第7章:『蜘蛛の網と雲の鏡』(後編)
エレベーターの扉が閉じた瞬間、広間の空気が変わった。
幽がいなくなった。
その事実だけで、琴子の胸の奥が、ひどく冷えた。
自分で行かせた。
自分で背中を押した。
それなのに、足元が急に抜け落ちるような感覚がある。
幽くんが遠くへ行く。
昔から、ずっと怖かったこと。
あの変なノートを読んでいる時も。
夜な夜な3Dプリンタを動かしている時も。
空を見上げて、金星がどうのと馬鹿みたいなことを言っている時も。
琴子はずっと、胸の奥で怯えていた。
幽くんは、いつか自分の知らない場所へ行ってしまうんじゃないか。
自分の手の届かない、遠い場所へ。
妖怪姫が現れて。
白銀のスペアが現れて。
黄金比の首級だの、世界を壊すだの、プロトコル・アヤカシだの。
その不安は、どんどん形になっていく。
だから。
ここで止まるわけにはいかない。
琴子は、朱音を強く握りしめた。
「……さて」
朱知圭が、ゆっくりとネクタイを緩める。
「いいのかい? 月代くんを行かせて」
「いいわけないでしょ」
琴子は即答した。
「今すぐ追いかけたいわよ。今すぐ首根っこ掴んで、危ないことするなって怒鳴りたいわよ」
「なら、どうして残った?」
「決まってるじゃない」
朱音の刃が、蛇のように分裂する。
「……行かせるためよ」
朱知が笑う。
「矛盾しているね」
「人間なんて、だいたい矛盾してるのよ」
「私が、易々と行かせてあげると思うのかい?」
床下から、青白い光ファイバーが溢れ出した。
一本。
十本。
百本。
千本。
それらは絡み合い、編み上がり、巨大な蜘蛛の脚へと変わっていく。
ビルの照明が落ちた。
非常灯の赤い光だけが、琴子の頬を照らす。
「君のその蛇腹剣。古いね」
朱知が指を鳴らす。
「血。髪。呪符。執着。伝統。家系。どれもこれも、実にアナログだ」
「そう。なら、そのアナログで殴ってあげる」
「無駄だよ」
光ファイバーの蜘蛛脚が、床を削って迫る。
「このビルは私の身体だ。君が斬るのは糸ではない。都市の神経だ」
琴子が床を蹴った。
朱音がうねる。
赤い蛇腹剣が、青白い蜘蛛脚を斬り裂く。
だが、斬ったそばから別の配線が伸び、同じ形を再構築する。
「くっ……!」
「ほらね。古い刃では、ネットワークは殺せない」
朱知の声が、広間のあちこちから響いた。
正面。
背後。
天井。
床。
スピーカー。
ディスプレイ。
すべてが朱知の口になる。
「人間は、もう繋がらずには生きられない。電気、水道、交通、通信、決済、学校、病院、行政。すべてが網の上にある」
光の糸が、琴子の足首を狙う。
琴子は跳んだ。
しかし空中にも糸がある。
朱音で切る。
さらに別の糸。
切る。
また糸。
切る。
切る。
切る。
息が上がる。
腕がしびれる。
それでも糸は尽きない。
「全部、私の巣だ」
朱知が笑う。
「君が守りたい月代くんも、この街の網の中でしか生きられない。なら、彼を守るとはつまり、私の巣の中で生かしてもらうということだよ」
「気持ち悪い」
琴子は吐き捨てた。
「何?」
「そんな繋がり、私はいらないって言ったの」
朱音が、真紅に輝いた。
「幽くんは、あんたの網で生きてるんじゃない」
琴子は、朱音を振りかぶる。
「私との縁で、ここにいるのよ!」
蛇腹剣が、床を裂いた。
朱知の光ファイバーと、琴子の朱音が、真正面からぶつかる。
青と赤の火花が、広間を照らした。
○
一方で、銀嶺は動けずにいた。
目の前に、無数の自分がいる。
壁のディスプレイ。
床に反射するガラス。
天井のミラーパネル。
スマホ画面。
その全部に、銀嶺が映っている。
けれど、そのどれもが少しずつ違う。
完璧な銀嶺。
壊れた銀嶺。
幽の顔をした銀嶺。
顔のない銀嶺。
白夜の隣で笑う銀嶺。
琴子に斬られる銀嶺。
