終章:『壊れた星を、髪に留める』
朝が来た。
それは、拍子抜けするくらい普通の朝だった。
東雲神社の境内には、まだ夜露が残っている。
鳥居の向こうでは、通勤の車が走り、遠くの信号機がいつも通りの色で点滅している。
コンビニの自動ドアが開く音。
誰かのスマホの通知音。
犬の散歩をする老人の咳払い。
世界は、ばらばらの音で満ちていた。
昨日までなら、幽はその音の中に、見えない線を探していたかもしれない。
どこかで星がこちらを見ている。
何かが自分を測っている。
次はどこから金色の線が伸びてくるのか。
そう思って、眉間を押さえていたかもしれない。
けれど今、幽の眉間には何もなかった。
熱もない。
痛みもない。
あの小さな金色の点は、もうそこにはない。
「星痕反応、消失」
銀嶺が、幽の顔をのぞき込むようにして言った。
顔が近い。
近すぎる。
「近い近い」
「精密観測です」
「その言葉、便利に使いすぎだろ」
「便利です」
「認めるなよ」
幽が少し身を引くと、銀嶺は無表情のまま頷いた。
彼女の輪郭には、まだ時折、ざざ、と細いノイズが走る。
首元の欠けも完全には戻っていない。
それでも、彼女はそこにいた。
幽の古いTシャツを、今日も当然のように着ている。
「星痕反応は消失しました。ただし、黒歴史反応は残存しています」
「それは一生消えないやつだ」
「消去しますか?」
「するな」
「了解しました」
銀嶺は、わずかに首を傾げる。
「保存対象として再分類します」
「やめろ、丁寧に分類されると余計恥ずかしい」
幽は、傍らに置いた黒史刀を見る。
刀ではない。
伸縮呪棍であり、黒歴史であり、記録であり、失敗であり、消したかったけれど消えなかったもの。
その表面には、もう金色の線は走っていない。
ただ、黒い傷のような模様が残っている。
幽は、それを捨てなかった。
捨てなくてもいいと思えた。
まだ少し、恥ずかしいけれど。
○
琴子は、手水舎の縁に腰かけていた。
左目には、薄い布が当てられている。
完全に見えなくなったわけではないらしい。
けれど、まだ無理に開けると痛むという。
「見えるのか?」
幽が聞くと、琴子は右目だけで幽を見た。
「見える」
「本当に?」
「幽くんの顔くらいなら」
「くらいって何だよ」
「前より変な顔」
「戻ってきてからずっとそれ言うよな」
「安心したって意味」
「分かりにくい」
「知ってる」
琴子は、少しだけ笑った。
その笑顔には疲れが残っている。
左目の奥には、まだ赤い光が薄く沈んでいる。
線を見る目。
縁を喰う力。
幽を守るために使った力。
それは、完全には消えていない。
「まだ、線は見える?」
「少しね」
琴子は、境内の外へ視線を向けた。
「でも、昨日みたいな金色の線じゃない。人と人の間にある、普通の線」
「普通の線?」
「縁とか、約束とか、言いかけた言葉とか、そういうやつ」
「それ、普通か?」
「退魔師の家では普通」
「東雲家の普通、信用できないんだけど」
「月代家の普通よりはマシでしょ。3Dプリンタで妖怪姫出力する家よりは」
「ぐうの音も出ない」
琴子は、ふっと息を吐く。
その表情が、ほんの少し真面目になる。
「でも、幽くんの顔は前より見える」
「ならよかった」
「うん」
琴子は、自分の左目に触れた。
「完全には戻ってないけどね」
「……ごめん」
「それ禁止」
即答だった。
幽は口を閉じる。
琴子は、右目だけで幽を睨む。
「幽くんが全部背負う話じゃない。私が選んだ。朱音も、左目も、線を見ることも」
彼女は、朱音の桐箱をそっと撫でた。
中から、赤黒い気配が小さくざわめく。
「それに」
「それに?」
「変な顔でも見えるなら、まあ、いいかなって」
「やっぱり変な顔って言った」
「安心したって意味」
「二回目でも分かりにくい」
琴子は笑った。
その笑い方は、昔から変わらない。
