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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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22/22

終章:『壊れた星を、髪に留める』

 朝が来た。

 それは、拍子抜けするくらい普通の朝だった。

 東雲神社の境内には、まだ夜露が残っている。

 鳥居の向こうでは、通勤の車が走り、遠くの信号機がいつも通りの色で点滅している。

 コンビニの自動ドアが開く音。

 誰かのスマホの通知音。

 犬の散歩をする老人の咳払い。

 世界は、ばらばらの音で満ちていた。

 昨日までなら、幽はその音の中に、見えない線を探していたかもしれない。

 どこかで星がこちらを見ている。

 何かが自分を測っている。

 次はどこから金色の線が伸びてくるのか。

 そう思って、眉間を押さえていたかもしれない。

 けれど今、幽の眉間には何もなかった。

 熱もない。

 痛みもない。

 あの小さな金色の点は、もうそこにはない。


「星痕反応、消失」


 銀嶺が、幽の顔をのぞき込むようにして言った。

 顔が近い。

 近すぎる。


「近い近い」

「精密観測です」

「その言葉、便利に使いすぎだろ」

「便利です」

「認めるなよ」


 幽が少し身を引くと、銀嶺は無表情のまま頷いた。

 彼女の輪郭には、まだ時折、ざざ、と細いノイズが走る。

 首元の欠けも完全には戻っていない。

 それでも、彼女はそこにいた。

 幽の古いTシャツを、今日も当然のように着ている。


「星痕反応は消失しました。ただし、黒歴史反応は残存しています」

「それは一生消えないやつだ」

「消去しますか?」

「するな」

「了解しました」


 銀嶺は、わずかに首を傾げる。


「保存対象として再分類します」

「やめろ、丁寧に分類されると余計恥ずかしい」


 幽は、傍らに置いた黒史刀を見る。

 刀ではない。

 伸縮呪棍であり、黒歴史であり、記録であり、失敗であり、消したかったけれど消えなかったもの。

 その表面には、もう金色の線は走っていない。

 ただ、黒い傷のような模様が残っている。

 幽は、それを捨てなかった。

 捨てなくてもいいと思えた。

 まだ少し、恥ずかしいけれど。


   ○


 琴子は、手水舎の縁に腰かけていた。

 左目には、薄い布が当てられている。

 完全に見えなくなったわけではないらしい。

 けれど、まだ無理に開けると痛むという。


「見えるのか?」


 幽が聞くと、琴子は右目だけで幽を見た。


「見える」

「本当に?」

「幽くんの顔くらいなら」

「くらいって何だよ」

「前より変な顔」

「戻ってきてからずっとそれ言うよな」

「安心したって意味」

「分かりにくい」

「知ってる」


 琴子は、少しだけ笑った。

 その笑顔には疲れが残っている。

 左目の奥には、まだ赤い光が薄く沈んでいる。

 線を見る目。

 縁を喰う力。

 幽を守るために使った力。

 それは、完全には消えていない。


「まだ、線は見える?」

「少しね」


 琴子は、境内の外へ視線を向けた。


「でも、昨日みたいな金色の線じゃない。人と人の間にある、普通の線」

「普通の線?」

「縁とか、約束とか、言いかけた言葉とか、そういうやつ」

「それ、普通か?」

「退魔師の家では普通」

「東雲家の普通、信用できないんだけど」

「月代家の普通よりはマシでしょ。3Dプリンタで妖怪姫出力する家よりは」

「ぐうの音も出ない」


 琴子は、ふっと息を吐く。

 その表情が、ほんの少し真面目になる。


「でも、幽くんの顔は前より見える」

「ならよかった」

「うん」


 琴子は、自分の左目に触れた。


「完全には戻ってないけどね」

「……ごめん」

「それ禁止」


 即答だった。

 幽は口を閉じる。

 琴子は、右目だけで幽を睨む。


「幽くんが全部背負う話じゃない。私が選んだ。朱音も、左目も、線を見ることも」


 彼女は、朱音の桐箱をそっと撫でた。

 中から、赤黒い気配が小さくざわめく。


「それに」

「それに?」

「変な顔でも見えるなら、まあ、いいかなって」

