第五十九話 お互いが光
「ケロー……」
は、はと短い呼吸を発して、レチュアは山道を登っていた。心拍が速い。
山の近くは前線で、つまり世界の音が生と死にあふれていた。
桂華の軍隊が集まったのは、リージュの海よりの東の端、港に近い場所、ダルタヤ。
桂華の大都市華南・ヒアラにあるオーウ港でリージュの海軍が桂華軍を撃破したのは記憶に新しい。
だが、やはり桂華は武力に長けた帝国、今度は何の手加減もせずに、リージュの港に海軍、陸軍を投じた。
ダルタヤ付近には教会が多い。神殿巫女を育てる聖地だ。つまり桂華がダルタヤを選んだのは、やはり武器確保や、戦地としての機能性の問題を見て、簡単に言えば弱い場所をつついたわけである。
前線に行きたいと言った日から二日たち、もう夕方だ。それなのにケルベロスがいない。
「お願いケルベロス……っどこにいるのよー……っ」
レチュアは鼻声になって、懇願するようにケルベロスを呼ぶ。
リュークのドールであるケルベロスは、リュークの命令は絶対に聞く。だが、その命令が聞けなかった場合に考えられるのは、ケルベロスの死か、リュークの死。
はっ、としてレチュアは目を見開いた。
「まさかリューク、が……」
レチュアは完全に困り果てて、とうとう涙を流した。
体の芯、下腹部のやや下がズキン、ズキンと痛む事に気付いた。 ――それが何を意味するかはレチュアにもぼんやりと分かる。
「ケロ……っ」
「ねぇ、ケルベロス……」
ねぇ、リューク。
レチュアは静かに座りこんで、ぱたりと倒れた。
疲れ果てていて、どうやら考えもまとまらないらしい。
いつかにそっくりだ。
自分は疲れ果てていて、思考がおぼつかない。傷だらけで血まみれで――あの時はドレスを着ていた。
助けを必要としていて、闇雲に歩いていた。
一年がたとうとしている。
月日はレチュアに無情だが、レチュアは月日の経過に得たものがある。
『しっかりなさい。まずは貴女の目的を果たすのよ、レチュア』
レチュアは自分に言い聞かせた。
前線を見たいと駄々をこねたのは、ただの我が儘からではない。
レチュアは下腹部を手で押さえ、強引に顔を上げた。強くなれ。取り戻せ、玉座を。
ただもう何も考えずにもくもくとレチュアは歩く。疲労が極限に達した後は、なんだかずるずると気が抜けていくようだった。
道があまり分からないので、音がする方向を頼りに枝伝いに歩いていく。
たまにケルベロスの名を小さな声で呼んではみるが、返事はない。
使役者がレチュアならともかく、リュークのドールがレチュアに応答する事は稀だ。ただ、歩く。考えを振り払って、歩く。
腹も減らなければ、痛みも薄れて来た。
森は静かだが、時々銃声がする。ドオオン、という腹に響く音と、志気をあげる男達の怒声。
町に降りるのは危険だ、山から離れない方が良い。登っていけば、高いところからなら戦場を見る事も出来るだろう。上手く道を見つけたらそこに行っても良い。
『吐きそう、かも……』
マーナ・ベルナの消耗が激しい。その分レチュアに負担がかかる。
だが、狂気を孕んだソレアから逃げきれた事だけでもよかれとしなくてはならない。
『なぜ私がこんなところにいると分かったのかしら。……それに、マーナ・ベルナ様と知り合いのようだった』
監視されていてもおかしくはない。ソレアの底知れない力の前では、レチュアはただ彼の手のひらで踊らされる事しか出来ないのだろうか。
『ダメだ、やっぱり……吐きそ……』
が――ともすれば寝て、倒れてしまいそうなレチュアの意識を、何かがツンと引っ張った。
「レチュア……?」
自身を呼ぶ声に導かれるように顔を上げる。
目を開くのも億劫だった彼女の瞳が、その声の主を見れば完全に見開かれる。
同時に彼女の赤の瞳に、光が宿った。
「リア……」
「おま、こんなところで何して」
リアスだ、他の誰でもない。
今は、青いバンダナがないが。光に透けて銀色に眩く光る灰色の髪、自分のそれよりやや黄色じみた朱色の目。リュークよりは低いが、レチュアより大きな背。
暖かい――声。
「リアス……!」
レチュアは慌てて走った。歩くのも嫌がっていた体が素直にリアスの方に向かって走っていく。
足がもつれる事はなかった。
「リアス!!」
「れ、チュア……」
レチュアはリアスを抱き締めたくて差し出そうとした両腕をひっこめる。
リアスの困ったような顔が拒絶に見えたからだ。
助けられなかった自分を怒ってる? 何も上手く分かってあげられなかった自分に苛立った?
「リアス……っ、あ……私……」
とっさにひっこめた腕が寒くて、レチュアはどうしようと呆然とした。
リアスが目の前にいるのに、何か言いたいのに――抱き締めたくてたまらないのに。謝りたい、――どうしても謝りたい、のに。
「こんなとこで……何……して」
レチュアとリアスの距離は三歩も離れていない。あと一歩でも近付けたら、近付いてくれたら――。
リアスの表情はただ困惑していた。レチュアはここでリアスに拒絶されてしまえば、どうしたら良いかもう分からない。
「あ、私……」
「あー……色々、言おうと……思ってたんだ」
リアスの言葉にレチュアは小首を傾げる。
「え、何、を?」
「……お前……なんでそんな走って来り、して。…………怒れよ、殴れよ」
「ごめん、何の話をしてるのか」
どうしたの?
