第五十五話 灯淡く
強かに頬を打たれ、腹を蹴られ、血だらけになって、あれだけの絶望を感じた後でもリアスが笑って立ち上がったのは、そのどうしようもない偽善からだった。
「ここまで来れば大丈夫でしょう」
赤に限り無く近い瞳を心配気に細め、オリヴィアはリアスの側に屈んだ。疲れきって憔悴してはいるが、リアスほどではない。
王城から出る荷運びの馬車の後ろに乗せられ見事脱走したリアスとオリヴィアは、王都からはやや離れたミジャという町に降ろされた。
クライストに全身全霊敬意を払う御者は、老年で白髪の男で、リアスとオリヴィアに何の興味も見せなかった。ただお気をつけて、と一言残し、冬の始まりの淡い寒さの中、王城へまた帰っていった。
真夜中には遅く、明け方にはまだ早い。ミジャには人っ子一人いない。――毎晩酒場を賑わせていた酒飲み達が戦争に駆り出されているからだ。
「宿をとりますか?」「オリヴィアはね」
リアスは微笑して、世間知らずのオリヴィアの頭を撫でた。加えて彼女は自分がどれだけの極悪人かを知らない。
「お別れだ、オリヴィア」
あくまで異論は聞かない。リアスは一方的にオリヴィアにさよならを告げる。
「待って下さい、貴方一人で何とか出来る怪我ではないでしょう?」
「でも宿はダメなんだ。……逃げているから掴まらないため、ってのもそりゃああるさ」
半分は違う。
リアスはもう一度曖昧に笑って、もう一度だけ控え目に頭を撫でた。
茶髪の、ふわりとした巻き毛で、朱赤の瞳、彼女より大人しい、彼女より口調が丁寧。おとなしくて、柔らかくて、彼女より……
「えっと、馬とか乗れないよな?」
「馬、ですか?」
彼女なら馬に乗れる。オリヴィアは乗れないだろう。
「乗れます。貴方を乗せて走るなら、出来れば雄の若い馬が良いです、御しやすいから……」
レチュアの事ばかり浮かぶ。
「え? 今乗れるって言った?」
「……はい、あの……雄の若い馬が良いと……」
「……」
重傷だ。――リアスは溜め息をつくように笑った。彼女はレチュアではない。ちっとも似てはいないのに、オリヴィアにレチュアを重ねてしまうのは、どちらにも失礼な行為である。
宵闇のミジャの町は、二人を受け入れるわけでも追い出すでもなくただ静かに存在した。二人を隠すように内包する。
「野宿でも構いません、私はリアスさんに助けていただきましたっ、だから……よほどの理由がない限り、側にいさせて下さい」
オリヴィアは深々とお辞儀をして、リアスの返事を待つ。
そう綺麗で派手な顔立ちではないが、凜とした清潔感のある顔つきで、優しさと慈愛に満ちあふれている。
オリヴィアは真剣で、リアスは少々自棄だった。腫れた頬が痛くて、膿んだ足が歩くたびに焼けるように熱かった。
今は、取り上げられた短剣の事や、全部オリヴィアに渡すつもりだったクライストからの路銀の事、それからまだやっぱり頭の隅でレチュアの事を考えていた。
「じゃあ明日考えようね。も……本当、俺……」
根負けして、リアスは大きく溜め息をついた。しっかり回復した後でオリヴィアの事は考えて構わない。
「わしはオリヴィアについていくぞい、だがリアス、お主やはりその身体で野宿は辛いじゃろい」
「や、でも本当宿はダメだよ、だからオリヴィアだけは泊まってほしいんだけどなぁー……言い出したら聞かないタイプの娘みたいだしなぁ」
「聞き分けは良い方です、今回はいろいろあるから考えてるんですよ?」
「やべ、本当考えると頭痛いっす」
「……神殿には、私はもう帰れません。ですが、教会になら……」
名案を思い付いた割にはやや不安気な顔でオリヴィア。
「教会はわしは嫌いだから後々合流するかお嬢ちゃん」
下限は正負でいえば負の力に富む。正だけで作られた教会には入れない。
クライストの手配した馬車が行ってしまってから随分長い時間考えていたのだろう、空が紫がかり、朝の訪れを知らせた。朝になると光がやっかいだ。
「教会でもダメですか?」
「……ん、分かった。教会に行こう。……教会なんて十年ぶりだな」
「まあ、神殿巫女としては一生言えないセリフですね」
リアスの笑った顔に、思わずオリヴィアもほっと笑顔になる。
リアスの真剣な顔は鋭い刃のようで、彼が笑った顔は、常春の国リージュの、花が咲き誇る庭のようだった。
「教会でしたら私がご案内出来ます、ですが私が神殿巫女だという事はどうぞ内密に」
「さっきの話だけど、なんでオリヴィアは神殿に帰れないんだ?」
本当は立っているのも辛いのだが、リアスは最後に一つだけ、と質問する。
