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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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13/22

第8章:『そして、神は星を名乗る』(前編)

 エレベーターは、音もなく昇っていた。

 階数表示はない。

 上へ向かっているのか、それとも別の場所へずれているのかも分からない。

 透明な壁の向こうには、デジタル・モンスタワーの内部構造が見えていた。

 青白い光ファイバーが、血管のようにビルの壁を這っている。

 ディスプレイは無数の目のように瞬き、そこに映る幽と白夜の姿を、少しずつ別の角度から切り取っていく。

 閉じ込められている。

 幽は、そう思った。

 箱の中にいる。

 ガラスの箱。

 光の箱。

 誰かに測られながら、上へ上へと運ばれている。


 幽は、手の中の伸縮呪棍を見下ろした。

 弦五郎に強化されたそれは、もう三千五百円の安物には見えない。

 いや、見た目はまだまあまあ安物だった。

 けれど、表面に刻まれた朱文字と、黒く焦げた記録のような筋が、ただの玩具ではないことを示している。


「……なあ、白夜」

「何ですの?」

「こいつ、そろそろ名前つけた方がいいと思わないか?」


 白夜は、心底どうでもよさそうに扇子を開いた。


「この状況で?」

「この状況だからだよ。名前がない武器って、決戦で締まらないだろ」

「幽さまは、時々とても真剣に愚かなことをおっしゃいますわね」

「ひどい!」


 幽は咳払いをした。

 そして、呪棍を軽く掲げる。


「黒史刀」


 白夜の扇子が止まった。


「……はい?」

「黒史刀。読みは、ブラック・レコード」

「刀ではございませんわよね?」

「そこは気にするな!」

「棍ですわよね?」

「語感の問題なんだよ!」

「黒歴史の“歴”ではなく?」

「そこも大事だ。黒歴史の“歴”だと痛すぎる。でも“史”なら、ちゃんと記録っぽい」


 幽は、自分でも少しだけ恥ずかしくなりながら、呪棍の黒い焦げ跡を指でなぞった。


「俺の失敗とか、黒歴史とか、エラーとか、戦ってきた記録とか。そういうのが、たぶんこいつに残ってる」


 黒い筋が、ほんの一瞬だけ文字のように揺れた。

 読めない。

 けれど、確かに何かが記録されている気がした。


「だから、黒史刀」

「……名前は痛々しいですが」

「そこは否定してくれよ!」

「いいえ」


 白夜は、少しだけ目を細めた。


「痛々しいからこそ、幽さまの武器なのでしょう」


 幽は言葉に詰まった。

 白夜は、ヒビの入った星形ヘアピンに触れる。


「消したい記録を、消さずに持っていく。幽さまには、よく似合っておりますわ」

「……褒めてる?」

「ええ。わたくしなりには」


 幽は、黒史刀――ブラック・レコードを握り直した。

 名前をつけた途端、それは少しだけ重くなった気がした。

 恥ずかしさの分だけ。

 記録の分だけ。

 逃げずに持っていくと決めた分だけ。


 たぶん、名前をつけるというのは、そういうことなのだ。

 誰かに決められる前に、自分で引き受けること。

 幽はまだ、その意味を知らなかった。


「……琴子たち、大丈夫かな」


 幽は、黒史刀を握りしめた。

 世界で一番持ち歩きたくない黒歴史製の武器。

 だけど今は、それだけが妙に頼もしかった。


「大丈夫ですわ」


 白夜は、隣で扇子を開いた。


「番犬さんは、しぶといですもの」

「それ、褒めてる?」

「ええ。あの方は、そう簡単には折れませんわ。折れたとしても、折れた刃で噛みついてくるでしょうし」

「うん、それは分かる」


 琴子ならやりそうだ。

 幽は少しだけ笑った。

 でも、その笑いはすぐに消えた。

 エレベーターの奥で、低い音がしたからだ。

