第五十一話 世界があたかも崩れるように
アーシア・レスティーナは誰もが賞賛する優等生で、常々兄であるリュークと性格を比べられた。素直さで勝利するも、しょせんは女だ。確かに周囲の人々は好意的な瞳でアーシアを見たが、彼女が男だったら、あるいはリュークの性格がこうだったら。アーシアの賞賛は彼女だけに与えられるものではなく、直接的に彼女に言われる言葉ではなかった。
リューク・レスティーナは破綻の魔術師で、人を嘲り笑うのが得意な青年だが、彼の魔術の元常人が使う魔術は赤子のソレで、決してたちうちができない。無口で無愛想で、なのに美形だから女受けがよい。
二人の兄妹は、長い時間を離れて暮らしていた。
それでも、出会えたら抱き合って喜んだのは。
いくつか見て来た夢が、一瞬にして現実に引き戻される瞬間の、今何をしていたか、という自信への疑問。どこにいたのか、何をしていたのか、思い出せる日もあればちっとも覚えてなくて、喪失するような気怠さが身を襲う、または満ち足りた幸福な気分になる事もある。
「…………」
ゆらりと目を動かせば、窓から差し込む光を瞼が受け止める。
「……長い間、寝ていたのでしょう?」
アーシアは寝台の上で半身を起こし、隣りに座るレチュアに言った。
ううん、そんな事どうでも良いよとレチュアは笑い、リュークに目配せすれば、リュークも頷いた。
「こいつの方が良く寝るし良く倒れる」
加えて嘲笑される。
「うるさいなぁ。肝心なとき起きてりゃいいのよ」
リリムに乗っ取られ、大変迷惑をかけましたリュークに皮肉を返すが、悔しそうな顔ひとつするでもなく、彼はアーシアに意識を向けた。
「顔色がよくないな。大丈夫か」
「うん。…………多くの人に迷惑を……かけました。……私がいれば、周りが迷惑をする」
疲労だけではないのだ。心労と、精神的ストレスが体を蝕んでいる。
アーシアはシラに追われ、そのために家を出た。父母はこの世になく、アーシアには家にいて守るべきものはなかった。財産への執着よりも、アーシアが友とする周りの人、大事にしてくれていた兄に迷惑をかけ続けることを彼女は考えられなかったのだ。
つもりつもった話を続ける二人を傍目に、レチュアは少し席を外す。
もし宿屋の台所を借りれるのならちょうど昼飯時だ、何か作ってあげても良いかもしれない。――食べない場合は考えもある。
宿屋の階段を下りると、酒場になっている下の広間は昼間からにぎやかだった。
夜が賑やかだったのは聞こえていたから知っているが、昼間で繁盛しているのは珍しい。
階段を下りて現れたレチュアに陽気な男が一人声をかけた。すっかり出来上がっていて、側にいるだけできつい酒の臭いがする。
「お嬢さん、高いところはお好きかな?」
「え? 高いところ?」
微笑んで小首を傾げたレチュアを、男はにぃっと笑って担ぎ上げた。
「わっ」
右手一本の力こぶの上に座らせられたレチュアは慌てて男の首にしがみつく。
三十を越した程度の男盛りの男は悪びれもなくもう一度笑った。
「おいおいやめてやれよ、お嬢さんが困ってるじゃないか!」
「お前に力がある事は前から知ってたさ、お前からその筋肉を取ったら一体何が残る!」
わいわいと騒いでいる男たちの中心で、レチュアは目をぱちくりとさせた。
「お嬢さんかわいいな、いくつだ? 俺の家にも娘が一人いるんだが……将来はお嬢さんくらい可愛くなってくれたら最高なんだけどな!」
悪かった悪かった、と言って男はレチュアを下におろす。完全な冗談だったようで、男の態度にレチュアも別に怒ろうとはしなかった。未だにどうして担ぎ上げられたのかわからないが、害のない笑顔にレチュアも笑顔が出る。
「無理だろう、お前の家内は確かに美人だが、お前に似たら最悪だ!」
またどっと場内が沸く。
「今から徴兵があるんだよ」
きょとんとしているレチュアに、別の男が耳打ちをした。
「徴兵?」
「そこの広場で力試しがあるもんだから、日ごろから血気盛んな男たちがいっそう煩くなってるだろ? 血が騒ぐんだとよ」
少し他の人よりも若い、メガネをかけた男だった。
レチュアに果実のジュースの入ったグラスを手渡す。ごめんね、うっとおしい人達だったろう、と青年は笑う。
「ありがとう。……戦争が始まるんでしょう?」