オリヴィアは苦笑した。まともな自己紹介も、監獄にいれられた経緯も話し合わなかったのは、オリヴィア自身のリアスへの配慮と、そして何よりリアス自身のオリヴィアへの配慮なのだ。お互いが、何をしでかしたか知らないが、牢獄に入る事になった理由。
ぼんやりと分かってはいる。どの監獄でもない王宮の牢屋に入れられた理由は一つ。
レチュア、絡みである。
★
さて、話は少しさかのぼる。監獄からの脱獄を手伝いに来たクライストに、オリヴィアがレチュアに会ったと話した日の事だ。
監獄には似つかわしいが、事実囚人扱いを受けた少女――神殿巫女がまさか謀反で追い回されていたレチュアに会う等。クライストは誰が見ても明白なほど顔を驚きの形に歪めた。
逃走幇助をした、とオリヴィアは言って、話を繋げて良いものか一瞬考える。
「レチュア様の髪は太陽の光のような美しい金色だと聞いておりましたが、その時は私と同じくらいの亜麻色の髪になっておいででした」
「色粉か何かで染めたんだろう」
「……レチュア様に報償金がかけられ、本格的にレダ様が彼女を追い始めたのは最近なんです」
だからずっと金髪のままだったレチュアが、髪を染めなくてはならなくなったのだ。だが、なぜ最初からレチュアを国家反逆で追い回さなかったのかクライストには理解出来ない。レダの温情だと思った事もあったが、彼に温情が残っていたとは考えにくい。
「どなたかと結婚される、だから水神シロン様の神殿にお参りに行くのだとおっしゃっていて……レチュア様より少し年上の方でした」
「結婚? え、それは嘘だろ」
「あ、はい。多分嘘だったのだと思います。神殿地区は警備が厳しいので、何かお考えがあったのかと」
「リュークと結婚だけは絶対許さねぇからな」
「え? あ、はあ……」
リアスが初めてレチュアに会った時も、レチュアは神殿に用事があった。
「そして、……強盗が神殿地区に入った際に人質に取られました私を、レチュア様が助けてくださったのです」
オリヴィアより赤い瞳、意思のある力強く凛とした面立ち、堂々とした態度。その時オリヴィアはレチュアの中に天命を見た。彼女が王たるべきを背負い生まれた方だと感じ入ったわけである。
レチュアが神殿にお参りに来た農民の妻だった時と、神殿地区を荒らす事をよかれとしなかった支配者の顔は、まるで同じ人には思えなかった。
「神殿地区は警羅に囲まれていて、レチュア様はお逃げになる事が難しくなりました。幸い、その時の私は瞳が赤みなのと髪が似ていた事もあって、入れ替われると踏んだんです」
★
「女性って本当強いよね」
「え?」
オリヴィアの話を思い出して、リアスは遠い目をして笑った。
レチュアもオリヴィアも強い。男が女より優れると豪語する者は、慎ましやかに従順な女性が、何かがあった時に状況を切り開く事はさして難しくない。
「俺はね、女の子は可愛い可愛いって細くて脆くて弱くて、守ってやらないといけないなって本気で思ってたんだ。でもほら、オリヴィアは馬に乗れるし」
「リアスさん?」
頭が痛いためか、リアスは少々支離滅裂な会話しかできなくなっていた。
「神殿巫女の教えは、いかなる事があろうと人を殺めず、嘘をつかず、姦淫する事なく、四神をお助けし、世界が平和であるよう祈る事です。ですが私は神殿の教えに背きました、だから神殿には帰れないのです」
でも、とオリヴィアは付け加えた。
「私はリアスさんより背が低く、体力も劣るかもしれません。でも、私が足手まといであり、使えないと判断されたら教えて下さい、努力いたします」
白々と空が明らむ。まだらに浮かんだ雲が、東の空より濃淡を重ね、色合いを闇から光へと変えていく。
朝はただ毎日同じように現れ、恩恵と寵愛、希望を人々に与えた。
鐘が一度目に鳴れば、それは起床時刻だ。冬場のそれは空がまだほの暗い時刻より鳴る。ちょうど二度目の鐘が鳴った際に空は明るんだ。
冬至が近い。
教会は二度目の鐘が鳴れば開く。鐘撞きの小姓が二度目と三度目の間に教会の広間に集まり、礼拝を済ませ、喜捨を受ける。(喜捨の時期ではない際には教会が振る舞うスープを食べる)
二度目の鐘が鳴り響くと同時に、リアスとオリヴィアはミジャの町の外れにある教会についた。
朝の礼拝に訪れる人々を避け、二人は裏手から教会に入った。
「どうなされましたか」
裏手にいたのは若い見習い神父だった。傷だらけのリアスを見て慌てる。
「これはこれは」
「夜盗に襲われました、手を貸していただきたいのです」
