第五十二話 完全に、すれ違えば楽なのに
普段よりも難しい顔をしているのは、リュークにとって、彼女を慰めるのは大変難しい行為だったからかもしれない。言葉が拙いのは、少しでもレチュアが分かってくれるように言葉を選んでいるからだ。
「元から愛想なんてないしな。……でもあんたについていってやることを決めたのは俺だ。……離れたりしない。一緒にいてやる」
「やめて」
レチュアの口元がゆがむ。
「お願い、甘やかさないで」
「……甘えるのは得意だろ、お姫様」
甘やかさないで、だって。
だってそんなに強くない。
「リュークが死んだらどうしよーっ! リア、リアスが死んだら私……っ」
レチュアはとうとうはちきれるように泣き出した。
顔がぐっと歪むのがわかる。本当に可愛くない顔をしているんだろうな、とレチュアが考えたのは、ずいぶん後になってからだ。今はただぼたぼたと溢れる涙を見ているだけだった。
「蛸に背中打たれた時も、クレーダに横腹抉られた時も、リリムに肩食われた時も痛かったのよ……っそんな、そんな痛いことされてたら、嫌だよっリアスは……リアスは……っリュークにも、こんな思いをさせたくない」
流れる涙が止まらない。
自分は泣き虫だったろうか?
リュークはどうして時々優しいのかが分からない。たまに優しくされたら、気丈に振舞うしかないレチュアはどうしてもころっといってしまう。懐くように甘えてしまうし、依存してしまう。弱く、なってしまう。
「死なないでよ、皆死んでほしくないよーっ」
わーんと、子供に戻ったように泣き出したレチュアにおろおろするでもなく、リュークは静かにレチュアを眺めていた。棒立ちで、レチュアに触れることは無い。慰めるような行為もない。ただ、リュークにしては穏やかな顔で、レチュアを見守っている。
「私の国なの、私の国でチェスを始めるなんて信じられない」
レダの中で、戦争はチェスと一緒なのだ。ゲームのように駒を動かして面白がっている、子供。分かるのだ。レチュアだって。
「誰もいないの」
「……」
「私には誰もいなくなったのよ……っリアスもリュークもいなくなったら……っ」
不安は弱さだ。大事な者がいる事も弱さだ。
それをレチュアは知っている。
「いなくならない」
「だって、リュークすぐ乗っ取られるしっ」
「お前が安心するように強くなってやる」
「でも、約束なんてなくなるわよ、状況が変わったら」
「……そうして諦めるのか」
諦める?
「でも……」
レチュアは目の前にあるリュークの手を取る。
筋張って、大きな手のひらをすっぽりと包むように握る。合わせてみれば、どれだけ自分の手が小さいかがわかった。
「固執してしまったら、離れられない」
「……」
リュークの表情が少し歪んだ。ふと、考え付いた事が脳裏によぎって、それを言葉にするか一瞬迷ったのだろう。
泣いているレチュアの耳元まで屈んでやる。
「――お前、俺が好きなのか?」
嘲笑を含んで、にやりと笑ったのは冗談だ。リュークが場を和ませようとした冗談。
「!」
ところがレチュアは目を見開いて顔を真っ赤にさせた。目を見開いて、口はぽかんと開きっぱなしで。
「……」
リュークの驚いた顔と目が合う。
「そ、そんなわけっ!」
そんなわけないでしょう、と慌てて首を振るつもりだったのに、上手くいかなかった。顔が赤くなり、一瞬何もかもを忘れて口を閉ざす。
リュークはその態度を冗談とは取らなかったし、レチュアも冗談にできなかった。
気づかれる。
ねぇ、何て答えるの?
