第三十三話 この手を離さない
ブルーレスティア大陸。南に位置する大きな大陸は、いつ来てもレチュアの鼻腔を優しい花の香りでくすぐってくれた。季節は夏。常夏と言ってもいいリージュ国には、夏には烈華という美しい花が咲く。この花はリージュ国のシンボルマークにもなっていた。他の地域では滅多に咲かない花は、いい香りがする。
「…………」
リュークが無言で背中に視線を訴えてきた。レチュアはなるべく知らんぷりを決め込んでいる。まだ喧嘩は終わっていない。
リュークから折れてきて、謝り倒すまでレチュアはリュークを許さないつもりでいる。
そんなの絶対ないとは思うが。
桂華帝国から出た豪華客船も、あの後すぐに凪ぎから脱出。航路を南へ、とても速いスピードで運行を開始。そして二日目の、今は夕方。やっとレチュア達はリージュ国に着いたのだが、実はその間、会話をしていなかったのだ。
レチュアが話さなければリュークは絶対に話しかけては来ないから、レチュアが謝らなければ喧嘩は終わらない。それに、レチュアだって分かっていた。冷静になって、あれからずっとリアスのことを考えていた。思いつく節は捜してみればたくさんあったのだ。
例えば、リージュ国の情勢を知っている男二人に会った時。確かあれはアレスタだったはずだ。あの時絡まれたレチュアからリアスはちゃんと助けてくれた。でも、良く考えてみる。リアスはあまり強面ではない。あんな屈強な男二人が、リアスが無言のうちに逃げ出した。よっぽど怖い顔をしていた、とか色々理由はつけられるけど、しっくりと来ない。男達の怯え方は半端なかった気がする。
例えば船の上でタコと戦ったときの魔法の詠唱。あの聞こえてきた黒魔術は、リアスの声に似ていなかった?
それと、これは考えたくはなかったが、例えばシェアが死んでしまった時。リアスはどこにいたのか。イオと一緒にいたはずだが、どうでも動ける状況だった。
実際レチュアはリアスのことを知らない。ドールの事も知らなければ、出身国の事だって聞いたことがない。
ただ、ニッコリと安心させるような笑みを向けてくれただけ。ただ、レチュアを匿ってくれて、信じてくれて、そして。きっと愛してくれたと思う。だってリアスにとって最初のレチュアは、『リージュ国のお姫様』ではなかったのだ。無条件で愛される象徴などではなかったのだ。
――何一人でくっちゃべってんだ!?
だって声をかけてくれた。ご飯を一緒に食べた。
『リアス……』
レチュアがリュークの背中を追って歩いていた雑踏に目を向ける。楽しそうな話し声はしない。面白い話も聞こえない。隣にリアスはいない。
「……ってリュークどこ行ったよ?」
レチュアは目を見開いた。ぼんやりしすぎてしまったらしい。
「嘘でしょ!? 何も置いていく必要ないじゃない!」
レチュアは慌てて回りを見回した。懐かしい故郷の風を感じながら、レチュアは悲しくなる。
「リュー……」
声を上げかけたレチュアを、奇怪な目で見ていく人がたくさんいた。
「アレ……? ……誰かに似てないか?」
「レチュア様……? おい、まさかレチュア様じゃないよな……?」
雑踏の声に耳を傾ければ、レチュアはもうどうしようもなくなった。そう、ここは故郷だけれども、実は故郷じゃないのだ。ここではレチュアは、王と王妃を殺した重罪人。
やばい、ととっさに気付いてレチュアは慌てて人通りの少ない方へ目を向ける。リュークが傍にいない。不安で不安で堪らなくなった。
『リュークっ』
「何してる? こっちだ」
低い声が聞こえてきた。リュークの不機嫌そうな目と目が合う。レチュアはその時泣きそうになった。
「リューク!! どこ行ってたのよ!?」
繋がれた手を払うどころか、レチュアは必死に握り返した。
「はぁ? お前が考え事をしながら歩いていたんだろ?」
リュークはレチュアの表情に困ったような顔をした。リュークから見れば、レチュアに泣きそうな顔をさせるほど酷いことはしていないつもりだった。握った手が汗ばんでいるから、リュークは離そうとする。所がレチュアは離そうとすればきつく握り返してきた。
「……そこに色粉がある。……金髪じゃ目立つから」
仕方ないな、という顔をしてリュークはため息をついた。
「いいか? そうやってすぐに迷子になるならはぐれるな。俺についてこい」
さっきまで本当に険悪なムードが漂っていたのに、レチュアは必死に頷いた。ここで、リュークの手を離せば、レチュアは死んでしまう。過ぎた言い方かもしれないが、実際そうだ。レチュアがこの国で何の宛てもなしに一人で歩いていくことなどできるだろうか。
