第7章:『蜘蛛の網と雲の鏡』(前編)
目的地は、朱知圭の会社のビル。
その名も――デジタル・モンスタワー。
……ぶっちゃけ、ちょっとダサい。
いや、かなりダサい。
けれど、そのダサい名前のビルの中に、今この街を蜘蛛の巣みたいに絡め取っている怪物がいる。
止めなければならない。
この街も、東雲神社も、琴子のじいさんも、全部まとめて、あの青白い網に飲み込まれる前に。
「行くわよ、幽くん」
琴子が、朱音の柄に手をかけたまま言った。
鳥居の内側では、まだ風の音が聞こえていた。
木々の葉擦れ。
紙垂の揺れる音。
遠くで鳴く鳥の声。
でも、鳥居の外は違う。
あそこにはもう、街の音がなかった。
代わりにあるのは、電子音。
信号機の鳴動。
監視カメラの駆動音。
どこかのスマホから漏れる通知音。
ビルの空調の低い唸り。
その全部が、まるで一つの巨大な生き物の呼吸みたいに、同じリズムで脈打っていた。
「……オリジナル」
銀嶺が、幽の制服の袖を小さく掴む。
「現在、鳥居の外側における生存確率は、著しく低下しています」
「どれくらい?」
「九十二パーセントの確率で、何らかの物理的、認識的、または社会的な削除を受けます」
「また九十二パーセントかよ!」
「ですが、私の予測は外れる可能性があります」
「そこは当たってほしくないんだよ!」
白夜が、扇子で口元を隠して笑った。
「あらあら。出発前から賑やかですこと。幽さまの周りは、退屈しなくてよろしいですわね」
「こっちは退屈どころか命がけなんだよ」
「ふふ。命がけの方が、恋は燃え上がるものですわ」
「燃え上がる前に俺が燃え尽きるわ!」
軽口を叩いたのは、怖かったからだ。
鳥居の向こうに広がる街は、昨日まで幽たちが歩いていた街と同じ形をしている。
同じコンビニ。
同じ横断歩道。
同じ制服姿の高校生たち。
けれど、その全部が、ほんの少しずつ、ずれている。
誰も笑っていないのに、街全体が笑っているように感じる。
誰もこっちを見ていないのに、街全体に見られている気がする。
「……行こう」
幽は、弦五郎に強化してもらった伸縮呪棍を握りしめた。
黒歴史祝詞によって生まれ変わった、幽の恥の結晶。
できれば一生使いたくない。
けれど、今はこれしかない。
四人で鳥居をくぐった瞬間。
世界が、音を立てて切り替わった。
○
人々が、止まった。
通勤途中のサラリーマンも。
自転車に乗った高校生も。
コンビニから出てきた店員も。
全員が、同じタイミングで足を止め、同じ角度でこちらを向いた。
瞳に、光がない。
けれど、無表情ではなかった。
薄く笑っている。
同じ笑みで。
同じ呼吸で。
同じ声で。
「削除対象を確認」
「月代幽」
「黄金比の首級」
「回収」
「同期開始」
「うわあああああ! 街中の人間がホラー映画みたいになってるううう!」
虚ろな群衆が、一斉にこちらへ歩き出す。
走らない。
叫ばない。
ただ、一定の速度で、一定の歩幅で、幽たちの方へ近づいてくる。
それが逆に怖かった。
「白夜! 消しちゃ駄目だからね!」
琴子が叫ぶ。
「わかっておりますわ。まったく、番犬さんは口うるさいこと」
白夜は不満そうに唇を尖らせた。
「この程度、まとめて虚無へ返してしまえば早いですのに」
「人間なんだよ!」
「操られているだけですわ」
「なおさら駄目だろ!」
幽が叫ぶと、白夜はほんの少しだけ目を細めた。
「……まあ。幽さまがそうおっしゃるのでしたら」
白夜が漆黒の扇をひらりと翻す。
「――認識改変」
刹那、世界から音が消えた。
襲いかかろうとしていた人々の瞳が、すっと焦点を失う。
幽たちを見ていたはずの目が、急に存在を見失ったみたいに、ゆるやかに逸れていく。
群衆は、まるでそこにあるのが石ころか街路樹であるかのように、幽たちを避けて歩き始めた。
誰かが、笑う。
誰かが、スマホを見ながら頷く。
誰かが、幽たちのすぐ横を通り過ぎていく。
でも、誰も幽たちを認識しない。
「すごい……」