私が、あなたを……好きだと、言ったら。
「そんなわけないよな。好きになる要素が一体どこにあるんだか」
ところが、リュークはレチュアの手を外し、ふいとそっぽを向いたのだ。
冗談とは取らなかったが、本人が聞いてきた、『自分を好きか』という問いかけそのものを冗談にしたのだ。
それは遠回りに、あるいは率直に、リュークを否定し、そしてレチュアを否定する言動だった。リュークはレチュアを結果的に遠ざけ、そして話を終わらせた。
レチュアはやっと言うべき言葉を探し出して、喉から搾り出すように答える。
「……でも、リューク顔だけは格好いいよ」
そうしてレチュアも強制的にそれを冗談にするしかなかった。
今まで泣いていた瞳に、暗い影がさす。それでも今は笑わなくてはいけない。和ませた場を、和んだままにしなくては……
「顔だけは? それはありがたいことで」
くくっといつもの嘲笑、少しだけいつもとは違う雰囲気。
「……いよ」
「ん? なんだ、疲れたか?」
顔だけじゃないよ。
レチュアは喉元まで出掛かった言葉を引っ込める。
顔だけで好きになるものか。性格は俺様、自己中、無愛想、クール。そのくせ実力があって、努力をしないでひょいひょいと人を飛び越えていける。
自惚れているわけではなくて優しくて。自己満足ではなくて大事にしてくれているのが分かる。
好きです。
貴方が、大好き。
そう言葉には出来なかった。言葉にする前に自身の気持ちを否定されたからだ。
もう好きだと思うのはやめよう。
これは誰の問題でもない。自分の愚かな感情の問題なのだ。ここまで付き合ったリュークに、今度は何を背負わせようと思ったのだろう。
★
「ねぇリューク、叱らないでよ。私……桂華帝国の前線へ行きたいんだけど」
怒らないでよ、と言わなかったのはリュークが怒るとは思っていなかったからだ。 レチュアはすっかりと話を変える。
「何だと……」
素直に聞き入れるはずもなく、リュークの顔にひくりと青筋が入る。
「前線を見たいの。戦争を見てみたいの」
「興味本位か?」
「違うわ。……ううん。そうなのかもしれない。戦争を知らない私が、私たちの世代が、どうやったら戦争はいかに下らないものかを感じ取るためには、見るのが一番よ」
興味本位じゃないか、とリュークは言おうとして、やはりそうではないと思った。
戦争を生で見たものは、壮絶さに息を飲み、軽々しく戦争と口に出していた自身を恥じるだろう。
「……アーシアはどうするんだ」
「アーシアさんには養生が必要でしょ、だから私一人で行きたいの」
「はぁ?」
一晩一睡もせずに布団の上で考えて、出した結果がこれだった。強い意志で申し出た願いがこれだ。まさに開いた口が塞がらないという顔で、リュークはしばらく沈黙した。
「一人で前線に行けると思っているのか」
「うん」
「うん、じゃない。どうせ泣くんだろ?」
意地悪な気持ちでそう言ったが、冗談とはレチュアは取らないことも知っている。
「泣くわよ、怖かったら泣くし悲しかったら泣くわよ。……あんたの前で格好つけても決まらないって知ってるから」
少し複雑そうな冗談交じりの顔をしたが、レチュアは本気だった。止められることは承知の上であったし、何とかしてリュークを説得することも同時に考えている。引き下がらないと心に決めてもいる。
あまり考えるほうではない。熟慮するよりは自身を信じているから行動に移す。ただし今回はよく考えないといけないといけなかった。リュークが責任を負うことならばそれでいいのだ。死んだり、追いかけられたり。でも今度の場合は違う。レチュアがかかっている。――一国もかかっているし、ひいては桂華帝国、あるいは世界がかかっていた。
なんと重い荷物を背負ってしまったのだろうと今更ながら頭が痛い。
「さっと行ってさっと帰ってくるから」
「ふざけるな、お前の名前を言ってみろ」
「……レチュア・フォーガス」
「王家の者が何考えている?」
どうして苛立っているのか分からないまま、リュークは立ち上がってレチュアの手を取った。
「場所が悪い、上に行こう」
廊下で話しているのが悪かった。
廊下の下では依然として、酔っ払いたちが楽しそうに勝利の宴会を繰り広げている。
