第五十三話 前線へ
「……っ」
呆然としていた初めてのキスは、驚きと後悔で考える暇がなかった。
二度目のキスは、したかった人と、されたくなかった場所で。
頭がくらくらする。ドキドキする。顔が赤いから、見られたくないのに、恥ずかしくて目を開けていられない。リュークが見ているかどうかも分からない。
レチュアは突き放そうと思って、リュークの胸の辺りを押す。全く力が入らなくて、だらりと手が力なく落ちる。
「……ん」
息が続かなくなり、レチュアは苦しそうに吐息を漏らす。
本気じゃないのだ。レチュアにとっての、キスがどういうものなのかを分かっていない。
レチュアを丸ごともらいうけるためにするキスなんかじゃない。これは……じゃあ、何?
「は、離して……」
レチュアはぐいと力を入れてリュークの胸を押した。顔が真っ赤でもこの際仕方ない。自分にキスすることの不毛さだけを教えたい。したって仕方ない。なぜなら、リュークの冗談でした口付けで自分がリュークをもっと好きになる事はないのだから。
「……っこんな事しないで」
「……」
ただ唇の上に重なったキスは、リュークが興味本位でしたようにしか感じられなかった。だってぜんぜん本気じゃあない。
リュークは小首を傾げてもう一度レチュアの唇に自分のそれを押しつける。
レチュアは慌てて口を閉じるが、深く吸われ、体がびくりと跳ねる。
うっすらと開いた互いの唇の間から舌が軽くくっつき、離れて、絡まる。
熱くて、泣きそうになった。
「リュー……クっ」
苦しくて胸を押す。
王族にキスをしたのが爵位もない平民なら死刑だ。不敬罪はリージュでは重い。だが、今のレチュアは王族ではない。
だから、だろうか。
今なら出来るんだろうか、という軽い気持ちで口付けをしてる?
レチュアは気持ちを否定されて、自分も必死に押し殺したのに、こんな深いキスをしている矛盾が悲しくなった。
リュークにとっては何の意味もないはずだ。だって彼はレチュアを引き離した。
小さく線を引いて、これ以上はダメだと暗に言った。
なのに。
こんなコトしてる。
完全に否定出来ないまま、合わせの前のリボンを解かれて、羞恥に声が出る。走り出したい程恥ずかしくて、どうしたら良いのか考えられないのに、レチュアは全く抵抗しなかった。
胸の膨らみにリュークの手が触れて、レチュアは思わず瞬時に一歩下がる。逃げないように、リュークはレチュアの腰に腕を回してより深く唇を吸う。
求められてる?
私を好き?
レチュアが考えている間にも、リュークの筋張った手が衣服をゆるゆる脱がすのに、何も出来ないままだ。
唇から離れたリュークの口が、今度はレチュアの首筋に触れる。
「や、リューク……っ」
リュークの髪が肩と首筋にかかってくすぐったくなると同時に、つんとした痛みを感じる。皮膚がわずかに引っ張られたような痛みは、甘い刺激にかき消されて、霧散する。
リュークが唇を離すと、レチュアは呆然としすぎていて、二の句がつげなかった。
それを良い事にリュークはいつもの――いつもより酷い嘲笑で、こう言ったのだ。
「ケルベロスを貸すから、三日で帰れ。隙だらけなお嬢さん、せいぜい男に気をつけるんだな」
リュークは微笑。その笑顔は普段の嘲笑よりも数倍にたちが悪くて、レチュアは今度こそ頭にきた。人を何だと思っているのだ、この男は。
あ。
やばい。
涙が出そうだった。
キスを、したかったのはリュークだから。求めてくれて愛してくれるのなら、して良かった。それなのに。
「もういい」 レチュアは静かに呟いた。
「もういいよ、馬鹿!」
なにせ近い年代の子供たちと喧嘩というものをした事がない。レチュアのソレは子供らしい言葉でしか伝えられなかった。憤りを素直にぶつける際に、言葉が出ない。
レチュアはリュークを押して、部屋を出る。鍵がかかっていたので、もたもたしたが、リュークは自分を引きとめようともしなかった。
嫌いになってやる。
大嫌いだったのよ、最初から。
好きだなんて、なぜ思ったのかしら。 嫌いに……
嫌いになって……
どうしていくら意地悪をされても好きなのだろう。最低ではないが、酷い事を平気でするのに、どうして自分はリュークでないと駄目なのだろう。
指先で唇に触れる。
嫌じゃなかった、ちっとも。してほしかった。もっと、好きだと伝えてほしかった。でもこれは、リュークの気持ちではない。
「ケロ! 行くわよっ」
「……略すると痛い目にあうぞ」
宿屋を飛び出して、レチュアはケルベロスを召喚する。
