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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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第9章:『真実の星座は鎖に似ている』

「さあ」


 天は言った。


「返してくれ」


 その声は、夜明け前の星のように澄んでいた。


「君という名の、空き容量ストレージを」


 金色の光が、幽の足元へ届いた。

 点が生まれる。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 サーバールームの床に、星が落ちていく。

 いや、違う。

 床ではない。

 幽の影だ。

 幽の足元に伸びた影の中に、金色の点が次々と灯っていく。

 その点と点を、細い線が結んだ。

 星座。

 そう思った瞬間、幽の眉間が焼けた。


「……っ!」


 膝が落ちそうになる。

 けれど、足が動かない。

 金色の線が、幽の影を床に縫いつけていた。

 いや。

 床ではない。

 世界に。

 この場所に。

 この星空の形をしたサーバールームに。

 幽という存在が、縫い止められていく。


「やめろ……!」


 幽は、黒史刀を握りしめた。

 黒史刀。

 ブラック・レコード。

 さっきエレベーターの中で名付けたばかりの、痛々しい記録の棒。

 いや、刀。

 刀ではないけれど、刀と言い張ることにした、幽の黒歴史の延長線。

 その表面に走る黒い筋が、金色の光を浴びてざわめいた。

 焦げ跡のような線が、文字になりかける。

 けれど、読めない。

 黒い記録は、まだ天の金色に対抗できるほど強くなかった。


「いい名前だね」


 天が微笑んだ。


「黒史刀――ブラック・レコード。君らしい。消したい過去を、消さずに武器にする。実に人間らしい発想だ」

「勝手に読むな……!」

「読んでいるんじゃない」


 天は、穏やかに首を振った。


「君が見せてくれているんだよ」


 幽の足元に、新しい星が灯る。

 そこに、文字が浮かんだ。


『金星の同胞』


 幽の喉が、ひゅ、と鳴った。

 さらに一つ。


『深淵なる明星』


 また一つ。


『偽りの理を越えし者』


 また一つ。


『真の積層を知る者』

「やめろ……」


 幽は呻いた。


「やめろと言われるのは、少し寂しいな」


 天は、本当に寂しそうに言った。


「君は、あんなに僕を見ていたのに」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。

 怒りたい。

 叫びたい。

 ふざけるなと、殴りつけたい。

 なのに、声が詰まる。

 全部、知っている言葉だった。

 知っているどころではない。

 自分で書いた。

 中二の冬。

 誰にも見せるつもりのなかったノートに。

 夜が怖くて、でも怖いと言えなくて、何か特別な意味があると思いたくて、震える手で書いた言葉。

 痛い。

 痛すぎる。

 思い出しただけで、顔が熱くなる。

 けれど。

 その奥にあったものだけは、笑えなかった。


『暗闇でも光れる者』


 金色の星が灯る。


『夜に選ばれし者』


 線が走る。


『朝まで生きたい』


 その文字を見た瞬間、幽は何も言えなくなった。

 朝まで生きたい。

 それは、黒歴史ではなかった。

 痛い飾りの奥にある、裸の言葉だった。

 布団の中で息を殺していた夜。

 窓の外に人ではないものが立っていた夜。

 天井の隅の黒い染みが、少しずつ濃くなっていった夜。

 それでも、朝になれば。

 明けの明星が見えれば。

 今日も死なずに済んだと思えた。

 それは嘘ではない。

