第11章:『星はもう、空だけにない』
学校は、いつも通りだった。
いつも通り、校門の前で生徒たちが騒いでいる。
いつも通り、誰かが寝癖を笑われ、誰かが小テストの範囲を聞き間違えて叫んでいる。
いつも通り、昇降口の前では運動部の男子が朝から無駄に元気で、誰かの靴箱には、昨日入れっぱなしだったプリントがぐしゃぐしゃのまま突っ込まれている。
いつも通り。
普通。
そう思おうとして、幽の眉間が、ちり、と熱を持った。
「……っ」
幽は、額を押さえる。
普通。
大丈夫。
いつも通り。
そのどれもが、もう安全な言葉ではなかった。
「幽くん?」
隣を歩いていた琴子が、すぐに気づいた。
右目は幽を見ている。
左目は、幽の少し上を見ている。
眉間から伸びる、見えないはずの金色の線を。
「……普通、ではない」
幽は、ゆっくりと言い直した。
「でも、戻ってきた」
眉間の熱は、それ以上強くならなかった。
琴子が、ほんの少しだけ目を丸くする。
「今の言い方」
「何だよ」
「ちょっと良かった」
「褒められてる気がしない」
「褒めてるわよ。幽くんにしては、かなり正確」
「それ、銀嶺に言われるより傷つくんだけど」
「では、私からも評価します」
背後から銀嶺の声がした。
幽は振り返る。
銀嶺は、幽の古いTシャツの上に学校指定のジャージを羽織っていた。
どう見ても生徒ではない。
けれど、銀嶺は平然としていた。
「現在の発言は、前回比で精度が向上しています」
「やっぱり採点されてる!」
「採点ではありません。観測です」
「その違い、まだ納得してないからな」
幽がそう言うと、琴子が小さく笑った。
その笑い声だけは、いつもの朝に近かった。
けれど。
琴子の左目は、ずっと校舎を見ていた。
「琴子?」
「……線がある」
琴子は、低く呟いた。
「校舎に?」
「校舎だけじゃない」
彼女は、左目を細める。
「生徒。先生。スマホ。窓。黒板。校内放送のスピーカー。掲示板。出席簿」
「出席簿?」
「名前が並んでるものは、特に濃い」
その言葉に、幽の背筋が冷えた。
名前。
呼び名。
定義。
天津甕星が好きそうなものばかりだった。
琴子は、自分の左目を押さえる。
「細い金色の線が、全部、どこかへ伸びてる」
「どこへ?」
「まだ分からない。でも、空じゃない」
琴子は、校舎の向こうを見た。
街の方角。
ビルの影が重なる先。
デジタル・モンスタワーがある方向。
「たぶん、あっち」
幽は、息を呑んだ。
その時、朝のチャイムが鳴った。
いつもの音。
授業開始を知らせる、聞き慣れた電子音。
けれど幽には、その音が、星と星を結ぶ線のように聞こえた。
○
教室も、いつも通りだった。
黒板には、日直が書いた日付。
窓際には、誰かが置き忘れたペットボトル。
机の上には、開きっぱなしの英単語帳。
クラスメイトたちは、幽を見るなり、いつものように声をかけてきた。
「月代、顔色悪くね?」
「昨日も休んでた?」
「また変なもん作って徹夜した?」
「いや、俺の扱い」
幽は反射的に返す。
こういう雑な会話が、少しだけありがたかった。
怪異でも神でも星でもない。
ただのクラスメイト。
ただの朝。
ただの学校。
「大丈夫か?」
誰かが言った。
その瞬間、幽の眉間が、ちり、と疼いた。
大丈夫。
その言葉は、やはり危うかった。
幽は一度、息を吸う。
「……大丈夫では、ないかも」
教室が、少しだけ静かになった。
言った幽自身も驚いた。
そんな返事を、今までなら絶対にしなかった。
「でも」
幽は、続けた。
「学校に来られるくらいではある」
クラスメイトが、変な顔をした。
「なんだそれ」
「月代語?」
「いや、まあ、無理すんなよ」
「おう」
会話は、それで終わった。
拍子抜けするくらい、普通に。
誰も深く追及しない。
誰も笑い飛ばさない。
ただ、少しだけ気まずそうに、それでも受け流してくれた。
幽は、自分の席に座る。
眉間の熱は、それ以上強くならなかった。
正確に言う。
それだけで、少しだけ星の線がずれる。
まだ戦いにもなっていない。
