表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/19

第7章:『蜘蛛の網と雲の鏡』(後編)


 エレベーターの扉が閉じた瞬間、広間の空気が変わった。

 幽がいなくなった。

 その事実だけで、琴子の胸の奥が、ひどく冷えた。

 自分で行かせた。

 自分で背中を押した。

 それなのに、足元が急に抜け落ちるような感覚がある。

 幽くんが遠くへ行く。

 昔から、ずっと怖かったこと。

 あの変なノートを読んでいる時も。

 夜な夜な3Dプリンタを動かしている時も。

 空を見上げて、金星がどうのと馬鹿みたいなことを言っている時も。

 琴子はずっと、胸の奥で怯えていた。

 幽くんは、いつか自分の知らない場所へ行ってしまうんじゃないか。

 自分の手の届かない、遠い場所へ。

 妖怪姫が現れて。

 白銀のスペアが現れて。

 黄金比の首級だの、世界を壊すだの、プロトコル・アヤカシだの。

 その不安は、どんどん形になっていく。

 だから。

 ここで止まるわけにはいかない。

 琴子は、朱音を強く握りしめた。


「……さて」


 朱知圭が、ゆっくりとネクタイを緩める。


「いいのかい? 月代くんを行かせて」

「いいわけないでしょ」


 琴子は即答した。


「今すぐ追いかけたいわよ。今すぐ首根っこ掴んで、危ないことするなって怒鳴りたいわよ」

「なら、どうして残った?」

「決まってるじゃない」


 朱音の刃が、蛇のように分裂する。


「……行かせるためよ」


 朱知が笑う。


「矛盾しているね」

「人間なんて、だいたい矛盾してるのよ」

「私が、易々と行かせてあげると思うのかい?」


 床下から、青白い光ファイバーが溢れ出した。


 一本。

 十本。

 百本。

 千本。


 それらは絡み合い、編み上がり、巨大な蜘蛛の脚へと変わっていく。

 ビルの照明が落ちた。

 非常灯の赤い光だけが、琴子の頬を照らす。


「君のその蛇腹剣。古いね」


 朱知が指を鳴らす。


「血。髪。呪符。執着。伝統。家系。どれもこれも、実にアナログだ」

「そう。なら、そのアナログで殴ってあげる」

「無駄だよ」


 光ファイバーの蜘蛛脚が、床を削って迫る。


「このビルは私の身体だ。君が斬るのは糸ではない。都市の神経だ」


 琴子が床を蹴った。

 朱音がうねる。

 赤い蛇腹剣が、青白い蜘蛛脚を斬り裂く。

 だが、斬ったそばから別の配線が伸び、同じ形を再構築する。


「くっ……!」

「ほらね。古い刃では、ネットワークは殺せない」


 朱知の声が、広間のあちこちから響いた。

 正面。

 背後。

 天井。

 床。

 スピーカー。

 ディスプレイ。

 すべてが朱知の口になる。


「人間は、もう繋がらずには生きられない。電気、水道、交通、通信、決済、学校、病院、行政。すべてが網の上にある」


 光の糸が、琴子の足首を狙う。

 琴子は跳んだ。

 しかし空中にも糸がある。

 朱音で切る。

 さらに別の糸。

 切る。

 また糸。

 切る。

 切る。

 切る。

 息が上がる。

 腕がしびれる。

 それでも糸は尽きない。


「全部、私の巣だ」


 朱知が笑う。


「君が守りたい月代くんも、この街の網の中でしか生きられない。なら、彼を守るとはつまり、私の巣の中で生かしてもらうということだよ」

「気持ち悪い」


 琴子は吐き捨てた。


「何?」

「そんな繋がり、私はいらないって言ったの」


 朱音が、真紅に輝いた。


「幽くんは、あんたの網で生きてるんじゃない」


 琴子は、朱音を振りかぶる。


「私との縁で、ここにいるのよ!」


 蛇腹剣が、床を裂いた。

 朱知の光ファイバーと、琴子の朱音が、真正面からぶつかる。

 青と赤の火花が、広間を照らした。


   ○


 一方で、銀嶺は動けずにいた。

 目の前に、無数の自分がいる。

 壁のディスプレイ。

 床に反射するガラス。

 天井のミラーパネル。

 スマホ画面。

 その全部に、銀嶺が映っている。

 けれど、そのどれもが少しずつ違う。