レチュアが次の言葉を出すより早かった。
三歩分空いていた距離が縮まり、リアスの両腕が体の前で、ぱ、と開かれた。
おいで、と言っている。
ように、見えた。
何かに降参しました、という態度で、リアスは困ったように笑った。そしてただレチュアを待つ。
――何もかもふっ飛んだ。
レチュアは開かれたリアスの両腕の中へ何の躊躇もなく飛び込む。
最初に会ったら何て言おう、なんてレチュアも――そしてリアスも考えていた事なんかすっかりお互いの頭から消え去っている。
抱き締めあえば暖かい、二人の体は泣き出しそうなほど暖かい。
「リアス……っリアスーっ」
思わず泣いてしまいそうになりながら、レチュアはリアスの腕の中で安心しきってしまっていた。
もしかしたら、リアスを疑ってしまった嫌な自分を彼は抱き締めてくれないかもしれないと、レチュアは思っていた。言葉はあまり必要なかった。懸念も雑念も要らなかった。
思いきり甘えるように、レチュアはリアスの腕の中で頬をすりよせる。
「……レチュア」
「ん……? 顔も……腕も傷だらけだ。……いたかったでしょう?」
体はまだ合わせたまま、顔だけ上げて、レチュアはリアスの顔を見て、腕は服に隠れているが、見えていた手の甲に視線を落とす。
首や、指、他にも見えている部分だけを見てもリアスの体は傷だらけだ。
「馬鹿、痛くない」
レチュアはそろそろと腕を下ろし、リアスの胸や腹を撫でる。
時々リアスの眉が動くのを見て、自身の眉も寄せた。
体にはあちこち傷があるらしい。それも――深い。
「お前こそ……血、が……」
リアスもレチュアの顔を見て、頬のあたりの擦り傷に触れる。
たいした傷はないが、レチュアがぼろぼろでこんな戦場付近にいるのだ、リアスは焦る。
何より気になったのは、レチュアの千切れたスカートの端から見えた、足を伝う血だった。
「足、に……」
「足?」
確かにあれだけ転び、擦った。足にも怪我ぐらいしているだろう。
レチュアはスカートの端をつまんで、持ち上げた。
普段ならコラ、と怒鳴るはずのリアスも黙ってレチュアを注視する。
『あ……』
ところがレチュアは目を愕然と開き、スカートを下ろす。叩きつけるように裾をはたいて、シワを伸ばしながらまくしたてるように答えた。
「あ、これはちょっと失敗しちゃったの! ふとももをひっかいちゃったの」
「痛くないか? 女の子が傷こさえたらダメだろ、あ……いや、まぁそれは置いといて……」
心配、してる。
リアスが自分の心配をしている。
彼の思い詰めた顔を見て、レチュアもふと不安になる。
どうしたの、と言おうとして忘れていた。間抜けな間を埋めるように、リアスの腕がレチュアの体に触れた。
「叩いてほしいんだけど」
「え?」
「……いや、怒ってるだろ、お前」
レチュアは首を傾げた。
「だからさっきから何なのよ! 叩く? って……あ」
リアスの顔を見る。
ふと、レチュアの視線が横に流れた。
レチュアは今し方まで目に入らなかった、少女を発見したのだ。
リアスを探して、山道を登って来たオリヴィアである。
「あ、貴女前に見た神殿巫女様じゃない! え、何でリアスと」
「ちょオリヴィア、あとちょっと待って」
「はいっ……お話は待ちます、……いきなりっ走って、いかれたので……は……疲れたぁ……っ」
肩で息をする少女に覚えがある。身代わりにレチュアを逃がしてくれた神殿巫女だ。
確か名をオリヴィアといったか。
『え、なんでリアスと一緒に……まさか!』
レチュアは瞬時考えた後、目を見開いた。リアスが捕まっていたのがリージュの監獄なら、あるいはオリヴィアも。
「貴女、もしかして捕まってしまったの?」
オリヴィアを見て、次にリアスを見上げる。リアスは困ったように肩をすくめた。
「監獄で見つけた。話も聞いた」
「やっぱり捕まってしまったのね……あの時他の手を、考えれば良かった……っ」
肩で息をして、吐息を荒げていたオリヴィアは首を慌てて振る。
「レチュア様、私は何も困りませんでした。レチュア様を騙る者として、監獄に入る事など当然の事でございましたゆえ」
「ううん、……考えない事もなかったのよ。本当に何てお礼を言ったら」
「リアス様が助けて下さいました」
リアスが?
レチュアは隣りにいるリアスを見る。ちょうどレチュアに視線を下ろしたリアスと目が合った。
「あのね、私、たくさん言わなきゃならない事があるのよ。リアスにも、オリヴィアにも」
「ん」
「レチュア様お怪我が酷いですわ、いかがいたしましたか?」
オリヴィアまで。
私なんかの心配を、している。
「ちっとも痛くないわ。……ちっとも痛くない。リアスの方がぼろぼろよ」
「だから俺もいたくないって」
「あら、でも背中触った時すごい痛そうな顔してたじゃない」
レチュアは完全に安心しきって泣いてしまっていた。
自身が泣いている、とは全く気がつかなかい。
ほっとした途端、ゆるゆると涙腺がゆるみ、涙がこぼれたから不思議だ。
「で、どうしてお前ここにいるんだ?」
「前線をね、見に来たのよ」
その代わり、様々な物を見失った。
レチュアは苦笑した。
お久し振りです。
小説家になろう秘密基地にて、いーじー様よりレチュアを描いていただいております。
ペンタブ使用の、本格的なパソコンの絵です。
まるでアニメです。
精神的にも大人になっていく強い目のレチュア、ぜひご覧になって下さいね。
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いつも読んでくださっている方、本当にありがとうございます。




