第8章:『そして、神は星を名乗る』(後編)
割れたディスプレイが、再び光を取り戻していく。
一枚。
二枚。
三枚。
壁も、柱も、床も、天井も。
デジタル・モンスタワーの下層広間は、もう一度、鏡の館へ戻ろうとしていた。
ただし、さっきまでとは違う。
琴子の朱音が喰い破ったせいで、床のあちこちには黒く焦げた制御線が走っている。
青白い光ファイバーは、ところどころ断ち切られ、再接続に失敗した神経のように火花を散らしていた。
土蜘蛛の網は、まだ死んでいない。
けれど、確かに一度、喰われた。
「もー、ほんっと最悪」
サニーが、ひびの入ったスマホを見下ろして頬を膨らませる。
いつもの明るい声。
いつもの作った笑顔。
だが、その目だけが笑っていなかった。
「琴子ちゃんの赤、強すぎ。血とか執着とか百足とか、画面のトーンが全部そっちに持っていかれるんだけど」
「映えなくて悪かったわね」
琴子は、荒い息を吐きながら朱音を構えた。
左目の視界はまだ赤い。
まばたきをしても、赤い線が端を這う。
まるで、朱音の脚が目の奥に残っているみたいだった。
朱音は刃の形へ戻った。
けれど完全には戻っていない。
節の隙間で、細い脚がまだうごめいている。
ただの剣ではない。
もう、それは隠せない。
「琴子」
銀嶺が前へ出た。
首筋のノイズ亀裂は、まだ消えていない。
だが、その銀色の瞳は、サニーをまっすぐ見ていた。
「下がってください」
「は?」
「あなたの身体損耗は危険域です。左目の異常も未解決です。朱音の再使用は推奨できません」
「アンタも首にヒビ入ってるでしょ」
「修復不能ではありません」
「大丈夫じゃない時の言い方ね、それ」
「はい。大丈夫ではありません」
「正直すぎるのよ!」
サニーが、くすくす笑った。
「いいねえ。壊れた子同士の会話って、すっごく需要あるよ。健気で、痛々しくて、切り抜き向き」
スマホが、銀嶺へ向く。
「じゃあ、次はスペアちゃんの番」
広間のディスプレイが、一斉に銀嶺を映した。
いや、銀嶺だけではない。
銀嶺だったもの。
銀嶺かもしれなかったもの。
銀嶺になれなかったもの。
無数の白銀の少女たちが、画面の中に並んでいる。
完璧な銀嶺。
幽の完成版として、冷たい目で世界を見下ろす少女。
失敗した銀嶺。
床に崩れ、白い樹脂片になって消えていく少女。
ヒロインの銀嶺。
幽の隣で微笑み、白夜や琴子よりも先に手を取る少女。
敵の銀嶺。
プロトコル・アヤカシの命令どおり、幽の首級を測定する少女。
そして。
何者でもない銀嶺。
顔もなく、名前もなく、ただ白いノイズとして画面の隅で揺れる影。
「あはは。どれがいい?」
サニーは楽しそうに笑う。
「完成版に戻る? ヒロインになる? 敵に戻る? かわいそうな失敗作として泣く? それとも、誰にも選ばれずに消えちゃう?」
銀嶺は、答えなかった。
「ねえ、スペアちゃん」
サニーの声が甘くなる。
「君、本当はどれになりたいの?」
銀嶺の胸の奥で、ノイズが走った。
なりたいもの。
それは、銀嶺にとって一番難しい問いだった。
銀嶺は、月代幽の完成版として出力された。
銀嶺は、月代幽を置き換えるために作られた。
銀嶺は、破棄された。
銀嶺は、不完全なまま拾われた。
そして今、銀嶺は幽に頼まれて、ここに立っている。
では、それは何なのか。
味方。
仲間。
ヒロイン。
スペア。
失敗作。
どの言葉も、ぴたりとはまらない。
サニーの鏡が、その隙間へ入り込んでくる。
『完成しなさい』
完璧な銀嶺が言った。
『戻りなさい』
敵だった銀嶺が言った。
『選ばれなさい』
ヒロインの銀嶺が言った。
『消えなさい』
顔のない銀嶺が言った。
画面の中の声が、銀嶺の内側へ流れ込む。
定義。
役割。
選択肢。