幽を叱る時と、幽を守る時の中間みたいな顔だった。
○
白夜は、社務所の縁側に座っていた。
朝の光の中で、黒髪が静かに揺れている。
その髪に、ヒビの入った星形のヘアピンが留められていた。
ヒビは残っている。
欠けた部分も、そのままだ。
昨日までなら、白夜はそれを隠そうとしたかもしれない。
けれど今は、隠していなかった。
壊れた星を、そのまま髪に留めている。
「直さないのか?」
幽が隣に座って聞くと、白夜はヘアピンに指を添えた。
「直せますわよ。形だけなら」
「じゃあ」
「でも、同じものにはなりませんもの」
白夜は、朝の光を受けたヘアピンを見つめる。
「これは、幽さまがわたくしにくださったものですわ」
「いや、そんな大層なものじゃ」
「そして、傷ついてもなお、わたくしが捨てられなかったものですわ」
幽は、言葉を止めた。
白夜の指先は、まだ少し透けている。
完全には戻っていない。
それでも、その手は朝の光の中にあった。
「美しくないものを」
白夜は、少しだけ不思議そうに言った。
「美しいと思えるようになってしまいましたわね」
「それ、俺の黒歴史にも適用される?」
「それは程度によりますわ」
「厳しい」
「ですが」
白夜は、幽を見て微笑んだ。
「捨てなくてよかったものも、たしかにございましたわ」
幽は、少しだけ目を伏せた。
黒史刀。
金星。
朝まで生きたいという祈り。
全部、捨てたいものだった。
見ないふりをしたかったものだった。
けれど、それがなければ、戻ってこられなかった。
幽は、白夜のヘアピンを見る。
壊れた星。
髪に留められた、ヒビ入りの記録。
それは、綺麗に直されたものよりも、ずっと白夜に似合っていた。
○
「ところで」
銀嶺が、タブレットを片手に縁側へやってきた。
「朱知圭および加賀美サニーの残存反応について、報告があります」
「あいつら、どうなったんだ?」
幽が聞くと、銀嶺は画面を見せた。
そこには、短いログが残っていた。
朱知圭に関する反応は、ほとんど消えている。
ただ、地下の通信網に、一件だけ文字列が残っていたらしい。
『非効率ですね』
「……朱知っぽいな」
「はい」
銀嶺は頷く。
「人格復元とは言えません。ただし、天津甕星の制御から外れた断片である可能性はあります」
「生きてるのか?」
「不明です」
「不明か」
「ですが、完全に星座へ固定された状態ではないと推定します」
それは、救いと呼ぶには小さすぎるものだった。
けれど、幽は少しだけ息を吐いた。
敵だった。
迷惑だった。
最悪だった。
それでも、星座の部品で終わるよりは、ずっといい。
「サニーは?」
「動画アカウントに、短文が一件投稿されています」
銀嶺は、画面を切り替えた。
そこには、加賀美サニーのアカウントらしきものが表示されていた。
最新投稿。
『映えなさすぎて逆に無理』
幽は、しばらく黙った。
「……本人っぽいな」
「はい。極めて本人らしいと推定します」
「褒めてるのかそれ」
「評価不能です」
白夜がくすりと笑う。
「まあ、雲も完全には晴れませんでしたのね」
「曇天です」
銀嶺が静かに言った。
幽は、思わず笑った。
全員が完全に救われたわけではない。
何もかも元通りになったわけではない。
それでも、星座に固定されるよりはずっといい。
非効率で。
映えなくて。
曇っていて。
それでも、それぞれが少しずつ自分の方へ戻っていく。
そんな気がした。
○
夕方になった。
東雲神社の境内に、薄い青の影が落ち始める。
昼と夜の境目。
幽がかつて一番怖かった時間。
鳥居の向こうに、最初の星が見えた。
金星ではない。
ただの星。
それでも、幽は足を止めた。
「幽くん?」
琴子が気づく。
「何でもない」
そう言いかけて、幽は少しだけ笑った。
何でもない。
大丈夫。
普通。
その言葉たちは、まだ少しだけ危うい。
だから、幽は言い直す。
「……少し、見てただけ」
