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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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15/19

第8章:『そして、神は星を名乗る』(後編)

 割れたディスプレイが、再び光を取り戻していく。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 壁も、柱も、床も、天井も。

 デジタル・モンスタワーの下層広間は、もう一度、鏡の館へ戻ろうとしていた。

 ただし、さっきまでとは違う。

 琴子の朱音が喰い破ったせいで、床のあちこちには黒く焦げた制御線が走っている。

 青白い光ファイバーは、ところどころ断ち切られ、再接続に失敗した神経のように火花を散らしていた。

 土蜘蛛の網は、まだ死んでいない。

 けれど、確かに一度、喰われた。


「もー、ほんっと最悪」


 サニーが、ひびの入ったスマホを見下ろして頬を膨らませる。

 いつもの明るい声。

 いつもの作った笑顔。

 だが、その目だけが笑っていなかった。


「琴子ちゃんの赤、強すぎ。血とか執着とか百足とか、画面のトーンが全部そっちに持っていかれるんだけど」

「映えなくて悪かったわね」


 琴子は、荒い息を吐きながら朱音を構えた。

 左目の視界はまだ赤い。

 まばたきをしても、赤い線が端を這う。

 まるで、朱音の脚が目の奥に残っているみたいだった。

 朱音は刃の形へ戻った。

 けれど完全には戻っていない。

 節の隙間で、細い脚がまだうごめいている。

 ただの剣ではない。

 もう、それは隠せない。


「琴子」


 銀嶺が前へ出た。

 首筋のノイズ亀裂は、まだ消えていない。

 だが、その銀色の瞳は、サニーをまっすぐ見ていた。


「下がってください」

「は?」

「あなたの身体損耗は危険域です。左目の異常も未解決です。朱音の再使用は推奨できません」

「アンタも首にヒビ入ってるでしょ」

「修復不能ではありません」

「大丈夫じゃない時の言い方ね、それ」

「はい。大丈夫ではありません」

「正直すぎるのよ!」


 サニーが、くすくす笑った。


「いいねえ。壊れた子同士の会話って、すっごく需要あるよ。健気で、痛々しくて、切り抜き向き」


 スマホが、銀嶺へ向く。


「じゃあ、次はスペアちゃんの番」


 広間のディスプレイが、一斉に銀嶺を映した。

 いや、銀嶺だけではない。

 銀嶺だったもの。

 銀嶺かもしれなかったもの。

 銀嶺になれなかったもの。

 無数の白銀の少女たちが、画面の中に並んでいる。

 完璧な銀嶺。

 幽の完成版として、冷たい目で世界を見下ろす少女。

 失敗した銀嶺。

 床に崩れ、白い樹脂片になって消えていく少女。

 ヒロインの銀嶺。

 幽の隣で微笑み、白夜や琴子よりも先に手を取る少女。

 敵の銀嶺。

 プロトコル・アヤカシの命令どおり、幽の首級を測定する少女。

 そして。

 何者でもない銀嶺。

 顔もなく、名前もなく、ただ白いノイズとして画面の隅で揺れる影。


「あはは。どれがいい?」


 サニーは楽しそうに笑う。


「完成版に戻る? ヒロインになる? 敵に戻る? かわいそうな失敗作として泣く? それとも、誰にも選ばれずに消えちゃう?」


 銀嶺は、答えなかった。


「ねえ、スペアちゃん」


 サニーの声が甘くなる。


「君、本当はどれになりたいの?」


 銀嶺の胸の奥で、ノイズが走った。

 なりたいもの。

 それは、銀嶺にとって一番難しい問いだった。

 銀嶺は、月代幽の完成版として出力された。

 銀嶺は、月代幽を置き換えるために作られた。

 銀嶺は、破棄された。

 銀嶺は、不完全なまま拾われた。

 そして今、銀嶺は幽に頼まれて、ここに立っている。

 では、それは何なのか。


 味方。

 仲間。

 ヒロイン。

 スペア。

 失敗作。


 どの言葉も、ぴたりとはまらない。

 サニーの鏡が、その隙間へ入り込んでくる。