口の悪い主人を思い出す、三つ首のドールは、レチュアに相反して、なかなか上機嫌だった。リュークがレチュアに貸すといったケルベロスの命令を解いていないだけマシだ。それとも、レチュアを引き止めるつもりも、足止めするつもりもないのかとがっかりする。
「どこへ行く?」
「前線へ……」
行き場がない気持ちが、心を暗澹とさせる。 ケルベロスにまたがり、レチュアは不機嫌そうな顔でうつむいた。
★
野宿が得意になる瞬間を知ったのは、石をすりあわせて火をつけられた時だ。――と思う。
一日ケルベロスに乗って、レチュア達は国境までを目と鼻に構える森に駐留した。完全に付近の宿屋は物資や食料を運ぶ人や兵士でとてもではないが泊まれなかった。
森の中で適当な石を見つけ、レチュアはそれで火を作る。いざとなったらオージェに頼むつもりだったが、なるべく自力でやりたい。魔法などなくてもやれる事はたくさんある。
「ケロちゃんこっち来なよ」
同じ火を囲んでいるが、三つ首の犬はよそよそしく遠い場所にいる。
「断る」
そしてそっけない。
しんと静まりかえった夜が、少し怖い気がする。
冷え冷えとした温度を火が暖めるが、最近降った雨のためか良い薪がなかったので炎は大きくない。
身一つで来たわけではないが、野宿するとは思わなかった。宿屋に泊まるか、もしくは三日三晩走る予定だったからだ。
「寒いっすね」
レチュアは手をすりあわせて息を吹き掛ける。もちろんレチュアの声にケルベロスは答えない。
冬が本格的に始まった。
まだ雪は降らないが、しんしんと指の先までひんやりと冷えている。
「ねぇねぇケルベロスさん、リュークと契約した時ケロさんいかがでした?」
「……」
「私はねリュークを初めて見た時は、かっこいいと思ったよ!」
「……」
寒いので静かに肩をさする。
「でも驚いたわ。人間は顔じゃないってしっかり胸に刻んだわね、あれは犯罪級よ」
「……確かに」
今まで話を聞くだけだったケルベロスも小さく溜め息をはき、レチュアに同意した。
「一言目は伏せろと言われた」
「伏せろ!?」
「怒るより先に唖然とした」
それはね、さすがにね、とレチュアは笑った。
自信についてくる実力が、確実に人に畏怖を抱かせる。
「種族がパッと見で分かるのとそうではないのがいる。例えば私は三つ首のある犬で、誰が見てもすぐに種族が分かるだろう」
「うん」
「だからまさかケルベロスに伏せろと言うなんて愚かな男だと思ったものだ」
ドール契約をする際に、自身の身の程を知らずに、力が強い魔獣に契約を申し込むなど自殺行為だ。
「ケロでも認めるくらいスゴイのねえ……」
「略すな、痛い目にあいたいか? ……主人は才能があったのだろうと推測は出来る。だが、恐らく努力をしたのは……」
「アーシアさんのため」
レチュアは思わずふふっと笑う。レチュアも負けないが、リュークも妹を大事に思っているはずだ。
「アーシアは可哀相だ。疲労がピークに達している。……しばらくは起き上がれないかもしれない」
「それも魔力の負荷があったの?」
ケルベロスは静かに首を振り、言葉を選んで続ける。
「リュークはアーシアを、アーシアはリュークを守ろうとして、それが食い違った兄妹だ。……だから……精神的にぎりぎりだったんだろうな」
「レダの事を思い出したの」
「人間のような矮小な存在の話を聞かせるつもりか」
ケルベロスは言葉こそ嫌そうだったが、レチュアに促すように首を動かした。リュークはただの人間だと思ってないに違いない。
「私って甘ちゃんでね、父上と母上はいつだって一人じめにしてた」
小さくなりかけた火に、薪をくべ、手で小さく風を送り、しばらく眺める。
冬の気温が桂華側に行くほど身にしみるようだ。
「妹はしっかりしていて私を甘やかせてくれていたんじゃないかしら」
吐く息が白い。
「そんな私を決してうらやましそうに、ではないけれど、隅で見ていたレダを覚えてる。彼は行事には一応参加するのよ、だけど列席は端っこ」
鮮明に思い出せるのは、自分が少し大人になったからだ。少し前までは、何一つとしてまともに考える事を厭うた。
まだ子供でいたかったからかもしれない。
そんなレチュアを、始めから知っているケルベロスは、顔つきが変わったな、と感じ入った。
「うらやましそう、なんて優位に立って見ていた私はクズね。恥ずかしいくらい消したい過去よ」
心底嫌そうな顔をして、
「あー嫌だ」
レチュアはもう一言、そして溜め息を吐いた。
「やだなーもう十八になるのにー」
レチュアは春生まれだ。