 完璧な銀嶺。

 壊れた銀嶺。

 幽の顔をした銀嶺。

 顔のない銀嶺。

 白夜の隣で笑う銀嶺。

 琴子に斬られる銀嶺。

 誰にも見られず、部屋の隅で停止する銀嶺。


「あははー。ねえ、どれが本物?」


 サニーが、スマホを構えながら笑った。


「スペアちゃん。君って、そもそも何なの?」

「……私は」

「月代幽の完成版?」


 画面の中に、かつての銀嶺が映る。

 冷たく、美しく、完璧な未来を告げる白銀の少女。


「でも負けちゃったよねー?」


 画面が切り替わる。

 幽のTシャツを握りしめる、今の銀嶺。


「じゃあ、ヒロイン?」


 次の画面。

 幽に寄り添う自分。

 その隣で、白夜が笑っている。

 琴子が睨んでいる。


「でも、誰の一番にもなれないよねー☆」


 銀嶺の胸の奥で、何かがノイズを立てた。

 胸、という概念が自分にあるのかはわからない。

 けれど、確かにそこが痛い。


「あなたはー、コピーにもなれなかった。敵にも戻れないしー。味方にもなりきれないしー。完成版でもないしー。スペアでもないしー」


 ディスプレイが、次々と切り替わる。

 幽が銀嶺を見なくなる映像。

 白夜が銀嶺を「失敗作」と呼んで、扇子で払い捨てる映像。

 琴子が銀嶺を斬り伏せ、誰も責めない映像。

 幽のTシャツだけが床に残り、銀嶺の輪郭が、白いノイズになって消えていく映像。

 サニーの笑顔が、画面いっぱいに広がる。


「じゃあ――あなたって、何?」


 銀嶺は答えようとした。

 答えが出ない。

 演算する。

 失敗。

 検索する。

 該当なし。

 未来予測を開始する。

 エラー。


「……私は」


 画面の中の銀嶺たちが、一斉に笑う。


『不要です』

『未完成です』

『失敗作です』

『代用品です』

『どこにも属しません』


 銀嶺の膝が折れた。

 論理核に、映像の傷が流れ込んでくる。

 実体が傷ついているわけではない。

 けれど、認識が傷つけられる。

 サニーの鏡は、見た者が「そうかもしれない」と思った瞬間、それを現実に近づける。

 銀嶺は、自分自身を定義できない。

 だから、映された像に引きずられる。


「……定義不能」


 銀嶺は、床に手をついた。


「自己存在の基準が、不安定化しています」

「あははー。かわいそー」


 サニーは笑う。


「じゃあ、サニーちゃんが編集してあげる。君はね――」


 スマホのシャッター音。


「失敗したスペア。可愛く壊れるだけの、人形」


 その瞬間、画面の中の銀嶺の首に、黒い線が入った。

 現実の銀嶺の首筋にも、ノイズの亀裂が走る。


「……っ」


 銀嶺は、初めて息を呑むような音を出した。

 その時。

 遠くで、琴子の声がした。


「銀嶺! 何ぼさっとしてんの!」


 鋭い声。

 怒っている。

 苛立っている。

 でも、そこには確かに、こちらを見ている温度があった。


「幽くんを行かせたの、アンタも同罪なんだからね! そこで勝手に壊れてんじゃないわよ!」

「……同罪」


 銀嶺は、顔を上げた。

 同罪。

 それは、責任を共有しているということ。

 そして、罪を共有しているということ。

 幽を先へ行かせた。

 琴子と同じ選択をした。

 それはつまり、自分もこの場に必要だったということではないのか。


「……エラー」


 銀嶺は呟いた。


「ですが、悪くありません」


 サニーが眉をひそめる。


「え?」

「私は、月代幽の完成版ではありません」


 銀嶺は、ゆっくり立ち上がった。


「スペアとしても、失敗しました。敵としても不完全です。味方としても、定義が不安定です」

「あはは。自分で認めちゃった」

「はい」


 銀嶺の瞳に、青白い光が灯る。


「ですが、私は今、幽に頼まれました」


 画面の中の銀嶺たちが、ざわりと乱れる。


「琴子と共に、ここを任されました」


 銀嶺は、自分が着ている幽のTシャツの裾を握る。

 洗剤の匂い。

 体温の残り。

 袖口の伸びた部分。

 映像には映らない、どうでもいい情報。

 なのに、落ち着く。


