09.接近(冴香と孝哉・大学時代)
Side:冴香
大学の一年後輩である氷室孝哉との出会いは第一に学食でスマホを拾ってもらったこと。
第二に目の前で彼が痴漢冤罪をかけられようとしたのを目撃し、彼を救ったことだった。
彼の印象は、女性に対してどこか遠慮があるように思えた。
かといって女性が苦手なタイプでもなさそう。冷めているというか、訳があって距離を置こうとしているように思えた。
私は女子高出身ということもあったが、いろいろと事情あって女子ばかりのグループで行動していた。
そうすると、下心を持って近づく男子学生は実に多かった。何かといえば「飲みに行こう」「グループデートしよう」と誘う。目の前で体をじろじろと見てくる。態度からしてわかりやすい。
同じ高校出身の中野は新歓コンパで酔わされた上に襲われかけたから、二度とそういう誘いに乗ろうとはしなかった。
その点、孝哉は彼らとはまったく違った。そもそも、いつ見かけても一人ぼっちだった。
一度、スマホを届けてくれただけの後輩。なのに、なぜか彼のことが気になっていた。
寂しそうにしている彼の姿が、子供の頃に飼っていた保護犬を彷彿させたというか……。
どうにかして声をかけてみたかったが、勇気が出せなかった。
だから、彼と同じ電車に乗り合わせて痴漢冤罪をかけられた時、恩返しするチャンスだと思った。
その場の勢いで連絡先まで交換してしまったのは、私にとって珍しかったと思う。
なぜかというと、孝哉と目が合った時……私の中で今までにない感情が沸き上がってきたから。
あれはいったい何なのだろうか。母性本能? 庇護欲?
1コ下の男子にしてはあどけない。どちらかというと可愛い顔立ちだろうか。それなのに明るさはなくて、陰がある。暗いというより、心に深い傷を抱えているように感じた。
なぜかこの子を守ってあげたい。癒してあげたいと思った。異性に対して、そんな感情を抱いたのは初めての経験だった。
孝哉と接するようになってから意外なことがわかった。孝哉は複数の女子に囲まれてもキョドることはなかった。むしろ、普通に喋れるし、気遣いもできる。
一緒にいて親しくなってきても、ちゃんと先輩への敬意を払って狎れることはない。変に異性を意識することもなく、一緒にいて心地よかった。
だからといって、女慣れしているのとは違う。
男性不信気味だった中野ですら「孝哉くんはあまりギラギラした感じがしない。弟といるような気分。だから怖くない」と言った。
立川が言うには「長く付き合った彼女がいたのかもしれないわね。でも、今は別れて傷心を抱えているのかも」
婚約者がいる立川の想像通りなのかもしれない。
いつしか、私は孝哉のことをもっと知りたいと思うようになっていた。どんな恋愛をしてきたのか。孝哉はどんな女性が好きなのか。
キャンパスを歩いていると、無意識に孝哉を探している自分がいた。
冬期休暇を終えて久しぶりに孝哉と会い、その笑顔を見たら心が温まる気がした。もっと彼と親しくなりたいと思うようになっていた。
「冴香、もしかしてだけど……孝哉くんのことが気になってる?」
「そそそ、そんなことは……ない…よ……彼とはよい友達でいられればいいと……思ってるし」
「ふふっ。嘘が下手ね。最近孝哉くんといる時の冴香、明らかに表情が違うわ」
「あー、そういえば私もちょっと思ってたぁ。キャンパスで孝哉くんと会うと、すごい嬉しそうだもんね!」
「うっ……」
女同士は気持ちの変化に敏感だ。ましてや、私にはろくな恋愛経験がない。孝哉のことが気になりだした私の態度はばればれだったらしい。
「孝哉くんなら、いいと思う」
「そうねぇ。冴香って、ぐいぐい来る男子は苦手でしょ? 逆に孝哉くんみたいに守ってあげたい系の男子が合っているかも」
「いやそのぅ……」
「仲を深めたいんじゃない? 協力してあげる!」
私一人に任せていたら、いつまで経っても先輩後輩以上の関係になれない。
中野や立川を含めた友人グループで、私と孝哉の仲を深めていく作戦が密かに話し合われた。迷惑……とまでは言わないけれど、そんなことしてもらわなくても……でも、本当はありがたい気もするけど……。なんと言ったらいいのか戸惑っていた。
