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「天才」 第二部 奮闘  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第35章

 

 それでも時間は経過した。ユージンがそこに就任したときに支配的だと見た基準から、職場の雰囲気はあまり大きく改善しなかったが、私生活は明らかにいろいろなことがかなり良くなった。まず、アンジェラの態度がかなりよくなってきていた。ユージンがひどい振る舞いをしていた頃に彼女にとりついていた昔の苦悩は、彼が日々仕事に励んで、それなりの慎重さを持って行動しているのを見るうちに和らいでいった。アンジェラはまだ彼を信じていなかった。ユージンがカルロッタ・ウィルソンと完全に別れたことに確信が持てなかった(アンジェラは愛人の正体をつかんでいなかった)。しかし、すべての証拠がこれを証明しているように思えた。下の階のドラッグストアに電話があったから、彼が〈ワールド〉に勤務していた頃、アンジェラはそれを使っていつでも彼を呼び出せた。呼び出すとユージンはいつも事務所にいた。ユージンには時間がたっぷりあるらしくて、アンジェラが劇場に行きたがれば連れて行ってくれた。一緒にいることを特に避けたがってはいないようだった。ユージンはかつて、彼女のことは大切に思っているが、もう愛しているふりをするつもりはないと率直に言ったことがあった。これはアンジェラを怖がらせた。怒ろうが苦しもうが、アンジェラはユージンのことが大切だった。そして彼はまだ自分に同情している、また大切に思うようになるかもしれない……そうする義務があると信じていた。

 

 アンジェラは、それが事実であろうがなかろうが、愛情深い妻の役割を果たし、ユージンが許してくれるなら何事もなかったかのように、ハグでもキスでもちやほやでもする覚悟だった。ユージンにはこれが理解できなかった。アンジェラがどうしてまだ自分を愛せるのか、彼にはわからなかった。自分がカルロッタにのぼせ上がって生じた苦労と孤独によって、アンジェラをものすごく不当に扱ってしまった、償いをしたい、と彼は感じ始めていた。こういう正当な理由があるのだから、アンジェラは自分を嫌っているに違いないと考えた。ユージンはアンジェラを愛したくなかったし、愛せるとも思わなかったが、自分の行いを正して、いい生活が送れるように努力し、機会が許す限り劇場やオペラへ連れて行き、愛情の代わりになるような、他の人たちとの社交的な関係を築いたり再開することはまったく厭わなかった。この世の中には、心の問題の誠実というか円満な解決策は存在しないと思い始めていた。彼の知る限り、ほとんどの人が不幸な結婚をしていた。配偶者の選択で間違いを犯すのは、人の運命であるようだった。ユージンはおそらく、他の多くの人たちほど不幸ではなかった。しばらく成り行きにまかせることにした。今はお金を稼いで、世間の目に映る自分の評価の回復に努めるつもりだった。やがて、人生が何かをもたらすかもしれない……そんなことが誰にわかるのだろう? 

 

 次に、二人の資産状況は〈ワールド〉をやめる前でさえ、昔よりはるかによくなっていた。節約と倹約によって、絶対に必要なもの以外の支出を増やさなかったので、アンジェラは、ユージンが〈ワールド〉をやめるまでに千ドル以上貯めることに成功し、さらにそれ以降は貯蓄が三千ドルになった。近頃はそこそこ良い服を着て、定期的に外出したり人寄せをするくらいのゆとりがあった。二人がまだ住んでいた小さなアパートでは、多くても三、四人以上もてなすことはできなかった。それにアンジェラがこれまで楽しいとかくつろぐと思ったのはせいぜい二人だった。しかし彼らは頻繁にこの人数をもてなした。親交と昔の生活が少し復活した……ハドソン・デューラ、ニューアークに引っ越していたジェリー・マシューズ、ウィリアム・マコーネル、フィリップ・ショットマイヤーなどである。マクヒューとスマイトの姿はなかった。片方はノヴァスコシアで絵を描き、もう片方はシカゴで働いていた。ユージンは、社会主義者や急進派を含む古い芸術家のグループを極力避けようとした。ミリアム・フィンチとノルマ・ホイットモアの現在の居場所については何も知らなかった。クリスティーナ・チャニングはグランドオペラで歌っていて、写真が新聞や看板を飾ったから彼女のことはよく耳にした。ユージンに惚れ込み、ある意味で彼の弟子だったアドルフ・モルゲンバウのような若い報道画家を中心にして、新しい友人がたくさんできた。

 