加工された自分。
サニーの鏡は、ただ映すだけではない。
見た者が心のどこかで「そうかもしれない」と思った像を、きれいに整え、鮮やかにし、逃げられない画面として差し出してくる。
銀嶺は、自分が何者かをまだ知らない。
だから、鏡に弱い。
「……自己定義、失敗」
銀嶺の膝が、少しだけ沈む。
「存在基準、不安定化」
「うんうん。いいよ、その顔」
サニーがシャッターを切る。
カシャ。
その音に合わせて、銀嶺の首筋のノイズ亀裂が少しだけ広がった。
「壊れかけのスペア。自分探し中。誰にも選ばれないかもしれない不安。最高じゃん。可愛く編集してあげる」
「……編集」
「そう」
サニーは、スマホを指でなぞる。
「余計なノイズを消して、見やすくして、可愛くして、誰かに見てもらえる形にするの。だってさ、見てもらえないものって、存在しないのと同じでしょ?」
ディスプレイの中で、銀嶺たちが一斉に頷く。
『見られなければ、不要』
『選ばれなければ、失敗』
『完成しなければ、存在できない』
銀嶺の指が、自分の着ているTシャツの裾を掴んだ。
幽のTシャツ。
サイズが少し合っていない。
肩の位置もずれている。
袖口は少し伸びている。
洗剤の匂いがする。
幽の部屋の匂いも、ほんの少し残っている。
画面には映らない。
誰にも評価されない。
映えない。
意味がない。
けれど。
落ち着く。
「……私は」
銀嶺は、ゆっくり顔を上げた。
「完成版には戻りません」
画面の中の完璧な銀嶺が、ぴたりと止まる。
「私は、月代幽のスペアとして失敗しました」
敵だった銀嶺が、ノイズを起こす。
「敵としても、削除対象を削除できませんでした」
失敗作の銀嶺が、白い粉になって崩れかける。
「味方としても、不完全です。琴子のように守れません。白夜のように壊せません。幽のように祈れません」
サニーが眉をひそめた。
「なに、自分で全部認めちゃうの?」
「はい」
銀嶺は頷く。
「認めます」
そして、Tシャツの裾をぎゅっと握った。
「ですが」
銀嶺の瞳に、青白い光が灯る。
「この布地の温度を、私はまだ解析できていません」
「……は?」
「この匂いを、分類できていません。袖口の伸び、洗剤の残留、幽の部屋の空気、琴子に怒られた記録、白夜に呆れられた記録。どれも、まだ未整理です」
「なに言ってんの?」
「私にも、完全には分かりません」
銀嶺は、ほんの少しだけ笑った。
「だから、あなたには編集できません」
サニーの笑顔が固まった。
「画面に映せば終わりだよ。形も、色も、質感も、全部撮れる」
「いいえ」
銀嶺は首を振る。
「あなたの鏡は、見られたい形を整えます。見たくないものを隠します。見やすい意味を与えます」
銀嶺は、一歩踏み出した。
その動きは美しくなかった。
少しふらついている。
首筋のノイズ亀裂から、白銀の粒子が漏れている。
けれど、止まらない。
「ですが、匂いも、温度も、握った時の安心も、頼まれた時の重さも、まだ映せていません」
ディスプレイに映る銀嶺たちが、乱れ始める。
「私は、まだ分かりません」
銀嶺は言った。
「だから、あなたの完成した映像には収まりません」
○
サニーの顔から、作った笑顔が消えた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
それは、誰にも見せるつもりのない顔だった。
鏡の裏側。
加工前。
フィルターをかける前。
光の当たらない、古い鏡面の暗い空洞。
「……映らないものなんて、ないよ」
サニーの声が低くなる。
「今は全部、映るの。顔も、声も、居場所も、食べたものも、好きなものも、嫌いなものも、誰を見てるかも、誰に見られたいかも」
スマホが光る。
広間のディスプレイが、一斉に銀嶺へ向く。
