がびょーん
キスされた。
キス、されちゃった。
接吻。口付け。ベーゼ。
マスウトゥマウスの、男と女の、口吸い。ABCのA。
青春……否。
人生における、男と女の……に限った話でもないけれど。
それでも、間違いなく。
少なくとも、初めての僕にとは紛れもなく。
初体験であった劇薬の一石に、当然ながら、僕の頭はぐるぐると反芻してしまうばかり。
ほんの僅かな、唇の感触が。
刹那にも満たない、永劫の現実が。
いつまでも、いつまでも。
僕をからかう妖精のように、ずっと離れようとしてくれない。
そうして、その日の午後は実に呆気なく。
授業なんて単語の一つさえ記憶に残ることはなく、普段は感じる眠気さえもどこへやら。
放課後を迎えてもなおふわふわと、未だ心はここにあらず。
「──ちょっと、話聞いてる?」
「ぬぼー」
「ねえ、おーい! 起きろぉ、鈴木ぃ!」
「ふぁい?」
そうしてゆさゆさ、ぐわんぐわんと。
頭が振り子となるくらいに揺らされて、ようやくまともな思考が戻ってきてくれた。
「……あれ、授業は?」
「はあ? そんなのとっくに終わったよ。教室見てみな。まだ授業してるの、鈴木だけだから」
「んへ?」
僕を呼び起こしてくれた柏木は、呆れ全開に両手を上げて首を振ってみせる。
そう指摘されて、教室を見回せばあら不思議。
僕と柏木を除けば、誰もおらず。
おまけに空はもう茜色。教室の時計、その短針はとうに五を越えてしまっている。
なのに。
未だに教科書とノートを開いている僕は、ただの惚けた間抜けの銅像と。
あまりの滑稽さに、自分でさえ思わずそう自嘲してしまえるくらいには、完全に放課後を迎えてしまっていた。
「ったくさ。私がたまたま忘れ物を取りに来なかったら、ずっとそのままのつもりだったん?」
「……うん。ごめん、ありがとう。このままだったら、明日まで座ったままだったかも」
「寝ない気だったの?」
からからと。
軽く笑った柏木は、用が済んだと帰ることはなく。
どさりと、前の席へと腰掛け。
真っ正面から僕を、どこか面白がりながら眺めてくる。
「……帰らないの?」
「んー、それもいいけど、もっと面白いもの見つけたから。ほら、帰り道のおやつ的な?」
なにそれ、よく分からない例え。
まあでも。
楽しそうで何より。相変わらず、物好きだね柏木は。
「そんで、何惚けてたの? まあその様子だと、愛しの彼女のことでも考えてたんでしょ?」
「……すごいね。それも占い?」
「いいこと教えてあげる。当たる占いなんてのは、結局は情報の開示でしかないの。覚えとけ?」
指を立て、ドヤ顔でそう申告してくる柏木。
占いは統計、か。
当然ではあるのだろうけど、やっぱりなんか夢が崩れるよね、そういう現実的なのは。
「しっかしまあ、あの鈴木に彼女が出来て、それがあの愛咲とはねぇ。ほんと、おったまげ」
「意外?」
「実際、天地がひっくり返ったようなもんでしょ。だって、あの愛咲だよ。この柏木様を下にした四大美少女とか括られて、その中でも特に人気高いあの愛咲だ。入学一月でもう十人は一蹴してるって噂の女が、よりにもよってこの鈴木となんて……流石に、ねえ?」
そこまで言わなくても。
まあでも、実際そこまでだよね。
だって僕だ。
入学してから一度とて何かを為したことも、注目されたこともない、この僕だ。
そんな僕が、あの愛咲さんとだなんて。
僕でも噂だけは知ってた、あの人気者の彼女だなんて。
そんなの、目の当たりにしたって信じがたい、荒唐無稽の現実なのだから仕方ない。
何なら僕が第三者の立場だったらまず疑うし、何なら当事者の今でさえ、まだ夢か幻か──。
そこまで考えた刹那。
再び不意に過ぎってしまう、あの一瞬の感覚に、思わず自分の唇へ指先を置いてしまう。
茶化させはしないと。
なかったことにするのは、許さないと。
まるで誰かが、僕の意志へと介在するかのように。
「どしたん唇なんて触って。……あ、もしかしてキスした? もうヤッたの?」
「…………」
「って、あの鈴木に限ってそんなわけな……え、マジ?」
聞いたとはいえ、流石に本気とは思ってなかったのだろう。
冗談混じりに。
からかうような口振りでの問いだったが、思わず閉口してしまった僕の反応に、柏木は訝しげに眉をひそめたと思えば、大きなため息を一つついてしまう。
