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『3Dプリンタから生まれた妖怪姫は世界を壊したい』  作者: 矢行宮 重彦


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第6章:『聖域の番人』(後編)


「殺される覚悟は、できとるんかの?」

「えええええええええええええええ!?」


 幽の悲鳴が、朝の神社に響き渡った。

 東雲弦五郎は、竹ぼうきを肩に担いだまま、じろりと幽を睨み下ろしている。


「な、なんで初対面で殺されなきゃいけないんですか!? 俺、まだ自己紹介もしてないんですけど!」

「自己紹介などいらん。貴様が黄金比の小僧で、琴子を連れ回し、夜な夜な怪しげな術具を作っておる助平小僧であることは、顔を見ればわかる」

「情報量が多い! そして最後だけ完全に偏見!」

「じいちゃん!」


 琴子が、慌てて二人の間へ割って入った。


「今はそういう場合じゃないの! 街が変なの! 人も信号も監視カメラも、全部こっちを追ってきて――」

「見ればわかるわい」


 弦五郎は、琴子の言葉を遮るように、鳥居の向こうへ目を向けた。

 神社の外。

 そこには、さっきまで幽たちを追っていた青白い光ファイバーの脚が、鳥居の結界を削るように蠢いていた。


 ぎり、ぎり、ぎり。


 まるで金属の爪で、古い木の肌を引っ掻くような音。

 だが、それ以上は入ってこない。

 鳥居から先、境内の内側だけが、世界から切り離されたように静かだった。


「……電子の獣の腐敗臭じゃ」


 弦五郎が、鼻を鳴らす。


「地を這い、草の根を伝い、秩序の隙間を食い荒らすもの。表では人の顔をし、裏では網を張る。なるほど。土蜘蛛の匂いじゃな」

「土蜘蛛……」


 白夜が、低く呟いた。

 その声から、いつもの軽やかな愉悦が消えていた。


「……まさか。あやつらは、とっくに滅びたものとばかり」

「死神さんよ」


 弦五郎は、白夜へ鋭い視線を向けた。


「やはり知っとるか」

「ええ。知っておりますわ」


 白夜は扇子で口元を隠した。

 だが、その瞳は笑っていなかった。


「土の底へ封じたはずの、まつろわぬ者たち。父上が、もっとも忌み嫌った連中ですもの」

「まつろわぬ者……?」


 幽が聞き返すと、弦五郎は竹ぼうきの柄で石段を軽く叩いた。

 かつん、と乾いた音が響く。


「土蜘蛛というのはな、小僧。単なる妖怪の名ではない」


 弦五郎は、鳥居の外で蠢く青白い脚を睨む。


「踏みつけられ、追いやられ、土の底へ押し込められても、なお這い上がってくる連中の総称じゃ。王にも、神にも、理にも従わぬ。支配の網を嫌い、自分たちの網を張る」

「支配に逆らう者……」


 銀嶺が、幽の腕を掴んだまま呟いた。


「まつろわぬアンチ・アドミニストレータ。記録断片と照合。定義は不完全ですが、近似します」

「その言い方、なんか怖いな……」


 幽が引きつった笑みを浮かべる横で、琴子が顔をしかめた。


「でも、あの朱知圭って人、テレビにも出てた普通のIT社長でしょ? どう見ても人間だったじゃない」

「名は皮じゃ」


 弦五郎は短く言った。


「朱と知に虫を添えれば、蜘蛛じゃ。圭は土を二つ重ねる。名からして、あやつは土の蜘蛛よ」

「朱知圭……土に蜘蛛……! 全く気づかなかった……!」


 オカルトマニアの幽が、心底悔しそうに呻く。


「何より――」


 弦五郎の眼光が、鳥居の外へ刺さる。


「匂いが同じじゃ。土の下で、長く長く恨みを煮詰めた連中の匂いじゃ」


 白夜が、不快そうに扇子を閉じた。


「わたくしの六万五千五百三十六の眷属ではございませんわ。よりにもよって、現代のガラクタと手を組むとは」

「前も六万五千五百三十六って言ってたけど、妖怪ってそんなにいるの!?」


 幽が思わず叫ぶ。


「ええ、幽さま。妖怪もまた八百万おりますのよ。神の影、祈りの裏側、恐怖の積層。わたくしが統べるのは、その一部に過ぎませんわ」

「規模がでかすぎる……」

「だから言ったでしょう、幽さま」


 白夜は、鳥居の外の青白い網を睨んだ。


「世界は、思っているよりずっと壊れやすく、ずっと面倒なのですわ」


 その時だった。

 鳥居の外側。

 道路沿いのデジタル広告板が、ざざ、とノイズを走らせた。

 青白い画面に、朱知圭の顔が映る。


『――やあ。東雲神社。見つけたよ』


 琴子が息を呑む。


「嘘……ここ、圏外なのに」

『圏外だからこそ、見つかるんだよ』


 朱知の顔が、画面の中で笑った。


『現代社会において、接続されない場所は存在しないのと同じだ。高密度なネットワークの中に一箇所だけある、完全な空白。……不自然だろう? 砂漠の中のオアシスを見つけるのは、私の網には容易い』