「見られないものなんて、ない」
サニーの瞳が、鏡のように光った。
「サニーちゃんが、全部、映してあげる」
画面が切り替わる。
幽のTシャツを握る銀嶺。
それが、可愛く加工される。
袖口が整えられ、銀嶺の頬に薄く赤みが足される。
目元が柔らかくされる。
背景に光が足される。
切ない音楽が流れる。
そこに、テロップが入る。
『不完全な少女、初めての恋』
「……違います」
「違わないよ」
サニーは笑った。
「見てる人がそう思えば、それが君になるんだよ」
次の画面。
琴子に支えられる銀嶺。
『幼馴染とスペア、友情の共闘』
さらに次。
白夜を見上げる銀嶺。
『妖怪姫に憧れる人形』
さらに次。
幽を追う銀嶺。
『選ばれたい失敗作』
「ほら、意味をあげる」
サニーは、優しく言った。
「君が何者か分からないなら、サニーちゃんが決めてあげる」
銀嶺の身体が、画面に引き寄せられる。
鏡の中の自分たちが、銀嶺へ手を伸ばす。
完成版。
失敗作。
ヒロイン。
人形。
代用品。
それぞれが、銀嶺の腕を、首を、髪を、Tシャツの裾を掴む。
画面の中へ引きずり込もうとする。
「銀嶺!」
琴子が叫ぶ。
朱音を振るおうとして、膝が崩れた。
左目が赤く滲む。
身体がついてこない。
「動くな、東雲の娘」
朱知の声が割れたディスプレイから響く。
「君はもう限界だ」
「うるさい……!」
琴子は立とうとする。
だが、銀嶺が首を振った。
「琴子」
「何よ!」
「ここは、私がやります」
「アンタ、引きずり込まれかけてるでしょ!」
「はい」
「はいじゃない!」
「ですが」
銀嶺は、画面の中の自分たちを見た。
「これは、私の問題です」
銀嶺の指が、Tシャツの裾を離した。
そして、胸元に手を当てる。
そこには心臓はない。
たぶん。
少なくとも、人間のそれとは違う。
けれど、何かがある。
頼まれた記録。
琴子に怒鳴られた記録。
白夜に「スペアさん」と呼ばれた記録。
幽に拾われた記録。
Tシャツの温度。
朝の洗剤の匂い。
手を引かれた感覚。
どれも、意味が確定していない。
名前もない。
編集されていない。
だから、まだ自分の中に残っている。
「未定義出力」
銀嶺の身体から、白銀のノイズが溢れた。
綺麗ではなかった。
滑らかでもない。
白銀の粒子の中に、黒い焦げ跡のような文字が混じっている。
幽の黒歴史祝詞。
読み損ねたログ。
銀嶺自身のエラー。
琴子の怒声。
白夜の笑い声。
意味の整っていない、未分類の記録。
「なに、それ」
サニーが顔をしかめた。
「汚い。ノイズ多すぎ。画面が荒れるんだけど」
「はい」
銀嶺は頷いた。
「私は、まだ整理できていません」
白銀のノイズが、ディスプレイへ流れ込む。
サニーの加工した映像に、誤字だらけの注釈が走る。
幽の痛い祝詞が混ざる。
琴子の怒鳴り声が音割れする。
白夜の優雅な笑い声が、妙なタイミングで重なる。
Tシャツの洗剤の匂いを示す、意味不明なエラーデータが画面を埋める。
『不完全な少女、初めての恋』
そのテロップに、黒い文字が上書きされる。
『未定義。分類不能。保留。あとで考える』
「ちょ、やめて!」
サニーが叫ぶ。
「かわいくない! 意味が分かんない! 編集できない!」
「はい」
銀嶺は、初めて少しだけ誇らしげに言った。
「それが、現在の私です」
画面の中の完璧な銀嶺が、ひび割れる。
ヒロインの銀嶺が、ノイズに飲まれる。
失敗作の銀嶺が、白い粉ではなく、未整理のログとして画面に残る。
顔のない銀嶺が、Tシャツの袖を掴む。
銀嶺は、画面へ手を伸ばした。
「私は、完成しません」
その手が、鏡の中の自分を掴む。
「まだ」
銀嶺は、サニーを見た。
「分からないままで、ここにいます」
白銀のノイズが、一斉に反射した。