「そうだよ。王様の命令でね、徴兵は全員参加で、そこで腕試しがあるんだけど、強かったものには金一封が出るって話」
もらったジュースを一口飲んで、問い掛ける。
「あなたは参加する気がないみたいね」
「どうして?」
「だってお酒が入ってない」
レチュアはくすくすと肩をすくめた。
酒場にいる男たちは皆陽気で酒が入っている。金一封を狙っているのか、それとも久しぶりの力比べを楽しもうとしているのか、それはなぜか、素面ではそんな事は出来るわけはないと思っているから、だ。
陽気と自棄を履き違えることはない。
どちらも同じ事だと酒を煽ってしまえば、それで良い。
「……酒ね。昼間から飲むことはあんまり奨励しないけれど、今日は仕方ないさ。……戦争なんてリージュは全く経験していないんだ、寄せ集めの兵士じゃあ手も足も出ないんじゃないかな」
「酒場の兵士なんて面白くて良いわ。剣じゃなくて酒樽を持って、弓ではなくて野次をとばすの」
「鉄砲じゃなくて博打を打つ?」
「そうそう、面白そう! 賭博は奨励すべきことじゃあないけど、今回は仕方ない」
青年もレチュアもくすくすと笑った。
リージュは戦争をしない国だ。永世中立だと、誰もが信じていた。温暖な気候で、飢えを知らない。伸びやかな精神を育むため、楽観的な人が多い。
楽観的に物事を考えても、戦争は戦争だ。はじまるのなら人が死ぬ。
「君名前は? リージュの人? ここには一人で? あ。俺の名前はマイっていうんだけど……」
「リージュの人よ。連れがいるの。名前は……」
ふとレチュアは名前を考えた。
今まではアーシアと名乗っていたが、今日は本物のアーシアがいる。
「名前は……」
レチュア・フォーガスです、と答える時の自分の表情はどんなだろう。
顔をあげて名前を言う。毅然とした態度は得意じゃないけれど、背筋を伸ばすことなら難しくない。
名乗りたい。
もし誰かが。おかえりを言ってくれるなら。
「前線が勝利を収めたらしいぞー!!」
酒場に吉報が入ってきたのと同時に、青年――マイの意識がレチュアからそれた。 髭面の陽気そうな男が太った顔を真っ赤にさせて大声で叫ぶ。
「なんですって?」
レチュアは片頬をひきつらせた。
戦争の気配が色濃くなっている中で、リージュの兵数は絶望的だった。軍隊というものが極めて少ない。だから今日も徴兵をやっているはずなのに、前線で勝利を収めたという。
隣国桂華帝国は軍事国家だ。王ではなく軍の一番上が政治をする。精鋭の兵隊は世界で一番強く、潔く堂々としている。桂華帝国は世界で一番広く、人口も比例する。対してリージュはそう広くもなく人が多いわけでもない国だ。負けると踏んでいた。
「オーウ港に集結した桂華帝国の海軍を壊滅させたそうだ」
「信じられない」
レチュアは静かにつぶやいてしばし目を閉ざした。
誰かが聞きとめることはないほど小さな声だ。
「強大な力を持ったドールが現れたと。その力は四神を凌ぐとも劣らないと聞いたぞ」
酒場はあっという間に大騒動になった。皆が皆素直に喜べていない表情を浮かべている。どんな老人も生まれてからこの方戦争というものを体験したことがない。戦争がどういうものかを生で知っている者などいないのだ。
「……?」
神の使い、レクトの下に位置する四神よりも強い神を、レチュアは知らなかった。世界の創造主、マーナ・ベルナは今は力がなく、レチュアの中で眠っている。
では、四神よりも強い神は?「レクト?」
レチュアの手が後ろから引かれた。酒場の意識が戦争の話に集中している、そのすきにレチュアを部屋へ戻らせようとしたのはリュークだった。
「リューク」
「戻るぞ、あまり空気が良くない」
レチュアの立場は依然として良くはならない。本格的な追っ手というものはないが、指名手配を受けている。
「リューク……」
「仕方ない。戦争は勝てると信じている方が負けることもある」
衝撃を受けているレチュアの背に手をやって、リュークは階段へと促した。自国が戦争をして、勝利することが絶望につながる事があるだろうか。それは少なからずあるのだ。
桂華帝国が世界で一番強い国ならば、これにリージュが勝てば、世界で一番強い国がリージュになる。
「リージュの国の精鋭はいくらいる?」
階段を上りながら、ゆっくりとリュークが問い掛ける。一言一言をはっきり話すような言い方だ。レチュアが聞き取りやすいように。同時に落ち着かせるためだ。