銀嶺が小さく呟いた。
「認識層への干渉。対象数、推定三百二十六。処理規模、異常です」
「ふふ。スペアさんに褒められても、あまり嬉しくありませんわね」
白夜は余裕そうに笑っている。
けれど、幽は見逃さなかった。
扇子を持つ白夜の指先が、ほんのわずかに震えている。
「白夜、無理してるのか?」
「あら。幽さまにご心配いただけるなんて、わたくし、幸せですわ」
「茶化すなよ」
「長くは持ちませんわ」
白夜は、少しだけ真面目な声で言った。
「あの土蜘蛛の網は、街そのものに張られておりますの。群衆の認識をずらすことはできても、街の構造までは騙し切れませんわ」
「じゃあ、急がないと」
「ええ」
白夜は幽の腕にそっと自分の腕を絡める。
「目的地まで、優雅に参りましょう。幽さま」
「この状況で優雅とか言えるの、お前くらいだよ……」
幽たちは、人の流れの中を歩き出した。
認識されていない。
なのに、安全ではない。
監視カメラは幽たちを追っていた。
信号機は、幽たちの前でだけ赤へ変わった。
コンビニの自動ドアは、幽が近づいた瞬間だけ閉じた。
街はまだ、幽たちを見ている。
幽たちは、人間の目から隠れながら、街そのものの視線の中を歩いていた。
まるで、水槽の中の魚が、見えないガラスの壁に沿って泳がされているみたいだった。
○
デジタル・モンスタワーへ向かう道すがら、白夜がぽつりと口を開いた。
「幽さま」
「何だよ」
「覚えておいてくださいませ。あの土蜘蛛も、鏡の裏で夢を腐らせる連中も、わたくしの眷属ではございません」
「つまり、敵ってことか?」
「ええ。父上に従わぬ、まつろわぬ者たち。土の底で網を張り、鏡の裏で人の願望を弄ぶ連中ですわ」
白夜の声が低くなる。
「彼らが欲しいのは、世界そのものではありません。世界を書き換えるための基準。こちら側にあるべきではない力を、この世界へ縫い止めるための最後の座標」
嫌な予感がした。
「……俺の首級か」
「ご名答ですわ」
白夜は笑った。
でも、その笑みは薄かった。
「だから、そういうモノどもに奪われるくらいなら、わたくしたちは先に壊す。それが、妖怪王の一族が繰り返してきた掃除の理屈ですわ」
「それ、守るって言わないだろ」
幽は思わず言った。
「奪われる前に壊すって、ただの独占じゃないか」
白夜の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……ええ」
彼女は扇子で口元を隠す。
「妖怪の愛など、人間から見れば、たいてい独占ですもの」
「愛って言えば許されると思うなよ」
「許されたいわけではありませんわ」
白夜は、街の青白い光を見上げた。
「ただ、それ以外のやり方を、わたくしたちはあまり知りませんの」
幽は何も言えなかった。
白夜は、世界を壊す側の存在だ。
人間の理で動いていない。
それでも今、その白夜は、幽の隣を歩いている。
幽を奪われるくらいなら壊す。
その考えは、無茶苦茶だ。
けれど、ほんの少しだけ。
白夜自身も、その無茶苦茶さに気づき始めているように見えた。
「……じゃあ、俺が教える」
「何を?」
「壊さなくても済むやり方」
白夜が、少しだけ驚いたように幽を見る。
幽は照れ隠しに呪棍を握り直した。
「たぶん俺は、そんな大層なこと言える立場じゃないけどさ。少なくとも、俺の首級をどうするかは、俺が決める」
「まあ」
白夜は、ゆっくりと笑った。
「では、期待しておりますわ。金星人の幽さま」
「そこで台無しにするな!」
「ふふ。緊張なさらないよう、気遣っただけですわ」
「気遣いの方向が毎回おかしい!」
銀嶺が冷静に口を挟む。
「補足します。オリジナルの顔面は、高次存在の受信アンテナに近い可能性があります」
「顔面って言うな! せめて首級って言え!」
「首級を構成する顔面比率が、受信アンテナに近い可能性があります」
「悪化してる!」
「でも幽くんに惹きつけられる変な女が増えてるのは事実じゃない!」