 なかったことにはできない。


「嘘ではないものは、強い」


 天は言った。


「だから、星になる」


 金色の線が、幽の影を強く縛った。

 幽の眉間に、熱い針を刺されたような痛みが走る。


「あ……っ」


 世界が、ぶれる。

 サーバールームの星空が遠ざかる。

 代わりに、六畳の部屋が見えた。

 古いアパート。

 薄いカーテン。

 窓の外に残る夜の色。

 机の上には、3Dプリンタ。

 その横に、黒歴史ノート。

 布団の中で、子どもの幽が膝を抱えている。

 その幽は、窓の外を見ていた。

 まだ青くない空。

 その端に、小さな金色の星がある。

 子どもの幽が、泣きそうな顔で呟く。


「……今日も、生きてる」


 それを見た瞬間。

 今の幽の胸が、ぐしゃりと潰れた。

 違う。

 見るな。

 そこは、誰にも見せたくない場所だ。

 白夜にも。

 琴子にも。

 銀嶺にも。

 ましてや、お前なんかに。


「やめろ!」


 幽は叫んだ。

 だが、足は動かない。

 黒史刀を振ろうとしても、腕が重い。

 金色の線が、幽の影だけでなく、記憶にまで絡みついている。

 天は、どこまでも優しく言った。


「否定しなくていい」

「……っ」

「君は救われた。僕を見て、朝を迎えた。僕はそれを否定しない。むしろ誇らしいよ」


 天の手が、幽へ伸びる。


「だから、返してくれ。君は、僕へ祈った。僕は、その祈りを受け取った。祈りとは、本来、捧げるものだろう?」


 金色の線が、幽の足元から眉間へ上がってくる。

 影を伝い、身体を登り、顔へ向かう。

 基準点。

 眉間。

 黄金比の首級の中心。

 そこへ、星が打たれようとしている。


「幽さま!」


 白夜が叫んだ。

 黒い扇が開く。

 刃のような妖力が、金色の線へ叩きつけられた。

 だが、切れない。

 火花が散る。

 金色の星座は、わずかに揺れただけだった。


「無駄だよ、白夜姫」


 天は、白夜の方を見た。


「これは外から押しつけた鎖ではない。彼自身が、心のどこかで認めた言葉だ」

「黙りなさい」


 白夜の声が、低く震える。


「あなたが幽さまの祈りを語るな」

「君がそれを言うのかい?」


 天が、ほんの少しだけ首を傾げる。


「君も、彼に名を与えた」


 白夜の足元に、再び金色の点が灯る。


『獲物』


 白夜の影が、びくりと震えた。


『首級』


 赤い瞳が、見開かれる。


『幽さまは、わたくしの――』


 かつて白夜自身が口にした言葉が、星と星を結ぶ線になって、彼女の影を縫い止めていく。


『世界を壊す者』

『妖怪王の姫』

『災厄』


 金色の星座が、白夜の足元に広がった。

 白夜の身体が、動きを止める。

 黒い髪が、金色の光に照らされる。

 ヒビの入った星形ヘアピンが、小さく震えた。


「君は彼を欲した」


 天は言った。


「首級として。召喚者として。世界を壊すための手がかりとして。君は彼を、所有に近いものとして見ていた」

「……ええ」


 白夜は、歯を食いしばった。


「否定は、いたしませんわ」

「ならば、君も僕と同じだ」

「違いますわ」


 白夜は、金色の線に縛られながら、それでも幽の前に立とうとした。

 動けないはずの足が、ほんの少しだけ床を削る。


「わたくしは、幽さまを欲した。ええ、それは否定いたしません」


 赤い瞳が、星を睨む。


「だからこそ、あなたには渡しません」


 金色の星座が、わずかに乱れた。


「欲したものを、手放すのかい?」

「いいえ」


 白夜は、扇子を握りしめた。


「奪われるくらいなら、連れて逃げますわ」


 天は、白夜を見つめた。

 ほんの少しだけ、嬉しそうに。


「そうか」


 その声は、祝福にも聞こえた。


「では、その定義はまだ固定できないね」


 金色の線が、ほんのわずかに揺らいだ。

