その8 彼女はかまわれます。
ワタシは今左腰に手を当てている。別にどこかにぶつけたというわけではない。また季節遅れの蚊に刺されたわけでもない。本当の意味で痛くも痒くもない。
ではなぜか? 答えは簡単。バカだから、という一言に尽きる。
それゆえに、一つの選択肢がいかに多様な結果を内包するのかに考えが及ばず、今まさに人生の一大事と言っていい事態に直面している。もっと直接的で主要因ともいうべきことがあるのだけれど、この段階でそれを認めるのは早計だ。
昨日、名前を呼ばれたことでちょっとテンションがあらぬ方向へ向かってしまったのがことの始まり。
いわゆるエッチモードに突入してしまったのだ。もっともごく軽め。彼を誘惑しているような泉美の態度に触発されたのかも知れない。
今日の朝、学校に近づくにつれテンションアップ。彼をどうこうしようなどとは思っていなかったけれど、高揚する気分は押さえきれなかった。
楽しい。ホント楽しい。
この頃彼との距離はさらに縮まっている。彼はワタシのことを名前で呼んでくれるだろうか? ワタシはちゃんと呼べるだろうか。
クラスではもう経験済の子が知る限りでは二人。その子達と比べたら何やっているんだろうなってレベルの話。中学生か! ってなるよね。でも、ワタシにはそれが合っている。興味はあるけど、それに振り回されたくない。オクテの言い訳でもあるんだけど。
多分彼は今頃頭を抱えているんだろうなぁ。昨日は変なテンションになってただけみたいだし、いつもの調子に戻っているだろうね。そんな彼が素直にワタシ達を名前で呼ぶとは思いにくい。でも生真面目なところもあるから、決め事は守らなきゃとも思っていて、まさに自縄自縛。ふふっ、おっかしい。
さて、彼はどんな反応を見せてくれるのかしら?
そんなことを思いながらワタシは昇降口で上履きを取ろうとしゃがみ込む。一番下になってしまったことは今でも不満。
と、その時プツッとブチッの中間のような音を聞いた。いや、感じた。左の腰骨そして肌を通して感じたそれは、何かがちぎれた音。
えっ? うそっ!
あわてて腰に手を当てる。
まさか! ヤバイヤバイヤバイ。……いえ、待って。ここですぐに動いてはダメ。今それを確認するわけにはいかない。周りにはまだ人がいる。
辺りをキョロキョロと見渡し、そろーっと立ち上がったワタシは平静を装いトイレに向かう。クラスメイトに会わなかったのは不幸中の幸い。
すぐさま個室に入り、スカートをたくし上げる。
げっ! 切れ掛かってる。
布地部分とつながるところでひもが半分以上。マズイマズイマズイ! このままだとすぐに切れてしまう。あわてて右側の紐を……。プチッ!
うっ! ヤバイ、今のはおそらく最後通牒。下手に動くとひもが、いいえ、かろうじてつながっている糸が最後の悲鳴を上げてしまう。
そうだ、裁縫セット! あ、でももうすぐホームルーム始まっちゃう。針に糸を通すことすらままならないというのに、この状況でそれができるとは思えない。
どうしよう、どうしよう……。
ワタシはなんとか個室を出て、教室に向かう。 応急処置とも言えない手段を行使して、急場をしのぐ作戦に打って出たのだけれど、まさに薄氷を踏む思い。
サイフに入っていた絆創膏二枚を犠牲にし、一枚はひもと布地をつなぐように貼り、もう一枚でそれをグルグル巻きにするという荒業。いつまでもつかわからない。こうなったら休み時間にコンビニ行って買っちゃおうか。でもこういう出費って悔しいんだよね。
立っている分にはひもにかかる負担は少ないらしく、教室に辿りつくことはできそうだ。
すり足気味になってしまうのは致し方なし。左手は腰に添えたまま。というより押さえつけている。片手を固定してしまうと意外に歩きづらい。バランスをとるために右手首を返し鞄を肩の後ろに回す。うーん、キャラが変わってしまうけどしょうがない。
くぅっ、お気に入りだったのに。
普段であれば学校に穿いてくることなど絶対になかったひもパン。テンションがスーパーハイになってしまったせいか、体育もないしいいかな、などと思ってしまった。バカ極めたり。
ひもが切れかけているのは経年劣化のせい。買ってから五ヶ月も経っているし、休みの日にはよく穿いていたしね。洗濯で生地が傷んだんよ、きっと。そうワタシの身体に問題が生じたわけではない。決して! 決して太ったりなんかしていない!
