第13章・後編:『一ミリだけ、星から外れる』
幽は、六畳間にいた。
古い畳。
低い机。
壁際に積まれた本。
カーテンの隙間から見える夜空。
窓の外に、金星があった。
明け方の星。
夜を越えたことを知らせる光。
部屋の隅に、小さい幽が座っていた。
膝を抱えている。
震えている。
何かを見ないように。
何かに見つからないように。
ただ、窓の外の金星だけを見ている。
小さい幽が呟いた。
「……今日も、生きてる」
幽は、その声を知っていた。
忘れたふりをしていただけだ。
夜が怖かった。
見えるはずのないものが見えた。
誰もいないはずの隅に、何かがいた。
閉めたはずの襖の向こうで、何かが笑っていた。
戦えないのに、見えてしまった。
助けを呼ぶこともできなかった。
言えば、自分がおかしいと思われる。
言わなければ、一人で朝まで耐えるしかない。
だから幽は、金星を見ていた。
あの光が見えれば、夜は終わる。
あの光が見えれば、今日も生きている。
そう思っていた。
その小さい幽の隣に、天津甕星が立っていた。
今と同じ顔で。
今と同じ優しい目で。
幽は、喉の奥が詰まるのを感じた。
「お前は」
声がかすれた。
「俺を救ったのか」
「ああ」
天は答えた。
「君の祈りは、届いていた」
「俺は、お前に祈ったのか」
「ああ」
天は、窓の外の金星を見る。
「君は、朝まで生きたいと願った」
幽は否定できなかった。
救われた。
それは、本当だった。
祈った。
それも、本当だった。
だから苦しい。
嘘なら、切れた。
悪意なら、拒めた。
けれど、あの夜の救いは本物だった。
小さい幽は、金星を見ている。
震えながら。
泣きもしないで。
ただ、朝が来たことだけを確かめている。
幽は、その背中を見て、何も言えなくなった。
「帰っておいで」
天が言った。
声は優しかった。
ひどく、優しかった。
「君の祈りは、ずっと僕に届いていた」
金星の光が、部屋を満たす。
薄い金色の光。
怖い夜を終わらせる光。
幽は、一歩だけ足を踏み出しかけた。
救われたのなら。
祈ったのなら。
届いていたのなら。
なら、自分は。
その時、足元で何かを踏んだ。
幽は視線を落とす。
ノートだった。
黒歴史ノート。
表紙には、自分でも読めないような崩れた文字で、妙なタイトルが書かれている。
ページを開く。
金星の同胞。
深淵なる明星。
真の積層を知る者。
夜に選ばれし者。
読んだだけで頭を抱えたくなるような言葉が、何ページにもわたって書かれていた。
恥ずかしい。
痛い。
今すぐ燃やしたい。
でも、その字は震えていた。
夜の中で、震える手で書いた字だった。
その横には、失敗した3Dプリントの欠片があった。
寸法がずれた魔法陣。
途中で崩れた出力物。
ノズルが詰まって、ぐちゃぐちゃになったフィラメント。
剥がし損ねたサポート材。
何の役にも立たない、歪んだ試作品。
美しくなかった。
正しくなかった。
黄金比でもなかった。
でも。
それは、幽が自分で作ったものだった。
震えながら。
恥ずかしがりながら。
それでも、朝まで生きるために。
「それは未完成だ」
天が言った。
「君が望んだものの、途中だ」
「違う」
幽は、ノートを拾った。
失敗した出力物を拾った。
ぐちゃぐちゃに絡まったフィラメントを握った。
それらは、ひどく軽かった。
でも、消えなかった。
「途中じゃない」
幽は言った。
「これは、失敗だ」
天は静かに幽を見る。
「失敗なら、直せばいい」
「直さなくていい失敗もある」
「なぜ?」
「俺が失敗したって、分かるからだよ」
幽は、ノートのページを握りしめた。
紙がくしゃりと鳴る。
「この字を書いた俺は、痛い。恥ずかしい。見てられない」
小さい幽が、こちらを見た。