この厳しい冬を終えたら成人である。
レダに好かれようとしたか、お人好し、優位に立ったつもりでいたレチュアは一度一緒に遊ぼう、とレダを誘った事がある。
あの時のレダの顔は、こんなに鮮明なのに、なぜ今まで忘れていたのだろう。
「……うー寒いぜ」
ケルベロスは何と言うでもなく、伏せている。
リュークは今何しているだろう。アーシアはもっと元気になっただろうか。
唇を押さえて、レチュアはうつむく。まだ何か感触が残っているように感じるのが気恥ずかしい。
『あんなのリュークにとって意味なんかない』
ふるふると首を振って、雑念を頭の端に追いやる。
『私を好きなわけじゃない』
本当は。
本当はちょっと期待した。
女王たるレチュアをもらいうける責任を持って、彼はレチュアにキスしたのだと信じたかったのだ。
恋人になれるはずがなかったのに、浅はかにも恋をしてしまったのはレチュアの方。
『前線に行きたい、なんてあの時言わない方が良かったのかな』
でも、とてもじゃないがまともに顔を見る事すら出来なかったに違いない。 レチュアは、自分があまり好きじゃなくなってくるのが分かった。
『リューク、リアス。……アーシア、レダ、それから……』
「やぁ良かった、人がいるなんてこれは幸いだ」
レチュアも、当然ケルベロスもはじかれたように顔をあげた。
そう深くない森の中だが、まさか人間が入ってくるとは考えにくかった。
「あ……」
男だ。
背が高い。
肩にかかる手前、男性にしては少し長めの黒髪は、闇夜に溶ける極上の糸のようだ。
整った顔立ちの、左側に包帯を巻いている。やや恐ろし気にも見えるいでだちも、雰囲気が柔らかいので、そう感じない。
だが、夜も更けたのに、こんな森にいる人間は山賊か、わけありの人間だ。用心するにこした事はない。
「馬がこの先で足を滑らせてどうにも動かなくなってね、煙が見えたから山小屋か何かがあるのかと思って来てみたんだ。僕はついてるらしい」
男は目礼して、冷えきった手を控え目に差し出す。
レチュアは距離をあらかじめ取って立上がり、場所を勧めるふりをして様子を伺う。
ケルベロスは驚いていた。レチュアもその驚きにまだひたっている。――まるで彼には足音や気配が存在していないようだった。全く登場に気付けなかった。
「良かったら一晩火にあたらせてくれないか。あぁ、僕の名前はゲルダという」
「えと、アーシア……です」
名前を統一しようかしら。レチュアは微妙な顔をしてから、ゲルダと名乗った男を見やる。
歳の頃が二十代後半低度だが、表情が大人びている。
「アーシアさんか、そちらは貴女のドールですか?」
「ええ」
話してみると分かるが、言葉になまりがない。リージュの桂華側は、なまりがつよい公用語を話すが、彼にはそのなまりが少しもない。上流階級のそれだ。 国境付近の、やや辺境であるここいらの地域で上流階級なら領主か領主の息子に違いない。――豪商とも考えられたが、洗練された態度は成金には見えない。
「ケルベロスだ」
「ええ」
「ケルベロスと契約するなんて君はすごい精神力の持ち主なんでしょうね」
探るような言い方ではなかった。だが、なんだかこの男は、レチュアの素姓を見抜いているように感じられた。
「悪いがどこの誰だか分からない奴と主人を共寝させるわけにはいかない」
ケルベロスは露骨に嫌な顔をしたが、レチュアは慌てて首を振った。
「馬鹿たれっ困った時はお互い様でしょっ、あの、すみません」
「いやいや、確かに私は素姓の知れない怪しい男にしか見えないだろうから、彼の言い分は正しいよ」
ゲルダはやんわりと笑み、レチュアとケルベロスが囲む火に目線をやる。
「では私が少しでもアーシア殿によからぬ行為をはたらいたら、君、私を食い殺して構わない。一晩だけで構わないんだ」
軽い言霊が、契約の縛りとなってゲルダとケルベロスの間に生まれる。
一瞬訝しげにゲルダを眺めたが、ケルベロスはふいと首をそらした。彼らの間に生まれた契約は、レチュアに何かあった時に即座に履行され、三つのケルベロスの首が何のためらいもなくゲルダの身体を食らうだろう。
「ごめんなさい、過保護な犬で」
「おい」
「いや、素敵なドールだ」
レチュアはちらりとゲルダを見る。柔らかな物腰と、淡い炎に相俟って、ゲルダは浮き世離れしたように綺麗に見える。線が細いわけではないのに、どこか儚げだ。
「あの、じゃあ……一晩、よろしくお願いしますね」
レチュアは男性を綺麗と見とれていた自分自身に慌てて首を振り、一緒に火を囲んだ。




