第13章・前編:『妖怪姫は、均整の世界を壊したい』
「気付いたかい?」
天津甕星は、幽を見て微笑んだ。
「君の好きな、魔法陣だよ」
幽は、黒史刀を握りしめた。
怖い。
綺麗だ。
気持ち悪い。
その三つが、同じ場所で震えていた。
頭上にも、足元にも、壁にも、星があった。
サーバーラックのランプは星になり、光ファイバーは星と星を結ぶ糸になり、黒い床は夜空を映す水面のように輝いている。
金色の星々は、ただ散らばっているわけではなかった。
円。
三角。
螺旋。
立方体。
正十二面体。
いくつもの幾何学模様が重なり、回転し、積み上がっている。
一層。
二層。
三層。
さらにその奥に、見えないはずの層がある。
積層型立体魔法陣。
幽が、ノートの端に何度も描いたもの。
夜中に、意味も分からず線を足し続けたもの。
朝まで生きたいと願いながら、いつか本当に自分を守ってくれるかもしれないと、恥ずかしいくらい本気で信じたもの。
それが、ここにあった。
自分が作るよりもずっと正確に。
自分が描いたどの図よりも美しく。
自分が望んだどんな完成形よりも、完璧に。
その美しさの中に、自分が夜ごと書き足した線があった。
震える手で描いた円があった。
朝まで生きたいと願いながら、意味も分からず積み上げた魔法陣があった。
好きだったものを、勝手に完成させられている。
その事実に気づいた瞬間、幽は吐き気を覚えた。
「……最悪だな」
「そうかい?」
天は、少しだけ悲しそうに首を傾げた。
「君は、これを望んでいたはずだ」
「望んでたかもしれない」
幽は息を吸った。
眉間が熱い。
金色の点が、そこからこの魔法陣全体へ呼応している。
「でも、俺が作りたかったんだよ」
天は微笑んだ。
「未完成のまま?」
「未完成でも」
「歪んだまま?」
「歪んでても」
「何の役にも立たないかもしれないまま?」
「それでも」
幽は、黒史刀を構えた。
「俺のものだった」
天の目が、ほんの少し細くなる。
その瞬間、星々の線が強く光った。
床に、壁に、天井に、無数の長方形が浮かび上がる。
短辺と長辺。
円の半径。
螺旋の間隔。
階層の高さ。
星と星の距離。
それらすべてが、ひとつの比率へ収束していく。
幽は、その比率を知っていた。
黄金比。
美しいとされる比率。
人間が、絵画に、建築に、身体に、顔に、勝手に見つけては特別視してきた比率。
今、その黄金比が、決戦の場そのものを支配していた。
サーバーラックの間隔も。
光ファイバーの曲線も。
星座の螺旋も。
床に映る魔法陣の半径も。
すべてが、幽の眉間を中心にして整えられていく。
「君の首は、美しい」
天が言った。
その声は、あまりにも優しかった。
「やめろ」
「額から顎へ。顎から喉へ。喉から鎖骨へ。比率が整っている。人間たちはそれを美と呼び、妖怪たちは力と呼び、神は基準と呼ぶ」
「やめろって言ってんだろ」
「君の首級は、世界の中心にふさわしい」
幽の背筋が凍った。
星々の線が、幽の顔の輪郭をなぞる。
眉間の点から、鼻筋へ。
顎へ。
首へ。
その線が、魔法陣の中心へ伸びていく。
「返してくれ」
天は、かつてと同じ言葉を、同じ優しさで繰り返した。
「君という名の、空き容量を」
「お断りですわ」
白夜が前に出た。
その声は、静かだった。
けれど、部屋の温度が一段下がったような気がした。
扇子が開く。
ヒビの入った星形ヘアピンが、金色の星空の中で鈍く光る。
「幽さまの首を、寸法の話にしないでいただけます?」
「姫君」
天は穏やかに言う。
「君も欲しただろう。彼の首を」
「ええ」
白夜は否定しなかった。
「欲しましたわ」
天の周囲に、金色の文字が浮かぶ。
獲物。
首級。
幽さまは、わたくしの――
世界を壊す者。
妖怪王の姫。
災厄。
「嘘ではない」
天が言う。
「だから、星になる」
金色の線が、白夜の影から伸びる。
彼女の言葉。
彼女の欲望。
彼女の執着。
それらを拾い上げ、天の星座へ組み込もうとする。
白夜は笑った。
とても美しく。
とても冷たく。