震えている。
でも、確かにそこにいる。
「でも、生きてた」
幽は、彼を見る。
「あの夜を、これで越えようとしてた」
天の金色の光が、わずかに揺れた。
幽の耳に、別の声が届いた。
遠い。
けれど、確かに聞こえる。
「幽さま」
白夜の声だった。
六畳間の壁に、ヒビの入った星形ヘアピンの影が映る。
金色ではない。
黒く、歪んだ、ヒビの影。
「お願いです」
その声は、いつものように高慢ではなかった。
妖怪王の姫の声でもなかった。
ただ、必死だった。
「朝まで、生きてくださいまし」
幽の息が止まった。
昔、幽は金星に祈った。
朝まで生きたいと。
今、白夜は幽に祈っていた。
朝まで生きてほしいと。
それは、所有ではなかった。
定義でもなかった。
器として戻れ、という命令でもなかった。
ただ、帰ってきてほしい、という願いだった。
幽は、目を閉じた。
あの星に救われたことは、本当だ。
祈りが届いたことも、本当かもしれない。
でも。
今、名前を呼んでいるのは星ではない。
幽を、器ではなく幽として呼んでいる声がある。
「……ああ」
幽は、小さく息を吐いた。
「俺は、救われた」
天が、黙って見ている。
「認める。金星に救われた。朝まで生きたいと祈った。強くなりたいと思った。魔法陣を信じたかった」
幽は、窓の外の金星を見る。
「お前が、あの夜の俺を救ったことも、認める」
天は、少しだけ微笑んだ。
「なら」
「でも」
幽は、黒歴史ノートを胸に抱えた。
失敗した出力物を、手の中に握りしめた。
「そこから俺がお前の器だなんて線を引いたのは、お前だ」
六畳間の床に、黒い線が走った。
黄金比ではない。
まっすぐでもない。
ぐちゃぐちゃで、歪んでいて、恥ずかしい線。
けれど、幽が引いた線。
小さい幽が、その線を見る。
そして、少しだけ頷いた。
黒史刀が、幽の手の中に戻ってくる。
「帰る」
幽は言った。
「俺の祈りは、俺のものだ」
○
幽は、息を吸った。
喉が焼ける。
首が痛い。
眉間が熱い。
まだ金色の線は、幽を世界の中心に据えようとしている。
魔法陣は完成直前だった。
星々が回る。
床の螺旋が収束する。
黄金比の線が、幽の首を基準尺として固定しようとする。
天津甕星が言った。
「おかえり」
「帰る場所が違う」
幽は、かすれた声で答えた。
白夜が顔を上げる。
「幽さま……!」
その指先は、まだ透けていた。
黒髪には、金色の線が絡みついている。
ヒビ入りのヘアピンには、黄金の光が残っていた。
琴子が息を呑む。
「幽くん、線がまだ……!」
左目から流れた血が、頬で乾きかけている。
それでも琴子は、線を見ていた。
幽の顔を見られなくても。
幽を縛るものだけは、見逃さないように。
銀嶺が呟く。
「星痕反応、最大」
輪郭は欠けていた。
首元のノイズも濃い。
それでも銀嶺は、幽の古いTシャツの裾を握ったまま立っていた。
幽は、首を動かそうとした。
動かない。
金色の線が、首を固定している。
世界の中心として。
黄金比の基準として。
天津甕星の器として。
天が近づく。
「君の首は、美しい」
「知ってる」
幽は言った。
白夜が目を見開く。
琴子が「え」と声を漏らす。
銀嶺が小さく首を傾げる。
「いや、知らんけど」
「どっちですの」
白夜の声が震えているのに、そのツッコミだけはいつも通りだった。
幽は少しだけ笑った。
「でも、お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
天は静かに見ている。
「だったら」
幽は、黒史刀を握りしめた。
「なおさら、お前には使わせない」
「なぜだい」
天の声には、怒りよりも困惑があった。
「君の首は、美しい。世界を整えるために、これ以上の基準はない」