 ごん。

 それは機械音ではなかった。

 もっと古い。

 もっと重い。

 巨大な杭を、地下から一本ずつ打ち込むような音。

 幽の眉間が、ちくりと痛んだ。


「……まただ」


 幽は額に触れた。

 何もない。

 傷もない。

 だけど、そこに見えない針を当てられているような感覚だけが残っている。


「眉間が痛むのですか」

「ああ。琴子のじいちゃんと話した時から、たまに」

「黄金比の首級」


 白夜が、低く言った。


「東雲のご老人が言っていたことは、おそらく正しいですわ。あなたの首級は、ただ美しいだけではない。異界のものが現世へ降りるための座標になる」

「言い方が物騒なんだよ」

「事実ですもの」

「俺の顔、いつから公共インフラになったんだよ……」

「幽さま」


 白夜の声が、少しだけ柔らかくなった。


「茶化している場合ではございませんわ」

「……分かってる」


 分かっている。

 今、自分たちが向かっている先には、朱知でもサニーでもない何かがいる。

 青白い網でも、きらびやかな鏡でもない。

 金色の光。

 夜明け前の星に似た、冷たい光。

 それを思い出した瞬間、幽の胸の奥が、奇妙にざわついた。


「なあ、白夜」

「はい」

「お前、星って好きか?」


 白夜が、意外そうに幽を見る。


「突然ですわね」

「いや、なんか……今、思い出した」

「金星のことですの?」

「そこを即答するなよ」

「幽さまの星の話といえば、それしかございませんもの」

「まあ、そうだけど」


 幽は、ガラスの向こうを見た。

 デジタル・モンスタワーの内部には、空がない。

 窓の外に見えるのは、ビルの内壁と配線とディスプレイだけ。

 それなのに、幽の頭の中には、夜明け前の空が浮かんでいた。

 まだ黒い空。

 少しずつ青み始める東の端。

 その中で、一つだけ、妙に明るく光る星。


「俺さ」


 幽は、自分でも少し驚くくらい静かな声で言った。


「金星人になりたかったわけじゃないんだと思う」

「では、何になりたかったのです?」

「夜が怖くないやつ」


 白夜は笑わなかった。

 いつもなら、絶対に何か言ってくる。

 金星人ですものね、とか。

 深淵なる明星の同胞ですものね、とか。

 そういう、幽の精神を丁寧に削るようなことを、優雅に言ってくるはずだった。

 でも、白夜は黙っていた。

 だから幽も、続きを言えた。


「お前が来る前から、俺はずっと狙われてた」


 声に出すと、胸の奥が少し重くなる。


「見えるんだ。正確には、全部がはっきり見えるわけじゃない。天井の隅の黒い染みとか、押し入れの隙間の目とか、窓の外に立ってる人じゃない影とか」


 言葉にすると、少しだけ息が浅くなる。


「でも、見えたところで何もできない。祓えない。殴れない。逃げても、また来る」


 幽は、少しだけ笑った。


「だから余計に怖かった。俺だけが見えて、俺だけが怯えて、でも誰にも説明できないんだ」


 エレベーターのガラスに、自分の顔が薄く映る。

 その顔は、少し青ざめていた。


「護符貼ったり、盛り塩したり、怪しい呪具買ったりしたけど、まあ、だいたい効かなかった。三千五百円の伸縮呪棍も、最初はただの精神安定剤だったし」

「その精神安定剤が、今では立派な恥の杭ですわね」

「言い方」

「褒めておりますのよ」

「褒め方が妖怪なんだよ」


 少しだけ息が楽になった。

 けれど、話はそこでは終われなかった。


「夜が、一番怖かった」


 幽は続けた。


「寝たら、そのまま何かに連れていかれるんじゃないかって思った。寝なかったら寝なかったで、部屋の暗いところがどんどん濃くなる。朝まで、ただ布団の中で息を殺してた」


 白夜は、何も言わない。


「でも、夜明け前になるとさ」


 幽は、遠い空を見るように目を細めた。


「空が、少しずつ青くなるんだ」


 黒が薄くなる。

 窓の外にある闇が、形を失っていく。

 部屋の隅が、ただの部屋の隅に戻っていく。