 アンジェラの親戚が時々顔を見せに来た。その中に陸軍士官の地位と立場を誇りにしている現在陸軍中尉のデイビッド・ブルーがいた。アンジェラの女友だちにはユージンがほとんど気にかけない人がいた……リバーウッドの家具職人の妻で、二人がその人から四部屋を借りていたデスマス夫人、シャルル氏が紹介してくれた億万長者の妻のウェルトヘイム夫人、マリエッタと一緒に昔のワシントンスクエアのアトリエに来たことがあり、今はブルックリンのフォートハミルトンに駐屯しているウェストポイントの陸軍大尉の妻のリンク夫人、隣のアパートに住んでいたユルゲンス夫人である。二人がとても貧しかった間、アンジェラは旧交を温めることにとても慎重だった。しかし、少しお金を持ち始めてくると、自分のやりたいことをやって、自分の力で人生の寂しさを減らすのもいいかもしれないと決意した。アンジェラはいつもユージンのためにしっかりした社会とのつながりを構築したいと思っていたが、どうすればいいのかまだわからなかった。

 

 ユージンが新たにサマーフィールド広告へ就職すると決まったとき、アンジェラはびっくり仰天した。そして、もし彼がずっとこの実業界で働かなくてはならないとしたら、頼もしい庇護下にいることになる……しかも部下ではなく上司としていることになる……と考えることをむしろ喜んだ。ユージンが商売でお金を稼ぐことは絶対にあるまい、とずっと前に感じるようになっていた。ユージンがこういう形で台頭するのを見ることに好奇心はそそられたが、完全には安心できなかった。二人はお金を節約しなければならない。これだけは声を大にして言いたかった。すぐに引っ越さねばならないのは明らかだったが、必要以上にお金を使うわけにはいかなかった。たまたま二人のアパートを訪れたサマーフィールドの態度が、それを商業的立場で推奨するまで、アンジェラは先延ばしにした。

 

 サマーフィールドはユージンの芸術的才能を高く評価していた。ユージンの絵を一枚も見たことがなかったが、とても見たがっていた。ポトル・フレール、ジェイコブ・バーグマン、ヘンリー・ラルーの店に今でも一、二枚展示されているとユージンがかつて話したときに、そこへ行くと決めたが先延ばししていた。ある日の夜、ユージンと一緒にL鉄道で住宅街を走っていたときに、サマーフィールドは気まぐれをおこし、一緒に家にまで行ってそこで彼の絵を見ると言い出した。ユージンは御免こうむりたかった。狭いアパートへ社長を連れて行かざるを得ないことを悔やんだが、どうやらこれを逃れる術はなさそうだった。その代わりに、まだ一枚絵が展示されているポトル・フレールの店に行きましょうと説得を試みたが、サマーフィールドは頑として受け付けなかった。

 

「お見苦しいところですが」五階建てのアパートの階段をのぼりながら、最後に弁解がましく言った。「ここはすぐに引き払うつもりです。鉄道で働いていたときにここに入居したんですよ」

 

 サマーフィールドは貧しい近所を見回した。二ブロック東には黒い貯炭庫が並ぶ運河の入江があり、北側は平らな空き地と鉄道操車場だった。

 

「なあに、構わんさ」ずけずけとありのままを言った。「こっちはそんなことはどうでもいいんだ。だが、お前は気にするのか、ウィトラ。いいか、お金は使うものだぞ。みんなでお金を使うんだ。節約ではどこの誰も得るものはないんだぞ。使うんだ! 使いまくれ……それに尽きるんだ。私はこれを随分昔に自分で気づいたぞ。お前だってチャンスが来次第、引っ越して、賢い人たちに囲まれた方がいいだろ」

 

 ユージンはこれを、成功している運のいい人は簡単に物を言ってくれる、と思ったが、それでもこの中には多くのことが含まれていると思った。サマーフィールドは中に入って絵を見た。絵を気に入った。ユージンがどういう経緯で彼女と結婚することになったのか不思議に思ったがアンジェラを気に入った。彼女はとても物静かな、取るに足らない、主婦だった。ユージンはサマーフィールドに影響されて今ではボヘミアンかクラブの会員のように見えた。中折れ帽はとっくに処分されて、堅い山高帽になった。ユージンの服装は、彼が見つけられる限りの最も実用的なビジネスタイプだった。芸術家というよりは若い商人に見えた。サマーフィールドは、ここでの夕食を断って二人を自宅のディナーに招待して立ち去った。

 