「……逆探知」


 銀嶺が小さく言った。


「接続されていないこと自体が、最大のマーカーになりました。皮肉な結果です」

「つまり、逃げ込んだせいで場所がバレたってことかよ……!」

『その通りだ、月代くん』


 朱知の背後で、街の地図が蜘蛛の巣のように広がる。

 そして、その中心にある真っ黒な空白――東雲神社が、赤く点滅していた。


『君の存在は、この街にとってバグだ。バグは修正される。痕跡ごと、記録ごと、関係性ごとね』


 鳥居の外で、光ファイバーの脚が、再び幾重にも編み上がっていく。

 ぎりぎりぎりぎり。

 結界の表面に、青白い亀裂が走った。


「じいちゃん……!」

「慌てるな、琴子」


 弦五郎は、肩に担いでいた竹ぼうきを静かに下ろした。

 その瞬間、神社の空気が変わった。

 風が止まる。

 紙垂が、ぴたりと静止する。

 幽の肌に、目に見えない墨の匂いがまとわりついた。


「文字すら書けぬ電子の化け物風情が」


 弦五郎は、竹ぼうきを筆のように構えた。


「我が東雲の一筆、耐えられると思うなよ」


 そして、無造作に空を薙いだ。


「――(フツ)


 ただ、それだけだった。

 だが、鳥居の向こうで蠢いていた光ファイバーの脚が、一斉に真っ黒に焦げた。

 文字を書き損じた墨が紙の上で滲むように、青白い線がぐにゃりと歪み、崩れ、砂のようにほどけていく。


『ほう』


 デジタル広告板の中で、朱知が目を細めた。


『なかなかやるな、爺さん。だが、君の一筆は境内の外までは届かない』

「届かせる必要などない」


 弦五郎は、鳥居を睨んだ。


「儂はここを守る。外で暴れる蜘蛛を潰すのは――」


 弦五郎の視線が、幽へ向いた。


「小僧。貴様の役目じゃ」

「お、俺!?」

「そうじゃ」


 弦五郎はそこで、少しだけ目を細めた。

 幽が一歩、石段の上へずれた。

 ただ、それだけだった。

 けれど、紙垂の揺れが変わった。


 右へ。

 左へ。

 右へ。

 左へ。


 風の気まぐれではない。

 同じ幅で、同じ間隔で、同じ角度で揺れている。

 参道の砂利が、かすかに音を立てた。

 小さな石たちが、誰かに並べ替えられるように、きれいな螺旋を描き始める。

 古びた御札の文字が、にじむ。

 手書きの歪みが消え、均一で、読みやすい線へ整っていく。


「……見たか、琴子」


 弦五郎の声が低くなった。


「この小僧は、ただ追われて逃げ込んだのではない。神域の方が、この小僧の眉間を基準に整い始めておる」


 竹ぼうきの先が、幽の眉間へ向いた。

 額の奥に、冷たい針を当てられたような感覚が走る。


「黄金比の首級とは、そういうものじゃ」

「首級……?」


 幽は思わず額に触れた。

 そこに、何かがあるわけではない。

 けれど触れた瞬間、自分の顔全体を、知らない定規で測られているような気がした。


「額、眉間、鼻筋、唇、顎。人の顔を人の顔たらしめる比率。その中心にある基準点が、貴様の眉間じゃ」


 弦五郎の眼光が鋭くなる。


「異界の者どもは、そこを覗く。そこを測る。そこを杭で打てば、首級ごと現世へ縫い止められる」


 琴子の顔色が変わった。


「じいちゃん」

「黙れ、琴子」


 低い声だった。


「本来なら、貴様はこの鳥居をくぐった時点で封じるつもりじゃった」


 幽の喉が鳴った。


「黄金比の首級。異界を測る物差し。蜘蛛どもが欲しがるなら、なおさら危うい。守れぬなら、壊す。それが東雲の役目じゃ」


 弦五郎の竹ぼうきが、幽の眉間へ真っ直ぐ向けられる。


「どいてくれ、琴子」

「嫌」


 琴子が、幽の前に立った。


「東雲の娘なら、意味は分かるはずじゃ」

「分かるわよ」


 琴子の声は震えていた。

 けれど、退かなかった。


「分かるけど、幽くんを壊す理由にはしない」


 弦五郎の目が、細くなる。


「守れぬなら壊す。それが東雲の役目じゃ」

「違う」