広間中の鏡が、サニー自身を映す。
加工されていないサニー。
フィルターのないサニー。
明るい笑顔の下にある、空洞。
見られたいものだけでできた鏡の妖怪が、本当は何も持っていないこと。
「やめろ」
サニーの声が、変わった。
軽さが消える。
インフルエンサーの声ではない。
古い鏡の裏から聞こえる、湿った声。
「見るな」
銀嶺は、静かに答えた。
「見ています」
「見るなって言ってるでしょ!」
サニーのスマホが砕けた。
画面に、大きな亀裂が走る。
同時に、広間のディスプレイが一斉に暗転した。
サニーの姿が、揺らぐ。
派手な衣装。
金髪。
完璧な笑顔。
その輪郭が、一瞬だけ、古びた円形の鏡へ変わった。
曇った鏡面。
裏側にこびりついた黒い汚れ。
そこに、誰かの顔が映っている。
誰の顔でもない。
見ようとした者の顔に変わる、空っぽの鏡。
「……雲外鏡」
琴子が呟いた。
サニーは、砕けたスマホを握りしめた。
「……今日は、ここまで」
サニーは笑おうとした。
けれど、割れたスマホの中で、その笑顔は左右にずれていた。
「こんなノイズだらけの鏡じゃ、サニーちゃんが綺麗に映らないもん」
その声は、明るく作られていた。
けれど、もう完全には整っていない。
笑顔の端に、ひびが入っている。
「次は、もっと可愛く編集してあげるから」
そう言い残し、彼女は画面の奥へ退いた。
サニーの姿が、ディスプレイの奥へ消える。
最後に、割れたスマホ画面だけが残った。
そこには、銀嶺の姿が映っていた。
不完全で。
ノイズだらけで。
幽のTシャツを着た、白銀の少女。
銀嶺は、それを見て、小さく首を傾げた。
「……映っています」
「何が?」
琴子が息を整えながら聞く。
「私です」
「そりゃ映るでしょ、鏡なんだから」
「ですが」
銀嶺は、ひび割れた画面の中の自分を見る。
「以前より、少し不正確です」
「いいんじゃない?」
琴子は、朱音を杖代わりにして立ち上がる。
「鏡なんて、ちょっと歪んでるくらいがちょうどいいのよ」
銀嶺は、しばらく考えた。
「肯定評価として記録します」
「それは合ってる」
○
その時。
最上層へ向かうエレベーターが、完全に停止した。
幽は、扉の前で息を呑んでいた。
扉の向こうに、夜空がある。
ありえない。
ここはビルの中だ。
デジタル・モンスタワーの最上層。
配線とサーバーとディスプレイでできた、現代妖怪の巣の中心。
なのに、扉の向こうには空があった。
黒い夜空。
夜明け前の、深い藍。
その中央に、一つだけ金色の星が光っている。
幽は、動けなかった。
怖い。
そう思っている。
白夜の手が、腕を掴んでいる。
その指が震えていることも分かる。
それでも、幽の胸の奥は、一瞬だけ緩んでいた。
ああ。
いた。
そう思ってしまった。
ずっと見てきた星。
夜を越えた証。
怖い朝の前に、いつもそこにあった光。
その星が、扉の向こうで、幽を見ている。
「幽さま」
白夜の声が低い。
「わたくしの後ろに」
「白夜」
「早く」
それは命令に近かった。
白夜は扇子を閉じ、幽の前へ立つ。
赤い瞳が、星を睨んでいる。
いつもの余裕はない。
傲慢な笑みもない。
世界を壊す妖怪姫が、まるで大切なものを奪われそうな顔をしていた。
エレベーターの扉が、音もなく開く。
そこは、サーバールームだった。
いや、サーバールームの形をした星空だった。
天井も壁も見えない。
無数のサーバーラックが、墓標のように並んでいる。
その一つ一つに、青白いランプが瞬いている。
だが、その奥。
部屋の中心だけは違った。
金色の光。
夜明け前の星に似た、冷たい光。
その中に、少年が立っていた。
顔は、最初よく見えなかった。
青白いサーバーの光と、金色の星の輝きが重なり、輪郭だけが浮かんでいる。