オリヴィアは内心でまた嘘を重ねた自身に泣きながら神に謝る。だが、命の恩人――貞操の危機から救ったのは神ではない、リアスである。だがオリヴィアは神殿巫女とはもう名乗れない、名乗る資格がない事をそう辛いとは思っていなかった。
リアスが側にいて安心しているのは、オリヴィアが完全にリアスを絶対視しているから、かもしれない。信用ではなく信頼している。出来るならリアスにも信頼してもらいたい、と彼女は健気に献身する。
「これは酷い、部屋に運びます、宿舎はこちらです」
剃髪した、穏やかな瞳の見習いは、彼らが怪しいとは全く考えなかったのだろう、すぐに二人を寝台のある宿舎へ案内する。
寝台で眠るのが実に何日ぶりになるのか、リアスはそれを両の指で数える事が出来なかった。貞節の修行僧が寝る寝台は、堅く、リアスがなだれこめばギシリ、ギシリとへこむような音がした。
だが、これほどありがたいと思う事はない。リアスは今に泣き出すに違いない自身の身体を宥めるように、うとうとと眠りにつきかけた。眠気はピークで、心ではなく身体が一直線に眠りを欲しがっていた。
だが、疲れ果てていても、リアスはオリヴィアを守らなくてはならない、とギリギリのところで静かにこう言った。
「部屋を貸してくれて感謝します。……彼女は処女です。どうか追い出さないでやって下さい」
痛切なセリフだったに違いない。神殿巫女と違って、教会に女性は入れない。礼拝の間とは違う生活圏に入ってはならないという暗黙の了解があるのだ。見たところミジャにはシスター用の宿舎がない。オリヴィアをすぐにでも汚れた存在だ、と彼が追い出す事を恐れてリアスは懇願するように言った。
女性に不慣れで、扱いすらまともに出来ないだろう若い見習いは、慌てて頷いた。
「もちろんですよ、奥様か妹様かは存じませんが、困った方を捨て置けません、この部屋を出ないでいただけるなら幸いと想いますが、いかがですか?」
オリヴィアは複雑な笑顔のまま何度か頷いた。
「分かりました、ご配慮痛み入ります。……夫をぜひお願いします」
処女であると言った後に、夫婦だと言う矛盾は厳しかったが、オリヴィアはその時どうしてもそう名乗りたかった。リアスの言葉は、オリヴィアを守っているように聞こえて、でもその言葉こそが、オリヴィアに対する信頼に感じたのだ。
妹、という劣等な立場にいる事だけは絶対に嫌だった。かろうじて妻の方が対等になれるかもしれない、そう考えたのである。
だが今となっては失敗したかと思わないでもない。
「規則はありませんが、お名前だけ伺って構いませんか?」
寝入ったリアスを横目に、見習いはオリヴィアに差し支えない程度やんわり聞いた。女と話す事も禁止されている禁欲的な教会で、同様に見習いも気後れしている感がある。
「彼がリアス、私がオリヴィアです」
「リアス殿にオリヴィア殿、ですね。私の名前はドレンと申します。神父見習いです」
人の良い笑顔で、答える。名を名乗り、教え合うだけでその場の空気が柔らかくなるのだから人間は不思議だ。
「では私は朝の勤めがあるので、これで。朝食にはいましばらく時間がかかりますがよろしいですか?」
「朝食まで用意していただくなんて、お金なら少しはあります。本当に何から何まで申し訳ありません。……何か手伝える事はございませんか?」
「いいえ、奥様も顔色が良くありませんね、狭い部屋に押し込むようですみませんが、そちらの寝台に横になっていて下さい」
見習い神父ドレンは、やんわりともう一度笑んで部屋を出る。
二人きりになった部屋で、オリヴィアはほっと胸を撫で下ろした。昨晩馬車の中にいる時はいつリアスがどうにかなってしまわないかと気が気でなかった。やっと落ち着いて座ると、思っていた以上に気が抜けた。
質素な部屋には寝台が二つ、椅子と、小さな机が一脚ずつ置いてあるだけだった。南向きの光に恵まれた部屋の壁紙は、神話時代の文様が描かれている。ベージュ地に茶の文様は、恭しく優しい。
リアスの枕元に椅子を置き、座って、オリヴィアはリアスの額に触れた。起こすかもしれないとは思ったが彼は深い深い眠りについている。
血がこびりついた頬を、机の上に用意された濡れたタオルで拭い、冷えないように布団を肩までかける。
「……」
安らかな寝顔とは言い難いが、リアスが眠ってくれるのがとにかく嬉しかった。外傷はそう深くない。オリヴィアが微弱なものではあるが、治癒を施したからだ。だが安心は出来ない。
オリヴィアは椅子に座ったままぼんやりと息をつく。そしてリアスと同じくらい疲れ果てた彼女は眠りに落ちた。――もちろんその時の彼女は、これから訪れる運命に飲み込まれる事など、微塵も考えていなかった。