 琴子は、朱音の桐箱を抱えたまま言った。


「守れないから壊すなんて、ただの負け惜しみよ」


 風が止まった。

 弦五郎は、しばらく琴子を見ていた。

 やがて、ふん、と鼻を鳴らす。


「……言うようになったの」

「幽くんを封じるなら、私ごと封じて」


 琴子の指が、朱音の桐箱を強く握った。


「私は、幽くんの前に立つって決めたの。東雲の娘としてじゃない。私が、そう決めたの」


 弦五郎は何も言わなかった。

 ただ、竹ぼうきの先を、ほんの少しだけ下げた。


「……ならば見せてみろ」

「え?」

「お前が前に立つと決めた小僧が、壊すしかない厄災なのか。それとも、まだ杭を打つ価値のある未完成なのか」


 弦五郎の視線が幽へ移る。


「小僧。貴様の役目じゃ」


 幽は、額の奥に残る痛みを押さえた。


「……俺が、やるんですね」

「そうじゃ。さっきからそう言っとるじゃろうが。小僧、その玩具を出せ」

「玩具って……これ?」


 幽は、ポケットからAmazon製の伸縮呪棍を取り出した。

 定価三五〇〇円。

 魔除けシールつき。

 レビューは星三・二。

 弦五郎はそれをひったくるように奪い取った。


「安物じゃな」

「今はっきり言わなくても!」

「だが形はある。形があれば、言葉を宿せる」


 弦五郎は、幽の呪棍を片手で回した。

 黒く焦げた先端を見て、わずかに眉を上げる。


「ほう。すでに何か、記録を喰うとるな」

「たぶん、商店街の戦いとか、銀嶺の時の……」

「ならば器としては足りる」


 弦五郎は懐から、朱色の墨を含んだ筆を取り出した。

 その筆先から、ぽたり、と一滴の朱が落ちる。

 石畳に触れた瞬間、その朱は小さな火花を散らした。


「ただし、これは剣ではない」

「え?」

「杭じゃ」


 弦五郎は、伸縮呪棍の表面へ朱墨で一文字を書き込んだ。

 杭。

 その文字が、どくん、と脈打った。

 同時に、幽の眉間にも鋭い痛みが走る。


「痛っ……!」


 幽は額を押さえた。

 触れても傷はない。

 けれど、そこに見えない印を打たれたような感覚だけが残っている。

 朱文字の下で、黒焦げの線が一瞬だけ蠢いた。

 それは文字ではない。

 けれど、幽にはなぜか、自分が生き延びた夜の数だけ、そこに何かが刻まれている気がした。


「蜘蛛の網を穿つ杭であり、必要とあらば、貴様自身をこの神域に縫い止める杭でもある」


 幽の背筋が冷えた。


「俺を……縫い止める?」

「貴様が奴らに完全接続され、街の基準尺にされるなら、その時はこの杭で貴様を封じる」

「じいちゃん!」


 琴子が叫ぶ。

 弦五郎は動じない。


「泣こうが喚こうが同じじゃ。琴子。お前は東雲の娘。守るとは、時に壊すことじゃと知れ」

「……っ」


 琴子は何も言えなかった。

 幽は、震える手で呪棍を見た。

 武器。

 同時に、首輪。

 弦五郎は、自分を助けようとしている。

 けれど、いざとなれば殺す気でもいる。

 朱知の網から逃げ込んだ先にあったのは、古い正しさの刃だった。


「……分かりました」


 幽は、喉を鳴らしながら言った。


「俺が持ちます」

「ほう」

「怖いですよ。めちゃくちゃ怖いですけど」


 幽は、鳥居の外で蠢く青白い蜘蛛脚を見た。


「それでも、俺の首級(くび)をどうするか、朱知にも、プロトコル・アヤカシにも、勝手に決めさせたくないんで」


 弦五郎の口元が、わずかに吊り上がった。


「ならば、言葉を吐け」

「言葉?」

「小僧。お主の魂の、一番底にある言葉を吐け」

「魂の言葉って、そんな急に言われても……!」

「何でもよい。お主が夜な夜な、布団の中で身悶えしながら書き殴った、あの痛々しい熱をぶつけろ」

「なんで俺の黒歴史ノートの存在知ってるんですか!?」

「琴子の部屋にも似たようなものが山ほどあるからじゃ」

「じいちゃん!?」


 琴子が真っ赤になって叫んだ。

 白夜が、扇子で口元を隠してくすくす笑う。


