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祈りの空  作者: 桜野日向
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第五十八話 花束を持たず


 引きずり出される。

 魂までもが肉体を離れていかんとする、衝撃、痛み、解放の時。


「あ……あ、あぁ……っ!!」


 唇の端から唾液、目からは涙。レチュアは腰を折って屈みこみ、悲鳴をこらえる。

 歯を食いしばっても嗚咽がもれ、常に身体が抉られる。


「卑怯だな、ベル。こんな小娘の肉体を食むのはさぞ気持ち良かっただろう」


 知り合い、のような口調だ。レチュアは苦痛に引きずられるのを拒んで何とかして考えをまとめる。

 だが叶わない。

 痛みでとうとう地面に伏す。受け身を取る事も忘れていたから、酷い衝撃が走った。

 ――と同時に、身体が軽くなる。目の端に写る人影があった。

 長い髪、発光するまばゆい光の色は『色』として形容しにくい。繊細な絹糸のような、触れてはならない至高の髪だ。

  レチュアを見下ろす瞳は慈愛、それからゆっくりとソレアに向けられた瞳は悲哀だ。

 憎しみでもなく、怒りでもない、悲しみに満ち溢れた瞳。レチュアは腕に力を入れて起き上がる。

 身体中が軋むように痛いが、同時に軽い。


 マーナ・ベルナを見た事がある人間は、恐らくレチュアしかいない。彼女は天地を創造した創造神でありながら、四神やレクトとは違う、人間と交わりのない女神だ。ドール契約は愚か、どの書物にも彼女の容姿を書いた本はない。

 ある者は女神とは表さず、溢れる光としょうした。またある者はマーナ・ベルナを男神だと言った。


 だが、一番多い意見として目に入れる事すら彼女を汚してしまうのではないかという美貌、麗しき神である、そう書いた文献の通りだった。

 この世の悪とは全くの無関係であり、無垢な処女神。


 マーナ・ベルナを見た事がある人間はレチュアだけである。


「レチュア、立てますか」


 艶めく唇から奏でられた声は、儚げで悲しみに覆われていたが、決して消え入る寸前の細いものではない。

 意思を持った、強い声だ。


「……マーナ、ベルナ様……」


 レチュアは立ち上がった意味がないほどに、立ち尽くした。


 呼吸すら忘れる美貌の神、その気配は、威圧的ではないにしろ圧倒された。


「騒がせました、ベル様、どうかこの私めに罰を」


 ソレアは恭しくひざまついて、へりくだる態度でマーナ・ベルナに挨拶をした。


「お前はやりすぎね、いつもそうです」


 彼女の花のような笑顔は、凍っていた。凍り付いて冷えた笑みで、侮蔑しきった顔で、マーナ・ベルナはソレアを見下ろす。


 創世神を見た事があるか、馬鹿げた質問に、レチュアはあると答えられる。それが、――怖い


 圧倒的な神レクトも、友好的な、だけどやはり神聖な四神も、彼女の『世界』の中ではもはや『神』ではない。

 そこだけが不気味に切り取られた、異空間だ。三人いる、と思っているのはレチュアだけかもしれない。今『そこ』にいるのは、レチュアとソレアだけ。

 いる、と定義されない存在。――神だ。


「……あの人はいないのね」


 マーナ・ベルナはふと振り返り、レチュアに微笑した。それは、ソレアに向けた笑みとは全く異なる笑顔で、凄絶な二人を見ていたレチュアは、笑顔に笑顔を対応しきれない。


『あの人?』


 マーナ・ベルナはレチュアを気遣い、レチュアより前に出た。庇われている、というイメージがレチュアにはなかった。多分、それは時々降る慈雨や、お日様の恵み、与えられる恩寵と同じようなもの。