 押し入れも、天井も、鏡も。

 幽を見ていた気配が、朝に溶けるみたいに薄れていく。


「その時に、見えたんだ。金星が」

「明けの明星」

「ああ」


 幽は、小さく笑った。


「あれを見ると、今日も死なずに済んだって思えた」


 言ってから、胸の奥が熱くなった。

 恥ずかしい。

 でも、黒歴史ノートを晒された時の恥ずかしさとは、少し違った。

 もっと深いところにあるもの。

 誰にも見せたくなかった、弱い部分。


「あの星は何もしてないのかもしれない。星なんて、ただ遠くで光ってるだけだし。俺のことなんか知るわけないし」


 幽は、呪棍を握りしめた。


「でも、それでも俺は、あれに救われた」


 白夜の赤い瞳が、わずかに揺れた。


「だから、金星人がどうとか、深淵なる明星がどうとか、今考えると死ぬほど痛いんだけどさ」

「ええ。かなり」

「そこは否定してくれよ!」

「痛々しいものは痛々しいですわ」

「ひどい!」

「でも」


 白夜は、扇子を閉じた。

 ぱちん、という小さな音が、静かなエレベーター内に響く。


「その痛々しさは、笑うためのものではございませんのね」

「……え?」

「痛々しくて、未熟で、言葉選びは少々壊滅的で、正直に申し上げれば聞いているこちらが顔を覆いたくなる部分もございますけれど」

「追撃が長い!」

「けれど」


 白夜は、ヒビの入った星形ヘアピンに触れた。

 幽が商店街で買った、安物の飾り。

 琴子の朱音で傷つき、細いヒビの入った、小さな星。


「それは、幽さまが夜を越えるために積み上げた祈りでしたのね」


 幽は、言葉を失った。

 祈り。

 そんな立派なものではないと思っていた。

 ただ怖くて。

 ただ寂しくて。

 ただ、朝まで死にたくなかっただけ。

 ノートに書いた言葉は痛い。

 星への憧れは幼い。

 でも。

 それでも。

 あの夜の自分は、本気だった。


「……そうかもな」


 幽は、小さく言った。


「俺、祈ってたのかもな」


 白夜は笑わなかった。

 代わりに、ヘアピンのヒビをそっと撫でた。


「人間は、不思議ですわね」

「何が?」

「そんなにも弱いのに、夜明けを待てる」

「待つしかないからだよ」

「それでも」


 白夜は、幽を見る。


「待てることは、弱さだけではございませんわ」


 エレベーターの奥で、再び音がした。

 ごん。

 今度は、さっきより近い。

 幽の眉間に、冷たい痛みが走る。


「……っ」


 思わず額を押さえる。

 白夜の表情が変わった。

 彼女は、天井を見る。

 赤い瞳が、わずかに細くなる。

 怒りではない。

 警戒。

 いや、もっと深いもの。

 恐れ。


「白夜?」


 幽が呼ぶと、白夜はすぐにいつもの微笑みを作った。

 でも、少しだけ遅かった。

 幽には分かってしまった。

 白夜は、何かを知っている。

 それも、あまり良くない何かを。


「幽さま」

「何だよ」

「星は、見上げるものですわ」


 白夜の声は、ひどく静かだった。


「……近づきすぎるものでは、ございませんの」


 幽は返事ができなかった。

 エレベーターは、まだ昇っている。

 空のない塔の中を。

 星のない場所へ向かって。


   ○


 その頃、はるか下層。

 琴子は、朱知圭の網に押し込まれていた。

 七章で開いた道は、まだ生きている。

 幽と白夜は上へ進んだ。

 それだけで十分。

 そう思いたかった。

 でも、目の前の朱知圭は、まだ笑っていた。


「君はよくやったよ、東雲琴子」


 割れたディスプレイの向こうで、朱知が穏やかに言う。


「網と鏡の第一層を破った。下層制御を一時的に乱した。月代くんと妖怪姫を上へ通した。見事だ」

「褒められても嬉しくないわ」


 琴子は朱音を構え直した。

 手首が熱い。

 前の戦いで朱知の糸に巻かれた場所。

 赤い認証痕が、皮膚の下でじくじくと疼いている。