「この布地の感触を、私はまだ解析できていません」

「は?」


 サニーが目を瞬かせた。


「意味わかんないんだけどー?」

「私にも、まだ完全にはわかりません」


 銀嶺は、初めてほんの少しだけ、口元を緩めた。


「だから、あなたの鏡には映りません」

「そんなの、画面に映せば終わりじゃん」

「いいえ」


 銀嶺は顔を上げた。


「あなたの鏡は、形を映します。見られたい姿を編集します。ですが、匂いも、温度も、握った時の安心も、まだ映せていません」


 銀嶺の瞳に、青白い光が灯る。


「だから、あなたの鏡は完全ではありません」


 未来予測、開始。

 予測精度、八パーセント。

 低すぎる。

 以前なら、失敗と判断していただろう。

 けれど今は違う。

 銀嶺は、わざと予測結果から外れる方向へ一歩踏み出した。

 サニーの画面が、一瞬だけ遅れる。


「……え?」

「私の予測は外れます」


 銀嶺が、ディスプレイの反射角を計算する。


「だから、あなたの作った完璧な映像にも、私は収まりません」


 銀嶺は床に落ちていたガラス片を拾い、サニーへ向けて投げた。

 攻撃ではない。

 反射だ。

 ガラス片が、ディスプレイの光を受ける。

 反射。

 反射。

 反射。

 その光が別の画面へ反射し、さらに天井のミラーへ、床のガラスへ、スマホのカメラへ。

 サニーの作った鏡の迷路が、一瞬だけ、サニー自身を映した。


「なっ――」


 画面の中で、加工フィルターが剥がれた。

 明るい笑顔の下。

 可愛い仕草の奥。

 そこにあったのは、古い鏡の裏側みたいな暗い空洞だった。

 サニーの声が、変わった。


「……見たね?」


 さっきまでの軽い声ではなかった。


 銀嶺は頷く。


「はい」

「見ちゃ駄目なんだよ、そういうの」


 サニーのスマホ画面に、細いヒビが入った。

 銀嶺は、淡々と言った。


「あなたの鏡も、完全ではありません」


   ○


 琴子は、朱知の網に押し込まれていた。

 朱音は強い。

 だが、相手が悪すぎる。

 斬っても、斬っても、糸は戻る。

 蜘蛛脚は増える。

 床は沈み、天井は下がり、壁は配線を吐き出す。

 このビルそのものが、朱知の身体。

 ならば、いくら刃を振るっても、傷はすぐに別の場所で塞がる。


「どうしたんだい、東雲の娘」


 朱知の声が、真上から降ってくる。


「君の執着は、その程度かい?」

「うるさい……!」

「月代くんは上へ行った。妖怪姫と二人きりだ」


 その言葉に、琴子の動きが一瞬鈍った。

 糸が頬をかすめる。

 血が滲む。


「ほら」


 朱知が笑う。


「気になるんだろう? 彼が自分の知らない場所へ行ってしまうのが」

「……っ」

「君は守りたいんじゃない。縛りたいだけだ」


 蜘蛛脚が、琴子の足元を囲む。


「彼を普通の男の子として閉じ込めておきたかった。自分の手の届く場所に。神社と学校と通学路、その小さな世界の中に」

「黙れ」

「でも彼は違った。黄金比の首級を持ち、妖怪姫を呼び、プロトコル・アヤカシに選ばれた。彼はもう、君の小さな世界には戻らない」

「黙れって言ってんのよ!」


 琴子が朱音を振るう。

 だが、その刃は網に絡め取られる。


「それでいいじゃないか」


 朱知の声は優しかった。


「網は、離れていくものを繋ぎ止める。君が望むものを、私なら叶えられる」

「……何?」

「月代幽を、君のためだけに接続してあげよう。君が見たい時に見える。呼べば応える。逃げない。忘れない。裏切らない。永遠に……君のものだ」


 壁面に映像が浮かぶ。

 琴子の隣で笑う幽がいた。

 普通の制服。

 普通の笑顔。

 白夜も銀嶺もいない。

 世界を壊す運命も、黄金比の首級もない。

 ただ、琴子のそばにいる幽。


『琴子。ずっと一緒にいるよ』


 喉が震えた。

 欲しい。

 その感情は、あまりにも素直に胸の底から出てきた。

 琴子は、そんな自分が一番嫌だった。

 その瞬間、朱知の糸が、琴子の手首へ巻きついた。


「捕まえた」

「――ッ!」

「君の願いは、実に扱いやすい」


 朱知が嗤う。