『完成しなさい』


 完璧な銀嶺が言った。


『戻りなさい』


 敵だった銀嶺が言った。


『選ばれなさい』


 ヒロインの銀嶺が言った。


『消えなさい』


 顔のない銀嶺が言った。

 画面の中の声が、銀嶺の内側へ流れ込む。

 定義。

 役割。

 選択肢。

 加工された自分。

 サニーの鏡は、ただ映すだけではない。

 見た者が心のどこかで「そうかもしれない」と思った像を、きれいに整え、鮮やかにし、逃げられない画面として差し出してくる。

 銀嶺は、自分が何者かをまだ知らない。

 だから、鏡に弱い。


「……自己定義、失敗」


 銀嶺の膝が、少しだけ沈む。


「存在基準、不安定化」

「うんうん。いいよ、その顔」


 サニーがシャッターを切る。

 カシャ。

 その音に合わせて、銀嶺の首筋のノイズ亀裂が少しだけ広がった。


「壊れかけのスペア。自分探し中。誰にも選ばれないかもしれない不安。最高じゃん。可愛く編集してあげる」

「……編集」

「そう」


 サニーは、スマホを指でなぞる。


「余計なノイズを消して、見やすくして、可愛くして、誰かに見てもらえる形にするの。だってさ、見てもらえないものって、存在しないのと同じでしょ?」


 ディスプレイの中で、銀嶺たちが一斉に頷く。


『見られなければ、不要』

『選ばれなければ、失敗』

『完成しなければ、存在できない』


 銀嶺の指が、自分の着ているTシャツの裾を掴んだ。

 幽のTシャツ。

 サイズが少し合っていない。

 肩の位置もずれている。

 袖口は少し伸びている。

 洗剤の匂いがする。

 幽の部屋の匂いも、ほんの少し残っている。

 画面には映らない。

 誰にも評価されない。

 映えない。

 意味がない。

 けれど。

 落ち着く。


「……私は」


 銀嶺は、ゆっくり顔を上げた。


「完成版には戻りません」


 画面の中の完璧な銀嶺が、ぴたりと止まる。


「私は、月代幽のスペアとして失敗しました」


 敵だった銀嶺が、ノイズを起こす。


「敵としても、削除対象を削除できませんでした」


 失敗作の銀嶺が、白い粉になって崩れかける。


「味方としても、不完全です。琴子のように守れません。白夜のように壊せません。幽のように祈れません」


 サニーが眉をひそめた。


「なに、自分で全部認めちゃうの?」

「はい」


 銀嶺は頷く。


「認めます」


 そして、Tシャツの裾をぎゅっと握った。


「ですが」


 銀嶺の瞳に、青白い光が灯る。


「この布地の温度を、私はまだ解析できていません」

「……は?」

「この匂いを、分類できていません。袖口の伸び、洗剤の残留、幽の部屋の空気、琴子に怒られた記録、白夜に呆れられた記録。どれも、まだ未整理です」

「なに言ってんの?」

「私にも、完全には分かりません」


 銀嶺は、ほんの少しだけ笑った。


「だから、あなたには編集できません」


 サニーの笑顔が固まった。


「画面に映せば終わりだよ。形も、色も、質感も、全部撮れる」

「いいえ」


 銀嶺は首を振る。


「あなたの鏡は、見られたい形を整えます。見たくないものを隠します。見やすい意味を与えます」


 銀嶺は、一歩踏み出した。

 その動きは美しくなかった。

 少しふらついている。

 首筋のノイズ亀裂から、白銀の粒子が漏れている。

 けれど、止まらない。


「ですが、匂いも、温度も、握った時の安心も、頼まれた時の重さも、まだ映せていません」


 ディスプレイに映る銀嶺たちが、乱れ始める。


「私は、まだ分かりません」


 銀嶺は言った。


「だから、あなたの完成した映像には収まりません」


   ○


 サニーの顔から、作った笑顔が消えた。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ。

 それは、誰にも見せるつもりのない顔だった。

 鏡の裏側。

 加工前。

 フィルターをかける前。

 光の当たらない、古い鏡面の暗い空洞。


「……映らないものなんて、ないよ」


 サニーの声が低くなる。


