雪か紅葉か
「あなたは、だれ・・・?」
呼吸がうまく出来ない。雪は震える唇でどうにか声を絞り出す。
僧侶は倒れた白木蓮をまたぐ。ひょいと雪の前に顔を突き出した。
「――記憶を戻してやろう。お前が忘れたいと願った記憶を」
「わたしの記憶封印をしていたのは、あなただったのですか?」
雪のこめかみを、冷や汗が滑る。僧侶はニコッと笑った。
「いいや。俺ではない。織田毛介の仕業だ。――俺が戻してやろう。幼い頃の記憶も。龍胆との日々も。そして」
――お前の前世。『鬼女 紅葉』の記憶を。
雪は目を見開く。僧侶は何でもないことのように夜空を見上げた。
月は雲に隠れ、薄葉紙を重ねたようなぼうっとした白い空が広がっている。
「紅葉は俺の娘。それ故に、人間は紅葉を恐れた」
五百年前。紅葉は生まれた。人の体を依り代にして。
「紅葉は俺と違って人間のことが好きだった。戦で傷ついた者たちを治癒の力で癒し、子供らと手を繋いでよく遊んでいた。村人から慕われ、『紅葉御前』と呼ばれていた」
だが、紅葉の噂が朝廷の耳に入ると、これを討伐せよと帝は言った。
魔王の娘と知られてしまったからだ。
「紅葉は天候さえあやつる。応戦すれば死なずに済んだものを、俺の娘は大人しく捕まり首を斬られた。それほどまでに人間を愛し、傷つけることを拒んだ」
――俺には理解できなかった。
「今では紅葉は『紅葉狩り』という題名で歌舞伎にされている。まこと、腹立たしいことよ」
「それを、わたしに聴かせてどうするおつもりですか・・・?」
「お姉ちゃんは『雪』だ! 紅葉じゃないっ!」
菫が背後から怒鳴る。雪は身体を叱咤して動けない菫をかばおうと前に出た。
「菫ちゃん。この人に逆らってはだめよ」
「驚いた。動けるのか」
僧侶――魔王は興味深げに顎を撫でた。
「さすが、俺の娘だ」
刹那、魔王は動いた。
雪の額へ、中指でトン・・・と小突く。
「っ・・・!?」
雪は強烈なめまいに襲われた。身体が傾いてゆく。
それを支えたのは、グールの女たちだった。
菫は唇を噛む。
(いつの間に・・・!?)
一人の女が雪を支え、他の女たちはかしずく。
「紅葉様とは存じ上げず。姉の無礼をお許し下さい」
「あなたは尊い方。なんなりとご命令を」
「あなたをないがしろにしてきた村人へ復讐を」
「・・・復讐などいらぬ」
涼やかだが、底しれぬ重みのこもった声が、雪の口から漏れた。
菫はぎょっとした。今は子どもの姿だが、背中の毛が逆立つような、嫌な感覚に襲われた。
(雪お姉ちゃんの声じゃない!)
雪はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、十六夜 薔薇と同じく、虹色にらんらんと輝いていた。
雪の身体から白い霧が立ち込める。
霧の中から現れた雪は、白拍子の衣に身を包み、長い黒髪を風に遊ばせている。
その朱色の長袴がよく映える。赤い唇をほころばせていた。
(これが、紅葉御前・・・!)
菫は気配を殺した。獣の本能というべきか。それほど目の前の女は恐ろしかった。
「紅葉さま。魔王様からのご命令です。我々が遂行します」
グールの女が頭を垂れる。雪の片眉が跳ねた。
「いらぬと言っている!!」
紅葉は扇を広げると、勢いもそのままに女の首をはねた。
鮮血がほとばしる。女の遺体は砂へと返った。
紅葉は父親――魔王の前まで来ると、
「お久しゅうございます。ちちさま」
と含みのある笑顔で頭を下げた。
魔王の気が、菫からそれる。好機を、菫は見逃さなかった。
普通の猫へ姿を変える。
屋根を飛び降り、龍胆たちを匂いで追う。
(お姉ちゃんが、『雪』じゃなくなっちゃう!)
菫は全速力で駆けた。




