第15話 「知らない女」
信じられない。
あの男の背中が見えなくなった後も、私はその場に立ち尽くしていた。
「聖女様……?」
控えていた冒険者の一人が、恐る恐る声をかけてくる。
「うるさい、黙ってて」
鋭く遮った。扇子を握る手が、微かに震えている。怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でも判然としなかった。
(健太だった。絶対に、健太だった)
あの拳の握り方。怒りを押し殺した時の、あの表情。十年以上、忘れたことなどなかった。
いや、正確には忘れようと、必死になっていただけだ。あんな冴えない男のことなど、覚えている価値もない。そう、自分に言い聞かせてきたはずだった。
(それなのに、なんで)
胸の奥に渦巻いているものを、うまく言葉にできない。懐かしさ。苛立ち。そして、口にするのも忌々しい、何か別の感情。
「聖女様、次の街まで、まだ距離がございます。そろそろ出発を」
「うるさいって言ってるでしょう!」
思わず、声を荒らげてしまった。冒険者の男が、びくりと身を竦める。周囲の空気が、一瞬で凍りついた。
「失礼、いたしました」
男が、深く頭を下げる。その怯えた様子を見て、私は我に返ったように扇子を閉じた。
(落ち着きなさい、沙耶)
自分にそう言い聞かせながら、深く息を吐く。だが、頭の中では、先ほどの光景が、繰り返し再生されていた。
「知らねぇな」
あの男の、抑揚のない声。
「人違いじゃねぇのか」
わざとらしい、冷たい塩対応。
(ふざけないでよ)
怒りが、じわじわと膨れ上がっていく。
学生時代、あの男は、私に対して、一度たりとも反抗的な態度を取ったことがなかった。
どれだけからかっても、どれだけ物を投げつけても、ただ黙って耐えるだけだった。
その従順さは、私にとって、ある種の安心材料でもあったのだ。
(健太は、絶対に私を嫌ったりしない)
そう、確信していた。だからこそ、あんな態度が取れたのだと思う。どれだけ酷いことをしても、最終的には受け入れてくれる。そういう、根拠のない自信が、私にはあった。
それなのに、あの態度は何だろう。
「私のこと、忘れたの?」
自分で口にした言葉を、頭の中で繰り返す。あの時、返ってきた答えは、決まっていた。
「興味ねぇ」
その一言が、思っていた以上に、私の心を抉っている。興味ない、というのは、忘れた、というのとは違う。忘れたのなら、まだ理解できる。
だが、興味がないというのは、明確な拒絶だった。
(あり得ない)
首を振る。
(健太が、私を嫌うなんて、あり得ない)
その考えに縋りつくように、私は少しずつ、自分の中で違う筋書きを組み立て始めていた。
きっと、強がってるだけ。久しぶりに会って、恥ずかしかったのかもしれない。
あるいは、周りに仲間がいたから、素直になれなかっただけ。どれも、根拠のない、都合のいい解釈だと分かっている。
それでも、それ以外の可能性は、受け入れたくなかった。
教室の隅で、健太をからかい、笑いった、あの日々。
私にとって、それは、決して悪意だけで完結するものではなかった。少なくとも、私自身の中では。
(だって、私、あの頃から)
その先の言葉を、自分の中で押し留める。認めたくない感情が、そこにはあった。
それを認めてしまえば、これまでの自分の行動全てが、みっともない何かに変わってしまう気がしたのだ。
「聖女様」
別の声が、思考を遮った。振り返ると、先ほどとは別の、少し年配の冒険者が立っている。この一団の中で、実質的な副官のような立場にいる男だ。
「今の男、何者ですか。妙な威圧感がありましたが」
「知らないわ」
短く答える。
「知らない、というわりには、随分と動揺されているように見えましたが」
「余計な詮索はしないで」
鋭く睨みつけると、男は口をつぐんだ。だが、その目には、明確な疑念が滲んでいる。
あの男のことは、報告した方がいいかもしれない、そんな考えが浮かんだのは、私だけではなかったらしい。
実際、この一団は、単なる旅の一行ではないのだ。神託連盟。この大陸で急速に勢力を拡大しつつある組織の、直属の部隊だった。
私はその中で、聖女としての地位を確立しつつある。異界からの来訪者らしき存在は、当然、組織にとって重要な情報になるだろう。
「総帥様には、私から報告しておくわ」
そう口にしながらも、胸の内には、複雑な感情が渦巻いていた。報告すれば、あの男は、組織の監視対象になる。それが、私にとって望ましいことなのかどうか、自分でも分からない。
(別に、あいつがどうなろうと、知ったことじゃない)
そう言い聞かせる。それなのに、胸の奥には、拭いきれない未練のようなものが、確かに残っていた。
* * *
街道を進みながら、俺たち四人は、それぞれ別々のことを考えていた。
「……ねぇ、マスター」
しばらく無言で歩いた後、メイが静かに口を開く。
「あの女性のこと、無理に話す必要はありません。ですが、もし何か抱えているのであれば」
「別に、大したことじゃねぇよ」
感情を押し殺すように答えた。
「ただの、昔の知り合いだ」
「その割には、随分と、態度が冷たかったように見えましたが」
「そう見えたか」
「ええ」
メイは、それ以上、深くは追及してこなかった。だが、その横顔には、明確な心配の色が滲んでいる。
「まあ、なんだ」
ロビンが、場の空気を変えるように、明るい声で口を挟んだ。
「昔の嫌な女に、ちゃんと言い返せてたじゃねぇか。それだけで、俺は結構スッキリしたぜ」
「言い返せてたって」
「あの、弱い者いじめしてた冒険者を、ちゃんと庇ってやってたろ。俺、ああいうの好きだぜ」
その言葉に、少しだけ表情が緩んだ。
「そうだったか」
「そうだったんだよ」
リオンも、軽い口調で続ける。
「にしても「神託連盟」か。名前、聞いたことある奴いるか?」
「私も、初耳です」
メイが、首を振った。
「フィリアに聞いてみるしかねぇな」
そう言いながら、視線を前方へと戻す。シルヴァーナの白い塔が、遠くにうっすらと見え始めていた。
あの女との再会は、決して気分の良いものではなかった。
だが、それ以上に、胸の中には、別の懸念が芽生え始めている。神託連盟。その名前が示す組織が、この世界において、どういった立ち位置にあるのか。
そして、沙耶が、その組織の中で、どういった役割を担っているのか。
(面倒なことに、ならなきゃいいが)
その予感は、決して的外れなものではなかったのだと、後になって思い知ることになる。