「今は全部、映るの。顔も、声も、居場所も、食べたものも、好きなものも、嫌いなものも、誰を見てるかも、誰に見られたいかも」


 スマホが光る。

 広間のディスプレイが、一斉に銀嶺へ向く。


「見られないものなんて、ない」


 サニーの瞳が、鏡のように光った。


「サニーちゃんが、全部、映してあげる」


 画面が切り替わる。

 幽のTシャツを握る銀嶺。

 それが、可愛く加工される。

 袖口が整えられ、銀嶺の頬に薄く赤みが足される。

 目元が柔らかくされる。

 背景に光が足される。

 切ない音楽が流れる。

 そこに、テロップが入る。


『不完全な少女、初めての恋』

「……違います」

「違わないよ」


 サニーは笑った。


「見てる人がそう思えば、それが君になるんだよ」


 次の画面。

 琴子に支えられる銀嶺。


『幼馴染とスペア、友情の共闘』


 さらに次。

 白夜を見上げる銀嶺。


『妖怪姫に憧れる人形』


 さらに次。

 幽を追う銀嶺。


『選ばれたい失敗作』

「ほら、意味をあげる」


 サニーは、優しく言った。


「君が何者か分からないなら、サニーちゃんが決めてあげる」


 銀嶺の身体が、画面に引き寄せられる。

 鏡の中の自分たちが、銀嶺へ手を伸ばす。


 完成版。

 失敗作。

 ヒロイン。

 人形。

 代用品。


 それぞれが、銀嶺の腕を、首を、髪を、Tシャツの裾を掴む。

 画面の中へ引きずり込もうとする。


「銀嶺!」


 琴子が叫ぶ。

 朱音を振るおうとして、膝が崩れた。

 左目が赤く滲む。

 身体がついてこない。


「動くな、東雲の娘」


 朱知の声が割れたディスプレイから響く。


「君はもう限界だ」

「うるさい……!」


 琴子は立とうとする。

 だが、銀嶺が首を振った。


「琴子」

「何よ!」

「ここは、私がやります」

「アンタ、引きずり込まれかけてるでしょ!」

「はい」

「はいじゃない!」

「ですが」


 銀嶺は、画面の中の自分たちを見た。


「これは、私の問題です」


 銀嶺の指が、Tシャツの裾を離した。

 そして、胸元に手を当てる。

 そこには心臓はない。

 たぶん。

 少なくとも、人間のそれとは違う。

 けれど、何かがある。


 頼まれた記録。

 琴子に怒鳴られた記録。

 白夜に「スペアさん」と呼ばれた記録。

 幽に拾われた記録。

 Tシャツの温度。

 朝の洗剤の匂い。

 手を引かれた感覚。


 どれも、意味が確定していない。

 名前もない。

 編集されていない。

 だから、まだ自分の中に残っている。


「未定義出力」


 銀嶺の身体から、白銀のノイズが溢れた。

 綺麗ではなかった。

 滑らかでもない。

 白銀の粒子の中に、黒い焦げ跡のような文字が混じっている。

 幽の黒歴史祝詞。

 読み損ねたログ。

 銀嶺自身のエラー。

 琴子の怒声。

 白夜の笑い声。

 意味の整っていない、未分類の記録。


「なに、それ」


 サニーが顔をしかめた。


「汚い。ノイズ多すぎ。画面が荒れるんだけど」

「はい」


 銀嶺は頷いた。


「私は、まだ整理できていません」


 白銀のノイズが、ディスプレイへ流れ込む。

 サニーの加工した映像に、誤字だらけの注釈が走る。

 幽の痛い祝詞が混ざる。

 琴子の怒鳴り声が音割れする。

 白夜の優雅な笑い声が、妙なタイミングで重なる。

 Tシャツの洗剤の匂いを示す、意味不明なエラーデータが画面を埋める。


『不完全な少女、初めての恋』


 そのテロップに、黒い文字が上書きされる。


『未定義。分類不能。保留。あとで考える』

「ちょ、やめて!」


 サニーが叫ぶ。


「かわいくない! 意味が分かんない! 編集できない!」

「はい」


 銀嶺は、初めて少しだけ誇らしげに言った。


「それが、現在の私です」


 画面の中の完璧な銀嶺が、ひび割れる。

 ヒロインの銀嶺が、ノイズに飲まれる。

 失敗作の銀嶺が、白い粉ではなく、未整理のログとして画面に残る。

 顔のない銀嶺が、Tシャツの袖を掴む。

 銀嶺は、画面へ手を伸ばした。


「私は、完成しません」


