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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第8話 だから申したでしょう――とは、言えなかった

 それから、時間が流れた。


 一日。


 二日。


 一月。


 二月。


 当然の話だが、海の向こうで起きている戦争の結果は、翌朝になれば新聞で読めるわけではない。


 新聞がない。


 テレビもない。


 インターネットもない。


 スマートフォンもない。


 検索欄に、


『アヘン戦争 現在 どっちが勝ってる』


 と打ち込むこともできない。


 これは思った以上に辛かった。


「遅い」


 ある日の朝。


 俺は庭を見ながら呟いた。


「何がでございます?」


 背後から、お喜乃の声。


「知らせです」


「何の?」


「海の向こうの」


「若君」


「はい」


「ここは水戸でございます」


「知っています」


「海の向こうは、遠うございます」


「それも知っています」


「では、仕方ないのでは?」


「分かってはいます」


「でしたら」


「でも遅いのです」


 お喜乃がため息をついた。


「最近、そればかりですね」


「そうですか」


「はい。朝起きては遅い。昼餉を食べながら遅い。夜になっても遅い」


「重要なことですから」


「昨日など、お饅頭を召し上がりながら『遅い』と」


「……」


「あれは何が遅かったのです?」


「餡子が出てくるのが」


「それは若君の食べ方の問題です」


「そうですね」


 素直に認めた。


 あの饅頭は皮が少し厚かった。


 いや。


 今は饅頭の話ではない。


 アヘン戦争だ。


 俺の知る歴史なら、清は負ける。


 それは分かっている。


 分かっているのだが。


 実際にこの時代を生きてみて、初めて知った。


 未来を知っていることと、未来が来るまで待てることは別問題だ。


 むしろ。


 知っているからこそ、待つのが苦しい。


 試験結果を知っていて発表を待つようなもの。


 いや。


 もっと悪い。


 俺の場合、その結果によって父の見る目が変わる。


 水戸の動きが変わる。


 もしかすると、日本の未来が変わる。


「若君」


「何です」


「眉間に皺が」


「ありますか」


「殿に似てまいりました」


「やめてください」


「そんなに嫌です?」


「嫌ではありません」


「今、即答しましたね」


「ただ、五歳で父上と同じ眉間の皺は嫌です」


「それは分かります」


「分かるのですか」


「はい」


「父上には言わないでください」


「もちろんです」


「なぜ笑っているのです」


「笑っておりません」


「笑っています」


「気のせいでございます」


 お喜乃は、すっかり俺の扱いを覚えたらしい。


 いや。


 俺が扱われているというのも、少し腹が立つのだが。


「それより若君」


「はい」


「今日は先生がお見えになる日です」


 俺の顔が固まった。


「……何の」


「お手習いの」


「必要ありません」


「あります」


「ありません」


「筆を逆さに持った方にはございます」


「いつまで言うのです!」


「忘れません」


「忘れてください!」


「可愛らしかったので」


「その話はもういいでしょう!」


 未来の日本を救う前に。


 俺はまず、五歳児として字を習わなければならなかった。


 人生とは。


 本当に。


 思うようにならない。


     ◇


 その日の昼。


 俺は、筆と格闘していた。


「若君」


「はい」


「もう少し力を抜いて」


「抜いています」


「筆が折れそうです」


「そんなに?」


「はい」


 手習いの先生は、穏やかな老人だった。


 名前は青山先生。


 年は六十前後。


 前世の俺と、ほぼ同じだ。


 なので精神的には同世代である。


 だが。


 向こうから見れば、俺は五歳児だ。


 当然。


「大変よくできました」


「……ありがとうございます」


 褒められる。


 これが辛い。


 本当に辛い。


 六十二歳で大学教授まで務めた男が、


『い』


 を書いて褒められる。


 しかも。


 正直に言う。


 あまり上手くない。


「もう一度」


「はい」


 筆を持つ。


 書く。


 曲がる。


「……」


「若君」


「何です」


「紙を睨んでも、字は真っ直ぐにはなりませぬ」


「知っています」


「では、もう少し優しいお顔を」


「できません」


「なぜ」


「悔しいからです」


 先生が少し笑った。


「若君は負けず嫌いでございますな」


「そうでしょうか」


「はい」


「別に、勝ち負けでは」


「では、なぜ先ほどから、ご自分の書いた字に『次こそは』と申しておられるのです」


「聞こえていました?」


「はい」


 恥ずかしい。


 お喜乃は部屋の隅で口元を押さえている。


「お喜乃」


「はい」


「笑うなら外へ」


「笑っておりません」


「肩が揺れています」


「咳でございます」


「便利ですね、その咳」


「若君の夢ほどでは」


「最近そればかりではありませんか!」


 青山先生まで笑った。


 もう駄目だ。