けれど、幽にとっては小さな一歩だった。
隣の席に座った琴子が、横目で幽を見る。
「……今の、よかった」
「また採点?」
「感想」
「ならいい」
「ちょっとだけね」
「ちょっとかよ」
「調子に乗らない」
琴子はそう言って、窓の外へ目を向けた。
そして、表情を変えた。
「幽くん」
「今度は何だよ」
「窓」
幽は、窓ガラスを見る。
そこには教室が映っていた。
自分の顔。
琴子の横顔。
黒板。
朝の光。
何もおかしくない。
そう思った瞬間、窓に映った自分の眉間が、金色に光った。
「っ……!」
幽は思わず立ち上がりかけた。
だが、窓の中の光はすぐに消える。
代わりに、遠くのビルの窓が、一つだけ金色に瞬いた。
また一つ。
また一つ。
街のガラス面が、まだ朝だというのに星のように光る。
琴子の左目が震えた。
「線が……増えてる」
その声は、教室のざわめきに紛れた。
けれど、幽にははっきり聞こえた。
○
朝のホームルームが始まった。
担任が教卓に出席簿を置く。
その何気ない音に、幽の肩がわずかに跳ねた。
出席簿。
名前が並ぶもの。
今日ここにいるかどうかを、確認するもの。
昨日までなら、それはただの学校の道具だった。
けれど今は違う。
名前を呼ばれる。
返事をする。
いる、と認められる。
その全部が、天津甕星の星座定義に似ているように思えた。
「相原」
「はい」
「石田」
「はい」
いつもの出席確認。
いつもの声。
いつもの返事。
けれど、琴子は左目を押さえていた。
幽には見えない。
だが、琴子には見えている。
名前が呼ばれるたびに、細い金色の点がわずかに灯るのを。
「月代」
担任に名前を呼ばれた瞬間、幽の眉間が、ちり、と熱を持った。
「……はい」
返事をする。
ただそれだけのことだった。
けれど、教卓の上に置かれた出席簿で、自分の名前だけが一瞬、金色に光った気がした。
琴子が、左目を押さえる。
「……今、線が濃くなった」
「名前を呼ばれただけで?」
「うん。名前って、たぶん……点になる」
幽は、背筋が冷たくなった。
学校は毎朝、生徒の名前を呼ぶ。
今日ここにいるかどうかを確かめるために。
けれど今は、その当たり前の確認さえ、星座を作るための準備に見えた。
「西条」
「はい」
次の生徒が返事をした。
その瞬間、彼の目の焦点が、ほんのわずかにぼやけた。
すぐに戻る。
誰も気づかない。
本人さえ、たぶん気づいていない。
けれど、幽と琴子だけが見た。
名前を呼ばれた一瞬、彼の影の足元に、小さな金色の点が灯ったことを。
幽は、机の下で拳を握った。
これはもう、自分だけの問題ではない。
○
一時間目の授業は、いつも通りに始まった。
教師が黒板に白いチョークで文字を書く。
根拠。
理由。
結論。
線を引いて整理する。
言葉と言葉をつなげる。
本来、それは考えるための作業だった。
ばらばらの事実を並べ、筋道を見つけ、自分の意見を組み立てる。
幽も、そういう授業を嫌いではなかった。
むしろ、言葉に筋道ができていくのは少し気持ちがよかった。
けれど今は。
黒板に引かれた矢印が、星座の線に見えた。
根拠から結論へ。
出来事から意味へ。
感情から役割へ。
点と点を結ぶ線。
幽の眉間が、熱を持つ。
教師が言った。
「つまり、この人物の行動には、こういう意味があると考えられます」
意味。
その言葉に、幽の中で何かが軋んだ。
意味を与える。
線を引く。
役割を決める。
天津甕星の声が、耳の奥で蘇る。
――星は、星であるだけならただの光点だ。
――だが、線を引けば星座になる。
幽は、机の下で拳を握った。
違う。
いや、違わない。
言葉をつなげること自体は悪くない。
意味を考えることも、線を引くことも、人間はずっとやってきた。
問題は、その線を誰が引くのかだ。
自分か。
他人か。
神か。
幽は、ノートの端に小さく書いた。
怖い。
その横に、少し迷ってから書き足す。
でも、考える。
眉間の熱が、ほんの少しだけ弱まった。
○
昼休み。
幽、琴子、銀嶺は、人の少ない階段の踊り場に集まっていた。