 その手が、鏡の中の自分を掴む。


「まだ」


 銀嶺は、サニーを見た。


「分からないままで、ここにいます」


 白銀のノイズが、一斉に反射した。

 広間中の鏡が、サニー自身を映す。

 加工されていないサニー。

 フィルターのないサニー。

 明るい笑顔の下にある、空洞。

 見られたいものだけでできた鏡の妖怪が、本当は何も持っていないこと。


「やめろ」


 サニーの声が、変わった。

 軽さが消える。

 インフルエンサーの声ではない。

 古い鏡の裏から聞こえる、湿った声。


「見るな」


 銀嶺は、静かに答えた。


「見ています」

「見るなって言ってるでしょ!」


 サニーのスマホが砕けた。

 画面に、大きな亀裂が走る。

 同時に、広間のディスプレイが一斉に暗転した。

 サニーの姿が、揺らぐ。

 派手な衣装。

 金髪。

 完璧な笑顔。

 その輪郭が、一瞬だけ、古びた円形の鏡へ変わった。

 曇った鏡面。

 裏側にこびりついた黒い汚れ。

 そこに、誰かの顔が映っている。

 誰の顔でもない。

 見ようとした者の顔に変わる、空っぽの鏡。


「……雲外鏡」


 琴子が呟いた。

 サニーは、砕けたスマホを握りしめた。


「……今日は、ここまで」


 サニーは笑おうとした。

 けれど、割れたスマホの中で、その笑顔は左右にずれていた。


「こんなノイズだらけの鏡じゃ、サニーちゃんが綺麗に映らないもん」


 その声は、明るく作られていた。

 けれど、もう完全には整っていない。

 笑顔の端に、ひびが入っている。


「次は、もっと可愛く編集してあげるから」


 そう言い残し、彼女は画面の奥へ退いた。

 サニーの姿が、ディスプレイの奥へ消える。

 最後に、割れたスマホ画面だけが残った。

 そこには、銀嶺の姿が映っていた。

 不完全で。

 ノイズだらけで。

 幽のTシャツを着た、白銀の少女。

 銀嶺は、それを見て、小さく首を傾げた。


「……映っています」

「何が?」


 琴子が息を整えながら聞く。


「私です」

「そりゃ映るでしょ、鏡なんだから」

「ですが」


 銀嶺は、ひび割れた画面の中の自分を見る。


「以前より、少し不正確です」

「いいんじゃない?」


 琴子は、朱音を杖代わりにして立ち上がる。


「鏡なんて、ちょっと歪んでるくらいがちょうどいいのよ」


 銀嶺は、しばらく考えた。


「肯定評価として記録します」

「それは合ってる」


   ○


 その時。

 最上層へ向かうエレベーターが、完全に停止した。

 幽は、扉の前で息を呑んでいた。


 扉の向こうに、夜空がある。

 ありえない。

 ここはビルの中だ。

 デジタル・モンスタワーの最上層。

 配線とサーバーとディスプレイでできた、現代妖怪の巣の中心。

 なのに、扉の向こうには空があった。

 黒い夜空。

 夜明け前の、深い藍。

 その中央に、一つだけ金色の星が光っている。

 幽は、動けなかった。


 怖い。

 そう思っている。

 白夜の手が、腕を掴んでいる。

 その指が震えていることも分かる。

 それでも、幽の胸の奥は、一瞬だけ緩んでいた。

 ああ。

 いた。

 そう思ってしまった。

 ずっと見てきた星。

 夜を越えた証。

 怖い朝の前に、いつもそこにあった光。

 その星が、扉の向こうで、幽を見ている。


「幽さま」


 白夜の声が低い。


「わたくしの後ろに」

「白夜」

「早く」


 それは命令に近かった。

 白夜は扇子を閉じ、幽の前へ立つ。

 赤い瞳が、星を睨んでいる。

 いつもの余裕はない。

 傲慢な笑みもない。

 世界を壊す妖怪姫が、まるで大切なものを奪われそうな顔をしていた。

 エレベーターの扉が、音もなく開く。

 そこは、サーバールームだった。

 いや、サーバールームの形をした星空だった。

 天井も壁も見えない。

 無数のサーバーラックが、墓標のように並んでいる。

 その一つ一つに、青白いランプが瞬いている。

 だが、その奥。

 部屋の中心だけは違った。


 金色の光。

 夜明け前の星に似た、冷たい光。

 その中に、少年が立っていた。

