第十七話 赤く咲く華
少し走ったところに人だかりがあった。人の群れのせいで噴水とやらは見えない。
レチュアはもう何も考えず、人だかりを押しのけて前へと進んだ。噴水の半径1メートル位の円内には何か暗黙の了解があるらしく、誰もそれ以上は進まない。
最前列に足を進める。
自らの口からこぼれる、祈りにも似た不規則な呼吸音。鉛のような一歩を進む。
――息が、止まるかと思った。
一人の少女が、噴水を囲う石段にもたれて座っている。少しくすんだ金髪はざん切りになっていた。青い瞳はうっすらと開いていて、力なく前を見ている。虚ろに陰った瞳には涙が浮かび、でも口元は少しだけ微笑んでいる。胸から腹にかけて切りつけられた十字からまだ赤黒く血が流れている。だらりと下がった手や、伸ばした足にも血の華が咲き誇る。
誰がどう見ても彼女は死んでいた。なのに死んでいるはずがないようにもみえる。たくさんの矛盾の中、優しく柔らかな日差しが後光のように稚い(いとけない)少女の顔を照らす。それだけが女神の恩恵。
レチュアは円の内にもう一歩足を出した。ザワ、と周りがざわめく。
「シェア?」
少しほっそりとしてしまった体を見る。髪だって自分が最後に見たときは自分よりくせのないきれいな金髪だったのに。それでも。自分が彼女を見間違うはずがなかった。
歯痒さに絶句した。
レチュアはにっこりと壊れたように笑った。一歩、一歩ゆっくりと歩みを進めていく。
暗黙の了解、絶対範囲を超える。人々の息を飲む音が確かにしたのだが、レチュアには聞こえなかった。
「どうしたの……? 元気ないねぇ?」
側から見ていた町の人々はこの光景の言いようのない壮絶さに、一瞬声を亡くしたのだ。異常に思ったかもしれない。
まだ幼い少女だ。一体誰があんな惨い殺し方をしたのだろう?
「……どうして笑っているの? 良い事でもあったの?」
レチュアはシェアの体の前に座り込んだ。 そっと、シェアの前髪を指で払う。確かに彼女はうっすらと微笑んでいる。
まだ頬には朱がさしている。口の端が穏やかに緩み、眉尻は下がる。触れた額はまだ温かい。
では、どうしてお話をしてくれないのだろう?
「シェア……っ」
レチュアはぐっと身を乗り出して少女の体を抱きしめた。ほら、やっぱり温かい、のに――。
笑っているのはどうして? 目を開けて、そんな風に前を見ているのに自分に話しかけてくれないのはどうして?
誰が、したの?
誰がそんな風に、したの?
暗雲が出てきた。お昼を少し過ぎた所で、稼ぎ時は一応終わりかけているので、港町の出店もぽつぽつと店じまいを始めていた。風も少しずつ出てくる。
噴水前の広場でレチュアは涙を流せない自分を呪っていた。泣けば楽になる、と分かっているのに、どうしても涙が出せなかった。
認めたくない、と心のドコかが言っている。
胸や腹に当たる血が、レチュアの服をじんわりと濡らしていく。ゆっくりと染み渡るような温かい血の感触が、泣きそうなほど切ない。あぁ、どうして。ちゃんと温かいのに、どうして彼女は死んでいるのだろう?
噴水前の人だかりが道を開けた。その間から何人かの警吏が現れ、レチュアのほうへ歩み寄ってきた。物言わぬ肉塊を抱いた彼女の姿は壮絶な光景だったに違いない。血の紅と二人の少女の緩い金髪が脳裏に焼き付けられる。
一瞬レチュアに声をかけるのをためらったのだろう。が、すぐに遠慮がちに声をかけてきた。
「お嬢さん、少しどいてください。邪魔になります」
レチュアは何も聞いていない様子で虚ろにシェアの髪を掻きあげていた。
「犯人を探します。協力を要請する」
今度は少し強い口調で言い、警吏はレチュアの右肩に手を伸ばそうとした。と、その手はレチュアではない誰かの手に払われた。
「触るな」
レチュアを庇う、低い声。
警吏の手を払う青年の手は、空を切った後レチュアに触れた。
「……おい。お前ここで捕まって良いのか?」
不機嫌そうな表情。
――リュークはレチュアの体をシェアから引き剥がそうとした。しっかりとシェアの体を抱くレチュアの手は必死に抵抗し、その反動でリュークの手を力いっぱい払った。
「アーシアさんがこの近くにいるわ。行って……きっと会えるわ。この町で」
「あぁ。分かった。から、立て」
今度は少し強引にレチュアを立たせる。
「離して!」
レチュアの服にべっとりとついた血が地面にしたたる。真っ赤に咲いた華が本当に綺麗に見えたのはどうしてだろうか?
