その20 彼女は冗談に弱いです。
自分だけが空回りしている。この中で一番の子供は他ならぬワタシだ。
桜田先輩になんでここまで反発心を剥き出してしまったんだろう。
寺山芳樹がワタシのほうを向いてくれないということにも不満を感じてしまう。
自己嫌悪とまでは行かなくても、落ち込んでしまうには十分だ。
「寺山君、さっきのってどういうこと? 桜田先輩、本気じゃなかったの?」
オーハラのことは彼の影になって見ることが出来ないけど、たぶんそのかわいい顔を向けているのだろう。いくらなんでもこの場で篭絡しようなどとは思っていないだろうけど、あの上目遣いとか堪えられる男子がいるとは思えない。かわいいし、おっぱいは大きいし、ワタシみたいにトゲトゲしくないし、その気になったら彼だってイチコロ?
あーやだやだ! こんな時に何考えてんのよ、もう!
「大原さん、それについては僕が悪かった。ごめん。だからそれ以上は勘弁してもらえないかな。新開さんも不愉快にさせてしまって申し訳ない」
えっ、えーっ?
別の意味で興奮し始めたワタシをよそに、桜田先輩が額がつきそうなくらいに頭を下げた。
そんな! 頭なんか下げないでください。すみません、ワタシのほうこそあんな態度とって。口には出さなかったけど、さんざんっぱら悪態ついていました。ごめんなさい!
キョドりぶりではさっきの彼の数倍をいくだろう。
もう何がなんだか……。あ、彼が必死に笑うのこらえてる。
くぅ……。でもここは何も言えない。なんか悔しい! 後で覚えてなさいよ。
「じゃあ寺山君、君からね」
また出た、先輩の「じゃあ」 これ、絶対彼には通じてないと思うんだよね。なんでオレって思っているんだろうな。
ホント、鋭いのやら鈍いのやら。
「先生に聞いたでしょ、私のあだ名のこと。それ話してあげてくれる?」
綽名? あ、前に聞いたことあったっけ。「図書室の魔女」だったよね。
魔女のコスプレ? へぇ、絶対似合うな。というかハマりすぎじゃない。でも、どうやって赤ちゃんを泣き止ませたんだろう。そういう魔法でもあるのかな。他の人だったら眉に唾しちゃうけど、先輩だったら不思議じゃないって思っちゃう。もう何でもアリよね、この人。
え、それだけじゃないって? そう、そうなのよ。
「そこが大原さんが知りたいこととつながって来るのよ」
なんだか先輩は楽しそう。でも隣の桜田先輩は眉間に皺を寄せている。
そうよね、そうなっちゃうよね。
「で、大原さん。私に聞きたいのって、塚本さんが流していた噂のことでしょ」
あの中傷、あの悪意。でも彼は知らないみたい。どうしよう。
「はい。……でも……あの」
オーハラも少し躊躇っている。できれば聞かせたくないけど、席を外せなんて言えない。
「私ってね、あなたたちが入学するちょっと前にも噂になったのよ」
先輩は気にしていないのだろうか? もしワタシだったら? そう考えると身震いがする。二度と話題にしたくないと思うだろう。
「また『魔女』って呼ばれるようになっちゃったの。ま、今は収まっているけどね」
「何やらかしたんです?」
何も知らない彼は能天気なものだ。
「いろいろとね」
口元の笑みが妙に大人っぽい。もう本当に気にしていないのだろうか? その噂に嫌な思いをしたきただろうに、なんでそこで笑えるんだろう。
あ、オーハラが顔を上げた。そう……いくのね。
「すみません。文芸部に入って塚本先輩からその噂を色々と聞かされましたが、内容が内容なので、できれば高橋先輩本人から本当のところをお聞かせいただければと思い、会いに来ました」
コスプレの件だけだったら良かったのに。彼が教えてくれたことは楽しい話題として盛り上がるだろう。でも、これからオーハラが話すことは……。
「気にしないでいいから言ってみて」
オーハラが深呼吸をしている。ワタシも静かに息を吸い姿勢を正す。
最初のいくつかだけでも本人を前に口するのは憚られる内容だ。意識している訳ではないのだろうけれどオーハラの声は小さい。まるで叱られて今にも泣きそうな子供のようになっている。
「それで全部じゃないでしょ。かまわないから言ってみて」
え、いいんですか? 今のだけだってかなり酷いのに、後のなんか先輩だって聞きたくないんじゃ?