 俺に威厳などない。


 そもそも五歳児に威厳を求めること自体、間違っているのかもしれない。


 そんな時だった。


 廊下から、足音が聞こえた。


 速い。


 俺の手が止まった。


 まただ。


 以前。


 清と英国の争いが始まったという知らせが届いた時と同じ。


 いや。


 それより。


 もっと慌ただしい。


 お喜乃も顔を上げる。


 青山先生も。


 次の瞬間。


 襖が勢いよく開いた。


「七郎麻呂!」


「父上!」


 徳川斉昭が立っていた。


 息を切らしている。


 いや。


 正確には。


 怒っているようにも。


 驚いているようにも。


 何とも言えない顔をしていた。


「父上」


「来い」


「今、お手習いの途中です」


「よい」


「よくありません」


「よい!」


「先生に失礼です!」


「青山!」


「はっ」


「七郎麻呂を借りるぞ!」


「殿」


 青山先生は穏やかに答えた。


「もう借りておられます」


 父が止まった。


 俺も。


 お喜乃も。


 一瞬。


 静かになった。


「……うむ」


 父が頷いた。


 なんだ、その素直さは。


 俺が何か言うと三倍くらい返してくるのに。


「父上」


「なんだ!」


「先生には素直ですね」


「うるさい!」


「私にはすぐ怒鳴るのに」


「早く来い!」


「やはり!」


 結局、俺は連行された。


     ◇


 部屋に入った。


 父。


 家臣が数人。


 あの時。


 最初の知らせを持ってきた男もいる。


 そして。


 机の上には、何通もの書状。


 俺は。


 見た瞬間に分かった。


 来た。


 ついに。


「七郎麻呂」


「はい」


 父は座ったまま。


 俺を見た。


 妙な顔だった。


 怒っていない。


 いや。


 少し怒っている。


 父はいつも少し怒っているので、これは通常運転だ。


 でも。


 それ以上に。


 戸惑っていた。


「清が」


 父の声が低くなる。


「英国に敗れた」


 知っていた。


 知っていたことだ。


 なのに。


 胸が鳴った。


 歴史が。


 俺の知っている通りに。


 本当に。


 動いた。


「そうですか」


 俺は答えた。


 それだけ。


 すると。


 父の眉が跳ね上がった。


「そうですか、ではない!」


「では何と?」


「もっと驚け!」


「知っていましたから」


「それが気味悪いと言っておる!」


「父上」


「なんだ!」


「今、正直に話してよろしいですか」


「申せ」


「少しだけ」


「うむ」


「だから言ったでしょう、と思っています」


 沈黙。


 家臣たちの顔が固まる。


 俺は。


 言った直後に後悔した。


 父の顔が。


 ものすごく怖い。


「七郎麻呂」


「はい」


「もう一度申してみろ」


「申し訳ありませんでした」


「早いな!」


「謝る時は早い方がいいので」


「まだ怒っておらん!」


「これから怒るでしょう」


「……」


「父上なので」


「どういう意味だ!」


「ほら!」


 やはり怒った。


 家臣が一人、顔を伏せている。


 多分笑っている。


 父は深く息を吸った。


 吐いた。


 そして。


「……清は」


 また書状を見る。


「本当に負けた」


「はい」


「英国に」


「はい」


「大国が」


「はい」


「異人に」


「はい」


「なぜだ」


 俺は父を見る。


「前にも話しました」


「もう一度申せ」


「本当に?」


「申せ」


「途中で怒りませんか」


「怒らん」


「本当ですか」


「……たぶん」


「信用できません」


「七郎麻呂!」


「もう怒った!」


「お前が余計なことを言うからだ!」


「先が思いやられます!」


「それはこちらの台詞だ!」


 また。


 いつもの言い争い。


 でも。


 今日は。


 家臣たちも少しだけ笑っていた。


 父も。


 本気で怒ってはいなかった。


 だから。


 俺は息を吐いて。


 話した。


「清は、自分たちが強いと思っていました」


「実際、大国だ」


「はい。しかし、大国であることと、近代戦に強いことは違います」


「……」


「軍艦。大砲。兵站。指揮。通信。訓練。工業力。国家財政。戦争は、勇気だけではできません」


「またそれか」


「何度でも言います」


「しつこいな」


「父上が忘れるので」


「忘れておらん!」


「では試します」


「何?」


「戦争に必要なものを五つ」


「……」


「どうぞ」


「なぜわしが試される!」


「覚えているのでしょう」


「それとこれとは別だ!」


「また別!」


「うるさい!」


 家臣の一人がとうとう咳をした。


 笑いを隠すためだ。


 父が睨む。


「風邪か」


「はっ」


「先日も風邪ではなかったか」


「……長引いております」


「医者に診せろ」


「はっ」


 可哀想に。


 俺は見ないことにした。


「父上」


「なんだ」


「清の敗北は、他人事ではありません」


 その一言で。


 部屋の空気が変わった。


 父も。


 家臣も。


 笑わない。


「なぜだ」


「日本も、同じだからです」