あ、泉美だ。
泉美が教室の前のドアから入るのが見えた。自分の席には後ろから入ったほうが近いのに。でも、これは考えるまでもないこと。彼に後ろからではなく正面から挨拶をしようと言うのだろう。なんだかんだで泉美も彼を軸に行動しているのかな。こういうさりげなさに本気度が垣間見える。
「おっはよぉー、よっしきくーん」
ワタシが後ろのドアから入ろうとした瞬間、教室内から泉美の声が響く。
ぐはっ! そういくか、そうくるか!
左腰を押さえていた手が少しずれ落ちる。泉美ぃ、この絆創膏が切れたらどうするつもり? テンションマックスみたいだけど、ワタシは今日は付き合えないよ。
「おっはよぉー、あなたの泉美だよーん」
教室内でクラスメイトがざわめいている。それはそうよね。
「おはよう、大原さん。名前で呼ぶとか、もしかして寺山君とくっついた?」
あ、中尾さんの声。何言ってんのよ、ワタシはどうなっちゃうわけ?
「ううん、まだー。でもねー、おっぱい揉み見放題を条件に名前で呼ばせてもらうことになったー」
って、こらぁ! それはNGって言ったでしょぉー!
教室内はさらに騒然となる。中尾さんを中心に、キャー、なにそれー。うわっ、寺山君、意外とスケベー! 信じらんなーい。
あーあー、気の毒なこと。悪くなかったはずの女子ウケが地に落ちたわね。泉美ぃ、わざとやってるでしょ。
「おっはよー、泉美だよーん」
でも面白いから、もうちょっと覗いてよっと。
左手を挙げてやり過ごそうとか、あいかわらずのヘタレぶりがかわいいぞっと。
「おっはよー、い・ず・み、だよーん」
まだ泉美という女の子をよくわかってないみたいね。そんなので引き下がるわけないじゃない。
「い・ず・み、だよーん」 左手バイバイ。
「い・ず・み、だよーん」 左手バイバイ。
「い・ず・み、だよーん」 ……。
四度目でとうとう観念したみたい。泉美には勝てないって。
「おはよう。……泉美……さん」
チク!
さん付けとはいえ、そう呼ぶのを聞いた私は内心穏やかではない。泉美はとても嬉しそうだ。なんなのよ。もう! 泉美ってばかわい過ぎ。
小声のつもりだったのかな。でもね、あんたってば滑舌いいからワタシにも聞こえたわよ。ほら、中尾さんが食いついちゃったじゃない。
「えー、寺山君もー! どうしたの二人そろって。新開さんは?」
ここにいるわよ。さすがに傍観者を気取るのはもうヤメ。これ以上は泉美にポイントさらわれるだけになっちゃう。
「朝っぱらから何やってんの?」
彼が振り向く。プッ! なによその顔? 濡れそぼった捨て犬みたい。よしよし、いい子いい子。
ホント、見ようによっては情けないの一言なんだけど、これが放っておけないのよね。
あ、マズイ。パンツが……、ワタシは慌てて左手に力を込める。ダメだー、今ズルッっていった。少しずれた。
彼が何か言おうとしているけど、それを待っている余裕はない。急いで自分の席へ向かう。
そうっとよ、そうっと座ればまだ大丈夫。左手で押さえているし。
彼が何か不可解なものを見るような目つきになっている。パンツなの、パンツ。今ヤバイんだって。分かりなさいよ! いや、さすがにこれは無理か? うん、ごめん。
彼のワタシを見上げる目が小動物のそれになっている。うん、後でかまってあげるから、今はその顔やめて。
かわいいなぁ、でもパンツがね……。かわいいよね、でもパンツもね……。かわいいんだってば! でもパンツがー! わけのわからない思考状態に陥ったけど、三度ほどで我に返ったのはさすがにワタシ。
あ、そうだ。まだ挨拶してなかったね。いーい? 芳樹くんって呼ぶからね。ワタシのことはさん付けなんかしないで映子ってよんでよね。
パンツは危機的状況を迎えている。なんとなくわかる。かなりヤバイ。ワタシは神経を左腰に集中させながら彼に朝の挨拶を……。おはようと芳樹くん。別に言いにくい組み合わせではなかったのに、泉美に負けてなるものかと早口になってしまったせいなのか、ワタシは盛大に、……噛んだ。
「お、おはよう、ヨヨシキ君」
……。
ヨヨシキって誰ー?
泉美ぃ、何よその顔! 中尾さんもそんなに目をキラキラさせないで。お願い、今はそうっとしておいて。かまわないでぇー!
あっ!