琴子が叫ぶ。
「変な女って、俺の周り全員じゃないか!」
「幽くん、今私も含めた?」
「……含めてないです」
「よろしい」
白夜がくすくす笑う。
さっきまで重かった空気が、少しだけ軽くなる。
けれど、その軽さの奥で、幽は確かに感じていた。
白夜の一族が世界を壊そうとした理由。
土蜘蛛と、鏡の裏に潜む妖怪が幽を狙う理由。
そして、これから向かうビルの中にいるものたちが、幽をただ殺す気ではないこと。
欲しがっている。
測ろうとしている。
幽の首級を。
幽という人間ではなく、世界を書き換えるための座標として。
「……よし」
幽は前を向いた。
「行こう。デジタル・モンスタワーへ」
○
デジタル・モンスタワーは、駅前の一等地にそびえ立っていた。
ガラス張りの外壁。
巨大なデジタル広告。
空に突き刺さるような尖ったデザイン。
新興IT企業の本社ビルとしては、たぶん相当おしゃれなのだろう。
ただ、名前の破壊力だけは、やっぱりすごい。
「……口に出すと、さらにくるな」
幽が呟くと、琴子がうなずいた。
「悪い意味でね」
「やめろ琴子。今それ言うと緊張感が死ぬ」
「でも事実じゃない」
「事実だから困るんだよ!」
入口の自動ドアは、幽たちが近づく前に開いた。
警備員は幽たちを見ない。
認識改変のせいなのか、それとも最初から通すつもりなのか。
ロビーに足を踏み入れた瞬間、妙な音楽が耳に入った。
ヒーリングミュージックのような。
電子音のような。
低い読経のような音。
天井にも、壁にも、柱にも、ディスプレイが埋め込まれている。
それらは広告映像を流しているはずなのに、幽たちが通るたび、ほんの一瞬だけ、こちらの姿を映した。
前から。
横から。
斜め上から。
あり得ない角度から。
「なんだこれ、監視されてるというよりむしろ……俺たちを複製してるみたいな」
「……合わせ鏡ね」
琴子が呟いた。
「この配置、普通じゃない。ディスプレイを互いに映し合うことで、像を増やしてる」
「像を増やす?」
銀嶺が頷く。
「映像の再帰構造です。自分自身を映す画面をさらに別の画面が映し、その像をまた別の画面が参照する。魔術的には、反射と増幅の儀式に近い構造です」
「つまり?」
「見られています。非常に多くの角度から」
「気持ち悪いな……」
幽は、ロビーの床に映った自分の影を見た。
影が、少し遅れて動いた気がした。
白夜が、不快そうに扇子を広げる。
「趣味の悪い鏡の館ですこと」
「白夜でも嫌なのか」
「当然ですわ。鏡というものは、本来、見る者を選ぶもの。ここにあるのは、ただ無遠慮に暴くだけの下品な目玉ですわね」
その時。
壁一面のディスプレイが、一斉に点灯した。
映し出されたのは、幽たち自身。
いや、違う。
幽たちに似た、加工された幽たちだった。
幽は、白馬に乗った王子みたいな笑顔で。
琴子は、血まみれの刃を抱えた鬼女みたいに。
白夜は、砕けた世界の上で笑う女王として。
銀嶺は、顔のない白い人形として。
どれも、嘘だった。
でも、どれも、どこか本当だった。
「……悪趣味」
琴子が低く吐き捨てた。
「あはは。褒め言葉だよ、それ」
声は、正面から聞こえなかった。
右の壁から。
左の柱から。
天井のディスプレイから。
そして、幽の足元に映った影の口元から。
一拍遅れて、吹き抜けの階段の上に金髪の少女が現れた。
派手な衣装。
自撮り棒。
完璧な角度で作られた笑顔。
「加賀美サニー。今はインフルエンサー。昔の名前で呼ぶなら、雲外鏡」
「……あ」
幽は、思わず声を漏らした。
「加賀美サニー、ちゃん……?」
琴子の視線が、すっと氷点下まで冷える。
「幽くん?」
「違う! いや、知ってるってだけで! おすすめに出てきて、なんか目が離せなかっただけで!」
「へえ。目が離せなかったんだ」
「今そこ掘る!?」
サニーが、きゃは、と笑った。
「嬉しいなあ。幽くん、ちゃんと見てくれてたんだ?」
その声を聞いた瞬間、幽の背筋が冷えた。