「やっぱり変な顔って言った」

「安心したって意味」

「二回目でも分かりにくい」


 琴子は笑った。

 その笑い方は、昔から変わらない。

 幽を叱る時と、幽を守る時の中間みたいな顔だった。


   ○


 白夜は、社務所の縁側に座っていた。

 朝の光の中で、黒髪が静かに揺れている。

 その髪に、ヒビの入った星形のヘアピンが留められていた。

 ヒビは残っている。

 欠けた部分も、そのままだ。

 昨日までなら、白夜はそれを隠そうとしたかもしれない。

 けれど今は、隠していなかった。

 壊れた星を、そのまま髪に留めている。


「直さないのか?」


 幽が隣に座って聞くと、白夜はヘアピンに指を添えた。


「直せますわよ。形だけなら」

「じゃあ」

「でも、同じものにはなりませんもの」


 白夜は、朝の光を受けたヘアピンを見つめる。


「これは、幽さまがわたくしにくださったものですわ」

「いや、そんな大層なものじゃ」

「そして、傷ついてもなお、わたくしが捨てられなかったものですわ」


 幽は、言葉を止めた。

 白夜の指先は、まだ少し透けている。

 完全には戻っていない。

 それでも、その手は朝の光の中にあった。


「美しくないものを」


 白夜は、少しだけ不思議そうに言った。


「美しいと思えるようになってしまいましたわね」

「それ、俺の黒歴史にも適用される?」

「それは程度によりますわ」

「厳しい」

「ですが」


 白夜は、幽を見て微笑んだ。


「捨てなくてよかったものも、たしかにございましたわ」


 幽は、少しだけ目を伏せた。

 黒史刀。

 金星。

 朝まで生きたいという祈り。

 全部、捨てたいものだった。

 見ないふりをしたかったものだった。

 けれど、それがなければ、戻ってこられなかった。

 幽は、白夜のヘアピンを見る。

 壊れた星。

 髪に留められた、ヒビ入りの記録。

 それは、綺麗に直されたものよりも、ずっと白夜に似合っていた。


   ○


「ところで」


 銀嶺が、タブレットを片手に縁側へやってきた。


「朱知圭および加賀美サニーの残存反応について、報告があります」

「あいつら、どうなったんだ?」


 幽が聞くと、銀嶺は画面を見せた。

 そこには、短いログが残っていた。

 朱知圭に関する反応は、ほとんど消えている。

 ただ、地下の通信網に、一件だけ文字列が残っていたらしい。


『非効率ですね』

「……朱知っぽいな」

「はい」


 銀嶺は頷く。


「人格復元とは言えません。ただし、天津甕星の制御から外れた断片である可能性はあります」

「生きてるのか?」

「不明です」

「不明か」

「ですが、完全に星座へ固定された状態ではないと推定します」


 それは、救いと呼ぶには小さすぎるものだった。

 けれど、幽は少しだけ息を吐いた。

 敵だった。

 迷惑だった。

 最悪だった。

 それでも、星座の部品で終わるよりは、ずっといい。


「サニーは?」

「動画アカウントに、短文が一件投稿されています」


 銀嶺は、画面を切り替えた。

 そこには、加賀美サニーのアカウントらしきものが表示されていた。

 最新投稿。


『映えなさすぎて逆に無理』


 幽は、しばらく黙った。


「……本人っぽいな」

「はい。極めて本人らしいと推定します」

「褒めてるのかそれ」

「評価不能です」


 白夜がくすりと笑う。


「まあ、雲も完全には晴れませんでしたのね」

「曇天です」


 銀嶺が静かに言った。

 幽は、思わず笑った。

 全員が完全に救われたわけではない。

 何もかも元通りになったわけではない。

 それでも、星座に固定されるよりはずっといい。

 非効率で。

 映えなくて。

 曇っていて。

 それでも、それぞれが少しずつ自分の方へ戻っていく。

 そんな気がした。


   ○


 夕方になった。

 東雲神社の境内に、薄い青の影が落ち始める。

 昼と夜の境目。

 幽がかつて一番怖かった時間。

 鳥居の向こうに、最初の星が見えた。

 金星ではない。

 ただの星。

 それでも、幽は足を止めた。


「幽くん?」


 琴子が気づく。


「何でもない」


 そう言いかけて、幽は少しだけ笑った。

 何でもない。

 大丈夫。

 普通。