年齢は、幽と同じくらいに見える。
声だけが、先に届いた。
「ちゃんと聞こえていたさ」
その声は、優しかった。
あまりにも優しかった。
「金星の同胞よ」
幽の思考が、止まった。
その言葉を、知っている。
耳の奥で、あの時の放送が蘇る。
『……聞こえるか、金星の同胞たちよ』
銀嶺が、学校中に流した声。
全校生徒に晒された、月代幽の黒歴史。
中二の冬、誰にも見せるつもりのなかったノートに書いた、痛すぎる呼びかけ。
金星の同胞。
深淵なる明星。
偽りの理。
真の積層。
笑われた。
恥ずかしかった。
死ぬほど消したかった。
けれど。
目の前の少年は、その言葉を、まるで祈りの返事みたいに口にした。
「……なんで」
幽の声が掠れた。
「なんで、お前がそれを知ってる」
少年は、不思議そうに首を傾げた。
「知っているに決まっているだろう」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「君がそれを、僕に向けて書いたのだから」
「違う……あれは、銀嶺が勝手に流しただけで」
「そうだね」
少年は、優しく頷いた。
「あの白銀の娘は、君の記録を雑に開いた。けれど、僕は違う」
その瞳に、夜明け前の星の光が宿る。
「僕は、君が最初にその言葉を書いた夜から、聞いていた」
幽の呼吸が止まった。
「君が怖がっていた夜も。窓の外を見られなかった夜も。布団の中で、朝まで震えていた夜も」
少年は、一歩近づく。
そのたびに、顔がはっきりしていく。
目元。
鼻筋。
唇。
輪郭。
少しずつ、幽に似ていく。
「見ないでくださいませ!」
白夜が叫んだ。
幽の前に立ち、扇子を広げる。
黒い扇が、星の光を遮ろうとする。
「幽さま。それは、あなたの祈りを鏡にして、顔を作っております」
少年は、少し悲しそうに笑った。
「ひどい言い方だな、白夜姫。僕はただ、返しているだけだよ。彼が夜ごと送ってくれた、寂しさと祈りと恐怖を」
「黙りなさい」
白夜の声が低くなる。
「あなたが触れてよいものではございませんわ」
「君がそれを言うのかい」
少年は、白夜を見る。
「幽の首級を美しいと呼び、所有しようとした君が」
白夜の肩が、わずかに震えた。
「わたくしは――」
「違うと言える?」
少年の声は責めていない。
ただ、星座を結ぶように静かだった。
「白夜姫。君は彼を獲物と呼んだ。首級と呼んだ。召喚者と呼んだ。所有物に近いものとして扱った」
金色の光が、白夜の足元に走る。
『獲物』
『首級』
『幽さまは、わたくしの――』
かつて白夜自身が口にした言葉が、星と星を結ぶ線になって、彼女の影を縫い止めた。
「それは、君自身が一度は認めた定義だ」
「……っ」
白夜が扇子を握りしめる。
幽は、何が起きているのか分からなかった。
けれど、白夜が動けないことだけは分かった。
足元に走る金色の線。
星と星を結ぶような、細い光。
それが白夜の影を縫い止めている。
「違いますわ」
金色の線に縛られながら、それでも白夜は幽の前に立とうとした。
「わたくしは、幽さまを欲した。ええ、それは否定いたしません」
赤い瞳が、星を睨む。
「けれど、あなたのように、祈りを鎖に変えたりはいたしませんわ」
少年は、白夜を見つめた。
ほんの少しだけ、嬉しそうに。
「そうか」
その声は、祝福にも聞こえた。
「では、その定義はまだ固定できないね」
金色の線が、ほんのわずかに揺らいだ。
「やめろ!」
幽が叫ぶ。
少年の視線が、幽へ戻る。
その顔は、もうかなり幽に似ていた。
ただし、幽よりも整っている。
幽よりも穏やかで。
幽よりも冷たくて。
幽が、黒歴史ノートの中で夢見た「強くて、怖くなくて、星に選ばれた自分」に似ていた。
「君は優しいね」
少年は言った。