誰にも見られず、部屋の隅で停止する銀嶺。
「あははー。ねえ、どれが本物?」
サニーが、スマホを構えながら笑った。
「スペアちゃん。君って、そもそも何なの?」
「……私は」
「月代幽の完成版?」
画面の中に、かつての銀嶺が映る。
冷たく、美しく、完璧な未来を告げる白銀の少女。
「でも負けちゃったよねー?」
画面が切り替わる。
幽のTシャツを握りしめる、今の銀嶺。
「じゃあ、ヒロイン?」
次の画面。
幽に寄り添う自分。
その隣で、白夜が笑っている。
琴子が睨んでいる。
「でも、誰の一番にもなれないよねー☆」
銀嶺の胸の奥で、何かがノイズを立てた。
胸、という概念が自分にあるのかはわからない。
けれど、確かにそこが痛い。
「あなたはー、コピーにもなれなかった。敵にも戻れないしー。味方にもなりきれないしー。完成版でもないしー。スペアでもないしー」
ディスプレイが、次々と切り替わる。
幽が銀嶺を見なくなる映像。
白夜が銀嶺を「失敗作」と呼んで、扇子で払い捨てる映像。
琴子が銀嶺を斬り伏せ、誰も責めない映像。
幽のTシャツだけが床に残り、銀嶺の輪郭が、白いノイズになって消えていく映像。
サニーの笑顔が、画面いっぱいに広がる。
「じゃあ――あなたって、何?」
銀嶺は答えようとした。
答えが出ない。
演算する。
失敗。
検索する。
該当なし。
未来予測を開始する。
エラー。
「……私は」
画面の中の銀嶺たちが、一斉に笑う。
『不要です』
『未完成です』
『失敗作です』
『代用品です』
『どこにも属しません』
銀嶺の膝が折れた。
論理核に、映像の傷が流れ込んでくる。
実体が傷ついているわけではない。
けれど、認識が傷つけられる。
サニーの鏡は、見た者が「そうかもしれない」と思った瞬間、それを現実に近づける。
銀嶺は、自分自身を定義できない。
だから、映された像に引きずられる。
「……定義不能」
銀嶺は、床に手をついた。
「自己存在の基準が、不安定化しています」
「あははー。かわいそー」
サニーは笑う。
「じゃあ、サニーちゃんが編集してあげる。君はね――」
スマホのシャッター音。
「失敗したスペア。可愛く壊れるだけの、人形」
その瞬間、画面の中の銀嶺の首に、黒い線が入った。
現実の銀嶺の首筋にも、ノイズの亀裂が走る。
「……っ」
銀嶺は、初めて息を呑むような音を出した。
その時。
遠くで、琴子の声がした。
「銀嶺! 何ぼさっとしてんの!」
鋭い声。
怒っている。
苛立っている。
でも、そこには確かに、こちらを見ている温度があった。
「幽くんを行かせたの、アンタも同罪なんだからね! そこで勝手に壊れてんじゃないわよ!」
「……同罪」
銀嶺は、顔を上げた。
同罪。
それは、責任を共有しているということ。
そして、罪を共有しているということ。
幽を先へ行かせた。
琴子と同じ選択をした。
それはつまり、自分もこの場に必要だったということではないのか。
「……エラー」
銀嶺は呟いた。
「ですが、悪くありません」
サニーが眉をひそめる。
「え?」
「私は、月代幽の完成版ではありません」
銀嶺は、ゆっくり立ち上がった。
「スペアとしても、失敗しました。敵としても不完全です。味方としても、定義が不安定です」
「あはは。自分で認めちゃった」
「はい」
銀嶺の瞳に、青白い光が灯る。
「ですが、私は今、幽に頼まれました」
画面の中の銀嶺たちが、ざわりと乱れる。
「琴子と共に、ここを任されました」
銀嶺は、自分が着ている幽のTシャツの裾を握る。
洗剤の匂い。
体温の残り。
袖口の伸びた部分。
映像には映らない、どうでもいい情報。
なのに、落ち着く。
「この布地の感触を、私はまだ解析できていません」
「は?」
サニーが目を瞬かせた。