画面越しに見ていた時と同じ、甘くて明るい声。
けれど今は、その奥にある空っぽの鏡まで見えてしまう。
「見てくれる人がいる限り、アタシはそこに映れるから」
サニーはスマホの画面をこちらへ向けた。
スマホに映った彼女の笑顔だけが、本人よりも一瞬だけ遅れて笑った。
「人間ってさ、もう自分の目より画面を信じるじゃん? だったら、アタシが世界を一番可愛く編集してあげる」
明るい。
可愛い。
それなのに、その言葉は、白夜の「世界を壊す」よりも、別の意味で気持ち悪かった。
サニーの隣で、スーツ姿の青年がゆっくりと歩み出る。
爽やかな笑顔。
整った顔立ち。
けれど、目は笑っていない。
朱知圭。
「あの」夜のテレビで見た、新進気鋭のIT社長。
「ようこそ、月代幽くん。そして、妖怪姫。東雲の娘。白銀のスペア」
「その呼び方、やめなさいよ」
琴子が朱音を抜く。
「おやおや、怖い怖い」
朱知は楽しそうに肩をすくめた。
「では、改めて自己紹介しておこうか。私は朱知圭。人間社会では、デジタル・モンスター社のCEO」
彼の背後で、床下から青白い光ファイバーが這い出す。
「そして、君たちの言葉で言うなら――土。土蜘蛛だ」
白夜が、扇子を閉じた。
「やはり、まつろわぬ者でしたか」
「そう言う君は、妖怪王の娘。古い王の血筋だね」
朱知の目が細くなる。
「君たちに踏まれ、押し込められ、土の底で這い続けた者たちの名前くらい、覚えているかい?」
「覚えておりますわ」
白夜の声が冷える。
「負け犬の名として」
空気が、ぎしりと鳴った。
サニーが、明るい声で手を叩く。
「はいはい、昔話はそのへんで終わり! 因縁トークって、初見さん置いてけぼりで再生数落ちるよ?」
「君は相変わらず軽いな、サニー」
「朱知くんが重すぎるんだってば。網だの登録だの保存だの、地味なんだよねー」
サニーは唇を尖らせた。
「アタシはね、幽くんをもっと映える素材にしてあげたいの」
「素材……?」
「そう。世界で一番バズる怪異」
サニーが笑った。
「白夜ちゃんに首を欲しがられて、土蜘蛛に登録されて、東雲ちゃんに守られて、白銀ちゃんに置き換えられかけた男の子。絶対伸びるでしょ?」
「伸びたくねえよ、そんな方向に!」
「朱知くんは保存したがるよねー。つまんない。アタシは加工したいの。みんなが見たい形に、いちばん可愛く、いちばん怖く、いちばん都合よく」
朱知が光ファイバーの糸を指先で弄ぶ。
「保存が先だよ、サニー。素材を失えば加工もできない」
「はいはい。土は土らしく、地味に捕獲しててね」
「言ってくれる」
朱知は笑った。
敵同士ではない。
協力している。
けれど、目的は同じではない。
朱知は、幽を網に登録したい。
サニーは、幽を世界に映える素材へ加工したい。
街の神経と、世界の瞳。
最悪の組み合わせだった。
「さて」
朱知が、両手を広げる。
「このビルは私の身体だ。壁も、床も、照明も、配線も、全部が私の神経」
「そして!」
サニーがスマホを掲げる。
「ここにある画面全部が、サニーちゃんの鏡!」
広間の壁面が、一斉に点灯した。
映し出されるのは、幽たち。
何百、何千という幽たち。
その一つ一つが、少しずつ違う表情をしている。
笑っている幽。
泣いている琴子。
世界を踏み潰す白夜。
完璧な銀嶺。
そして、画面の奥へ吸い込まれるように消えていく、顔のない幽。
「……幽くん」
琴子が、幽の前へ出た。
「行って」
「え?」
「ここは、私が食い止める」
「何言ってるんだよ! 相手は二体いるんだぞ!」
「倒し切れるなんて思ってないわよ」
琴子は振り返らなかった。
「でも、時間は作る。幽くんと白夜が、上へ行く時間くらいは」
「琴子……」
「人間の世界を妖怪に壊されようとしてるのに、妖怪の白夜だけに戦わせるつもり?」
その声が震えていないのが、逆に怖かった。
「守るのは、人間に決まってるでしょ」
琴子が朱音を構える。
「そして、幽くんを守るのは――私」