「そういうところも、ずっと見ていたよ」
「お前は……誰だ」
幽は、ようやくその言葉を絞り出した。
少年は微笑む。
「人は僕を、いくつもの名で呼んだ」
背後のサーバーランプが、星空のように瞬く。
幽は、息を吸おうとして失敗した。
名前が来る。
そう分かっただけで、眉間の奥が焼けるように痛んだ。
「天津甕星。天香香背男。従わぬ星。まつろわぬ神」
金色の光が、少年の背に広がる。
「ある者は、僕を金星と結び」
幽の喉が鳴る。
「ある者は、悪しき星神と記した」
白夜の赤い瞳が、怒りと恐怖で揺れる。
「そして、海の向こうでは、明けの明星に堕ちた光の名を与えた」
「……ルシファー」
幽の声が、勝手にこぼれた。
少年は、嬉しそうに微笑んだ。
「君はそういう名前が好きだったね」
幽の胸の奥を、冷たいものが撫でた。
知っている。
こいつは、知っている。
幽が何をかっこいいと思ったのか。
何を怖がったのか。
何に憧れたのか。
どんな言葉をノートに書いて、どんな言葉を消したのか。
全部。
「でも、今は天でいい」
少年は、手を広げた。
「君が呼びやすい名前で呼んでくれ、月代幽」
「呼ぶかよ」
幽の声は震えていた。
「俺は、お前なんか」
「そうだね。今はそれでいい」
天は、優しく頷いた。
「急に受け入れるのは難しいだろう。君は人間だから。人間は、自分を救ったものが自分を所有することを、なかなか理解できない」
「救った……?」
幽は、息を呑む。
天は、当然のように言った。
「僕は、君を救った」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「怖い夜のたびに。死にたくない朝のたびに。君は、僕を見上げた」
「俺は、祈ったつもりなんて」
「あるさ」
天は言った。
「助けてほしい。強くなりたい。見えるものの向こうへ行きたい。暗い部屋の中で、それでも朝を迎えたい」
天の声が、金色の光とともに広がる。
「それは祈りだよ」
幽は何も言えなかった。
「その祈りを、僕は受け取った」
天は微笑む。
「だから君は生き延びた。だから怪異たちは、君をすぐには壊せなかった。だから君は、白夜姫を呼ぶところまで辿り着いた」
「……じゃあ」
幽の声が、掠れた。
「俺が、あの星に救われたって思ってたのは」
「間違いじゃない」
天は言った。
優しく。
本当に、優しく。
「僕は、君を救った」
幽の胸の奥で、何かが崩れていく。
救いだった。
あの星は、確かに救いだった。
夜が怖くて、部屋の隅が怖くて、窓の外が怖くて、朝まで息を殺していた自分にとって。
明けの明星は、本当に。
本当に、救いだった。
だからこそ。
目の前の少年が、自分と同じ顔で微笑んだ時。
幽は、怒ればいいのか、泣けばいいのか、分からなくなった。
「僕は、君を救った」
天は、もう一度言った。
「僕の器を、壊されるわけにはいかなかったからね」
幽の息が止まった。
白夜が、歯を食いしばる音が聞こえた。
「……ふざ、けるな」
幽の声は、掠れていた。
「じゃあ、俺が……生き延びたいって思ったことも」
喉の奥が、焼けるように痛い。
「お前の、餌だったのかよ」
天は、悲しそうに目を細めた。
「餌なんてひどいな」
そして、手を差し伸べた。
「祈りだよ」
金色の線が、サーバールームの床に広がる。
点と点が結ばれる。
星座みたいに。
幽の眉間が、焼けるように痛んだ。
名前を呼ばれる前のように。
何かに、名付けられる前のように。
白夜が叫んだ。
「幽さま!」
幽は、動けない。
金色の光が、幽の足元へ届く。
天は、どこまでも優しく笑っていた。
「さあ」
天は言った。
「返してくれ」
その声は、夜明け前の星のように澄んでいた。
「君という名の、空き容量を」