レチュアはリュークの手の平を見つめる。はぐれたらダメなのだ。彼から離れたらダメなのだ。
「あのね……」
人通りが少ない方の道を歩いていくリュークの歩きに必死についていきながら、レチュアは何と言おうか考えた。自分から謝るのは絶対に嫌だったが、この際しょうがない。もともと性格の合わない二人の珍道中なら喧嘩の一つや二つするのだ。
「えと」
ごめん、と言うのが何となく言いにくくてレチュアは口篭もる。
「悪かったな」
「え?」
先に口を開いたのはリュークだった。その後はもう何も言うつもりはなく、さっさといつものように歩いていこうとする。半ば引きずられるようにレチュアもリュークについていく。背中を見ただけでは良く表情は見えなかったが、それが本心だったとはちゃんとわかった。
リアスと、リューク。
神様は自分を見捨てたんだと思っていた。自分の傍についていながら、手を出せない王様も。
運命はあまり自分には味方しているように思えなかったけど、大切な人が、自分を守っていてくれる。守られるお姫様は絶対に嫌だったけど、こういうのは悪くない。
「私も……。ごめんなさい……。えとね」
レチュアは恥ずかしそうに目を伏せた。言葉をさっきから捜しているが、簡単に声にはなってくれない。薄っぺらい感情を伝えたいわけではなかった。
人はもうない。帰路を急ぐ子供達。どこからか聞こえる華やかな音楽。町の雑踏。淡い灯火。
「いつもありがとう。感謝してる」
レチュアはニッコリ笑った。リュークが振りかえってレチュアを見る。
彼女は笑うといつも太陽のような温かい表情をする。普段も笑っているが、本心で、心から笑っているときの表情が。
ぎゅっと握ってくる手の平に目をおとす。リュークはもう一度レチュアを見た。手を伸ばそうとする。
「?」
レチュアは小首を傾げた。そのままリュークの手がレチュアの髪を撫でた。労わるように、優しく。
「な、なな何!?」
レチュアは慌てて一歩下がろうとした。心臓が持たないから、いきなりそんな事をしないで欲しい。
「…………つけられたな」
リュークはレチュアの髪の毛を一房引っ張った。
「い、いたいっ!」
リュークはレチュアの先を見る。三人の、恐らくはハンターが、人に紛れて二人を見ていた。
ハンターには種類があって、主に『護衛』をする者と、『捕縛』をする者とに分かれる。『護衛』は時には人や、魔獣を殺す可能性が多く含まれているが、『捕縛』は大半が殺しは請け負わない。ただ捕まええるのみ、そういう意味で『捕縛』をするハンターは『キャッチャー』と呼ばれる。『護衛』はかけて『ナイト』というのだ。
レチュア達の前に現れたのは、『キャッチャー』の方だろう、と大方予想がついた。殺気はあまり感じられない。それよりも不自然なくらいに表情が愁いているように見える。
「……レチュア・フォーガス様か?」
ハンターの一人が恐る恐るレチュアに問いかけた。疑いと、どこか困ったような表情を向けられて、レチュアはどうしようと考える。
「? リージュの姫さんの事か?」
レチュアを庇う位置に立ち、リュークは自分が話し出した。レチュアに話をさせるのは危険だと思ったからである。
「生憎リージュの姫様の方が何倍も綺麗じゃないか? ウチのは良く間違われるが……ほら、見ろ。威厳のかけらもないだろう?」
それは誉めているのか、貶しているのか、レチュアには良く分からなかった。
『じゃあリージュの姫様である私なら綺麗なのかな?』
どう解釈すればいいのか分からないながらも、レチュアもその芝居に参戦をする。
「そうですわ、リージュ国のお姫様と言えば、誰もが憧れる美貌の姫君! 私などが……そんな大層な姫君と間違われるなんて」
リュークが怪訝そうな顔をしてレチュアを見てきたが、レチュアは構わず目をそらした。この際誰を誉めようが勝手だと思う。自分ではないような気もする。
「それはどうだか。とにかく……王都まで来てもらうぞ」
男達はリュークの手を掴もうとした。その手を避けて、リュークはレチュアの右肩を抱いた。
「それ以上言いがかりをつけたら俺も怒る。俺の大事な女だ。やめろ」
「!」
歯が浮くような、くすぐったいセリフ。リュークはそれを今レチュアに向けている。レチュアは演技だと分かっているのに、本当に自分が
「大切な女」
と言われたようで不思議な感覚に陥っていった。
「王が発ったんだろ? 実際国が傾いていないならいいじゃないか」
