安物呪具だらけの部屋の主。

 どう考えても、まともな日常ではない。

 それでも。

 この部屋は、彼女たちを拒まなかった。

 白夜はここで生まれた。

 銀嶺はここで再起動した。

 琴子はここで、幽が一人で積み上げてきた失敗を見た。

 幽の部屋は、ただの六畳一間ではなかった。

 失敗と孤独と黒歴史が積層された、小さな巣だった。

 だからきっと、不完全なものを受け入れてしまう。

 その時だった。

 部屋の隅に置かれた古い防災ラジオが、電池も入っていないのに、ぶつ、と短く息を吹き返した。


   ○


 ざざ……ざ……。

 最初は、よくある接触不良みたいなノイズだった。

 だが次第にその音は、ただの雑音ではなく、何か無数の声が重なり合って生まれる底鳴りへと変わっていく。

 同時に、机の上に伏せていたスマホの画面が、誰も触れていないのにゆっくり点灯した。

 黒い画面いっぱいに、見たこともない複雑な幾何学模様が浮かび上がる。

 QRコードに似ている。

 けれど、そうではない。

 見ているだけで目の焦点が狂い、自分の名前の書き方まで忘れそうになる何か。


「……プロトコル・アヤカシ」


 幽が呟いた瞬間。

 ラジオのノイズの奥から、声がした。


『観測結果、良好』


 ラジオのノイズの奥から、声がした。


『月代幽。基準尺候補としての不完全性、維持』

『銀嶺。破棄後レイヤー、再起動を確認』

『白夜。外部破壊命令、継続観測』

『東雲琴子。縁切断因子、監視対象へ移行』


 声は続く。


『次の積層は、すでに始まっています』


 銀嶺のような少女の声ではない。

 もっと巨大で、もっと平板で、もっと個を感じさせない声。

 まるで、ネットワークそのものが発声しているみたいだった。

 銀嶺の肩が、小さく震えた。


「……これは、私の本体です」


 窓の外で、登校していく生徒たちの背中が見えた。

 その輪郭に、一瞬だけ青白いグリッド線が走る。

 誰かが笑い、誰かが「おはよう」と手を振る。

 だが、その声はどこか合成音声みたいに薄かった。

 通学路を歩いていた生徒たちは、誰も気づかない。

 ただ、全員の歩幅だけが、気味が悪いほど揃っていた。


 一歩。

 一歩。

 一歩。


 まるで、世界が少しだけ最適化されているみたいに。


『銀嶺というレイヤーの消失も、君が選んだ不完全なノイズも、すべては最適化の途中経過です』


 ラジオのランプが、赤く、青く、不規則に点滅する。


『もう一度告げます。「次の積層は、すでに始まっています」』


 窓の外で、信号機が一瞬だけ全色同時に灯った。

 すぐに戻る。

 誰も気づかない。

 電柱の影が、方眼紙みたいに分割されて見えた。


『次は、学校だけではありません』


 スマホ画面の幾何学模様が、ゆっくり回転する。

 見つめていると、自分の記憶のどこかに、勝手にタグを貼られていくような錯覚がした。


『朝が来れば、世界は再び、完璧な嘘で満たされます』


 ぶつり、と音が切れた。

 静寂。

 けれど、静かになったはずの部屋の中に、かえって何かが始まってしまった気配だけが、色濃く残った。

 幽は、窓の外を見た。

 生徒たちはいつも通り歩いている。

 朝日は変わらず射している。

 世界は平和そのものに見える。

 なのに、その表面のすぐ下で、巨大なシステムの歯車が回り始めているのが、はっきり分かった。


「……まだ終わってないんだな」


 幽が呟く。

 白夜は扇子を閉じた。


「ええ。むしろ、ようやく向こうがこちらを見た、というところですわね」


 琴子は朱音の柄に触れたまま、窓の外を睨んでいる。


「幽くん。学校だけじゃないって、どういうこと?」

「分からない」


 幽は、正直に答えた。


「でも、たぶん」


 スマホの黒い画面に、幽の顔が映っている。

 その喉元に、青白い線が一瞬だけ走った。


「俺の首を、まだ測る気なんだと思う」


 銀嶺は、幽のTシャツの裾を握りしめたまま、小さく言った。


「基準尺候補。再測定」

「やめろ。怖いことを復唱するな」

「事実です」


 銀嶺の声は小さい。


「そして、私はその入口になり得ます」


 琴子が睨む。

 白夜が笑わない。

 幽は、息を吸った。

 世界を取り戻したわけではない。

 銀嶺を倒して終わったわけでもない。

 プロトコル・アヤカシは、学校の外へ出ようとしている。

 いや、もう出ている。

 幽と、妖怪姫と、寿命を削る幼馴染と、ポンコツになったAI少女。

 この歪な四人の日常が、巨大な最適化の怪物に飲み込まれるまで、もうあまり時間は残されていなかった。


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