 レチュアはそろそろと起き上がり、


「アイツは俺が嫌いだからなぁ」


 ソレアはくく、と肩をあげて笑った。


「ベル、何でお前がこんな小娘の中にいたか。俺には全く理解が出来なかった。気付いたのは随分後だ。面白いくらいに目眩ましをかけられた気分でね」


 神聖で高潔な世界の中で、怯まず上機嫌に話していられるソレアはある意味すごい。

肩でまばらに切られた漆黒の髪が揺れる。面白くてたまらないソレアは、ずっと笑顔だ。


 萎縮したレチュアの反応は間違っていない。

 誰もがこの世界に飲まれないで自我を保つ事は難しいだろう。

 まだ手は痺れていたが、かろうじて動き始めた手に、剣神に預けた槍を納める。本来なら手のひらに馴染む柄が、嘘のように冷たく、湿っぽい。

 セーレスを片手に、レチュアは二人の会話を聞いていた。


「どうしてコイツじゃなくちゃダメだったのか、教えてくださいませんか、創世主」

「……」

「ただの子供だ。辛い宿命を背負わせて楽しかったですか?」


 マーナ・ベルナは一瞬たりとも顔をしかめたりしなかった。慈悲のない無表情のままで。


「……お前は彼女の側にいるのも辛いだろう」


 マーナ・ベルナは答えた。神の声を比喩するなど無理だ。

「お前を消滅させるのは赤子の腕を捻るよりたやすい。だが、そのような事をすればレチュアが泣く。出来るなら拒否したい。身をお引きなさい、ソレア」


 私が泣く? どういう事かしら、とレチュアは首を傾げる。


「では貴女が私と共に来る事をお願い致します」

「お前は私に首輪をつけられたいの?」


 マーナ・ベルナは苦笑した。

 心底馬鹿にした笑顔には、やや焦りが入っていたように、レチュアには感じられた。

 だが、創世の神にとっては、ソレアという魔術師がどれだけの脅威なのか分からなかった。マーナ・ベルナとソレアの関係も同じく。

 レチュアだけが人間だ。レチュアだけがこの状況になかなかついていけずに、立ち尽くしている。

 空間にかかる圧力が、大きい。森の中の空気はふだんから、神聖な気が充満している。だからこそ、禍々しい程の神気と、高圧的な魔力が混ざり、まるで今いた森とは全く違う世界が出来ていた。


「御身ははさぞきついでしょう、こちらへ」

「遠慮する。レチュア、来なさい」

「あ、はい……」


 マーナ・ベルナはレチュアの手を取ると唇だけで何ごとか呟いた。囁きとは言えない。口をわずかに動かしただけだ。


 すると、目の前にいたソレアがいなくなった。――二人は全く別の場所に飛ばされた。


「!」


 一呼吸の間もあったか。

 それだけの一瞬。


「え、あ」


 レチュアは一瞬の移動に驚いた直後、倒れ傾いだマーナ・ベルナの御姿にかけよった。

 ここがどこか、何が起こったのか、よりもマーナ・ベルナが倒れている事に愕然としたのは親より貴い、懐かしい、そして美しく気高い彼女に対してだからこそだった。

 世界を創造した神の、その弱い息が信じられないほど耳に残る。


「マーナ・ベルナ様!」


 レチュアはかけより、座り込んだ。揺するべきか、背中をさするくらいは許されるだろうか。至高の女神は、地面に両手をついて、座り込み、息を荒げている。

 体が弱いのかもしれない。

 だが、世界を創世するほどの神に『体』という概念があるのかどうかを、レチュアは勿論知らない。


「どうかなされましたか、あいつ、一体……」


 マーナ・ベルナはゆっくりとその半身を起こした。

 乱れた髪も、荒い息遣いすらも、美しい。


「レチュア、よくお聞きなさい。まだその時は来ない、まだ……まだ、私は……」

「マーナ・ベルナ様?」


 透けるほどはかなく美しい女神の体が、文字通り透けていくのが分かる。

 レチュアは声も出ないほど驚いて、その手に縋るように抱きつこうとした。が、両手は空を掴んで、落ちる。


「マーナ・ベルナ様?」


 移動したのは、おそらく森の裾だ。町が近づいている事が分かる。

 わずかにけぶるような硝煙の臭いと、地響き、咆哮。

 前線だ。

 少し高台になっている、丘の上から町に続く道を見れば、荷物を運ぶ兵隊たちが見えた。


「一体、どこに……」


 レチュアは不安で仕方なかった。

 知らずの内に自分の体を両腕でかき抱いて、恐ろしさに顔を歪めた。

 あれはただの簒奪者ではない。創世神を知っている男、ソレア。

 禍々しさがあった。だが、それと同時に、優しさも美しさも兼ね揃えた、そんな印象。冷酷だと、即座に切り捨てることができないのは、なぜだろう。

 マーナ・ベルナはおそらくレチュアの体の奥で眠ったのだ。それを僅かな意識の奥でレチュアは感じた。消耗しているのだろう。

 神を引きずり出すほどの実力、それがソレアにあった。


「……」


 身体を、自由にしていた。

 のは。

 レチュアは愕然とした表情で唇に触れる。

 リュークの強引な口付けがまだ残っているのに、自分は――。

 前線を見たい、と言ったレチュアのわがままを、リュークは受け入れた。だが、こんな面倒ごとに巻き込まれると誰が予想できただろう。


「ケルベロスは……」


 一気に一人になってしまった事を感じた。

 レチュアはぼろぼろになった身体を、引きずるようにして、歩く。

 ソレアがまだ近くにいるかもしれない、油断をしてはいけない。

 何もかもが、レチュアにとって絶望的だった。

 ――それなのに、いつまでもいつまでも、レチュアは何一つとして真実にたどり着けない。



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