銀嶺は、どこから持ってきたのか学校のタブレット端末を手にしている。
画面には、校内Wi—Fiの接続状況らしきものが表示されていた。
「これ、学校の備品じゃないよな?」
「借用しました」
「許可は?」
「未定義です」
「それは無許可って言うんだよ」
「言語上は近似しています」
琴子が、額を押さえた。
「今はそれどころじゃないでしょ」
「そうですね」
銀嶺は画面を幽たちに見せた。
そこには、校内の端末が点のように並んでいる。
スマホ。
タブレット。
電子黒板。
職員室のPC。
校内放送システム。
それらが、細い線で結ばれていた。
普通のネットワーク図に見える。
だが、その線の色は、青ではなかった。
金色だった。
「これ……」
「朱知圭の接続構造に類似しています」
銀嶺は言った。
「でも、朱知圭ではありません」
「どういうこと?」
琴子が聞く。
「人格反応がありません。観察、会話、最適化提案、そういった朱知圭固有の挙動が消えています」
「つまり」
幽が口を開く。
「朱知じゃないけど、朱知の力だけが使われてる?」
「近いです」
銀嶺は頷いた。
「朱知圭だったもの」
その言葉に、空気が重くなった。
幽は、息を呑む。
朱知圭。
あの丁寧で、優しくて、最悪に気持ち悪い土蜘蛛。
彼は敵だった。
倒すべき相手だった。
でも。
だったもの。
その言い方は、あまりにも冷たかった。
「サニーは?」
琴子が聞いた。
銀嶺は、タブレットの画面を切り替える。
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そこに、加賀美サニーの顔が並んでいた。
笑っている。
ウインクしている。
自撮り棒を構えている。
完璧な角度。
完璧な照明。
完璧な笑顔。
けれど、幽はすぐに違和感を覚えた。
「……サニーっぽくない」
「はい」
銀嶺が言った。
「加賀美サニー特有の過剰な自己演出、悪意ある軽薄さ、承認欲求の揺れがありません」
「説明が容赦ないな」
「事実です」
画面の中のサニーは、あまりにも綺麗だった。
綺麗すぎた。
人間味がなかった。
まるで、誰かがサニーという形だけを使って、星空を映すための鏡にしているみたいに。
「サニーだったもの」
琴子が、低く言った。
銀嶺は頷く。
「朱知圭だったものが線を張り、加賀美サニーだったものが映しています」
「何を?」
幽が聞く。
銀嶺は、少しだけ沈黙した。
そして答える。
「統合です」
琴子が眉をひそめる。
「攻撃じゃないの?」
「攻撃ではありません」
銀嶺の声は平坦だった。
「学校、街、端末、名前、記録、位置情報」
画面の中で、金色の線が静かに増えていく。
「ばらばらに存在しているものを、星座定義の前処理として結び直しています」
「前処理……」
「はい」
銀嶺は、画面の金色の線を見つめる。
「天津甕星は、世界を壊そうとしていません」
幽の眉間が熱を持つ。
「整えようとしています」
その言葉は、攻撃よりもずっと怖かった。
○
放課後。
幽たちは、学校を出た。
白夜は校舎には入らなかった。
本調子ではない今、名前と出席簿と校内放送に満ちた場所へ踏み込むのは、彼女にとっても危険だったらしい。
校門近くの木陰に、白夜は立っていた。
ヒビの入った星形ヘアピンが、夕方の光を受けて鈍く光っている。
「白夜」
幽が呼ぶと、白夜は微笑んだ。
「授業はいかがでしたの?」
「頭に入るわけないだろ」
「でしょうね」
「分かってて聞いたな」
「ええ」
いつものやり取り。
けれど、白夜の笑みは少し薄い。
指先はもう透けていない。
だが、扇子を持つ手に力が入りすぎている。
幽は、それを見てしまった。
「……白夜」
「大丈夫ではございませんわ」
白夜は、先回りして言った。
「ですが、歩くことはできます」
「それ、俺の真似か?」
「正確な言葉の練習ですわ」
幽は、少しだけ笑った。
その時。
琴子が、低く息を呑んだ。
「……見えた」
「何が」
幽が振り返る。
琴子は、夕方の街を見ていた。
信号機。
街灯。
ビルの窓。
スマホを持つ人々。