「愛は、最も強い認証情報だ」


 糸が締まる。

 朱音を握る手から、力が抜けそうになる。

 その時。


「琴子」


 銀嶺の声がした。

 琴子は、歯を食いしばって顔を上げる。


「……何よ」

「その映像は、偽物です」

「わかってるわよ!」

「ですが、一瞬、欲しいと思いましたね」

「うるさい!」

「記録しました」

「記録すんな!」


 まだ足元は揺れている。

 首筋のノイズも消えていない。

 それでも、銀嶺は自分が着ている幽のTシャツの裾を握り、立ち上がった。

 銀嶺は、サニーの鏡を一時的に乱したまま、琴子の方へ歩いてくる。


「私も同じです」

「は?」

「幽の隣にいたい。必要とされたい。定義されたい。そう思いました」


 銀嶺は、琴子を見る。


「おそらく、これは非効率な感情です」

「……アンタに何がわかるのよ」

「わかりません」


 銀嶺は即答した。


「ですが、わからないままでも、ここに立つことはできます」


 琴子は、息を呑んだ。

 わからないまま。

 不安なまま。

 怖いまま。

 それでも。

 立つ。


「……ほんと、ムカつくわね」


 琴子は笑った。


「アンタ、ちょっとだけ幽くんに似てきた」

「それは、肯定的評価ですか?」

「最悪って意味よ」

「記録しました。最悪は、肯定的評価の場合がある」

「学習するな!」


 琴子は、手首に巻きついた糸を睨んだ。

 幽が遠くへ行くのが怖い。

 それは事実だ。

 幽を縛りたい。

 それも、嘘ではない。

 できるなら、自分の目の届く場所にいてほしい。

 自分の声が届くところで笑っていてほしい。

 けれど。

 朱知の網で縛られた幽なんて、幽じゃない。

 あの馬鹿で。

 鈍くて。

 痛くて。

 転んで。

 黒歴史を叫んで。

 それでも前へ行く幽だから、追いかけたいのだ。


「……朱知圭」


 琴子は、低く言った。


「私は、幽くんを縛りたい」


 朱知が笑う。


「なら――」

「でも」


 琴子は、朱音を握りしめた。


「あんたの網で縛った幽くんなんて、幽くんじゃない」


 刃が震える。

 手首に巻きついた糸が、赤く焼ける。


「遠くへ行くなら追いかける。知らない場所へ行くなら、そこまで行く。神様になろうが、妖怪に攫われようが、データにされようが、絶対に見つける」


 琴子は、朱知を睨んだ。


「縛りたい気持ちは、私のものよ。あんたの網に渡すものじゃない」


 朱音が、爆ぜた。

 糸を断ち切る。

 手首の拘束がほどける。

 琴子は、そのまま朱音を床へ突き立てた。


「銀嶺!」

「はい」

「アンタの外れる予測、使える?」

「成功確率は八パーセントです」

「上等!」


 琴子が笑う。


「幽くんなら、それくらいの数字で突っ込むわ!」

「同意します」


 銀嶺の瞳が青く光る。


「不完全予測、開始」


 銀嶺は、わざと未来から外れた。

 サニーの鏡が、銀嶺の像を見失う。

 朱知の網が、琴子の足元を一手遅く塞ぐ。

 銀嶺の投げたガラス片が、壁面のディスプレイを斜めに切った。

 映像が割れる。

 反射がずれる。

 サニーの鏡が、朱知の網を一瞬だけ映し返す。

 琴子の視界に、見えないはずの線が浮かんだ。

 エレベーターへ絡みついている制御線。

 都市の神経ではない。

 幽を上へ行かせないためだけに結ばれた、たった一本の縁。


「見えた……!」


 琴子は笑った。


「銀嶺!」

「はい。不完全予測、継続中」

「それ、もう一回外しなさい!」

「了解しました。外します」


 銀嶺が、わざと一歩遅れて動いた。

 サニーの鏡がその遅れを補正しようとする。

 朱知の網が、その補正に合わせて一手遅れる。

 そのズレへ、琴子は朱音を叩き込んだ。


「東雲流――乱反射縁切り!」


 赤い刃が、青白い制御線を断ち切った。

 広間のディスプレイが、一斉に白く弾ける。

 サニーのスマホに、一本の亀裂が走る。

 床下から伸びていた朱知の糸が、一本だけ、再生せずに黒く焦げた。

 エレベーターの上昇ロックが解除される。

 赤かった表示が、青へ変わった。