 だが、消えはしない。

 白夜は動けない。

 幽も動けない。

 それでも、白夜の言葉は、天の星座に小さな歪みを作った。


「面白いね」


 天は呟いた。


「君はまだ、自分の言葉を決めきっていない」

「当然ですわ」


 白夜は、扇子を握りしめた。


「わたくしは、まだ考えている途中ですもの」


 その言葉に、天の笑みが少し深くなった。


「考えている途中、か。未定義。保留。あとで考える」


 その語尾に、銀嶺のノイズが混ざったような響きがあった。

 白夜も気づいた。

 天の星座の線に、ほんのわずかな歪みが走っている。

 下層で銀嶺が残した未定義ノイズ。

 サニーの鏡を乱した、意味の定まらない記録。

 それが、天の星座定義にも、ほんのわずかな雑音として混ざっていた。

 さらに。

 幽へ伸びる線の一本が、途中で黒く焦げている。

 琴子の朱音が喰い破った、朱知の網の残骸。

 土蜘蛛の再接続にできた穴。

 そこを通る星の光だけが、少しだけ遅れている。

 勝てない。

 それでも、完全ではない。

 白夜は、それを見逃さなかった。


「幽さま」


 白夜は小さく呼んだ。


「聞こえていますか」


 幽は答えられない。

 金色の線が、眉間に届きかけている。

 視界の端で、子どもの幽がまだ星を見ている。

 今日も死なずに済んだ。

 そう思っている。

 それを否定できない。

 否定したくない。

 あの星に救われたと思った自分を、馬鹿にしたくなかった。

 でも。

 器。

 空き容量。

 ストレージ。

 そう呼ばれた瞬間、何かが違うと叫んでいた。

 なのに、声が出ない。

 救われた事実が、幽の喉を塞いでいた。

 天が微笑む。


「大丈夫だよ。君は戻るだけだ。君がずっと見ていた星へ」

「幽さま!」


 白夜の声が、初めて悲鳴に近くなった。

 その瞬間。

 天の視線が、白夜の髪に留まった。

 ヒビの入った、星形のヘアピン。

 商店街で幽が選んだ、安物の飾り。


「姫君は」


 天が、不思議そうに言った。


「なぜ、そのヘアピンを直さないんだい?」


 白夜の指が、ぴくりと動いた。

 ヒビ入りの星に触れる。


「君ならそれくらい、すぐに直せるだろう?」


 白夜の赤い瞳が、わずかに揺れた。

 天は優しく続ける。


「欠けたものは補えばいい。壊れたものは戻せばいい。傷は消せばいい。君は妖怪王の姫だ。安物の飾り一つくらい、元通りにすることなど容易いはずだ」

「……直せますわ」


 白夜は言った。


「形だけなら」


 金色の光が、ヘアピンのヒビに触れた。

 ヒビが、星座の線のように光ろうとする。

 だが、白夜は指でそれを押さえた。


「なら、なぜ」

「同じものには、なりませんもの」


 白夜の声は静かだった。


「これは、幽さまが選んだものですわ。幽さまが、わたくしにくれたものですわ。そして、傷ついてもなお、わたくしが捨てられなかったものですわ」

「欠陥を残すのかい?」

「ええ」


 白夜は、ヒビ入りの星を押さえたまま、天を睨んだ。


「このヒビは、欠陥ではございません」


 赤い瞳が、金色の光を弾く。


「わたくしが、失いたくないと思った証ですわ」


 金色の星座が、また乱れた。

 ヒビ。

 それは星座ではない。

 点と点を意味ある線で結んだものではない。

 偶然できた傷。

 整っていない亀裂。

 けれど、白夜が消さずに持っている記録。

 天の星座定義が、そのヒビをうまく結べない。


「不合理だね」


 天は言った。


「壊れた星を、壊れたまま大切にするなんて」

「あなたには分かりませんわ」


 白夜は微笑んだ。

 いつもの傲慢な笑みではない。

 もっと静かで、もっと危うい笑み。


「あなたは、人の祈りを綺麗な星座にしてしまう。線を引き、名を与え、逃げられない形に整えてしまう」