けれど、オーハラは関先生に言われた中途半端な気持ちを切り捨てたようだ。先程よりはっきりとした口調でそれを言葉にした。
気が滅入る。でも、ワタシも決めたじゃない。どんな結果になろうとも自分自身の責任を全うすると。
はっ!
彼の左腕が、握り締めた拳が震えている。
ダメ、寺山、落ち着いて!
考えてはいなかった。ただ、反射的にワタシは彼の腕を掴んでいた。その瞬間、彼の怒りが震えとともに伝わってきたようだった。
そして、ようやく彼がワタシに目を向ける。望まぬ形。
「新開も知っていたのか、今の?」
「オーハラから聞いてた。黙っててごめん。でも……」
オーハラは言った、傷つくだろうと。ワタシは言った、怒り出すだろうと。そして今目の前の彼は、おそらくその両方だった。
「どうして! なんで教えてくれないんだよ! 先輩がそんな人じゃないってオマエだって知っているだろっ。黙ってたってことは、お前たちもそういう目で見てたってことか!」
大好きな先輩を侮辱され、傷付き怒り、そしてその矛先をワタシに向けている。今まで見たことがない彼。これは八つ当たりに近い。けれどワタシは抗うことができない。なぜなら、彼の言う通りだったから。口ではそんな人じゃないと言いつつ、完全には疑念を捨て去ることが出来なかったのだから。
これはわかっていたことだ。
そう、わかってはいた。ただここまで「痛い」とは思っていなかっただけ……。
「ごめん。そんなに怒らないで。言わなかったのは謝るから。でもあんたには聞かせたくなかったのよ、こんな話」
言いながら、彼の怒りは鎮まらないだろう、そう確信していた。怒るところなど今まで見たことがない。その彼がここまで激昂している。ワタシにはなす術はない。
ただ、さすがにこれ以上何かを言われたら、涙腺がもたない。お願い、もうやめて!
「ああ、知りたくもなかったよ! お前たちがこんな噂話を真に」
あ、ダメだ。視界が少し歪んできた。このままじゃ……。
と、先輩がテーブルに乗り出したのが目に映る。えっ?
ゴフ!
決壊寸前、鈍い音とともに彼がその激しさを失った。
「あっ、やっちゃった」
場に似合わないとぼけた声がする。
停止した彼の近くに先輩の左腕が伸びていた。
えっ、今……。
見間違いではない。確かに先輩の左手が彼の頬に向かって伸びた。彼がドンと椅子にもたれる。
桜田先輩が彼を見やりつつ先輩の両肩を押し留め、席に戻している。オーハラは角度的に何が起きたのかはっきり見てとったのだろう。両手で口を覆う姿がそれを示している。
だがそれはワタシも同じだった。
まさか先輩、彼を殴ったんですか、しかも拳で?
うそっ?
彼を止める手段を持たなかったワタシにとって、先輩が取ったそれは予想外だった。いやここにいる誰もが考えもしなかっただろう。だけどその有効性は証明された。現実として彼は今椅子に座り黙り込んでいる。
考えが追いつかない。
彼が呆然としたまま、右頬を擦っていた。頬を殴られたことなどないから、それがどの程度の痛みで何を思っているかも想像できない。
そーっと窺うと、目の焦点が合っていない。
どこを見ているの? 大丈夫、痛くない?
いつのまにか彼の左腕に手を添えていたが、次にどうすればいいのかわからない。掛ける言葉も思い付かない。
先輩は少し困ったような顔で左手を擦っている。
気まずい沈黙に誰も口を出せない。
と、二人が突然姿勢を正し真面目な表情で声を上げた。
「先輩!」
「寺山君!」
ほぼ同時に二人が呼び合う。
二人は何を言い出すのか?