「意味わかんないんだけどー?」
「私にも、まだ完全にはわかりません」
銀嶺は、初めてほんの少しだけ、口元を緩めた。
「だから、あなたの鏡には映りません」
「そんなの、画面に映せば終わりじゃん」
「いいえ」
銀嶺は顔を上げた。
「あなたの鏡は、形を映します。見られたい姿を編集します。ですが、匂いも、温度も、握った時の安心も、まだ映せていません」
銀嶺の瞳に、青白い光が灯る。
「だから、あなたの鏡は完全ではありません」
未来予測、開始。
予測精度、八パーセント。
低すぎる。
以前なら、失敗と判断していただろう。
けれど今は違う。
銀嶺は、わざと予測結果から外れる方向へ一歩踏み出した。
サニーの画面が、一瞬だけ遅れる。
「……え?」
「私の予測は外れます」
銀嶺が、ディスプレイの反射角を計算する。
「だから、あなたの作った完璧な映像にも、私は収まりません」
銀嶺は床に落ちていたガラス片を拾い、サニーへ向けて投げた。
攻撃ではない。
反射だ。
ガラス片が、ディスプレイの光を受ける。
反射。
反射。
反射。
その光が別の画面へ反射し、さらに天井のミラーへ、床のガラスへ、スマホのカメラへ。
サニーの作った鏡の迷路が、一瞬だけ、サニー自身を映した。
「なっ――」
画面の中で、加工フィルターが剥がれた。
明るい笑顔の下。
可愛い仕草の奥。
そこにあったのは、古い鏡の裏側みたいな暗い空洞だった。
サニーの声が、変わった。
「……見たね?」
さっきまでの軽い声ではなかった。
銀嶺は頷く。
「はい」
「見ちゃ駄目なんだよ、そういうの」
サニーのスマホ画面に、細いヒビが入った。
銀嶺は、淡々と言った。
「あなたの鏡も、完全ではありません」
○
琴子は、朱知の網に押し込まれていた。
朱音は強い。
だが、相手が悪すぎる。
斬っても、斬っても、糸は戻る。
蜘蛛脚は増える。
床は沈み、天井は下がり、壁は配線を吐き出す。
このビルそのものが、朱知の身体。
ならば、いくら刃を振るっても、傷はすぐに別の場所で塞がる。
「どうしたんだい、東雲の娘」
朱知の声が、真上から降ってくる。
「君の執着は、その程度かい?」
「うるさい……!」
「月代くんは上へ行った。妖怪姫と二人きりだ」
その言葉に、琴子の動きが一瞬鈍った。
糸が頬をかすめる。
血が滲む。
「ほら」
朱知が笑う。
「気になるんだろう? 彼が自分の知らない場所へ行ってしまうのが」
「……っ」
「君は守りたいんじゃない。縛りたいだけだ」
蜘蛛脚が、琴子の足元を囲む。
「彼を普通の男の子として閉じ込めておきたかった。自分の手の届く場所に。神社と学校と通学路、その小さな世界の中に」
「黙れ」
「でも彼は違った。黄金比の首級を持ち、妖怪姫を呼び、プロトコル・アヤカシに選ばれた。彼はもう、君の小さな世界には戻らない」
「黙れって言ってんのよ!」
琴子が朱音を振るう。
だが、その刃は網に絡め取られる。
「それでいいじゃないか」
朱知の声は優しかった。
「網は、離れていくものを繋ぎ止める。君が望むものを、私なら叶えられる」
「……何?」
「月代幽を、君のためだけに接続してあげよう。君が見たい時に見える。呼べば応える。逃げない。忘れない。裏切らない。永遠に……君のものだ」
壁面に映像が浮かぶ。
琴子の隣で笑う幽がいた。
普通の制服。
普通の笑顔。
白夜も銀嶺もいない。
世界を壊す運命も、黄金比の首級もない。
ただ、琴子のそばにいる幽。
『琴子。ずっと一緒にいるよ』
喉が震えた。
欲しい。
その感情は、あまりにも素直に胸の底から出てきた。
琴子は、そんな自分が一番嫌だった。
その瞬間、朱知の糸が、琴子の手首へ巻きついた。
「捕まえた」
「――ッ!」
「君の願いは、実に扱いやすい」
朱知が嗤う。
「愛は、最も強い認証情報だ」
