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祈りの空  作者: 桜野日向
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第五十四話 前線へ 二


 朝の光に柔らかな霧が混じる。夜露に濡れた植物には、温度が急激に下がる朝に霜がはりついていた。

 身体と空気が面する部分が湿っぽい。小雨が降っているのかと感じたが、そうではない。


 レチュアは身震いをして起き上がる。体中節々が痛みを訴え、なかなか真っ直ぐ背筋を伸ばせない。すっかり冷えきっていないのは、レチュアの意識が眠りの中にいた時間が短いためだ。だが、真冬に意識を失い寝てしまう事こそ恐ろしい事はない。

 慌てて焚火を見るが、それは夜露に濡れても火を絶やさなかった。――ゲルダが起きている。最初に寝ていた場所より少々距離が近い。火番をするために移動させたならさすがに申し訳なかった。


『うそっ私うさん臭い彼放って寝ていたの!』


 げ、とあからさまに嫌な顔。レチュアの表情を見て、ゲルダは笑う。


「少し冷えるけど良い朝なのに、何ですその顔」

「私ったら火の番せずに寝てしまってごめんなさい」

「いいえ、ただ……私もあの後寝ていたようで……」


 え?

 とレチュアは辺りを見回して息を飲む。そういえば。


「ケルベロス、は……」

「火が絶えていなかったから、きっとつい今まではいたんだろうけど、どこかに用事があったのかな」


 不遜なドールの姿が見えない。


「お手洗いかな」


 あからさまに心配しているレチュアに遠慮してか、ゲルダの言い方はやや控え気味だった。が、ちょっとそこまで、ふらりとケルベロスがどこかに行くのは考えにくい。なぜなら主人の命令が縛るレチュアの存在があるからだ。


『リュークに何かあった、って事は考えられるかしら?』


 態度も口も主人に似て悪いが、リューク思いでレチュアにも優しくしてくれているドールである。

 レチュアは急に不安になっていてもたってもいられず立ち上がった。


「ゲルダさんには大変お世話になりました、……私ケルベロスを探しに行きますので、これで」


 一晩火の番をさせといてどうだと思わせる態度だが、レチュアには優先順位がある。――彼を怪しい怪しいとずっと思ってはいたが、現にレチュアは何の不備もなく生きている。だがケルベロスはどうしたのか。

 まだ完璧に信用したわけではない。一晩火を囲んだだけの男だが、ケルベロスに何かあったのかもしれないのに一緒にはいられない。


「貴女にはお世話になりました。火に当たらせてくださってありがとう。……けど……」


 ゲルダはふと微笑した。


「まさかただの暖欲しさに君は愛をささやくような人だったの?」

「愛をささやく?」

「……それとも間違えたのは私か。寝ぼけていましたか?」

「何の、事を……」


 レチュアははっと目を見開いて目線を自身に落とした。胸元の釦がいつもよりたった一つ空いていただけである。

それ以外何も変わりはないのに、たったそれだけで彼女は愕然となった。


「身体は、きつくありませんか。本当に、……寝ぼけていたんですか……」


 労りと、愛情すら感じる。

 心配気に細められた、ゲルダの野性味ある美しい漆黒の瞳は柔らかい。だが、レチュアは首を振るしかない。


「冗談はやめて」

「ちょっとへこみますね。貴女が誘ったから、私は応えた。……炊かれた火に映る貴女はとても美しかったんです」


 レチュアは蒼白した。

 まさか、と思ったのが半分、だが残りの半分で身体の気怠さに揺れてしまった。自分の身体の事だ、自分で分かる。


「行きずりの男に肌を許すような方には見えない。誰かに、抱かれたような夢を見ていたんですか」


 ゲルダは苦笑して、レチュアをあまり刺激しないようにその場に立ち上がった。


『嘘、だって……』


 誰かに抱かれた夢を? 