幽は、何も言えなかった。
琴子が自分を行かせようとしている。
今までの琴子なら、幽の手を引いて逃げようとしたはずだ。
幽を自分の後ろへ隠そうとしたはずだ。
でも、今は違う。
幽を先へ行かせるために、琴子はここへ残ろうとしている。
「オリジナル」
銀嶺が、一歩前に出た。
「私も残ります」
「銀嶺!?」
「加賀美サニーの鏡は、対象の理想像、恐怖像、加工済みの自己像を増幅します」
銀嶺は、ディスプレイに映った“完璧な銀嶺”を見上げた。
「完全だった頃の私は、おそらく、あの鏡に勝てません。最適化された自分を、正解として受け入れていたからです」
「じゃあ、なんで残るんだよ」
「今の私は不完全です」
銀嶺は、自分が着ている幽のTシャツの裾を握った。
「正解を失いました。予測も外れます。感情も未定義です。だから、鏡が映す理想像を、正解と認識しない可能性があります」
「その可能性、どれくらい?」
「不明です」
「不明かよ!」
「ですが」
銀嶺は、少しだけ幽を見た。
「外れることにも、意味があると学習しました」
幽は、言葉を失った。
白夜が、幽の隣で静かに笑う。
「よろしいのではなくて、幽さま」
「白夜……」
「番犬さんも、スペアさんも、あなたを先へ行かせると申しておりますわ」
「でも」
「信じるのです」
白夜の声は、意外なほど優しかった。
「恋も戦いも、相手を信じられなければ始まりませんもの」
幽は、琴子と銀嶺を見た。
琴子は、朱音を構えたまま、こちらを見ない。
銀嶺は、無表情だけど、その指だけがわずかに震えている。
「……わかった」
幽は、呪棍を握り直した。
「琴子。銀嶺。頼む」
「任せなさい」
「記録しました。頼まれました」
白夜が扇子を翻す。
「参りましょう、幽さま」
幽と白夜は、広間の奥にあるエレベーターへ走った。
「行かせると思うかい?」
朱知の指先から、極細の光ファイバーが放たれる。
閉まりかけたエレベーターの扉へ、牙のように食らいつく。
だが。
ガギィン!
朱音が、その糸を弾き飛ばした。
「あんたの相手は私よ」
琴子の声が、広間に響く。
「このネット依存症」
「ひどい言われようだ」
朱知が、愉快そうに笑う。
エレベーターの扉が閉まる。
最後に見えたのは、背中合わせに立つ琴子と銀嶺の姿だった。
行かせた。
琴子が、幽を。
自分の手で。
扉が閉じる直前、壁のディスプレイが一枚だけ明滅した。
そこに映っていたのは、幽だった。
ただし、琴子の知らない幽。
白夜の隣で笑い、琴子の方を振り返らない幽。
琴子の指が、朱音の柄をきつく握った。
「……安い挑発ね」
その隣で、銀嶺の前にも別の映像が浮かぶ。
完璧な銀嶺。
冷たく、美しく、迷いのない白銀の少女。
『戻りなさい』
鏡の中の銀嶺が言った。
『不完全は、苦しいだけです』
銀嶺は、幽のTシャツの裾を離した手を見つめた。
「……苦しい」
そして、顔を上げる。
「ですが、現在の私は、それを削除対象と認識しません」
「足を引っ張ったら斬るわよ」
琴子が前を向いたまま言う。
「了解しました。斬られる前に、外れる予測を提出します」
「……ほんと、幽くんみたいなこと言うようになったわね」
「肯定評価として記録します」
「違う!」
ギチ、ギチ、ギチ。
どこかで、硬いものが動いた。
それは蜘蛛の脚に似ていた。
だが、琴子には分かった。
これは糸の音ではない。
もっと古く、もっと重い、節のある何かだ。
琴子は朱音を構えた。
銀嶺は一歩、隣に並んだ。
「行かせたんだから」
琴子は笑わなかった。
「ここで負けたら、殴る顔がなくなるわ」
○
その直後。
閉じたエレベーターの扉の向こう、ビルのさらに奥で、低い音がした。
ごん。
まるで巨大な杭が、地下から一本ずつ打ち込まれているような音だった。
「……今の音、何ですの?」
白夜が、わずかに眉をひそめた。
答える者はいなかった。
階数表示のないエレベーターは、ただ静かに、上へ上へと昇っていく。