 白夜の声が、少しだけ低くなる。


「でも、人間の大切なものは、整っているから大切なのではございません」


 ヒビの入った星が、金色の光の中で小さく揺れた。


「壊れても、捨てられなかったから、大切になることもありますの」


 幽の中で、何かが震えた。

 金星の記憶。

 黒歴史ノート。

 痛い言葉。

 消したい過去。

 消せない祈り。

 それらを、天は星座にしようとしていた。

 綺麗な意味にして、幽を固定しようとしていた。

 でも。

 白夜が言った。

 壊れても、捨てられなかったから。

 その言葉が、幽の黒史刀に触れた。

 黒い焦げ跡が、微かに揺れる。

 金色ではない。

 黒い記録。

 整っていない文字。

 読みづらく、痛々しく、未完成で、恥ずかしい線。

 それが、幽の手の中で熱を持った。


「……っ」


 幽の指が、動いた。

 ほんの少しだけ。

 黒史刀を握る力が戻る。

 天の視線が、初めて幽の手元へ向いた。


「なるほど」


 天は呟く。


「黒い記録か」


 その声に、ほんの少しだけ不快感が混ざった。

 白夜はそれを聞き逃さなかった。


「幽さま!」


 白夜が扇子を振るった。

 黒い妖力が、金色の星座に叩きつけられる。

 同時に、ヒビ入りのヘアピンが小さく光った。

 完全な星ではない。

 壊れた星。

 ヒビの入った、安物の星。

 その歪んだ光が、天の星座の線を一瞬だけずらす。

 銀嶺の未定義ノイズ。

 琴子が喰い破った朱知の網。

 白夜のヒビ入りヘアピン。

 幽の黒史刀。

 すべてが、一瞬だけ噛み合わない形で重なった。

 綺麗な星座ではない。

 意味の整った運命ではない。

 ぐちゃぐちゃで、未完成で、恥ずかしくて、壊れていて、それでも消えなかった記録の束。

 その歪みが、幽の足元の金色をわずかに裂いた。


「今ですわ!」


 白夜が叫ぶ。

 幽は動いた。

 動けた、というより、転がるように倒れた。

 金色の線が眉間へ届く寸前、白夜が幽の腕を掴む。


「失礼!」

「え――」


 白夜が幽を抱えた。

 次の瞬間、黒い妖力が床を砕く。

 エレベーターの扉が、ありえない方向へねじ曲がった。

 サーバールームの星空が割れる。

 金色の光が、背後から伸びる。


「逃げるのかい、白夜姫」


 天は追いかけない。

 ただ、そこに立っている。

 優しく、穏やかに、少しだけ残念そうに。


「ええ」


 白夜は振り返らなかった。


「一度、引きますわ」

「君らしくないね」

「わたくしらしさなど、今は知ったことではございません」


 白夜の声が、強くなる。


「幽さまを、あなたに渡さない」


 黒い妖力が、幽と白夜を包む。

 下層へ向かうエレベーターシャフトが、裂けた口のように開いた。

 そこへ、白夜は飛び込む。

 重力が消える。

 星空が遠ざかる。

 金色の光が、幽の眉間に最後の一本の線を伸ばす。

 白夜がそれを払った。

 だが、完全には払えなかった。

 小さな金色の点が、幽の眉間に触れた。

 焼けるような痛み。


「ぐ……っ!」

「幽さま!」


 白夜の腕に力が入る。

 落下する。

 いや、落ちているのか、巻き戻されているのか、壊された空間を滑っているのか分からない。

 青白い配線。

 割れたディスプレイ。

 赤い百足の痕跡。

 白銀のノイズ。

 すべてが一瞬で通り過ぎる。

 最後に、天の声だけが聞こえた。


「大丈夫」


 優しい声だった。


「点は打った」


 追ってこなかったのではない。

 追う必要がなかったのだ。


   ○


 東雲神社の鳥居をくぐった瞬間、幽は膝から崩れた。


「幽くん!」


 琴子が駆け寄る。

 左目が赤い。

 その赤さに幽は一瞬驚いたが、言葉にする前に吐き気が込み上げた。