 顔は、最初よく見えなかった。

 青白いサーバーの光と、金色の星の輝きが重なり、輪郭だけが浮かんでいる。

 年齢は、幽と同じくらいに見える。

 声だけが、先に届いた。


「ちゃんと聞こえていたさ」


 その声は、優しかった。

 あまりにも優しかった。


「金星の同胞(はらから)よ」


 幽の思考が、止まった。

 その言葉を、知っている。

 耳の奥で、あの時の放送が蘇る。


『……聞こえるか、金星の同胞たちよ』


 銀嶺が、学校中に流した声。

 全校生徒に晒された、月代幽の黒歴史。

 中二の冬、誰にも見せるつもりのなかったノートに書いた、痛すぎる呼びかけ。


 金星の同胞。

 深淵なる明星。

 偽りの理。

 真の積層。


 笑われた。

 恥ずかしかった。

 死ぬほど消したかった。

 けれど。

 目の前の少年は、その言葉を、まるで祈りの返事みたいに口にした。


「……なんで」


 幽の声が掠れた。


「なんで、お前がそれを知ってる」


 少年は、不思議そうに首を傾げた。


「知っているに決まっているだろう」


 その声は、どこまでも穏やかだった。


「君がそれを、僕に向けて書いたのだから」

「違う……あれは、銀嶺が勝手に流しただけで」

「そうだね」


 少年は、優しく頷いた。


「あの白銀の娘は、君の記録を雑に開いた。けれど、僕は違う」


 その瞳に、夜明け前の星の光が宿る。


「僕は、君が最初にその言葉を書いた夜から、聞いていた」


 幽の呼吸が止まった。


「君が怖がっていた夜も。窓の外を見られなかった夜も。布団の中で、朝まで震えていた夜も」


 少年は、一歩近づく。

 そのたびに、顔がはっきりしていく。

 目元。

 鼻筋。

 唇。

 輪郭。

 少しずつ、幽に似ていく。


「見ないでくださいませ!」


 白夜が叫んだ。

 幽の前に立ち、扇子を広げる。

 黒い扇が、星の光を遮ろうとする。


「幽さま。それは、あなたの祈りを鏡にして、顔を作っております」


 少年は、少し悲しそうに笑った。


「ひどい言い方だな、白夜姫。僕はただ、返しているだけだよ。彼が夜ごと送ってくれた、寂しさと祈りと恐怖を」

「黙りなさい」


 白夜の声が低くなる。


「あなたが触れてよいものではございませんわ」

「君がそれを言うのかい」


 少年は、白夜を見る。


「幽の首級を美しいと呼び、所有しようとした君が」


 白夜の肩が、わずかに震えた。


「わたくしは――」

「違うと言える?」


 少年の声は責めていない。

 ただ、星座を結ぶように静かだった。


「白夜姫。君は彼を獲物と呼んだ。首級と呼んだ。召喚者と呼んだ。所有物に近いものとして扱った」


 金色の光が、白夜の足元に走る。


『獲物』

『首級』

『幽さまは、わたくしの――』


 かつて白夜自身が口にした言葉が、星と星を結ぶ線になって、彼女の影を縫い止めた。


「それは、君自身が一度は認めた定義だ」

「……っ」


 白夜が扇子を握りしめる。

 幽は、何が起きているのか分からなかった。

 けれど、白夜が動けないことだけは分かった。

 足元に走る金色の線。

 星と星を結ぶような、細い光。

 それが白夜の影を縫い止めている。


「違いますわ」


 金色の線に縛られながら、それでも白夜は幽の前に立とうとした。


「わたくしは、幽さまを欲した。ええ、それは否定いたしません」


 赤い瞳が、星を睨む。


「けれど、あなたのように、祈りを鎖に変えたりはいたしませんわ」


 少年は、白夜を見つめた。

 ほんの少しだけ、嬉しそうに。


「そうか」


 その声は、祝福にも聞こえた。


「では、その定義はまだ固定できないね」


 金色の線が、ほんのわずかに揺らいだ。


「やめろ!」


 幽が叫ぶ。

 少年の視線が、幽へ戻る。

 その顔は、もうかなり幽に似ていた。

 ただし、幽よりも整っている。

 幽よりも穏やかで。

 幽よりも冷たくて。

 幽が、黒歴史ノートの中で夢見た「強くて、怖くなくて、星に選ばれた自分」に似ていた。


「君は優しいね」


 少年は言った。


