第10章 『人の為の言葉は祈りに似ている』
朝が来た。
それなのに、幽は安心できなかった。
東雲神社の境内には、いつも通りの光が差している。
鳥居の向こうの空は薄く白み、紙垂が朝の風に揺れ、石畳には柔らかな光が落ちている。
遠くで、通学路へ向かう生徒たちの声が聞こえた。
日常の音。
朝の音。
いつもなら、それは救いだった。
布団の中で息を殺し、窓の外に立つ影から目を逸らし、天井の隅の黒い染みが動かないことを祈りながら待ったもの。
朝。
夜明け。
明けの明星。
今日も死なずに済んだと、そう思えた時間。
けれど今は。
幽は、空を見ることができなかった。
見上げれば、そこに金色の星がある気がした。
見てしまえば、また聞こえる気がした。
――君は、僕を見ていた。
眉間の奥が、ちり、と疼く。
幽は額を押さえた。
逃げた。
逃げたはずだった。
けれど、星はまだ、幽の中にいた。
「幽くん」
声がした。
振り向くと、琴子が立っていた。
左目を、軽く押さえている。
右目はいつもの琴子の目だった。
少し怒っていて、少し心配していて、少しだけ眠そうな目。
でも、左目だけが違う。
赤い。
血の色ではない。
朱音の赤だ。
昨夜、土蜘蛛の網を喰い破った百足の色が、まだ瞳の奥に残っている。
「寝てないでしょ」
「……ちょっとは寝た」
「嘘」
「いや、目は閉じた」
「それ寝たって言わない」
琴子は近づきかけて、途中で足を止めた。
幽は、その動きに気づいた。
「どうした?」
「……別に」
「その“別に”は、だいたい別にじゃないやつだろ」
「幽くんに言われたくない」
琴子は唇を尖らせた。
けれど、すぐに表情を戻す。
そして、幽の顔を見た。
正確には、幽の眉間を見た。
「……やっぱり、見える」
「何が」
「線」
琴子は、左目を細めた。
「幽くんの眉間から、細い金色の線が出てる。見えたり、消えたりしてる。嫌なくらい、はっきり」
幽の背筋が冷えた。
自分では見えない。
けれど、そこにある感覚だけは分かる。
昨日、天が言った。
点は打った、と。
「やっぱり、残ってるんだな」
「……うん」
琴子は小さく頷いた。
それから、少しだけ苦しそうに顔を歪める。
「幽くんの顔、少し見えづらい」
「え?」
「右目で見れば普通。でも、左目だと、顔の輪郭がぼやける。なのに、その線だけは見える」
琴子は、苛立ったように左目を押さえた。
「最悪。幽くんの顔が見えづらくなって、あいつがつけた線だけ見えるとか、趣味悪すぎるでしょ」
幽は、何も返せなかった。
琴子の左目。
朱音の代償。
幽を守るために、琴子が喰わせたもの。
その結果、琴子は幽の顔よりも、幽を縛る線の方を強く見るようになってしまった。
「ごめん」
気づけば、幽はそう言っていた。
琴子の眉が跳ねる。
「なんで幽くんが謝るの」
「いや、だって」
「だってじゃない」
琴子は、低い声で遮った。
「これは私が選んだの。朱音を抜いたのも、あれに喰わせたのも、幽くんを追いかけるために残したのも、全部私」
左目の赤が、朝の光の中で揺れる。
「だから、幽くんが謝るところじゃない」
「……でも」
「でも、じゃない」
琴子の声が、少しだけ柔らかくなる。
「その代わり、ちゃんと怖がって」
「え?」
「大丈夫とか、平気とか、言わないで。今の幽くんがそれを言うと、たぶんあいつに使われる」
幽は、息を呑んだ。
自分でも分かっていた。
言おうとしていた。
大丈夫。
平気。
なんでもない。
いつものように、そう言ってやり過ごそうとしていた。
琴子を安心させるため。
白夜に心配をかけないため。
自分自身に、まだ普通だと思い込ませるため。
「……大丈夫」
試しに、言いかけた。
その瞬間。
眉間の奥が、焼けた。
「っ……!」
幽は思わず額を押さえた。
金色の点が、内側で光る。
大丈夫。
平気。
なんでもない。
その言葉は、たぶん自分のためだけのものではなかった。
琴子を安心させるため。
白夜に心配をかけないため。
銀嶺に余計な計算をさせないため。
自分がまだ普通だと、周りに信じてもらうため。
人の為の言葉。
けれど、それはほんの少しだけ、自分を偽る言葉でもあった。
誰かを傷つけないために差し出す、薄い祈り。
だからこそ、天はそれを拾えるのだと、幽はようやく分かった。
祈りは、あの星に届いてしまう。
「幽くん」
琴子が手を伸ばしかけた。
けれど、触れない。
たぶん、触れたら幽が崩れると思ったのだ。
幽は、ゆっくり息を吸った。
「……怖い」
やっと、それだけ言えた。
声は情けないくらい小さかった。
でも、言った瞬間。
眉間の熱が、ほんの少しだけ弱まった。
「……あれ?」
幽は額に触れた。
痛みが消えたわけではない。
金色の点はまだある。