「……道、開いたわよ」


 琴子は荒い息を吐いた。


「幽くん。ちゃんと行きなさい」


   ○


 エレベーターの中。

 突然、閉じていた階数表示のないパネルに、青い光が走った。

 低く唸っていた箱が、わずかに軽くなる。

 何かが、外れた。

 幽は呪棍を握りしめたまま、顔を上げる。


「……動いた?」

「ええ」


 白夜が扇子を閉じる。


「番犬さんたちが、何かやったようですわね」

「琴子と銀嶺が……」


 幽は、閉じた扉の向こうを見る。

 何も見えない。

 声も届かない。

 それでも、分かった。

 道が開いた。

 あの二人が、開けてくれた。


「……頼むぞ」


 幽は小さく呟いた。

 その声は、誰にも届かない。

 けれど、届かなくてもよかった。

 信じて進むと、決めたのだから。


   ○


「……やった?」


 琴子が息を吐く。


「いいえ」


 朱知の声が、ノイズ混じりに響いた。


「第一層を抜けただけだよ」


 割れたディスプレイの向こうで、朱知が笑っている。

 身体は傷ついていない。

 サニーも、割れた画面の中で不機嫌そうに頬を膨らませていた。


「もう、サニーちゃんの顔を変に映すとか、最悪なんだけど」


 その声は明るい。

 でも、さっきより少しだけ硬い。

 スマホの画面に入った細いヒビを、サニーは親指でなぞった。


「ほんっと、最悪」

「完全撃破には至っていません」


 銀嶺が言った。


「ですが、下層制御は一時的に破壊しました。オリジナルと白夜の進行は継続可能です」

「それで十分」


 琴子は、膝をつきそうになる身体を無理やり支えた。


「今は、それで十分よ」


 琴子の手首には、糸の跡が残っていた。

 赤い。

 熱い。

 ただの傷ではない。

 朱知の網に、一度でも認証されかけた痕跡だ。

 銀嶺の首筋にも、細いノイズの亀裂が残っている。


「銀嶺、それ」

「修復不能ではありません」

「そういう言い方する時、だいたい大丈夫じゃないのよ」

「大丈夫ではありません」

「正直すぎるわ!」


 それでも、銀嶺は倒れなかった。

 琴子も、朱音を下ろさなかった。

 朱知が、静かに拍手した。


「見事だ、東雲琴子。白銀のスペア。君たちは確かに、私たちの網と鏡を一枚破った」


 サニーが、スマホを構え直す。


「でもね、ここから先はもっと深いよ?」


 朱知の背後で、ビル全体が唸る。

 床下。

 天井裏。

 壁の奥。

 都市のさらに奥から、巨大な何かが目を覚ます音がした。


「ここはまだ、デジタル・モンスタワーの下層レイヤーだ」


 朱知は笑った。


「上へ行くほど、網は細く、強く、広くなる」

「鏡もね」


 サニーの笑顔が、画面いっぱいに広がる。


「もっと綺麗で、もっと優しくて、もっと残酷になるよ」


 琴子は、朱音を構え直した。


「上等よ」


 銀嶺も、隣に立つ。


「不完全予測、継続します」


 二人の背後で、エレベーターの表示が上昇していく。

 幽と白夜は、先へ進んだ。

 ならば、ここで倒れるわけにはいかない。

 琴子は、息を整えながら呟いた。


「幽くん。ちゃんと行きなさいよ」


 それは祈りではなかった。

 命令だった。

 その時だった。

 割れたディスプレイの奥で、ほんの一瞬だけ、青白い網でも、きらびやかな鏡でもない光が瞬いた。

 金色。

 夜明け前の星に似た、冷たい光。

 朱知も、サニーも、その光には触れなかった。

 まるで、見てはいけないもののように。

 まるで、自分たちの上にある、さらに古い命令を思い出したかのように。

 琴子は眉をひそめた。


「……今の、何?」


 銀嶺の瞳に、ノイズが走る。


「不明。ですが、土でも、雲でもありません」


 金色の光は、すぐに消えた。

 再び広間を満たすのは、蜘蛛の脚と鏡の光。

 下層の戦いは、まだ終わらない。

 けれど、幽と白夜は先へ進んだ。

 その先で、何が待っているのか。

 琴子たちは、まだ知らない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