アッパーカット
どちらともなく、走り出していた。
闘いを始めようとか、走りで勝負だとか、何か合図を出したわけではなく。
視線が交わる事はなく。
勇者の剣の切っ先だけが瞳に焼き付いて。
ただ、どちらともなく、走り出していた。
近寄っては、並んで、走り続けていた。
全速力で。
手を抜かれているのだろう。
七愛は思った。ただ、そう思った。喜怒哀楽何の感情も湧き起こらない。ただ、思ったのだ。
勇者なのだ。
自称勇者ではない。
魔王を倒したという実績を持つ勇者。
その勇者が体力自慢でもない自分と並走するなどあり得ない。
手を抜かれているのだろう。
その事実に。
情けなく感じていただろう。
自分自身に嫌気がさしていただろう。
雪花に対して抱く劣等感を生じさせていただろう。
勇者にそんな感情を抱くなどおこがましいと知っていても尚、生じさせてしまっていただろう。
けれど、どうした事か。
何の感情も湧き起こらない。
湧き起る暇がない、と言うべきか。
ただ全速力で、全身全霊で以て走り抜きたい。勇者と共に。
これしか考えられない。考えたくない。
ただただ、手を動かして、腕を動かして、足を動かして、脚を動かして、腹を、胸を、肺を、全身を大きく動かして、走れなくなるまで、駆け走り抜きたい。
これしか考えたくない。考えられない。
『六花彩湯国』の王都の『水仙』。
走って走って走って。
走って走って走って。
走って走って走って。
走って走って走って。
走って走って走って。
手足の指と腹と鼻と脳の半分が身体から消滅したのではないかと危惧されるくらいに、全速力全身全霊で駆け走った先、まるでゴール地点だと言わんばかりに立っていた雪花を視界に入れた七愛。鼻が消滅してしまったので口から思いっきり空気を吸い込んでは、腹が消滅してしまったので胸の底から思いっきり、勢いよく想いを放出させた。
「私を思いっっっきり殴ってくれえええええ!!!」
「よし来た任せろ」
「え?」
え? だれ?
躊躇う雪花の前に嬉々として出現した見も知らぬ女性に問う暇もなく、七愛は思いっっってきりその女性のアッパーカットを顎に喰らった。
瞬間、頭から決して出てはいけない轟音が不規則に超高速で駆け巡り走った七愛。
鋭い痛み、鈍い痛み、小さな痛み、大きな痛み。
今迄とこれからの人生を合わせても尚味わう事はないであろう、あらゆる痛みを一度に感じたのは、刹那の事。
(あ。やば。顎が砕けたから。話せない)
殴られても死なないから大丈夫だって、言いたかったのに。
(あ。でも。やっぱり、殴られて死)
(2025.1.17)