「確かに、嘘ではございませんわね」
そして、扇子を閉じた。
ぱちん、と音が鳴る。
「ですが」
白夜の声が変わった。
わずかに低く。
わずかに古く。
わずかに、人間の側から遠ざかる。
「星神風情が」
幽は息を呑んだ。
白夜の黒髪が、ふわりと広がる。
星明かりを飲み込むような黒。
その瞳が、獣のように細くなる。
「わらわの獲物に、勝手に名を打つでない」
空気が割れた。
白夜が踏み込む。
扇子が一閃する。
金色の星空が、裂けた。
いや、裂けたように見えた。
天井の星座が崩れ、壁の星々がばらばらに落ち、床の魔法陣に黒い亀裂が走る。
世界を壊す妖怪姫。
その名にふさわしい破壊だった。
幽は思わず見とれた。
白夜は、強い。
美しい。
恐ろしい。
やはり彼女は、世界を壊せる。
しかし。
壊れた星々は、すぐに動き出した。
ばらばらになった点が、別の線で結ばれる。
崩れた円が、より正確な円に置き換えられる。
歪んだ螺旋が、黄金比に沿って巻き直される。
破壊されたはずの魔法陣が、より美しい形で再配置されていく。
「壊せないよ」
天が言った。
白夜の眉が動く。
「何ですって?」
「君は世界を壊せる」
天は、白夜を責めるでもなく、誇るでもなく、ただ事実を述べた。
「けれど、それは彼の中にあったものだ」
白夜の扇子が止まる。
「彼が描いた。彼が願った。彼が信じた。彼が恥じた。彼が消したいと思い、それでも消せなかった」
金色の星々が、幽の周囲を回る。
「君が壊そうとしているのは、僕ではない。彼の祈りだ」
「……っ」
白夜の指先が透けた。
ヒビ入りのヘアピンに、金色の光が絡みつく。
それでも白夜は、退かなかった。
「祈りを鎖に変えたのは、あなたでしょう」
「祈りは、届いたから星になった」
「届いたものを、所有してよい理由にはなりませんわ」
「所有?」
天は少しだけ目を伏せた。
「僕は、返してもらうだけだ」
その言葉に、幽の眉間が焼けた。
「幽くん!」
琴子が叫んだ。
左目から血が流れている。
彼女は幽を見ていない。
幽の顔は、もうほとんど見えていないのだろう。
それでも、線を見ている。
幽を縛る線を。
「線が増えてる!」
「どこだ!」
「全部!」
琴子は歯を食いしばる。
「金星に救われた。朝まで生きたい。強くなりたい。魔法陣を信じた。黄金比の首級。空き容量。器。全部が繋がってる!」
星々が幽の影に浮かぶ。
金星の同胞。
深淵なる明星。
真の積層を知る者。
夜に選ばれし者。
朝まで生きたい。
それらは、嘘ではなかった。
嘘ではないから強い。
幽は、否定できない。
金星に救われた。
それは本当だ。
朝まで生きたいと祈った。
それも本当だ。
強くなりたかった。
魔法陣を信じたかった。
自分だけの力がほしかった。
白夜のような存在に選ばれたかった。
それらは、全部、幽の中にあった。
だから苦しい。
だから逃げられない。
「幽さま」
白夜が、幽の前に立つ。
その背中は、まだ美しかった。
けれど、輪郭がわずかに透けている。
「あなたを、渡しません」
「姫君」
天が言う。
「君は、彼を欲した」
金色の文字が、白夜の髪に絡む。
「彼の首を求めた。彼の隣を求めた。彼を失いたくないと願った」
「ええ」
白夜は歯を食いしばる。
「ええ、そうですわ」
「ならば」
天は優しく続ける。
「彼が世界の中心になればいい」
星々が白夜を囲む。
「彼が永遠の中心となれば、君は二度と彼を失わない」
白夜の瞳が揺れた。
幽はそれを見た。
ほんの一瞬だった。
けれど確かに、白夜は揺れた。
失いたくない。
その真実を、天津甕星は拾った。
欲しい。
そばにいたい。
失いたくない。
それは、白夜の中にある本当の感情だった。
だからこそ、否定できない。
「違いますわ」
白夜は言った。
「違う、はずですわ」
けれど、金色の線は絡み続ける。
ヘアピンのヒビに光が入り込む。
白夜の指先が、手首まで透けた。
「白夜!」
幽が叫んだ。
白夜は振り返らない。
それでも、声だけは震えていた。
「幽さま」
「何だよ」