だが、ぎしぎしと階段の軋む音すらもわずらわしい雑音に思えてレチュアは俯く。考えることが多くて、整理が追いつかない。
煮え切らない態度には苛立ちを覚えたのか、リュークの手がレチュアの頤を掴んだ。多少怒っている、所作が荒い。
上をぐいと向かせられたレチュアの表情には困惑と不安が混ざっている。
「ごめん、えと……」
恐れているのは何にだろう。
リュークが怒っている表情の奥は、確かにレチュアを心配して落ち着けようとしている。それがわかっているので辛い。
大丈夫よ、ちゃんと考えられる。大丈夫、大丈夫だから……。そう、言おうと思った。
「ごめん……怖くて……」
ちっとも大丈夫じゃない。
恐怖で不安で押しつぶされそうだ。
「だって……桂華が……桂華の軍勢が死ぬなんて……」
レジオに、顔向けできない。
自分の国に戦争をさせるなんて。
滅んだら、もしもリージュが滅んでしまったら。
様々な事を考えてしまって、いてもたってもいられない。
「止めてほしいと思っていたのよ」
それは甘いと思っていた。
それでも何よりも、自分がしなくてはいけないことがあった。四神と契約を交わすこと、それが絶対であり、それしか方法がなかった。
レチュアが単身で王城に戻れば殺されていたのだ。
階段の、古びた手すりに手をついて、レチュアは追い詰められている距離を離す。リュークに背を向けて、唇を、噛んだ。
「見ないで、弱気になってる。後悔しかしないのよ。……前向きで明るい、なんて私、そんな人間じゃない」
明るくするのは、自分を可哀想だと思おうとしてしまう自分がいる事に気づいてしまったから。
笑っていたいのは、シェアや父や母に顔向けができないから。
でも、レチュアだって考えることがあって、辛い目にあえば怒り、悲しみ、絶望にくれることもあるのだ。
「リアスになりたい。……リュークになりたい……上手くいかないといつだって自分のせいだと思ってしまう」
リージュが戦争に勝った?
なんて、絶望的だろう。
「……精鋭は千を切る。王城にいた騎士が四百、いずれも捕らえられているはずがなくて……たぶん死んでるわ。残りの六百は王城の近くに宿舎があって、普段は家に帰っているものもいるから、何人死んだかは把握できない」
静かにレチュアは階段を上る。
「一応軍隊がいるの。軍隊に入っている人は多く見積もって三千、そちらを本業にしてしまうと食べていけない人もいる、兼業になってしまうのは仕方ないわね。普段は町でパン屋をしている人もいるわ。魚を売ったり、肉を売ったりね?」
それから、とレチュアは言葉を切る。
「一番強いドールを使役している人で四神オージェが一人。セルフィと契約している神官もいたのだけれども、死んでしまった」
レチュアはいくつかの言葉を選んで、きちんとリュークに伝わるようにと続ける。
意図していないのに、とっさに出た声は強くて意思のある声だった――いつもよりも強気な、声。
「はっきり言ってリージュは、相手が攻めてきた場合にのみ対抗する、それくらいの戦力しかないの。
今は王様たちが賢君が多くて、表面上戦争は行われていない。でも……攻めてこられてからでは遅いから、桂華からあるいは他の国から招いた軍師もいて、軍隊は日々努力はしている」
「……」
「わかってる。私が弱気になっても仕方ない。今貴方が私に愛想を尽かしたら私多分上手くやっていけないのよ。……ごめんね、取り乱して」
レチュアの部屋の前につく。
少し寝るわ、とレチュアはドアをあける。
このまま一緒にいると、言いたくない愚痴まで零してしまいそうだった。
「明日にしましょう。アーシアさんだってまだ本調子ではないでしょう? 明日に……」
閉めようとした扉をこじ開けるように、リュークの靴が挟まった。
「リューク?」
「……さない」
「なに?」
レチュアの腕を掴む。扉が、閉まる。
「言え」
「は?」
「……愛想なんか尽かさない」
リュークはレチュアのまぶたの上に手をやった。大きな手のひらはレチュアの両の瞳をすっぽりと隠す。
リュークにはレチュアの瞳は見えない。彼女がどんな顔をしているのかはわからない。レチュアにもリュークの顔は見えない。
だけど切実で、静かで、柔らかい声は聞こえた。
「愛想なんか尽かさない」