「う……っ」

「無理に喋らないで」


 琴子が幽の肩を支える。

 その手が震えている。

 銀嶺もすぐ横に膝をついた。

 首筋の亀裂から、まだ白銀のノイズが漏れている。


「幽、眉間に異常反応」

「見るな」


 幽は反射的に言った。

 銀嶺が少しだけ止まる。


「了解しました」

「いや、ごめん……そうじゃなくて」

「理解しています。見られたくない情報と判断しました」


 その言い方に、幽は少しだけ笑いそうになった。

 けれど、笑えなかった。

 眉間が熱い。

 奥の方で、金色の点が脈打っている。

 見えない。

 でも、ある。

 そこに、打たれた。

 天はそう言った。

 点は打った、と。

 白夜が、幽の横に静かに降り立った。

 その瞬間。

 白夜の指先が、ほんの一瞬だけ透けた。

 幽が目を見開く前に、それは元へ戻る。

 けれど、白夜はすぐにその手を扇子の陰へ隠した。


「……白夜」

「何でもございませんわ」


 そう言った声は、いつも通り優雅だった。

 だが、琴子は気づいた。

 白夜の呼吸が、わずかに乱れている。

 赤い瞳の奥に、普段なら絶対に見せない疲労の色がある。


「……嘘でしょ」


 琴子が、低く呟いた。


「あんたが、そんな顔するの」


 白夜は答えなかった。

 銀嶺が、白夜を見つめる。


「白夜の出力、低下しています」

「どれくらい」


 琴子が聞く。


「通常時との比較、困難です。ただし、逃走直前の瞬間出力は異常値。現在は反動による低下が見られます」

「分かりやすく言いなさいよ」

「無理をしました」


 銀嶺は、静かに言った。


「かなり」


 低い声が響いた。


「何があった」


 境内の奥から、東雲弦五郎が現れる。

 竹ぼうきを肩に担いだまま、幽の顔を見る。

 その目が、険しく細くなった。


「……打たれたか」


 琴子の顔が青ざめる。


「じいちゃん」

「眉間じゃ」


 弦五郎は、幽の前にしゃがみ込んだ。


「まだ点だけじゃ。線にはなっとらん。だが、星は貴様の中に目印を置いた」


 その後、弦五郎は白夜を見た。

 その目に、いつもの警戒とは違う色が混じる。


「妖怪王の姫をここまで削るか」


 竹ぼうきの先が、地面を小さく叩いた。


「……あれは、ただの星ではないの」


 白夜は、ようやく小さく笑った。

 強がるように。

 崩れないように。


「ええ」


 その笑みは、美しかった。

 だが、幽には分かった。

 白夜は今、立っているだけで精一杯なのだ。


「今のわたくしでは、勝てませんわ」


 その一言で、境内の空気が凍った。

 白夜が。

 世界を壊す妖怪姫が。

 六万五千五百三十六の妖を束ねる王族が。

 勝てない、と言った。

 幽は、ようやく自分たちが何から逃げてきたのかを理解し始めた。


「目印……」


 幽は額に触れようとした。

 白夜が、その手を止める。


「触れない方がよろしいですわ」


 白夜の声は静かだった。

 でも、疲れている。

 いつもの余裕がない。

 ヒビの入った星形ヘアピンに、金色の光の名残がわずかに残っていた。


「白夜」


 幽は、かすれた声で言った。


「お前……」

「今は喋らないでくださいませ」

「でも」

「黙ってくださいませ」


 強い言い方だった。

 でも、その手は優しかった。

 琴子が白夜を見る。

 今までなら、そこで何かを言ったかもしれない。

 でも今は、何も言わなかった。

 琴子にも分かっていた。

 白夜が幽を抱えて逃がしたこと。

 そのために、かなり無理をしたこと。

 そして、天津甕星には勝てなかったこと。


「星座定義」


 銀嶺が呟いた。


「仮称です。正確な構造は、まだ解析できません」

「分かる範囲でいい」


 琴子が言った。