「そういうところも、ずっと見ていたよ」

「お前は……誰だ」


 幽は、ようやくその言葉を絞り出した。

 少年は微笑む。


「人は僕を、いくつもの名で呼んだ」


 背後のサーバーランプが、星空のように瞬く。

 幽は、息を吸おうとして失敗した。

 名前が来る。

 そう分かっただけで、眉間の奥が焼けるように痛んだ。


天津甕星(アマツミカボシ)天香香背男(アマノカガセオ)。従わぬ星。まつろわぬ神」


 金色の光が、少年の背に広がる。


「ある者は、僕を金星と結び」


 幽の喉が鳴る。


「ある者は、悪しき星神と記した」


 白夜の赤い瞳が、怒りと恐怖で揺れる。


「そして、海の向こうでは、明けの明星に堕ちた光の名を与えた」

「……ルシファー」


 幽の声が、勝手にこぼれた。

 少年は、嬉しそうに微笑んだ。


「君はそういう名前が好きだったね」


 幽の胸の奥を、冷たいものが撫でた。

 知っている。

 こいつは、知っている。

 幽が何をかっこいいと思ったのか。

 何を怖がったのか。

 何に憧れたのか。

 どんな言葉をノートに書いて、どんな言葉を消したのか。

 全部。


「でも、今は天でいい」


 少年は、手を広げた。


「君が呼びやすい名前で呼んでくれ、月代幽」

「呼ぶかよ」


 幽の声は震えていた。


「俺は、お前なんか」

「そうだね。今はそれでいい」


 天は、優しく頷いた。


「急に受け入れるのは難しいだろう。君は人間だから。人間は、自分を救ったものが自分を所有することを、なかなか理解できない」

「救った……?」


 幽は、息を呑む。

 天は、当然のように言った。


「僕は、君を救った」


 その言葉は、あまりにも静かだった。


「怖い夜のたびに。死にたくない朝のたびに。君は、僕を見上げた」

「俺は、祈ったつもりなんて」

「あるさ」


 天は言った。


「助けてほしい。強くなりたい。見えるものの向こうへ行きたい。暗い部屋の中で、それでも朝を迎えたい」


 天の声が、金色の光とともに広がる。


「それは祈りだよ」


 幽は何も言えなかった。


「その祈りを、僕は受け取った」


 天は微笑む。


「だから君は生き延びた。だから怪異たちは、君をすぐには壊せなかった。だから君は、白夜姫を呼ぶところまで辿り着いた」

「……じゃあ」


 幽の声が、掠れた。


「俺が、あの星に救われたって思ってたのは」

「間違いじゃない」


 天は言った。

 優しく。

 本当に、優しく。


「僕は、君を救った」


 幽の胸の奥で、何かが崩れていく。

 救いだった。

 あの星は、確かに救いだった。

 夜が怖くて、部屋の隅が怖くて、窓の外が怖くて、朝まで息を殺していた自分にとって。

 明けの明星は、本当に。

 本当に、救いだった。

 だからこそ。

 目の前の少年が、自分と同じ顔で微笑んだ時。

 幽は、怒ればいいのか、泣けばいいのか、分からなくなった。


「僕は、君を救った」


 天は、もう一度言った。


「僕の器を、壊されるわけにはいかなかったからね」


 幽の息が止まった。

 白夜が、歯を食いしばる音が聞こえた。


「……ふざ、けるな」


 幽の声は、掠れていた。


「じゃあ、俺が……生き延びたいって思ったことも」


 喉の奥が、焼けるように痛い。


「お前の、餌だったのかよ」


 天は、悲しそうに目を細めた。


「餌なんてひどいな」


 そして、手を差し伸べた。


「祈りだよ」


 金色の線が、サーバールームの床に広がる。

 点と点が結ばれる。

 星座みたいに。

 幽の眉間が、焼けるように痛んだ。

 名前を呼ばれる前のように。

 何かに、名付けられる前のように。

 白夜が叫んだ。


「幽さま!」


 幽は、動けない。

 金色の光が、幽の足元へ届く。

 天は、どこまでも優しく笑っていた。


「さあ」


 天は言った。


「返してくれ」


 その声は、夜明け前の星のように澄んでいた。


「君という名の、空き容量(ストレージ)を」


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