正直怖い。彼が先輩に怒鳴り始めたらどうしよう。先輩がまた乱暴なことをしたらどうしよう。ハラハラを通り越し、もう恐怖と言っていいくらいの緊張がワタシを硬直させる。
ところが……。
「痛いっす」
「痛いわ」
かぶるように二人が言葉にしたのはその一言ずつ。
えっ?
目を合わせた二人の間に何かが張り詰める。
と、どうだろう、彼がいきなり吹き出した。左手で額を叩き、そのままのけぞるようにして笑い出したではないか。
先輩は引きずられるように机に突っ伏し、左手でテーブルを叩きながら嗚咽にも聞こえる笑い声をもらし始める。
床を踏み鳴らす彼とテーブル叩きの先輩の二重奏。
うぅっくっくっく! ははっは、っはは! ひぃ、ひっひっひ!
桜田先輩もオーハラも唖然としている。ワタシもだ。
わけがわからない。
彼が話の内容に腹を立てワタシに怒鳴り始めた。それを先輩がこともあろうか拳で殴りつけた。そこまではいい。……よくないけど。だけど、その結果としてなぜ今二人はこんなに笑い合っているんだろう。
そして、普段の会話等でもよくある突然途切れる一瞬、なんだっけ、天使が通る? ……いいえ違うわね、この場合は魔女が通るを採用すべきね。ともかく二人の笑い声がちょうど同じ瞬間に止み、ちらりと互いを見やると、残りのエネルギーをすべて燃やし尽くすかのように、また理解不能のドツボ状態に突入したのだった。
あーなんだろ、デジャヴ? 同じような光景を多分ワタシは知っている。あの時は見ている側じゃなくて演奏側だったけど。
ほどなくして二人が燃えカス状態となった。ぐったりと椅子にもたれて天井に顔を向ける彼。一度ならず二度までも笑い地獄に落ちた先輩。姿勢は戻っているけど、かなり疲れた顔をしている。
「せんぱーい。左手大丈夫ですかー?」
彼が少ししゃがれた声で先輩を気遣った。
ますますわからない。この二人、一体どんな意思疎通を図ったの? あの鉄拳が言葉代わり? テレパシーで通じ合った?
と、そこで彼が姿勢を正し、謝罪の言葉を口にする。
「新開、ごめん。大原もすまなかった。桜田先輩、みっともないところを見せてすみません」
ワタシはすでに毒気が抜かれ、さっき怒鳴られていたことなどどうでも良くなっていた。一度首を振ることでそれに応える。オーハラも桜田先輩も同様だったようで、両手を振って彼の謝罪を受け入れている。
そして彼は「それ、自分を殴った相手に言う?」と思わざるを得ない言葉を向けたのだった。
「先輩、すみませんでした。ありがとうございます」
「ありがとうって……。なーに、もう一回叩いてほしいの?」
ダメー! もうやめてくださいってば。
「今のは叩くじゃなくて殴るでしたよね。まぁ、そのことについては文句は言いませんけど、でもできるなら次からはグーじゃなくてパーにしてもらえませんか」
次からって……、平手打ちなら構わないんだ。へぇー、あんたそっち系? ホントはもっと叩かれたいとか? ほら、先輩がピースサイン出して了解しちゃったじゃん。知らないわよ、これからどんな目に合っても。
でも、先輩、パーもできるだけやらないでくれませんか? 先輩の手形を常にどこかに貼り付けているなんて洒落にもなりませんから。
とは言っても、さすがに先輩だってこれ以上のことはしませんよね。まぁこれで一件落着かな?
けれど先輩の次の言葉は……。うん、ワタシは甘かったね。
「チョキが残っているけど?」
せんぱーい! それはダメ! 生きるのにも支障が出ちゃいますってば!
「いや、さすがにそれはヤバすぎるんで勘弁してください」
彼も目潰しだけは受け入れられないみたい。当たり前よね。
はぁ、それにしても……。
冗談だとはわかっているんだけど、先輩が言うと実際にやりそうに聞こえるから超コワい。心臓に悪すぎ。ホント、先輩はとんでもない。