糸が締まる。
朱音を握る手から、力が抜けそうになる。
その時。
「琴子」
銀嶺の声がした。
琴子は、歯を食いしばって顔を上げる。
「……何よ」
「その映像は、偽物です」
「わかってるわよ!」
「ですが、一瞬、欲しいと思いましたね」
「うるさい!」
「記録しました」
「記録すんな!」
まだ足元は揺れている。
首筋のノイズも消えていない。
それでも、銀嶺は自分が着ている幽のTシャツの裾を握り、立ち上がった。
銀嶺は、サニーの鏡を一時的に乱したまま、琴子の方へ歩いてくる。
「私も同じです」
「は?」
「幽の隣にいたい。必要とされたい。定義されたい。そう思いました」
銀嶺は、琴子を見る。
「おそらく、これは非効率な感情です」
「……アンタに何がわかるのよ」
「わかりません」
銀嶺は即答した。
「ですが、わからないままでも、ここに立つことはできます」
琴子は、息を呑んだ。
わからないまま。
不安なまま。
怖いまま。
それでも。
立つ。
「……ほんと、ムカつくわね」
琴子は笑った。
「アンタ、ちょっとだけ幽くんに似てきた」
「それは、肯定的評価ですか?」
「最悪って意味よ」
「記録しました。最悪は、肯定的評価の場合がある」
「学習するな!」
琴子は、手首に巻きついた糸を睨んだ。
幽が遠くへ行くのが怖い。
それは事実だ。
幽を縛りたい。
それも、嘘ではない。
できるなら、自分の目の届く場所にいてほしい。
自分の声が届くところで笑っていてほしい。
けれど。
朱知の網で縛られた幽なんて、幽じゃない。
あの馬鹿で。
鈍くて。
痛くて。
転んで。
黒歴史を叫んで。
それでも前へ行く幽だから、追いかけたいのだ。
「……朱知圭」
琴子は、低く言った。
「私は、幽くんを縛りたい」
朱知が笑う。
「なら――」
「でも」
琴子は、朱音を握りしめた。
「あんたの網で縛った幽くんなんて、幽くんじゃない」
刃が震える。
手首に巻きついた糸が、赤く焼ける。
「遠くへ行くなら追いかける。知らない場所へ行くなら、そこまで行く。神様になろうが、妖怪に攫われようが、データにされようが、絶対に見つける」
琴子は、朱知を睨んだ。
「縛りたい気持ちは、私のものよ。あんたの網に渡すものじゃない」
朱音が、爆ぜた。
糸を断ち切る。
手首の拘束がほどける。
琴子は、そのまま朱音を床へ突き立てた。
「銀嶺!」
「はい」
「アンタの外れる予測、使える?」
「成功確率は八パーセントです」
「上等!」
琴子が笑う。
「幽くんなら、それくらいの数字で突っ込むわ!」
「同意します」
銀嶺の瞳が青く光る。
「不完全予測、開始」
銀嶺は、わざと未来から外れた。
サニーの鏡が、銀嶺の像を見失う。
朱知の網が、琴子の足元を一手遅く塞ぐ。
銀嶺の投げたガラス片が、壁面のディスプレイを斜めに切った。
映像が割れる。
反射がずれる。
サニーの鏡が、朱知の網を一瞬だけ映し返す。
琴子の視界に、見えないはずの線が浮かんだ。
エレベーターへ絡みついている制御線。
都市の神経ではない。
幽を上へ行かせないためだけに結ばれた、たった一本の縁。
「見えた……!」
琴子は笑った。
「銀嶺!」
「はい。不完全予測、継続中」
「それ、もう一回外しなさい!」
「了解しました。外します」
銀嶺が、わざと一歩遅れて動いた。
サニーの鏡がその遅れを補正しようとする。
朱知の網が、その補正に合わせて一手遅れる。
そのズレへ、琴子は朱音を叩き込んだ。
「東雲流――乱反射縁切り!」
赤い刃が、青白い制御線を断ち切った。
広間のディスプレイが、一斉に白く弾ける。
サニーのスマホに、一本の亀裂が走る。
床下から伸びていた朱知の糸が、一本だけ、再生せずに黒く焦げた。
エレベーターの上昇ロックが解除される。
赤かった表示が、青へ変わった。