星は、まだ空にあった。
天津甕星は、完全に消えたわけではない。
あの声は、最後に言った。
次に祈るときも、そう言えるといいね。
たぶん、星はまた誰かの祈りを聞くのだろう。
朝まで生きたいという声を。
助けてほしいという声を。
意味を求める声を。
そして、また線を引こうとするのかもしれない。
けれど幽は、もう眉間を押さえなかった。
見られているのではない。
自分から、見上げた。
星は怖くない。
怖くない、というより。
怖いままでも、見られる。
「今日も、生きてる」
幽は、小さく呟いた。
それは、誰かに返すための祈りではなかった。
星に預けるための言葉でもなかった。
自分の中に戻ってきた、ただの確認だった。
白夜が、隣に立つ。
「幽さま?」
「いや」
幽は、空から視線を戻す。
「ちょっと思っただけ」
「何をですの?」
「夜って、思ったより長くないなって」
白夜は、少し目を丸くした。
それから、ふふ、と笑った。
「では、今夜も越えてみせましょう」
「簡単に言うなよ」
「幽さまならできますわ」
「急に信頼が重い」
「当然ですわ。わたくしが見込んだ首級ですもの」
「言い方」
幽が顔をしかめると、白夜は楽しそうに笑った。
○
「ところでさ」
幽は、恐る恐る尋ねた。
「白夜は、まだ世界を滅ぼすつもりなの?」
白夜は、ヒビ入りの星形ヘアピンに指を添えた。
そして、胸を張る。
「ふふ、当然ですわ!」
「当然なのかよ」
「妖怪姫としてのしきたりですもの」
「しきたりで世界を滅ぼすなよ」
「ですが、今日ではございませんわ」
白夜は、そっと幽の手を握った。
指先は少し透けている。
けれど、温かかった。
「その前に、幽さまの首を狙う怪異どもから、幽さまを守って差し上げなくてはなりませんの」
「白夜……」
「だって、その首は」
白夜は、少しだけいたずらっぽく笑う。
「幽さまが、嫌だとおっしゃるためのものでしょう?」
幽は、何も言えなくなった。
その沈黙を、当然のように別の声が破った。
「あ! ちょっとアンタ、何してんのよ!」
琴子が、二人の手を見て叫んだ。
「守るのは私が守るから! アンタはとっとと妖怪の世界に帰りなさいよ!」
「まあ、番犬さん。まだ首輪もつけていないのに、ずいぶん吠えますのね」
「誰が番犬よ!」
「首輪は未確認です」
銀嶺が、いつの間にか幽の反対側に立っていた。
そして、するりと幽の腕にしがみつく。
「私も、まだ幽からぬくもりを一〇〇%摂取できていません」
「摂取って言うな!」
「このポンコツ娘! アンタもアンタで離れなさいよ!」
「離れる必要性を確認できません」
「確認しなさい!」
「離れるのは、お前もじゃ」
低い声が落ちた。
「じいちゃん!?」
弦五郎が、いつの間にか鳥居の影に立っていた。
杖をつき、いつもの渋い顔で、しかしどこか呆れたように全員を見ている。
「境内で騒ぐな。あと月代、貴様も鼻の下を伸ばすでない」
「伸ばしてません!」
「観測上、微増」
「銀嶺!」
「幽さま、わたくしの手を振りほどかないということは、これは同意と見てよろしいですわね?」
「見ないで!」
「同意ではありません! 幽くん、手、離して!」
「いや、俺の手、俺の意思で動いてないんだけど!」
「それが一番問題じゃ!」
弦五郎の怒鳴り声が、境内に響いた。
琴子が叫び、白夜が笑い、銀嶺が首を傾げる。
朱音の桐箱が、かすかにがさりと鳴る。
どこかで烏が鳴いた。
誰かのスマホが間抜けな通知音を鳴らした。
騒がしい。
ばらばらで、整っていなくて、まったく美しくない。
もう夜が怖くなくなった、わけではない。
怖くなる夜は、たぶんまた来る。
それでも幽は思った。
この三人といれば、きっと夜は明ける。
幽は、空を見上げた。
星はまだそこにあった。
けれど、もう幽を縛る線ではなかった。
幽が、自分で見上げる光だった。