目茶苦茶な言葉だ。リュークにしか絶対使えない。でも、その言葉には含んでいるものがあった。
「……お前らよそ者か?」
「あぁ。今リージュに来た」
ハンター達の顔が少し引きつっていた。何かがあるな、と踏んでレチュアもリュークもどうやって引き出そうかと考えた。
「お前らもリージュは離れた方が良い」
ハンター達は諦めたのか、踵を返した。他人の空似かもしれない、と思ったのか。
『あれ……?』
レチュアはその態度に何か違う物を感じ取った。
「……国は豊かですか……?」
リュークがハッとレチュアの方を見る。上手く行ってたのを水の泡にする気だろうか、と。でも、レチュアの表情を見れば、それが違うことくらいすぐにわかった。
ハンター達が振り返る。疲れきった顔をしている三人は、困ったようにレチュアの方を見た。
「そうでもないんだ。先日発った王は税率を上げてきてな」 それは、きっと今初めて言葉を交わした異邦人に向けて放った言葉ではなかった。
「リージュ国王が懐かしい。……二人の愛らしい姫君がいた時が懐かしいよ」
胸が軋むような思いがした。
季節は変わっていって、もう夏が来て。暑い日々がレチュア達を飲み込んでいく。狂おしい程の、切なさがレチュアの胸に熱く降り落ちる。
「そうですか」
もしかしたら、何かが自分を待っていてくれるかもしれない、と。期待する。自惚れる。もしかしたら、もしかしたら。
レチュアはそっとリュークを見上げた。放った言葉の中にあった凶器を許したわけではないけれど、自分の中に住む瘴気を、レチュアも自分で認め始めていた。
「レチュア様がそういう人だったとは思わなかった。……港は謀反の話で持ちきりだった」
リュークは、小さくハンター達に言った。そういう風に皆の思いをレチュアの方へ向ける。
大きく変わること。それは少ないと思う。まさか、王と王妃を殺したかもしれない人を、待っている民は少ないだろう。でも。
「レチュア様……か。あんた達が言うようにお美しい人だったよ。背筋をいつも伸ばしててな……。俺はそう近くで見たことはないから良くは言えないけど。皆があの方の戴冠を待っていた」
夕暮れの声が、美しく響く。切ないほど、狂おしいほど美しい国は、今傾いていた。
夏が過ぎる。暖かいというよりはもう暑くなっていく天気と、どこか気だるさを含む風。
ハンター達はすぐに退散した。レチュアとリュークはそのまま裏路地を歩いていく。二つの影がぼんやりと、石で出来た道路に落ちる。
「……ねぇ、リューク。全部洗いざらい話す気ない? ちょっと聞きたいこととか言いたいこととかあるんだけど」
レチュアはそっとリュークのほうへ顔を向けた。その瞳にはいつまでたっても消えていない大きな『決意』の念がある。
「そうだな」
リュークは小さく笑った。
色粉を買うために、レチュアは小さな裏路地にある店に入っていった。民家と区別がつかないくらいの小さな家には、老人が二人店番をしていた。長年連れ添った夫婦である。
「いらっしゃい」
アンティーク調の落ち着いた店内に、髪の毛に使う媚薬や、レチュアの捜している色粉がなどがチマチマと置いてあった。
「何色にしようか?」
「……別に。あんたが好きな色にすればいい」
リュークのいつもの口調に、またまたレチュアは腹が立って、つっかかる。
「ちょっと、大変になるのはリュークもなんだからちゃんと考えてくれる?」
「………………。茶色……ぐらいでいいんじゃないか?」
リュークは面倒くさそうに、色粉の入った小瓶を摘む。マジック・カラーと呼ばれる、これは正真照明の魔法の一種だった。色粉は魔法の塊と言っても過言ではない。
「茶色? えと……あ、こっちの色のほうが良い!」
レチュアは隅においてあった小さな小瓶をとる。ラベルにセルシャ語で『マロン』と書いてある。柔らかめの茶色を見てリュークは目を細める。レチュアの髪の毛と見比べて、小さくこう言った。
「良い色だったのにな」
レチュアは笑う。
「残念? きっとすぐに戻せるわよ」
故郷が、自分の大切な国が、自分を拒否している。誰が自分を見つけても、誰も自分を歓迎しない。心の奥底で、レチュアを思い出して、残念がったとしても、それは『思い出』であって、現実ではない。それはとても寂しいことだった。少なくともレチュアにとってはとても悲しいことだった。
その思いを汲んでか、それともこの前の喧嘩の埋め合わせか。リュークはなんとなく優しかった。
夕暮れ。落ちる影。雑踏の、声。懐かしい、自分の……。
――国