「……道、開いたわよ」
琴子は荒い息を吐いた。
「幽くん。ちゃんと行きなさい」
○
エレベーターの中。
突然、閉じていた階数表示のないパネルに、青い光が走った。
低く唸っていた箱が、わずかに軽くなる。
何かが、外れた。
幽は呪棍を握りしめたまま、顔を上げる。
「……動いた?」
「ええ」
白夜が扇子を閉じる。
「番犬さんたちが、何かやったようですわね」
「琴子と銀嶺が……」
幽は、閉じた扉の向こうを見る。
何も見えない。
声も届かない。
それでも、分かった。
道が開いた。
あの二人が、開けてくれた。
「……頼むぞ」
幽は小さく呟いた。
その声は、誰にも届かない。
けれど、届かなくてもよかった。
信じて進むと、決めたのだから。
○
「……やった?」
琴子が息を吐く。
「いいえ」
朱知の声が、ノイズ混じりに響いた。
「第一層を抜けただけだよ」
割れたディスプレイの向こうで、朱知が笑っている。
身体は傷ついていない。
サニーも、割れた画面の中で不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「もう、サニーちゃんの顔を変に映すとか、最悪なんだけど」
その声は明るい。
でも、さっきより少しだけ硬い。
スマホの画面に入った細いヒビを、サニーは親指でなぞった。
「ほんっと、最悪」
「完全撃破には至っていません」
銀嶺が言った。
「ですが、下層制御は一時的に破壊しました。オリジナルと白夜の進行は継続可能です」
「それで十分」
琴子は、膝をつきそうになる身体を無理やり支えた。
「今は、それで十分よ」
琴子の手首には、糸の跡が残っていた。
赤い。
熱い。
ただの傷ではない。
朱知の網に、一度でも認証されかけた痕跡だ。
銀嶺の首筋にも、細いノイズの亀裂が残っている。
「銀嶺、それ」
「修復不能ではありません」
「そういう言い方する時、だいたい大丈夫じゃないのよ」
「大丈夫ではありません」
「正直すぎるわ!」
それでも、銀嶺は倒れなかった。
琴子も、朱音を下ろさなかった。
朱知が、静かに拍手した。
「見事だ、東雲琴子。白銀のスペア。君たちは確かに、私たちの網と鏡を一枚破った」
サニーが、スマホを構え直す。
「でもね、ここから先はもっと深いよ?」
朱知の背後で、ビル全体が唸る。
床下。
天井裏。
壁の奥。
都市のさらに奥から、巨大な何かが目を覚ます音がした。
「ここはまだ、デジタル・モンスタワーの下層レイヤーだ」
朱知は笑った。
「上へ行くほど、網は細く、強く、広くなる」
「鏡もね」
サニーの笑顔が、画面いっぱいに広がる。
「もっと綺麗で、もっと優しくて、もっと残酷になるよ」
琴子は、朱音を構え直した。
「上等よ」
銀嶺も、隣に立つ。
「不完全予測、継続します」
二人の背後で、エレベーターの表示が上昇していく。
幽と白夜は、先へ進んだ。
ならば、ここで倒れるわけにはいかない。
琴子は、息を整えながら呟いた。
「幽くん。ちゃんと行きなさいよ」
それは祈りではなかった。
命令だった。
その時だった。
割れたディスプレイの奥で、ほんの一瞬だけ、青白い網でも、きらびやかな鏡でもない光が瞬いた。
金色。
夜明け前の星に似た、冷たい光。
朱知も、サニーも、その光には触れなかった。
まるで、見てはいけないもののように。
まるで、自分たちの上にある、さらに古い命令を思い出したかのように。
琴子は眉をひそめた。
「……今の、何?」
銀嶺の瞳に、ノイズが走る。
「不明。ですが、土でも、雲でもありません」
金色の光は、すぐに消えた。
再び広間を満たすのは、蜘蛛の脚と鏡の光。
下層の戦いは、まだ終わらない。
けれど、幽と白夜は先へ進んだ。
その先で、何が待っているのか。
琴子たちは、まだ知らない。