「ねぇリューク、お願い。見てくるだけよ、絶対に巻き込まれたりしない」
「頼むから聞き分けてくれ」
レチュアは引き下がらなかった。意固地になっているわけではないのだ。
意志が強すぎて、リュークは勝てないと思ってしまった。一般的に軽視している節があるのだろうか、リュークが思うところの女はすぐ泣いてすぐ怒って、理不尽でわがままで、そして時に強い芯を見せる。
波打つ今は明るい茶色に染まったレチュアの髪の一本一本を見やる。色粉は時間がたてば色が戻ってくるが、レチュアも塗りなおしが必要だと思った。
朝の静かな風景の中にある、少しだけぴりりとした空気は、来るべき冬を告げている。枯れ草の葉擦れの音、ひらひらと舞う死んだ葉、色づく命。
「リアスが王都にいるんだぞ、死んでも良いのか」
「死ぬんだったら殺してるわよ、さっさと。……三日で戻れる」
「お前の足でか」
「お願い、何でもするからっ」
なかなか折れないリュークにレチュアは土下座でもしようかと腰を折ろうとした。
ここは宿舎の階段である。そんな事されたらリュークが困る。
「良いから、立ってろ。とりあえず上に行くぞ」
「リュークのわがまま〜自己中〜」
「大声を出すな!」
たまにしおらしいと調子を狂わせられるが、小うるさいと本気で思う時には少しは静かにしていてほしいものだと思った。
リュークはとりあえずレチュアを引っ張って、彼女の部屋に押し込む。
内側から鍵をかけて、奥に追い込んだ。
レチュアの瞳は、先ほど泣いて今もぐずっているからか、赤い。涙がわずかに目じりに残る。それでも泣き出したついさっきのレチュアの顔とは違う。
今いきなり考え付いた事を言っているのではない。ずいぶん前からレチュアはそれを考えていた。
「戦を見てどうするんだ」
「だから見てから考える」
レチュアはふっきれた顔をしていた。リュークに許可を取るのは、形式上に違いない。
だから、リュークがレチュアに却下をしたとしても、跪いてでも彼女は行くだろう。それだけ生半可な気持ちではない。
彼女が持つ女王たる義務は、どこまでだろう。
言わば勝ち目がない戦をしているレチュアは、最終的にこの件から手を引く事が出来る。
レチュアに決定的な捕獲命令は出されておらず、また彼女は今の王からはそう大袈裟に狙われていないはずだ。
シラやクレーダは決して弱くない。が、レチュアを本気で殺そうとしているかが疑問にも感じる。
だから彼女がこの件から手を引いて、市井として暮らす事は可能だ。
「お前は大丈夫なのか」
「うん」
嘘つけ。
「……泣きそうになってる」
リュークは微妙な顔をした。何か声を上手くかけられない。
「優しくしないで」
レチュアは間髪入れずに、きっぱりとリュークとの間に線を引いた。
そう言われて驚いたのはもちろんリュークだ。優しくしたのだろうか。
「お前に?」
「リュークって私には理解出来ない。…………好きじゃないなら、優しくしないで……っ」
「は?」
レチュアは顔を真っ赤にさせてうつむいた。
「どういう事だ?」
話の筋が見えず、彼女が言いたい事が分からない。
「私の事が好きじゃないなら優しくしないでよっ」
「別に嫌いじゃない」
誰が嫌いなやつのためにこんなに面倒な事をやるものか。
「そうじゃなくて……っ」
レチュアが必死なのはなぜだろう。
リュークはぼんやりと彼女の瞳を見やった。
そして例えばという仮定の何かを考えつく。誰かの前でこんな弱々しい態度をするのだろうか、と。
「私は……っ」
さっき、冗談の中にあった彼女はどんな風だったろうか。
好きなのか? と聞いた時に何と言われたかっただろう。好きなのか、と聞いて好きだと答えるつもりだったのだろうか。
いいや。まさかな、とリュークは首を振る。
これだけ、性格が悪いと自分で知っている。まさか。
まさか……?
リュークはふと意地悪な気持ちになった――気がして、レチュアの腕を引く。
朝の空気の中で、日差しがやんわり部屋を明るくするのに、二人の唇が重なる。
「お前意味が分からない」
リュークは微妙な顔をして、またレチュアの唇に――レチュアが呆然として動かない事を良い事に、キスをした。