リュークの力は緩まない。
「離しなさい!!」
レチュアは唇を噛んで抵抗する。それを止めようとしたリュークの体が後ろから抱きとめる形になった。
「くそったれ! シェアが一体何したって言うの!? 誰に迷惑をかけた!!」
羽交い締めにされながら、体の自由がきかなくなったのに腹を立てて、レチュアは叫びながらリュークの腕の戒めから逃れようとする。
「落ち着け」
リュークの声は冷たい、けれど根本がそうではない事を知っている。
優しい、から。 レチュアはうんざりしてリュークの手を払う。
「うるさい!! じゃあ……じゃあどうして…………っ」
レチュアはリュークを見上げた。その顔は微笑んだように見えた。
――どうして
「どうして手を離したの……?」
ぽつ、ぽつと額に水滴が跳ねた。
雨が降ってきたのだ。再会の日はいつも雨。天界にいる女神が、この二人が出会うのを嫌っているようにも思えた。
雨のせいで見物人は一人、また一人と帰っていく。広場には数えるしこしか人がいなくなった。
リュークは黙っていた。だってどう言い訳をしたら良いだろう? 確かに自分の不注意だった。
「悪かった」
レチュアはもう抵抗するのをやめて下を向いた。かすれたような悲痛な声をもらす。
「謝らなくていい。リュークのせいじゃないんでしょう……」
誰だろう? 一体誰がこんなふうにしてしまったのか。
リュークはもう暴れなくなったレチュアを離していいものか、と考える。実際はもう動きもしないけど、どうしても離す気にはなれなかった。
押さえ込むように肩へまわした自分の腕の中に、細くて儚い消えてしまいそうな彼女がいる。そのまま、どうしようかと考える。何を言ってあげたらいいだろう?
「…………自慢の……姉だと言っていた」
レチュアはそっと首だけをリュークに向ける。
雨が激しくなる。地面を叩く音は何かに対して憤っているようだった。血が流れていく。流れてくれない涙の代わりに、レチュアの頬をぬらす。
「ケルベロス!」
リュークが三つ首の獣の名を呼ぶ。どこからか現れたドールはふわり、と地に足をつけた。
「逃げるぞ」
リュークはレチュアを抱え、ケルベロスの背に飛び乗る。二人が逃げ出そうとしたことに気付いて、警吏の者達が慌ててドールの召喚を始めた。「あ! おまえ達止まりなさい!!」
まだ小さな風の聖霊が、ケルベロスの進行を止めようとしたが、力の差は歴然としていた。風が撫でていくのを鼻で笑いながら、ケルベロスは少しずつスピードを速める。
「でもっシェアが!」
レチュアは慌ててリュークの手を外そうともがいた。放っておいたらスピードを上げ始めたケルベロスの背から下りかねない。リュークはしっかりとレチュアの背を後ろから抱きかかえる。
「桂華の華司に会うんだと言っていた」
「え?」
「助力を請うのも悪くない。あとで遺体は国に回してもらえばいい」
レチュアは首を傾げる。
「ちょっと待って、リアスが……それとイオも。この町にいるの!」
「分かった。後で寄る。今はちょっと待て」
リュークはうざったそうにレチュアを見やり、すぐに前に向き直った。雨が降りしきる中を、一頭の魔獣は走り抜けていく。
レチュアは自分を抱きとめる手を見る。筋張った手。
「……前を向いていたらあんたの酷い顔は見えないな」
リュークが静かに言う。
「なにそれ。……喧嘩売ってるの?」
レチュアは睨みつけるようにリュークを見上げた。と、その顔が微かに笑んだ気がした。鼻にかけた笑いでもないし、呆れたような困ったような笑いでもなかった。
これでは、泣いてもいい、と言われたようだった。
この無愛想な表情を笑っている、と思うなんてどうかしている。 許された気分になるなんて。甘えたいなんて思うなんてどうかしている。
そう、自分は今どうかしているのだ。
そう思ったら心のドコかが楽になった気がした。
「……っ」
しばらくして、レチュアの噛み殺したような嗚咽が聞こえた。
「ふ……えっ…………っ」
多分涙は雨と一緒に流れる。だからこれは泣いたうちに入らない。
レチュアはリュークの手を掴んだ。跡がつくくらいまでぎゅっと握られた手を見て、リュークは眉を寄せる。でも、しょうがないか、とばかりにその小さな手を握り返してやった。