「わたくしは」
白夜の一人称が戻った。
それは、妖怪王の姫としてではなく、幽のそばにいた白夜の声だった。
「世界など、いくらでも壊して差し上げます」
金色の線が、彼女の腕に絡む。
「けれど」
白夜の肩が震えた。
「あなたがいない世界を壊しても、わたくしは少しも嬉しくありませんの」
幽の胸の奥が、痛いくらいに熱くなった。
その言葉は、白夜の祈りだった。
欲望でも、所有でも、獲物への執着でもない。
ただ、いてほしいという祈り。
なのに、その祈りさえ、天は拾おうとする。
「美しいね」
天が言った。
「誰かを失いたくないという祈りは、とても強い」
金色の線が、白夜の胸元へ伸びる。
幽は、考えるより先に動いていた。
白夜の前へ出る。
黒史刀を握る手が震えている。
怖い。
死ぬほど怖い。
それでも、白夜が消えるのを見る方が嫌だった。
「白夜に触るな」
幽は言った。
天が、幽を見る。
「俺が必要なら」
白夜が息を呑む。
「幽さま、だめですわ」
琴子が叫ぶ。
「幽くん、それ言っちゃだめ!」
銀嶺の声も飛ぶ。
「その発言は、危険です」
でも、幽は止まれなかった。
「俺を使え」
その瞬間。
天が、微笑んだ。
「ありがとう」
幽の眉間が、焼けた。
「今、君は自分の首を中心に置いた」
金色の星痕が、眉間から首筋へ降りた。
顎へ。
喉へ。
鎖骨へ。
肩へ。
幽の身体が、自分のものではないみたいに硬直する。
サーバールーム全体の星々が、一斉に幽へ向いた。
床の魔法陣が回転する。
天井の螺旋が降りてくる。
壁の星座が、幽の首を中心に再配置されていく。
琴子が、悲鳴のように叫んだ。
「幽くんの首を中心に、全部の線が揃ってる!」
「幽が引っ張られているのですの!?」
「違う!」
琴子の左目から、さらに血が流れた。
「幽くんが引っ張られてるんじゃない! 世界の方が、幽くんを基準に整えられてる!」
幽は息ができなかった。
首に、冷たい輪が巻きついている。
線だ。
黄金比の線。
額から顎。
顎から喉。
喉から鎖骨。
幽の首の角度が、世界の寸法にされていく。
「やめ……」
声が出ない。
黒史刀を握る手から、力が抜ける。
落としそうになる。
白夜が手を伸ばす。
けれど、金色の線が彼女を阻む。
「壊せばいい」
天は、白夜に言った。
「君なら壊せる」
「黙りなさい」
「けれど、壊せば彼の祈りごと壊れる」
白夜の手が止まった。
琴子が朱音の桐箱を開く。
赤黒い大百足の影が伸びる。
だが琴子は、歯を食いしばったまま動けない。
「切れない……!」
「琴子!」
「これ、幽くんの中から出てる! 切ったら、幽くんの“朝まで生きたい”まで裂ける!」
銀嶺がノイズを走らせる。
「未定義を挿入。保留。分類不能。未回答。あとで考える」
黒いノイズが、幽の首を縛る線に走った。
しかし、天は手をかざす。
ノイズが、黄金比の螺旋へ整えられていく。
「未定義も、位置を与えれば美しくなる」
天は言った。
「保留にも役割を与えればよい。未完成にも、完成へ向かう線を引けばよい」
銀嶺の輪郭が、金色に縁取られる。
「訂正します」
銀嶺は、幽の古いTシャツの裾を握った。
「未定義は、完成待ちではありません」
ノイズが一瞬だけ跳ねた。
琴子の赤い左目が、血の光を放つ。
白夜のヒビ入りヘアピンが、黒く軋む。
黒史刀の表面を、消えなかった記録が走る。
それぞれの欠けが、一瞬だけ同じ黒い線として震えた。
完璧な黄金比の魔法陣に、小さな歪みが走る。
だが、天津甕星はそれすらも見下ろした。
「君たちは、壊れたまま勝つつもりかい」
幽は答えようとした。
けれど、声が出なかった。
黄金比の線は止まらない。
首が固定される。
視界が狭くなる。
息ができない。
白夜の声が聞こえる。
琴子の声が聞こえる。
銀嶺の声が聞こえる。
けれど、それらがどんどん遠くなる。
最後に見えたのは、金色の魔法陣の中心へ置かれようとする、自分の首だった。
その向こうで、畳の匂いがした。
窓の外に、明け方の星がひとつだけ光っていた。