「あらあら。番犬さんにも、かわいらしい黒歴史がおありなのですね」

「殺すわよ、死神」

「ふふ、楽しみですわ」


 そんな二人をよそに、弦五郎は幽の胸元を、竹ぼうきの柄で軽く突いた。


「恥も外聞も捨てろ、小僧。電子の蜘蛛は、正しい文字を読む。整った命令を読む。だからこそ――」


 弦五郎の眼が、鋭く光る。


「お主のような、歪で、痛くて、恥ずかしくて、それでも嘘ではない言葉は読めん。その痛みこそが、奴らの網を穿つ杭となる」


 幽は息を呑んだ。

 街の向こうから、朱知の笑い声が響く。

 鳥居の結界が、再び青白く軋み始める。

 ここにいるだけでは、いずれ押し潰される。

 幽はポケットに手を入れた。

 指先に、硬い表紙が触れる。

 部屋を出る直前、なぜか掴んでしまったもの。

 銀嶺に晒された黒歴史ログが怖くて、捨てるつもりで持ってきたノート。

 捨てるはずだった。

 燃やすはずだった。

 でも、できなかった。

 表紙には、稚拙な星の紋章。

 中には、金星、霊力、深淵、魂、選ばれし者。

 読めば読むほど死にたくなる、昔の自分の熱。


「……これを、使うのか」

「嫌なら、ここで全員消されるだけじゃ」


 弦五郎が淡々と言う。

 琴子が、幽を見た。


「幽くん」


 その声は、いつものように強くなかった。

 少しだけ、震えていた。


「私は、どんな恥ずかしい幽くんでも……まあ、だいぶ恥ずかしいけど、それでも、守るから」

「そこは恥ずかしいって言わないでほしかった……!」

「事実じゃもの」


 弦五郎が即答する。


「じいちゃん黙ってて!」


 銀嶺が、幽のノートを真剣な目で覗き込んだ。


「オリジナル。記録されている語彙の羞恥濃度が、通常値を大幅に超過しています。ですが、熱量は本物です」

「銀嶺まで分析しなくていい!」


 白夜が、ふと静かに微笑んだ。


「幽さま」


 その声だけが、少し柔らかかった。


「わたくしは、その痛々しい言葉も含めて、あなたの『首級』に積層されたものだと思っておりますわ」

「それ、褒めてるのか?」

「ええ。わたくしなりには」


 幽は、深く息を吸った。

 怖い。

 恥ずかしい。

 死ぬほど恥ずかしい。

 でも。

 この言葉を書いた自分は、世界を笑わせるために書いたわけじゃない。

 本気で、何かを変えたかった。

 本気で、見えないものを見たかった。

 本気で、誰かを守れる人間になりたかった。

 銀嶺に言われた。

 不完全な自分は不要だと。

 プロトコル・アヤカシは、世界を正しい形へ上書きしようとしている。

 綺麗で、効率的で、間違いのないものへ。

 そんなものに、俺の失敗も、痛みも、黒歴史も、勝手に消されてたまるか。


「……やってやるよ」


 幽は、黒歴史ノートを開いた。


「俺の恥で殴れるなら、いくらでも使ってやる」


 弦五郎の口元が、わずかに吊り上がった。


「よい顔じゃ」


 朱色の筆が、幽の伸縮呪棍に触れる。


「吐け、小僧。お主の祝詞を」


 幽は、喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「――深淵なる明星の記憶に眠る我が魂よ!」


 声が裏返った。

 琴子が顔を両手で覆った。


「やっぱり恥ずかしいいいいいいい!」

「言った本人が一番傷ついてるんだよ!」


 だが、弦五郎の筆は止まらなかった。

 幽の言葉の一文字一文字が、金色の火花となって呪棍の表面へ吸い込まれていく。

 稚拙な星の紋章が、朱の墨でなぞられ、淡く光り始める。


「続けろ!」

「――偽りの理を剥離し、今こそ真の積層を顕現せよ!」


 朱文字が、呪棍の表面を走った。

 恥ずかしい。

 痛い。

 でも、嘘じゃない。


「我は拒絶する! 完璧なる未来など要らぬ! 泥に塗れたこの不完全な鼓動こそが、俺がここにいる証明だあぁぁぁぁ!!」


 オオオオオン!