不意に過去を思い出した。中学の時、道場の兄弟子である男子高校生に抱いていた憧憬の念。あれは恋だったのかもしれない。
でも告白なんかする勇気は持てなくて、ただ遠くから見ているだけ。挨拶を交わすのが精一杯だった。4月になったら、彼は遠くの大学に行ってしまった。
あの時と同じことを繰り返したくない気持ちはある。ろくに恋愛を知らずに20歳になってしまった。今度こそ、きちんと向き合ってみよう。
私は友人たちのアドバイスを取り入れることにした。その一歩としては、名前を呼び捨てにすることだった。
さらに関係を深めるために大胆なプロジェクトが進められていくのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お願い! こんなこと、孝哉にしか頼めないの」
「外ならぬ冴香先輩の頼みですし、僕としてはかまわないですけど……本当にいいんですか?」
「孝哉さえ良ければ、私頑張る!」
「ええ……これでも僕、男だし、身の危険を感じないのかなぁ」
「孝哉の何が危険なの?」
「大丈夫。孝哉はへたれだから」
「ひどい」
一年の終わり頃から、僕は呼び捨てにされるようになった。といっても、特別な進展はなく、三人の中で僕はせいぜい弟扱い。いっぱしの男として扱われていなかったように思う。
事の発端は、冴香先輩が三年・僕が二年の後期が始まった頃。冴香先輩は進路として警視庁を第一志望に決めた。
正義感の強い彼女にぴったりだと思うし、それはいい。
警察官になってしばらくは親元を出て寮暮らしとなる。その後は勤務の都合で一人暮らしもしなくてはならなくなると知って冴香先輩は悩んだらしい。
冴香先輩は才色兼備、頭脳・運動神経ともに優れているが苦手分野があった。それは生活能力に乏しいこと。
だったら花嫁修業じゃないけど、親御さんのもとで家事に慣れていけばいいはず。
実際に料理をはじめ、いろいろと教わり始めていたという。しかし、先輩のお母さんは専業主婦として完璧すぎて参考にならないという。優れた才能の持ち主が優れた指導者になれるかといったら、そうでもないということだ。
だったら一人暮らししている友人に教わればいいとなるが、中野さんも立川さんも実家暮らしで、どちらも家事の経験は豊かではない。他の友人もちょうどいい環境にない。
そこで僕に白羽の矢が立ったというわけだ。女子の交友関係が広い先輩なら、いくらでも家事を教わる友人がいそうだから不思議に思ったけど。
とにかく、冴香先輩が僕のアパートに通い、家事の実習をしたいという。
実は一人暮らしとはどんなものか。夏期休暇中に三人揃って僕のアパートに来たことがある。
僕のアパートに女性が来るなんて初めてだった。1Kのアパートに麗しき先輩方が三人もいる。いつもの部屋がまったく違う空間に変わったように感じた。
三人の美女が部屋で無防備にくつろいでいる姿は僕の煩悩を刺激したけど、無様な姿を見せずに済んだ。凛と付き合う前と付き合っていた頃に理性が鍛えられたのが大きかったかな。
ちなみに凛が写っている写真は実家の部屋の引き出しに封印したままで、アパートには持ち込んでいなかった。
来て早々にエッチな本やDVDがあるんじゃないかと家探しされたけど、来るとわかっていてばれるような場所に隠すわけないじゃないか。
「男の子なのに、なんでないの!?」と三人から密着するほど迫られた時の方がやばかったよ。
ともかく、冴香先輩たちは定期的にやってきて、僕が料理を振舞うこともあった。
一人暮らししてから覚えた簡単な男料理だけど、三人とも実家暮らしで料理はあまり得意ではないらしく、褒められたのは嬉しかったな。
そんなわけで、次の金曜から冴香先輩がアパートに来ることに決まって、僕は必死になって掃除した。同時にわくわくしていた。冴香先輩と二人きりで過ごせるのを心待ちにしている自分がいた。
【訂正】
冴香視点で途中で”始めは姉妹がいるのかと思ったけど、一人っ子だという。”という文章がありましたが、孝哉には妹がいる設定だったので削除しました。