 やがて二人は彼の助言を理由に引っ越した。今では蓄えが四千ドル近くあった。アンジェラはユージンの給料なら生活費を二千五百ドルにでも三千ドルにでも増やせると思った。ユージンが芸術に戻る決心をしたときのために、毎年二千ドルずつ貯金してほしいと頼んだ。二人は土曜日の午後と日曜日に一緒に探し回って、ついにセントラルパークウエストで、公園を見渡せるすてきなアパートを見つけた。そこでなら美しく暮らせて人をもてなせると思った。テーブルを片づければ立派なひとつの部屋になる大きなダイニングとリビングがあった。設備の充実したバスルーム、広い食料庫を備えたすてきなキッチン、ベッドルームが三つあり、アンジェラはそのうちの一つを裁縫部屋にした。臨時の応接室として機能する四角いホールだか玄関があった。クローゼットがたくさんあり、ガスと電気が使えて、ちゃんと制服を着た係員のいるエレベーターがあり、自宅の電話があった。長くて暗い廊下と、上らざるを得ない階段と、ガスだけで電話のない前のアパートとは大違いだった。近所もはるかによかった。ここには自動車があり、日曜日の午後に公園をぶらついたり散歩する人がいた。個人の問題に対しては、当事者と何らかの関係を持つ誰もが、過剰に気を遣い、儀礼的に無関心を装った。

 

「まあ、潮目が確実に変わってきているな」入居の初日にユージンは言った。

 

 ユージンは部屋を白とデルフトブルーとダークブルーとで模様替えして、書斎とダイニングの家具一式をイミテーションの紫檀材で揃えた。いろいろな個展で見た優れた絵画を少し買って自分の絵と一緒に飾った。以前は平凡なシャンデリアがあった天井に、お椀型のカットグラスを取り付けた。何年もかけて集められた本が、鉛枠のガラス扉のついた魅力的な白い本棚を埋め尽くすほどあった。バーズアイメープルと白いエナメル仕上げの魅力的な寝室用の家具がセットで確保され、部屋全体がとても居心地がよくて趣味のいい外観になった。ピアノは即金で購入され、ディナー用と朝食用の食器はハヴィランド陶器でそろえられた。敷物やカーテンや間仕切りなど、他にもかわいらしい装飾品が数多くあり、掛けるのはアンジェラが取り仕切った。ここで二人は比較的新しくて魅力的な生活に落ち着いた。

 

 アンジェラはユージンの過去の軽率な行動や、つい先日のひどい蛮行を決して許しはしなかったが、それをいつまでも執拗に彼に突きつけはしなかった。それでもまだ時々修羅場はあった。遠ざかっても嵐の残響は消えなかった。しかし二人がお金を稼ぎ続けて、友だちが戻り始めている間は、アンジェラは喧嘩をするつもりはなかった。ユージンはとても思いやりがあった。とてもとても勤勉だった。どうして彼女はそういう相手に小言を言わねばならないのだろう? ユージンは夜になると公園を見下ろす窓辺に座って、深夜までスケッチをしたりアイデアを出していた。七時までに起床し身支度を済ませ、八時半までに出勤し、一時かそれ以降にランチに出かけ、夜は八時か九時を回ってようやく帰宅した。アンジェラは時々このことでユージンに腹を立てて、サマーフィールドを人でなしの獣だとののしることがあった。しかし、このアパートがとてもすてきで、ユージンがとても順調にいっているのを見ているのに、どうすれば喧嘩ができるのだろう? 彼が働いているように見えたのは、彼のためであるのと同じくらいに彼女のためだった。ユージンはお金を使うことを考えなかった。気にしていないようだった。彼は、アンジェラが気の毒だと感じるほど、働いて、働いて、働き続けた。

 

「サマーフィールドさんはきっとあなたを気に入るわよ」ある日アンジェラは、半分は称賛、半分はユージンから多くのものを厳しく取り立てる男への怒りを込めて言った。「あなたはあの人にとって貴重な存在ね。あなたほど仕事ができる人を見たことがないわ。これまでにやめたくなったことはないのかしら?」

 

「僕のことは気にしないでくれ、エンジェルフェイス」ユージンは言った。「僕はやらなくちゃいけないんだ。だから、いいんだよ。街を歩きながら、僕はどうやって生きていけばいいんだ、と悩むよりはましさ」……そしてユージンは再び考え事を始めた。

 

 アンジェラは首を振った。かわいそうなユージン! 働いた代償に成功を収めるに値する人物がいるとしたら、ユージンは確かにそうだった。そして、ユージンは本当にまた素行が正しくなりかけていた……陳腐になりかけていた。おそらく、それは彼が少しずつ年をとっているからだ。結局、ユージンは立派な人になる、ということかもしない。

 


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