「でも、それだけだ」


 朱知の声は優しい。


「君が破ったのは一枚の網に過ぎない。このビルの下層レイヤーは、まだ私の身体だ」


 床が震えた。

 青白い光ファイバーが、割れた床の隙間から湧き出す。

 一本ではない。

 川のように。

 血管のように。

 都市の神経が、広間全体へ広がっていく。


「しつこいわね……!」

「接続とは、そういうものだよ。一度切れても、別経路を探す。遮断されても、迂回する。拒絶されても、再試行する」

「最悪の元カレみたいなこと言わないで」

「たとえが人間的だね」


 朱知が指を鳴らす。

 床下から蜘蛛脚が生えた。

 いや、蜘蛛脚というより、ビルそのものが足を生やしている。

 青白いケーブルが束になり、関節のように折れ、光る爪で床を引っ掻く。


 ギチ。


 琴子の眉が動いた。

 今の音。

 蜘蛛の脚にしては、硬すぎる。

 もっと節が太い。

 もっと古い。

 朱音の桐箱が、琴子の鞄の中で震えた。


 ギチ。


 もう一度、鳴った。

 今度は床下ではない。

 琴子の手元。

 朱音が、鞘の内側で鳴いている。


「……何」


 琴子は、朱音を見る。

 赤い編み紐が、わずかにほどけかけていた。

 黒髪を束ねる、呪力を込めた赤い紐。

 朱音を扱う時、自分の髪が術式の邪魔にならないよう結んでいる紐。

 その紐の端が、まるで生き物の触角のように震えていた。


「琴子」


 銀嶺の声がした。

 彼女はサニーの鏡を牽制しながら、琴子の方をちらりと見る。

 首筋には、まだノイズの亀裂が残っている。


「朱音の出力が上昇しています。危険です」

「分かってる」

「いえ。おそらく、あなたはまだ分かっていません」

「どういう意味よ」

「朱音は、命令を待っていません」


 琴子の手首が、ずきりと痛んだ。

 朱知の認証痕が青白く光る。


「……っ」


 一瞬、朱音を握る指が開いた。

 自分の意志ではない。

 朱知の網が、琴子の身体に「再接続」しようとしている。


「嫌……!」


 琴子は奥歯を噛み、空いた手で自分の手首を掴んだ。

 爪が皮膚に食い込む。

 痛みで、ようやく指が戻った。

 その青白い認証痕に反応するように、朱音の赤い刃が、微かに震えた。

 ギチ。

 今度は、はっきり聞こえた。

 獣の鳴き声。

 いや、虫の鳴動。

 赤い刃の奥に、何か節のあるものが眠っている。


「東雲の娘」


 朱知が、その変化に気づいて笑った。


「その刃、面白いね。怪異と現世の縁を切るための道具だったはずなのに、今はまるで何かを食べたがっている」

「黙りなさい」

「縁を切る刃が、縁を喰う獣へ変わる。なるほど、東雲家もずいぶん危ないものを飼っている」


 朱知の糸が、琴子の足元を囲んだ。

 青白い蜘蛛の網。

 光ファイバーの巣。

 都市の神経。

 そのすべてが、琴子を包囲していく。


「さあ、見せてくれ」


 朱知は、優しく言った。


「君の執着が、その刃をどこまで育てるのか」

「……趣味が悪いわね」

「研究者としての好奇心だよ」

「そういうところが気持ち悪いって言ってんのよ」


 琴子は朱音を握りしめた。

 幽は上へ行った。

 自分が行かせた。

 だから、ここで倒れるわけにはいかない。

 幽くんを守る。

 その言葉は、もう昔みたいに綺麗ではない。

 守りたい。

 そばにいたい。

 取られたくない。

 知らない場所へ行ってほしくない。

 全部ある。

 全部、自分の中にある。

 でも、それを朱知の網に渡す気はない。


「銀嶺」

「はい」

「まだ動ける?」

「修復不能ではありません」

「つまり大丈夫じゃないのね」

「大丈夫ではありません」

「ほんと正直ね、あんた」


 琴子は笑った。

 朱音がまた鳴く。


 ギチ。


 今度は、少しだけ嬉しそうに。


「いいわ」


 琴子は、低く言った。


「どうせ危ないなら、使ってやる」

「非推奨です」