「はーあ。なんかの間違いかと思って聞いてみたけど……そう、昨日今日でラブラブ真っ盛りってわけ。はいはいご馳走様でした。はーうざっ」
「……なんでそんな不機嫌そうなの?」
「知らない! あーもうほんと、何なんだろうね。世の中ってさ、マジで意味不だわ。もう帰る」
「あ、ちょっと」
雑に立ち上がり、雑に鞄を持ち上げ、ギロリと僕を睨み付け。
それから、プンスカと。
いまいち要領を得ない怒りと共に、大股で帰ろうとしてしまう柏木に、やれやれと付いていく。
「付いてくんな」
「そう言われても、下駄箱まで一緒だしね」
「ふん」
そんな不満そうにそっぽ向かれてもね。
別に、話は終わりと見送ってもよかったけど。
そうした場合、柏木はもっと怒る。
それはもう、プンプンと。不機嫌そうに戻ってきて一言が増える。イメージではなく、経験談だ。
「……で? モテ要素皆無な鈴木は、どんな魔法であの愛咲を射止めたの? 魅了? 洗脳?」
「まだ続けるの? 出来たら面白いよね、洗脳。もちろん、ほんの偶然だよ」
「はーん。ほんの偶然で、あの愛咲がねぇ。……騙されてない?」
「さあ?」
廊下を歩き、階段を降りて下駄箱へ。
帰る度、いつも思うが。
我が五組だけ二階なのは不平等だよね。図書室がちょっとだけ近いのは、利点ではあるけどさ。
「……ん?」
そうして、下駄箱を開いた矢先。
昨日と同じく。
愛用のスニーカーに立てかけられた一枚を、目にしてしまう。
白い便箋。
昨日と違う点と言えば。
宛名も、差出人も一切記されていない所。あとはまあ、昨日に比べて気持ち、髪一枚程度重いくらいか。
……ふうん。
「なにそれ、ラブレター?」
「だとしたら、僕も中々のモテ期到来だね」
柏木の眉をひそめながらの軽口に返しつつ。
僕はその手紙を。
どこか既視感を、漠然とした警鐘に従いながら、そのまま鞄へと放り込む。
「読まないの?」
「うん。帰ってからのお楽しみにしようかなって」
「なんそれ」
うん、楽しみでもないけどお楽しみ。
だって、何となく察しはついちゃったからさ。
柏木の占いほどじゃないけど、それでも当たるときは当たると思うよ。嫌な予感ってのはね。
「……何かあったら、ちゃんと相談しなよ。あんた、誤魔化すのだから上手いでしょ?」
「優しいね。そしてよく知ってるね、柏木」
「何言ってんの? 鈴木がわかりやすいだけだし」
僕は褒めたのに。
柏木は喜ぶばかりか、むしろ顔を顰めてしまいながら、「んじゃ」と一言だけ告げて去ろうとする。
「あれ、どこか連れ回す気じゃなかったの?」
「当てつけ? そっちこそ、愛しの彼女を待たなくていいわけ?」
「ああ、うん。今日はじゃあねしちゃったからね。また明日……いや、土日挟んで来週かな」
「……あっそ。お利口さんで結構。従順な彼氏を持てて愛咲も嬉しいだろうね。そんじゃ」
別れ際の一言は、棘だらけ。
そんなくらいにそっけなく、呆れを露わにしながら、柏木は去っていく。
残された僕は、一人ポツンと立つばかり。
何が言いたかったんだろうか、と。
友人の皮肉の意味を測りかねつつ、けれども、ひとまずは置いておこうかな。
だって、考える時間は山ほどあるからね。
今日は歩き。帰宅までは少々長い。
考えに耽りながら、のんびりと歩くのだって悪くない。運動と暇潰しにだってなるしね。
靴を取り、履くより先に中を確認してみれば。
案の定、中からはジャラジャラ二つ、更にはもう一つと手のひらへと落ちてきてくれる。
先の手紙といい。
昨日の今日でさえなく、今日の今日で早速とは。
……うん、いいじゃん。
中々に気合が入ってて何より。
流石は人気者。たかが学び舎の姫だってのに、まるでアイドルの追っかけみたいに熱心なファンがいたもんだ。
針付き円盤。
如何にも学校の備品って感じな、鋭利な画鋲を、飾るように自身の下駄箱へと並べて。
彼女と別れるまでの間に、果たして何個溜まるだろうかと。
少し、楽しみになってしまいながら。
すっかり空になったボロ靴を履き、鼻歌混じりに、のんびりと帰路を歩み始める。
それにしても。
今日は何だか、不思議な一日だったな。
面白いだけじゃなく初めて。……ああまったく、恋愛ってのは、面白いものだね。