 呪棍が吠えた。

 安物の金属が軋み、伸び、形を変えていく。

 表面に刻まれた朱文字が、螺旋を描いて浮かび上がる。

 幽の黒歴史ノートに書かれていた星の紋章が、弦五郎の筆によって、現世の呪式へ変換されていく。

 伸縮呪棍は、もはやただの玩具ではなかった。

 不完全な言葉を宿した、電子の網を穿つ杭。


「……素晴らしい熱量です」


 銀嶺が、ぽつりと呟いた。


「オリジナル。私のデータベースに、新たな定義が書き込まれました。羞恥とは、破壊力です」

「変な学習するな!」


 白夜が、うっとりと幽を見つめていた。


「幽さま。いつ聞いても傑作ですわ。ただ……金星という響きが、やはり少し」

「金星いじりはもうやめてくれ!」

「いえ」


 白夜は、一瞬だけ遠い目をした。


「そういう意味では、ございませんの」

「白夜?」

「……なんでもありませんわ」


 弦五郎が、強化された呪棍を幽へ投げ返した。

 幽はそれを受け取る。

 ずしり、と重い。

 だが、不思議と手に馴染んだ。


「よし。魂は籠もった」


 弦五郎は、石段に腰を下ろし、両手で印を組んだ。


「じゃが、儂はここを動けん」

「じいちゃん……?」

「奴らは、この神社の格そのものを、電子のゴミで塗り潰そうとしておる。儂がここで祈祷を続け、結界を支えねば、ここは一瞬で網の中に堕ちる」


 鳥居の外では、再び青白い脚が編み上がり始めていた。


「じきに、街全体の記憶も書き換えられるじゃろう。お主らの存在を、誰も認識できなくなる」


 朱知の声が、外から響く。


『さあ、再起動の準備はいいかな? 月代くん』


 幽は、呪棍を握りしめた。

 怖い。

 でも、今はもう足が止まらない。


「蜘蛛を穿て、小僧」


 弦五郎は言った。


「駄目なら、自分を穿て」

「……笑えないですね、それ」

「笑わせる気などない」


 弦五郎の目は、最後まで鋭かった。


「貴様が自分を保てる限り、その杭は武器じゃ。じゃが、貴様が自分を失えば、その杭は檻になる」


 幽は呪棍を握りしめた。

 重かった。

 けれど、手放す気にはならなかった。


「分かりました」

「本当に分かっとるかは知らん」

「分かってないかもしれません」


 幽は、少しだけ笑った。


「でも、持っていきます。俺の恥でできた杭なら、俺が持つしかないんで」


 弦五郎は、ふん、と鼻を鳴らした。


「ならば行け」

「……ああ」


 幽は、鳥居の向こうに広がる青白い街を見据えた。


「最高にいい気分だ。俺の黒歴史を笑った代償は、高くつくからな」

「幽くん」


 琴子が、朱音を構える。


「私は、どんな恥ずかしい幽くんでも守るから」

「二回言わなくていい!」

「幽さん」


 銀嶺が、ほんの少しだけ手を上げる。


「私は、不完全と羞恥という感情を学ぶために、もっと祝詞を聞きたいです」

「聞かせない!」

「幽さま」


 白夜が、妖艶に微笑む。


「わたくしにだけ、もっと恥ずかしい祝詞を聞かせてくださいませ」

「全員うるさい! 行くぞ!」


 幽は、強化された呪棍を手に鳥居を越えた。

 その瞬間、青白い光ファイバーの脚が、待っていたように襲いかかる。


『無駄だよ、月代くん』


 朱知の声が、街中のスピーカーから響いた。


『君の恥も、熱も、未完成の言葉も、すべて私の網の上で解析される』

「じゃあ解析してみろよ」


 幽は、呪棍を握り直した。


「俺だって、自分で意味分かってないんだからな!」


 朱文字が、金色に燃えた。

 幽は叫ぶ。

 恥ずかしい祝詞の残響ごと、前へ叩きつける。


「――穿て!」


 呪棍が、光ファイバーの脚を真正面から打った。

 硬いものを砕く音ではなかった。

 蜘蛛の巣を、内側から焼き切る音だった。

 青白い脚が、黒く焦げ、ほどけ、宙へ散る。

 街中のモニターに映る朱知の笑みが、初めて止まった。


『……ほう』


 その一瞬だけで、十分だった。

 幽は息を吐き、振り返らない。


「行くぞ」


 琴子が隣に立つ。

 白夜が笑う。

 銀嶺が、幽がくれたTシャツの裾を掴む。

 不完全な四人は、電子の網へ踏み込んだ。

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