でも、さっきよりも少しだけ、奥へ退いた気がした。
琴子が目を細める。
「今、線が少し薄くなった」
「本当か?」
「うん」
琴子は、まだ赤い左目で幽を見る。
「大丈夫って言おうとした時は、線が強くなった。でも、怖いって言ったら、少し緩んだ」
「……なんだよ、それ」
幽は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「強がると縛られて、怖いって言うと緩むのかよ」
「たぶん」
琴子は、不機嫌そうに言った。
「むかつくけど、あいつの能力って、そういうことなんだと思う」
「どういうことだよ」
「嘘じゃない言葉を使うんでしょ。でも、正確じゃない言葉も使われる。大丈夫、平気、なんでもない。そういう言葉って、全部嘘じゃない。でも、全部じゃない」
琴子は、自分で言いながら少し顔をしかめた。
「……私、なんかそれっぽいこと言ってる?」
「言ってる」
「ムカつく」
「なんでだよ」
「銀嶺みたいだから」
その声に反応したように、社務所の方から銀嶺が現れた。
幽の古いTシャツの上に、弦五郎がどこからか持ってきた羽織を肩にかけている。
首筋のノイズ亀裂は、まだ完全には消えていない。
白銀の肌の一部に、細いひびのような光が残っている。
「呼ばれました」
「呼んでない」
「琴子の発言に、私との比較語が含まれていました」
「地獄耳か」
「耳は通常出力です」
銀嶺は幽の少し手前で止まった。
じっと眉間を見る。
いや、見ようとして、途中で視線を逸らした。
「観測してもよろしいですか」
「いや、さっき見るなって言ったけど……」
「見ません。観測します」
「どう違うんだよ」
「気持ちの問題です」
「お前も言うようになったな……」
銀嶺は、少しだけ首を傾けた。
「星座定義。仮称です」
「もう名前つけたのか」
「便宜上です。正式名称ではありません。天本人の命名ではないため、固定力は弱いと推測します」
「名前に固定力とかあるの、嫌すぎるんだけど」
「あります」
銀嶺は淡々と答えた。
「あれは、外から嘘を押しつけているのではありません。幽の内部にあった言葉を使いました」
「俺の中にあった言葉……」
「はい。金星の同胞、深淵なる明星、朝まで生きたい。痛いものと、痛くないものが混ざっていました」
「痛いものって言うな」
「訂正します。非常に痛いもの」
「悪化した!」
琴子が、ほんの少しだけ笑った。
その笑いで、朝の空気が一瞬だけ戻った。
普通の朝。
普通の会話。
いつもの幽たち。
けれど、その普通さの下に、金色の点が沈んでいる。
銀嶺は続けた。
「推定ですが、天は“嘘”を星にできません」
「嘘は?」
「固定力が弱い。あるいは、星にならない」
「じゃあ、怖いって言えばいいのか?」
「それだけでは不十分です」
銀嶺は、幽を見る。
「正確である必要があります」
「正確?」
「はい。怖い。怒っている。救われたことを否定できない。所有されたくない。まだ分からない。そういう未整理の真実を、幽自身が言葉にする必要があります」
幽は、言葉を失った。
自分の感情を正確に言葉にする。
それは、幽にとってかなり苦手なことだった。
怖いものを、怖いと言う。
痛いものを、痛いと言う。
救われたものを、救われたと認める。
でも、所有されたくないとも言う。
そんな器用なことが、自分にできるのか。
「無理そうな顔をしています」
銀嶺が言った。
「顔に出てた?」
「はい」
「じゃあ、無理かも」
眉間が、ちり、と疼いた。
幽は息を呑む。
今の言葉。
無理かも。
それもまた、完全な嘘ではない。
でも、全部でもない。
幽は、拳を握った。
「……無理かもしれないけど」
言い直す。
「やらなきゃいけない、とは思ってる」
眉間の熱は、それ以上強くならなかった。
銀嶺が小さく頷く。
「今の方が、正確です」
「採点されてるみたいで嫌だな」
「幽の発言精度を記録しています」
「やめろ、国語の授業か」
琴子が、少しだけ噴き出した。
「幽くん、発言精度低そう」
「否定できないのがつらい」
「そこは否定しなさいよ」
その時だった。
「騒がしいの」
弦五郎の声がした。
竹ぼうきを肩に担いだ老人が、境内の奥から歩いてくる。
その顔は、いつも通り渋い。
だが、幽の眉間を見た瞬間だけ、目つきが少し鋭くなった。
「まだ点は一つか」
「見えるんですか」
幽が聞く。
「見えん」
「じゃあ、なんで」
「空気が歪む。そこだけ朝の光が避けておる」
弦五郎は、幽の前に立った。
「昨夜、言ったな。点を線にさせるな、と」
「はい」
「もう一つ言うておく」
竹ぼうきの先が、幽の眉間を指す。
以前なら、それだけで幽は腰が引けただろう。
今も引けた。
かなり引けた。
「切ればよいというものではない」