コンビニの自動ドア。
駅前の大型ビジョン。
それらの一点一点が、金色に灯っている。
普通の人には見えない。
幽にも、ほとんど見えない。
けれど琴子の左目には、はっきり見えているらしかった。
金色の点。
そして、それらを結ぶ線。
「全部、繋がってる」
琴子の声が震えた。
「線が、全部……あそこに向かってる」
彼女が指差した先。
街の向こうにそびえる、デジタル・モンスタワー。
夕陽を受けたそのビルの窓が、ひとつずつ金色に光っていく。
まるで、空にない星を、地上に並べているみたいに。
銀嶺が、タブレットを見た。
「校内ネットワーク、街灯管理システム、交通信号、広告配信、位置情報、決済端末。同期が進行中」
「それ、つまり?」
琴子が聞く。
「街全体が、星座定義の演算領域になりつつあります」
幽の眉間が、強く熱を持った。
「……俺のせいか」
言った瞬間、星痕が少し疼く。
幽は奥歯を噛んだ。
その言い方は、正確ではない。
全部が自分のせいではない。
でも、関係ないとも言えない。
幽は、言い直した。
「俺が、最後のパーツなんだな」
白夜が、幽を見る。
琴子が、朱音の桐箱を握る。
銀嶺が、無言で頷いた。
「幽の星痕と、街の線が同期しつつあります」
銀嶺は言った。
「放置すれば、幽の中の点と街の点が結ばれる可能性があります」
「結ばれたら?」
琴子が聞いた。
「不明です」
銀嶺は答えた。
「ただし、良い結果ではないと推定します」
「でしょうね」
琴子は、左目を押さえた。
その時だった。
駅前の大型ビジョンが、突然切り替わった。
映ったのは、加賀美サニーだった。
いや。
加賀美サニーだったもの。
完璧な笑顔。
完璧な角度。
完璧すぎて、空っぽの顔。
画面の中の彼女が、スマホを掲げる。
そのスマホの画面に、金色の星空が映っていた。
同時に、街路樹の影が揺れた。
電線が、蜘蛛の糸のように金色に光る。
その向こうに、朱知圭が立っていた。
いや。
朱知圭だったものが。
穏やかな笑み。
整ったスーツ。
けれど瞳の奥に、あの観察者の光はない。
額に。
喉に。
胸に。
指先に。
金色の点が灯っている。
それらを、細い線が結んでいた。
人の形をした、星座。
朱知だったものが、口を開いた。
声は朱知のものではなかった。
「土は、線を張る」
大型ビジョンの中で、サニーだったものが微笑む。
「雲は、星を映す」
その声も、サニーではなかった。
天の声だった。
優しく、澄んで、最悪に穏やかな声。
幽の星痕が焼ける。
「君たちは、世界を乱雑なままにしておきたいのかい?」
街の灯りが、ひとつずつ金色に変わっていく。
「星には線を」
信号機が光る。
「言葉には意味を」
スマホの画面が光る。
「人には役割を」
ビルの窓が光る。
「祈りには、帰るべき場所を」
幽は、震える手で黒史刀を握った。
怖い。
怖いに決まっている。
白夜が勝てない相手だ。
街全体が星座にされかけている。
自分の眉間には、もう点が打たれている。
大丈夫なんて、とても言えない。
「……怖い」
幽は言った。
声は震えていた。
でも、言えた。
「怖い。めちゃくちゃ怖い」
琴子が幽を見る。
白夜も幽を見る。
銀嶺が、黙って記録している。
幽は、デジタル・モンスタワーを見上げた。
「でも、行くしかない」
眉間の熱は、強くならなかった。
むしろ、ほんの少しだけ、金色の点が奥へ退いた気がした。
白夜が、扇子を開く。
「正確な言葉ですわね」
「褒めてんのか」
「ええ」
白夜は微笑んだ。
まだ少し疲れている。
けれど、その瞳には、昨夜とは違う光が戻っていた。
「それでは参りましょう」
琴子が朱音の桐箱を抱え直す。
「線は私が見る」
銀嶺がタブレットを閉じる。
「再利用構造は、私が乱します」
白夜が、ヒビ入りのヘアピンに触れる。
「壊すべき世界なら、わたくしが壊しますわ」
幽は、黒史刀を握りしめた。
空を見上げなくても、星はあった。
街の明かりが、ひとつずつ金色に変わっていく。
天津甕星は、夜空ではなく、日常そのものに星座を描き始めていた。