 そんな、夢――


「……リューク……」


 レチュアは静かに呟いて、呆然と全身の力を抜いた。胸の合わせをかき抱いて、震える。


「レチュアさん」

「貴方ケルベロスをどこへやったの、彼がいるのに私が貴方に抱かれているはずがない!」

「いましたよ、健気に火の番をしていました」

「……っ例え私が寝ぼけて貴方を誰かと間違えていたとしても、ケルベロスが私を止めないわけがない」

「ではこう言ったら貴女は信用しますか? ケルベロスは主人に危険がせまっていたから私に貴女を預けた」

「……」


 本当に?

 レチュアの怒る寸前の表情にゲルダはもう一言つけたす。


「では。私が貴女を抱きたいがためにケルベロスを殺した、という理由なら?」


 彼は笑った。

 漆黒の髪が揺れて漆黒の瞳が細められる。整いすぎて恐怖すら伺える彼の笑顔はレチュアを凍り付かせる。


「レチュアさん、君はケルベロスが死んだ事と私に抱かれた事のどちらを嘘と思いたいんですか?」


 レチュアが抵抗する暇は微塵も与えられなかった。ハッと顔を上げた時には、両腕と両足が鉛のように重くなって、うずまるように土に縛られた。それが以前シラにかけられた覇術と呼ばれる言霊だと分かったがあまりに遅い。

 覇術は瞳さえ結ばなければかからない。だが、そんな事を思い出せる余裕はレチュアになかった。


「生意気だと聞いていたが、よほどだな」


 ゲルダはおかしくておかしくてたまらないとでもいうかのように腹を抱えて笑った。

 にっこり、ではない。にやり、だ。綺麗な顔をほほ笑みの形に歪め、べろりと舌を出す。


「リュークには抱いてもらわなかったのか、とんだアバズレだと思ってたんだ。すみません」


 極上の甘い囁き。

 極悪な顔。

 ゲルダがレチュアの前に座り、彼女の頬を引っ張った。幼子をあやすように冗談で笑う。

 身体を動かせないレチュアは精一杯睨み付ける事しか出来ない。


「太ももの内側におみやげをあげました、後で見て下さい」

「アンタ一体誰なの」

「しがない国盗りです」

「……!」


 レチュアは思いきり頭を振った。まさかレチュアが頭突きをするとは思わなかっただろうが、ゲルダはそれをひょいとよけて、レチュアの前髪をぐいと掴んだ。


「放せ、痛い」

「お前本当に姫か」


 ゲルダに位があるなら一番上だ。彼が誰かの下で働くなんて考えられない。しがない国盗り、その頂点に違いない。――だが、レダにその玉座を明け渡した彼の目的は分からない。


「昨日みたいにしなだれて甘く囁けよ、俺のために」

「お前の話など信用しない、ケルベロスをどこへやった!」


 脳裏で推理をしながら、激昂を隠せない。二つの事が同時にできなくてレチュアはどうしても感情的になってしまう。


「マーナ・ベルナが選んだ身体を犯すのは気持ち良かった。お前の中に神はいるか?」

「……!」


 レチュアが契約した創世神を、この男は知っている。


「暇潰しになった、楽しかったですよ。……純潔を奪った男の名前をリュークにも教えてやると良い。俺はゲルダじゃない」

「――」


「ソレア」


 男――ソレアは笑った。先ほどまでの冷酷な微笑とは違う笑い方である。名を名乗る態度は堂々としていて、嫌でもレチュアの中に入り込む。


「そ、レア……?」


 直後、レチュアは体の奥に火がついたかのような錯覚を覚えた。中心が焦げるように熱く、その熱がじわじわと広がり、身体中を焼いている。


「あ……っ……!」


 目を見開いて、口を開く。顎を冷や汗が伝い降り、目尻に涙がたまる。

 レチュアは身体を前に倒す。圧倒的な力に支配されて、自分自身の意思で行動が出来ない。


「炙り出してやろうか、マーナ・ベルナ」


 かすかに耳がソレアの声を聞き取る。マーナ・ベルナ?


「ぐ、ああああっっ」


 心臓を握られたような衝撃に、レチュアは弓なりになって反る。びくんびくんと痙攣して、身体が自身のものではないかのように動いた。

 中を抉られるようだ。

 熱くて。


「マーナ・ベルナ、我が同胞(はらから)



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