「知ってる」

「寿命、精神、縁、いずれか、または複数の損耗が予想されます」

「それも知ってる」

「では、なぜ」

「幽くんが上にいるからよ」


 銀嶺は、一瞬だけ黙った。

 それから、小さく頷く。


「理解不能ですが、納得しました」

「それ、結局分かってないでしょ」

「はい」

「でしょうね」


 朱知の蜘蛛脚が迫る。

 青白い爪が、琴子の首元を狙う。

 琴子は朱音を構えた。

 その時。

 手首の認証痕が、熱を持った。

 青白い光が、朱音の赤に呑まれていく。

 その痛みは、朱知に縛られた時よりもずっと熱い。


「……っ」


 琴子の指先が震えた。

 朱音が、琴子の中にあるものを舐めている。

 寿命か。

 正気か。

 それとも、幽くんへ伸びる縁そのものか。

 分からない。

 けれど、琴子は笑った。


「……いいわ」


 幽くんは上に行った。

 なら、ここは自分が喰い破る。


「ただし、勘違いしないで」


 朱音の赤い刃が、ゆっくりと割れ始める。


「私の幽くんへの執着は、あんた程度に喰い尽くせるほど安くない」


 朱音が、獣のように鳴いた。


 ――ギチ。

 ――ギチ。

 ――ギチ。


 次の瞬間、刃の内側から、無数の赤い脚が覗いた。


   ○


 エレベーターは、まだ昇っている。

 だが、速度が変わっていた。

 さっきまで滑るようだった動きが、今は何かに引き寄せられるようになっている。


 上へ。

 上へ。

 より高い場所へ。

 より遠い場所へ。

 幽は、無意識に額に触れた。

 眉間の奥が、冷たい。

 そこに星の光を埋め込まれたみたいだった。


「幽さま」


 白夜が呼ぶ。


「今から先、何が見えても、すぐに信じてはいけませんわ」

「何が見えるんだよ」

「分かりません」

「白夜が分からないって言うの、相当怖いんだけど」

「ええ」


 白夜は、珍しく笑わなかった。


「わたくしも、少し怖いですわ」


 幽は息を呑んだ。

 白夜が怖いと言った。

 世界を壊す妖怪姫が。

 六万五千五百三十六の妖を束ねる姫が。

 それだけで、エレベーターの空気が一段冷える。


「白夜」

「はい」

「お前、何か知ってるんだな」


 白夜は、しばらく黙っていた。

 そして、答える代わりに、ヒビ入りの星形ヘアピンへ触れた。


「星は、遠いから美しいのです」

「……またそれかよ」

「近づきすぎれば、焼かれますわ」

「金星って、そういう物理の話?」

「いいえ」


 白夜は赤い瞳で幽を見る。


「祈りの話ですわ」


 その瞬間。

 エレベーターが止まった。

 音もなく。

 衝撃もなく。

 ただ、世界の縦糸が切れたように。

 静止した。

 ガラスの外にあった青白い配線が消える。

 代わりに、暗闇が広がった。

 ビルの中のはずなのに、そこには夜空があった。

 黒い空。

 深い闇。

 その中に、一つだけ、金色の星が光っている。

 幽は息を呑んだ。

 怖いはずだった。

 白夜に「すぐに信じるな」と言われていた。

 ここがビルの中で、空なんてあるはずがないことも分かっていた。

 それでも。

 胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。

 ああ。

 いた。

 そう思ってしまった。


「……金星」


 白夜が、幽の腕を掴んだ。

 その指が、冷たかった。


「幽さま」


 白夜の声は震えていた。


「見すぎては、いけません」


 けれど、幽は見てしまった。

 ずっと見てきた星だった。

 夜明け前の空に、一つだけ光っていた星。

 怖い夜を越えたあとに、必ずそこにあった光。

 幽を生かしてくれた、遠い救い。

 その星が。

 今、エレベーターの扉の向こうで、こちらを見ていた。


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