幽は、息を吸った。
首が痛い。
金色の線が食い込む。
動かせば、折れるかもしれない。
自分の祈りごと裂けるかもしれない。
それでも。
「嫌だ」
幽は言った。
それは、あまりにも小さな言葉だった。
けれど、確かに自分の言葉だった。
幽は、首を横に振った。
ただ、嫌だと示すための、小さな動きだった。
ほんの一ミリ。
それだけだった。
けれど、世界の中心に置かれようとしていた黄金比の首級が、一ミリだけずれた。
その一ミリで、魔法陣の全層が軋んだ。
円が歪む。
螺旋が噛み合わなくなる。
星と星の距離が、わずかに狂う。
黄金比で整えられていた世界に、幽自身の拒絶が差し込まれる。
琴子が叫ぶ。
「今!」
「見えた」
幽にも見えた。
黄金の魔法陣の中に、一本だけ黒い傷のような線がある。
神が引いた線ではない。
天が拾った真実でもない。
幽が勝手に描いて、勝手に恥じて、勝手に抱えてきた線。
寸法ミス。
積層ズレ。
ノズル詰まり。
絡まったフィラメント。
途中で崩れた出力物。
ノートの端に描いた、歪んだ魔法陣。
夜中に書いた痛すぎる設定。
金星の同胞。
深淵なる明星。
自分で読み返して、死にたくなった言葉。
でも、消さなかった。
消えなかった。
黒史刀は、黄金比ではなかった。
美しくなかった。
まっすぐでもなかった。
意味不明で、恥ずかしくて、未完成で、歪んでいた。
でも。
それは、幽が引いた線だった。
白夜のヒビ入りヘアピンが、黒く光る。
琴子の赤い左目が、血の光を宿す。
銀嶺の未定義ノイズが、ざざ、と響く。
黒史刀の表面を、消えなかった記録が走る。
その全部が、一瞬だけ噛み合った。
治ったわけではない。
満たされたわけでもない。
欠けたまま。
ヒビが入ったまま。
赤く滲んだまま。
輪郭が欠けたまま。
ただ、そのズレが同じ方向を向いた。
黄金比の魔法陣に、黒い歪みが走る。
「君たちは」
天が言った。
「壊れたまま勝つつもりかい」
幽は笑った。
喉が痛い。
首が痛い。
怖い。
それでも、笑った。
「治してからじゃ、間に合わないんだよ」
黒史刀を構える。
「それに」
幽は、白夜を見る。
白夜の顔は泣きそうだった。
でも、そこにいた。
琴子を見る。
彼女の左目はまだ赤い。
でも、線を見ていた。
銀嶺を見る。
輪郭は欠けている。
でも、Tシャツの裾を握っていた。
「壊れてても、ここにいる」
幽は言った。
「それで十分だ」
天が手を伸ばす。
「君は、金星に救われた」
「認める」
幽は即答した。
金色の星が震える。
「朝まで生きたいと祈った」
「認める」
「強くなりたいと願った」
「認める」
「魔法陣を信じた」
「認める」
「僕は、君の祈りに応えた」
「それも、認める」
天の手が止まる。
幽は、天を見た。
「でもな」
黒史刀を振り上げる。
「そこから、俺がお前の器だなんて線を引いたのは」
眉間の星痕が、強く焼ける。
金色の線が、幽の首を縛る。
それでも幽は踏み込んだ。
「お前だ」
黒史刀が、黒い線を走った。
黄金比ではない軌道。
美しくない角度。
誰が見ても、完成された魔法陣には収まらない一撃。
「俺の祈りを」
幽は叫んだ。
「寸法にするな!」
黒史刀が、金色の中心線を断った。
音はしなかった。
代わりに、世界のほうが一瞬、呼吸を止めた。
幽の眉間から伸びていた線が切れる。
首から魔法陣へ向かっていた黄金比の軌道が折れる。
床の螺旋が崩れ、壁の星座がほどけ、天井の魔法陣がばらばらの星へ戻っていく。
天津甕星は消えなかった。
そこに立っていた。
ただ、幽へ伸ばしていた線だけが、断たれていた。
天は、自分の手を見た。
そして、幽を見た。
怒ってはいなかった。
悲しんでもいなかった。