「同じではない」


「何が違います」


「我が国には武士がおる」


「清にも兵はいました」


「我が国の武士は命を惜しまぬ」


「清にも勇敢な兵士はいました」


「我が国には神州の気風がある」


「それで砲弾を止められますか」


 父の顔が変わる。


 今度こそ怒る。


 だが。


 俺も退かなかった。


「父上」


「なんだ」


「清も、自分たちは特別だと思っていました」


「……」


「大国だ。文明の中心だ。異人より優れている。そう思っていた」


「……」


「日本も同じ過ちをしたら」


 一度。


 息を吸った。


「同じように負けます」


 沈黙。


 長い。


 誰も動かない。


 父が。


 俺を見ている。


 怖い。


 でも。


 目を逸らさない。


「七郎麻呂」


「はい」


「お前は、日本が負けると申すのか」


「今のままなら」


 答えた。


「負けます」


 家臣の一人が息を呑んだ。


 父の目が細くなる。


「ならば」


 低い声。


「どうする」


「変えます」


「何を」


「全部です」


「またそれか」


「またです」


「大きすぎる」


「知っています」


「五歳のお前が?」


「五歳だからできないこともあります」


「ならば」


「だから父上がいます」


 父が固まった。


「……何?」


「私は五歳です」


「知っておる」


「金もない」


「当たり前だ」


「権限もない」


「当然だ」


「屋敷の外にも勝手に出られない」


「出すわけがない」


「ですから」


 俺は父を見た。


「父上に働いてもらいます」


「待て」


「何です」


「なぜわしがお前の部下のようになっておる」


「部下とは言っていません」


「今の言い方はそうだった!」


「気のせいです」


「気のせいではない!」


「言葉の綾です」


「便利だな、それも!」


 また怒鳴られた。


 でも。


 父の口元が。


 少し。


 ほんの少しだけ。


 笑っているように見えた。


「まず何をする」


 父が聞いた。


 俺は。


 一瞬。


 言葉を失った。


「父上」


「なんだ」


「今、聞きました?」


「何を」


「まず何をする、と」


「聞いた」


「私に?」


「そうだ」


 信じられなかった。


 あれほど。


 五歳。


 子供。


 夢。


 気味が悪い。


 そう言っていた父が。


 俺に。


 初めて。


 次を聞いた。


「……英語です」


 俺は答えた。


「何?」


「外国語を学びます」


「蘭語ではなく?」


「蘭語も必要です。しかし、それだけでは足りません」


「なぜだ」


「これから日本へ来るのは、オランダだけではありません」


 英国。


 米国。


 フランス。


 ロシア。


 いずれ。


 世界中が。


 この国に手を伸ばす。


「父上」


「なんだ」


「攘夷したいですか」


 父の眉が跳ね上がった。


「当然だ!」


「なら」


 俺は言った。


「まず、異人の言葉を学んでください」


「嫌だ!」


「早い!」


「嫌なものは嫌だ!」


「子供ですか!」


「お前に言われたくない!」


「敵の言葉も知らず、どうやって追い払うのです!」


「気合だ!」


「一番言ってはいけないやつです!」


「なんだと!」


「父上!」


「なんだ!」


「また会話が進んでいません!」


「お前が生意気だからだ!」


 やっぱり。


 先は長い。


 本当に長い。


 でも。


 前とは違う。


 父は。


 もう。


 俺の話を笑わない。


 清が負けた。


 予言が当たった。


 それだけで。


 歴史が大きく変わったわけではない。


 幕府も。


 水戸も。


 日本も。


 まだ何も変わっていない。


 ただ。


 一人。


 徳川斉昭という男が。


 五歳の息子の言葉を。


 無視できなくなった。


 その日の夜。


 俺は、自分の書いた年表の横に。


 一つだけ。


 新しい文字を書いた。


 **最初の予言、的中。**


 少し考えた。


 その下に。


 **父上、少しだけ話を聞くようになる。**


 さらに考えて。


 付け足した。


 **ただし、すぐ怒る。**


「誰がすぐ怒るのだ!」


「うわっ!」


 背後から声。


 振り向く。


 父がいた。


「なぜいるのです!」


「お前がまた妙なことを書いておると聞いた!」


「誰から!」


 廊下の向こう。


 お喜乃が。


 静かに目を逸らした。


「お喜乃!」


「私は何も」


「今、絶対に聞いていましたよね!」


「聞こえません!」


「返事をしているでしょう!」


「七郎麻呂!」


「今度は何です!」


「誰がすぐ怒る!」


「父上です!」


「なんだと!」


「ほら!」


 屋敷に。


 また。


 父の怒鳴り声が響いた。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 父上が怒鳴らずに最後まで話を聞けるようになるまで。


 ……たぶん。


 幕府を救うより難しいかもしれない。


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