「あれは、外から嘘を押しつけているのではありません」


 銀嶺は、幽の眉間を見ないように少し視線を逸らした。


「幽の中にあった言葉を使いました」

「本当に思ったことを、鎖にされるってこと?」

「はい」


 銀嶺は静かに頷いた。


「嘘より危険です」


 弦五郎が、苦々しく笑った。


「厄介な神じゃの。人の弱さに杭を打つか」

「どうすれば消せるの」


 琴子が聞く。

 弦五郎は答えなかった。

 代わりに、幽の眉間をじっと見る。


「今は消せん」

「じいちゃん!」

「怒鳴るな。まだ終わりではないと言うとる」


 弦五郎は竹ぼうきで地面を軽く叩いた。


「点だけなら、線にさせねばよい。星座とは、点と点を結んで初めて意味を持つ。あやつは幽の中に点を打った。次は、別の点を探しに来る」

「別の点……」


 幽は呟いた。

 思い当たるものが多すぎた。

 金星の同胞。

 選ばれし者。

 朝まで生きたい。

 夜が怖い。

 強くなりたい。

 誰かに助けてほしい。

 そのどれも、嘘ではなかった。

 だから怖い。

 天は、嘘をついていない。

 少なくとも、完全な嘘ではない。

 救った。

 それも、たぶん事実だった。

 だから、幽はまだ怒りきれない。

 憎みきれない。

 その曖昧さが、いちばん気持ち悪かった。


「幽さま」


 白夜が、幽の前に膝をついた。

 ヒビの入ったヘアピンが、夜の神社の灯りを受けて小さく光る。


「あなたは、あれに救われたのかもしれません」


 幽の喉が詰まる。


「白夜」

「でも」


 白夜は、幽の目を見た。


「救われたからといって、あなたがあれのものになる理由にはなりませんわ」


 その言葉に、幽は息を呑んだ。

 言いたかったこと。

 でも、まだ言えなかったこと。

 白夜が、先に言った。


「……それ」


 幽は、声を震わせた。


「俺が、言わなきゃいけないやつじゃないのか」

「ええ」


 白夜は少しだけ微笑んだ。


「ですから、いつか幽さまご自身でおっしゃいませ」


 その笑みは、いつものように傲慢だった。

 でも、少しだけ違った。

 幽をからかう笑みではない。

 幽を待つ笑みだった。


   ○


 その夜。

 幽は、東雲神社の手水舎の前に立っていた。

 眠れなかった。

 当たり前だ。

 眠れるわけがない。

 眉間の奥に、ずっと小さな熱が残っている。

 痛みというほどではない。

 でも、無視できない。

 そこに何かがあると、身体が分かっている。

 境内は静かだった。

 朱知の網は届いていない。

 サニーの鏡も、ここにはない。

 白夜は少し離れたところで休んでいる。

 琴子も銀嶺も、弦五郎に強制的に寝かされた。

 幽だけが、眠れずにいた。

 手水舎の水面を覗き込む。

 映っているのは、自分の顔だった。

 疲れ切って、青ざめて、情けない顔。

 いつもの月代幽。

 でも、その眉間に。

 小さな金色の点が、一つだけ灯っていた。


「……なんだよ、これ」


 指でこすっても消えない。

 痛みはない。

 ただ、そこにある。

 星のように。

 目印のように。

 誰かが、ここだ、と印を打ったように。

 水面の中の幽が、ほんの一瞬だけ笑った。

 それは、幽の顔ではなかった。

 天の顔だった。

 綺麗だ、と。

 ほんの一瞬だけ思ってしまった。

 その自分が、一番気持ち悪かった。

 幽は、息を呑んで後ずさる。

 水面が揺れる。

 顔は、もう元に戻っていた。

 けれど。

 眉間の金色の点だけは、消えない。

 夜の底で。

 東雲神社の結界の内側で。

 幽は、ようやく理解した。

 逃げた。

 でも、逃げ切れてはいない。

 星はまだ、幽の中に点を打っている。


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