 その言葉たちは、まだ少しだけ危うい。

 だから、幽は言い直す。


「……少し、見てただけ」


 星は、まだ空にあった。

 天津甕星は、完全に消えたわけではない。

 あの声は、最後に言った。

 次に祈るときも、そう言えるといいね。

 たぶん、星はまた誰かの祈りを聞くのだろう。

 朝まで生きたいという声を。

 助けてほしいという声を。

 意味を求める声を。

 そして、また線を引こうとするのかもしれない。

 けれど幽は、もう眉間を押さえなかった。

 見られているのではない。

 自分から、見上げた。

 星は怖くない。

 怖くない、というより。

 怖いままでも、見られる。


「今日も、生きてる」


 幽は、小さく呟いた。

 それは、誰かに返すための祈りではなかった。

 星に預けるための言葉でもなかった。

 自分の中に戻ってきた、ただの確認だった。

 白夜が、隣に立つ。


「幽さま?」

「いや」


 幽は、空から視線を戻す。


「ちょっと思っただけ」

「何をですの?」

「夜って、思ったより長くないなって」


 白夜は、少し目を丸くした。

 それから、ふふ、と笑った。


「では、今夜も越えてみせましょう」

「簡単に言うなよ」

「幽さまならできますわ」

「急に信頼が重い」

「当然ですわ。わたくしが見込んだ首級ですもの」

「言い方」


 幽が顔をしかめると、白夜は楽しそうに笑った。


   ○


「ところでさ」


 幽は、恐る恐る尋ねた。


「白夜は、まだ世界を滅ぼすつもりなの?」


 白夜は、ヒビ入りの星形ヘアピンに指を添えた。

 そして、胸を張る。


「ふふ、当然ですわ!」

「当然なのかよ」

「妖怪姫としてのしきたりですもの」

「しきたりで世界を滅ぼすなよ」

「ですが、今日ではございませんわ」


 白夜は、そっと幽の手を握った。

 指先は少し透けている。

 けれど、温かかった。


「その前に、幽さまの首を狙う怪異どもから、幽さまを守って差し上げなくてはなりませんの」

「白夜……」

「だって、その首は」


 白夜は、少しだけいたずらっぽく笑う。


「幽さまが、嫌だとおっしゃるためのものでしょう?」


 幽は、何も言えなくなった。

 その沈黙を、当然のように別の声が破った。


「あ! ちょっとアンタ、何してんのよ!」


 琴子が、二人の手を見て叫んだ。


「守るのは私が守るから! アンタはとっとと妖怪の世界に帰りなさいよ!」

「まあ、番犬さん。まだ首輪もつけていないのに、ずいぶん吠えますのね」

「誰が番犬よ!」

「首輪は未確認です」


 銀嶺が、いつの間にか幽の反対側に立っていた。

 そして、するりと幽の腕にしがみつく。


「私も、まだ幽からぬくもりを一〇〇%摂取できていません」

「摂取って言うな!」

「このポンコツ娘! アンタもアンタで離れなさいよ!」

「離れる必要性を確認できません」

「確認しなさい!」

「離れるのは、お前もじゃ」


 低い声が落ちた。


「じいちゃん!?」


 弦五郎が、いつの間にか鳥居の影に立っていた。

 杖をつき、いつもの渋い顔で、しかしどこか呆れたように全員を見ている。


「境内で騒ぐな。あと月代、貴様も鼻の下を伸ばすでない」

「伸ばしてません!」

「観測上、微増」

「銀嶺!」

「幽さま、わたくしの手を振りほどかないということは、これは同意と見てよろしいですわね?」

「見ないで!」

「同意ではありません! 幽くん、手、離して!」

「いや、俺の手、俺の意思で動いてないんだけど!」

「それが一番問題じゃ!」


 弦五郎の怒鳴り声が、境内に響いた。

 琴子が叫び、白夜が笑い、銀嶺が首を傾げる。

 朱音の桐箱が、かすかにがさりと鳴る。

 どこかで烏が鳴いた。

 誰かのスマホが間抜けな通知音を鳴らした。

 騒がしい。

 ばらばらで、整っていなくて、まったく美しくない。

 もう夜が怖くなくなった、わけではない。

 怖くなる夜は、たぶんまた来る。

 それでも幽は思った。

 この三人といれば、きっと夜は明ける。


 幽は、空を見上げた。

 星はまだそこにあった。

 けれど、もう幽を縛る線ではなかった。

 幽が、自分で見上げる光だった。


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