弦五郎は、琴子を見る。
「特にお前じゃ、琴子」
琴子の肩が跳ねた。
「……分かってる」
「分かっておらん顔じゃ」
「分かってるってば」
「ならば、その朱音を握る手を緩めよ」
琴子は、そこで初めて気づいたように、自分の手を見た。
いつの間にか、朱音の桐箱を強く掴んでいた。
指の関節が白くなっている。
「線が見えるなら、切りたくなる」
弦五郎は言った。
「だが、その線の片端は幽の中にある。乱暴に断てば、あやつの中の真実ごと裂く」
琴子の顔が、白くなった。
「幽くんを、傷つけるってこと?」
「そうじゃ」
弦五郎は、ためらわずに言った。
「救うつもりで、壊すことになる」
その言葉は、琴子に刺さった。
白夜にも刺さった。
そして、幽にも刺さった。
守るために壊す。
繋ぐために縛る。
救うために所有する。
みんな、少しずつ似ている。
似ているからこそ、間違える。
「……難しすぎるだろ」
幽は、思わず呟いた。
「正直に怖いって言えとか、線は切るなとか、でも線にさせるなとか。こっちは普通の高校生なんだぞ」
「普通の高校生は、妖怪王の姫を3Dプリンタで出力せん」
弦五郎が即答した。
「……それはそう」
幽は反論できなかった。
その時。
社務所の戸が、静かに開いた。
白夜が出てきた。
黒い髪をゆるく結び、ヒビの入った星形ヘアピンをいつもの場所に留めている。
顔色は悪くない。
少なくとも、そう見せている。
だが、幽は気づいた。
白夜が戸口に手をかけたまま、一瞬だけ立ち止まったこと。
指先が、ほんのわずかに透けたこと。
そして、それをすぐに袖の中へ隠したこと。
「皆さま、朝からずいぶん賑やかですのね」
白夜は微笑んだ。
いつものように。
優雅に。
完璧に。
「白夜」
幽が呼ぶ。
「何ですの、幽さま」
「……大丈夫か?」
言った瞬間、幽の眉間が少し疼いた。
断言したわけじゃない。 ただ、白夜を心配しただけだ。 それでも、“大丈夫”という言葉に、星痕が反応した。
祈りに似た言葉は、もう安全ではない。
「大丈夫ではございませんわ」
白夜は言った。
あっさりと。
幽だけでなく、琴子も銀嶺も、少し驚いた。
白夜は、扇子を開く。
「昨夜、かなり無理をいたしました。妖力の戻りも遅い。今あの星神が再び現れれば、わたくし一人では幽さまを逃がすことも難しいでしょう」
「……そんなに正直に言うんだな」
「今の幽さまの前で強がると、あの星に拾われそうですもの」
白夜は、ヒビ入りのヘアピンに触れた。
「わたくしも、学習くらいいたしますわ」
その言葉に、幽は少しだけ息を吐いた。
白夜が弱さを言った。
大丈夫ではない、と言った。
それは、怖いことだった。
でも、同時に少しだけ救いだった。
強がらなくていいのは、幽だけではない。
白夜もまた、自分の真実を正確に言葉にしようとしている。
「ですが」
白夜は、幽を見る。
「昨夜言ったことは、変わりません」
「何を?」
「あなたは、あれに救われたのかもしれません」
朝の空気が、少しだけ冷える。
幽の眉間が、静かに熱を持つ。
「でも、救われたからといって、あなたがあれのものになる理由にはなりませんわ」
幽は、すぐには返事ができなかった。
白夜はそれを責めない。
ただ、待っている。
幽がいつか、自分でその言葉を言えるようになるまで。
境内に朝の光が広がっていく。
それはいつもと同じ光だった。
でも、幽にはもう、同じ朝には見えなかった。
救いだったもの。
怖くなったもの。
それでも、まだ消したくないもの。
その全部を抱えたまま、幽は額に触れた。
そこにある金色の点を、まだ自分の言葉で名づけることはできなかった。
けれど。
「……怖い」
幽は、もう一度言った。
今度は少しだけ、さっきよりもはっきりと。
「でも、怖いまま考える」
眉間の熱は、強くならなかった。
白夜が、静かに微笑んだ。
琴子は、左目を押さえたまま顔を背ける。
「……ほんと、面倒くさい敵」
銀嶺が頷く。
「同意します」
弦五郎が竹ぼうきで地面を叩いた。
「面倒で済めばよいがの」
その言葉に、誰も笑えなかった。
その時。
幽の眉間が、ちり、と熱を持った。
全員が、同時に黙る。
鳥居の向こう。
朝の空に、星はない。
ないはずだった。
けれど幽には、どこか遠くで、金色の点がもう一つ灯ったような気がした。
琴子の左目が、びくりと震える。
「……今、線が」
「見るな」
弦五郎が低く言った。
琴子は唇を噛む。
白夜が、ヒビ入りのヘアピンに触れた。
銀嶺が、感情のない声で告げる。
「星痕反応、微増」
弦五郎は、竹ぼうきの柄を石畳に突いた。
「……次の点を、探し始めたか」
誰も、空を見上げなかった。
それでも幽には分かった。
朝は来た。
けれど、夜明けはもう安全ではない。