ほんの少しだけ、寂しそうだった。
「……美しくないな、月代幽」
「知ってる」
幽は答えた。
黒史刀を握る手は震えている。
立っているだけで精一杯だった。
でも、倒れなかった。
「だから、俺のものだ」
天は、静かに目を伏せた。
「いい線だ」
「綺麗じゃないけどな」
「だからだよ」
金色の星々が、ゆっくりと上へ昇っていく。
サーバールームの壁が戻る。
床が戻る。
光ファイバーが、ただのケーブルに戻る。
けれど、窓の外には夜空があった。
雲の切れ間に、一つだけ星が見える。
明け方ではない。
金星でもない。
ただの星。
それでも、幽は見上げた。
眉間の熱が、すっと引いていく。
金色の点が、皮膚から離れる。
小さな光となって、夜空へ昇る。
天は、その光を見上げた。
「星は、まだあるよ」
「ああ」
幽は答えた。
「見たい時に、俺が見る」
天は微笑んだ。
その姿が、星明かりの中に溶けていく。
「君の祈りが、君のものであるなら」
最後の金色の線がほどける。
その直前、天は静かに微笑んだ。
「次に祈るときも、そう言えるといいね」
声だけが残った。
金色の光が、夜空へ戻っていく。
部屋に、音が戻った。
サーバーの駆動音。
外の車の音。
遠くの人の声。
誰かの通知音。
ばらばらで、雑で、整っていない音。
幽は、その音を聞いて、ようやく息を吐いた。
膝が崩れる。
「幽さま!」
白夜が支えた。
その指先は透けていた。
けれど、確かに温かかった。
「白夜」
「大丈夫ではございませんわ」
「だろうな」
「ですが」
白夜は、ヒビの入ったヘアピンに触れる。
「壊せましたわね」
「世界を?」
「いいえ」
白夜は首を横に振る。
「勝手に完成させられた世界を、ですわ」
琴子が、朱音の桐箱を抱えたまま座り込む。
「幽くん」
「何だ」
「顔、ちょっと見える」
琴子の左目は、まだ赤かった。
血も滲んでいた。
それでも彼女は、幽の顔を見ていた。
「前より変な顔」
「戻ってきた第一声がそれかよ」
「安心したって意味」
「分かりにくい」
「知ってる」
銀嶺が近づいてくる。
輪郭はまだ少し欠けている。
けれど、そこにいる。
「星痕反応、消失」
「消えたのか」
「はい」
銀嶺は幽の眉間を見た。
「ただし、黒歴史反応は残存」
「それは一生消えないんだよ」
「消去しますか?」
「するな」
「了解しました」
白夜が、くすりと笑った。
幽は、もう一度だけ窓の外を見た。
星はまだ空にあった。
けれど、もう幽の眉間にはなかった。
世界は完全にはならなかった。
線はほどけ、音はばらばらで、街はいつものように雑で、誰かの通知音が間抜けに鳴っている。
それでいい。
幽は、黒史刀を胸元に引き寄せた。
消したかった記録。
でも、消さなかった記録。
その重さが、今は少しだけ心地よかった。
白夜が、幽の手元を見た。
黒史刀。
歪んだ線。
寸法ミス。
黄金比から外れた、幽自身の記録。
それから、自分のヒビ入りヘアピンに触れる。
「美しくないものを」
白夜は、少しだけ不思議そうに言った。
「美しいと思えるようになってしまいましたわね」
幽は、思わず笑った。
「それ、俺の黒歴史にも適用される?」
「それは程度によりますわ」
「厳しい」
「ですが」
白夜は、幽の腕を支えたまま微笑む。
「捨てなくてよかったものも、たしかにございましたわ」
祈りは、星に届いたかもしれない。
でも。
その意味を決めるのは、星ではない。
幽は、白夜に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、自分の足で、一歩を踏み出した。
妖怪姫は、均整の世界を壊した。
けれど、幽の線だけは。
幽自身が、引き直した。




