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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第9話 父上、攘夷するなら英語を学んでください

「嫌だ!」


「まだ何も説明していません!」


「聞かんでも分かる!」


「それを『話を聞かない』と言うのです!」


「異人の言葉など学べるか!」


「だから、なぜです!」


「嫌だからだ!」


「子供ですか!」


「五歳のお前に言われたくない!」


 清国が英国に敗れたという知らせが届いてから、三日目。


 俺は早くも後悔していた。


 いや。


 正確には。


 父が初めて、


『まず何をする』


 と聞いてくれた瞬間は、嬉しかった。


 本当に。


 少し感動したくらいだ。


 あれほど俺の話を、


『夢だ』


『五歳だ』


『気味が悪い』


 と一蹴していた父が、自分から次の策を求めてくれたのだから。


 歴史が変わる。


 ここから始まる。


 そう思った。


 俺は馬鹿だった。


 人間は。


 質問したからといって、答えを受け入れるとは限らない。


 特に。


 徳川斉昭という男は。


「父上」


「なんだ!」


「一度、落ち着きましょう」


「わしは落ち着いておる!」


「その声量で?」


「これは地声だ!」


「存じております!」


 俺まで大声になる。


 良くない。


 本当に良くない。


 最近、俺も父に似て声が大きくなってきた気がする。


 まだ五歳なのに。


 このまま成長したらどうなるのだろう。


 二人で一緒に怒鳴れば、黒船くらい追い返せるかもしれない。


 いや。


 無理だ。


 そんな馬鹿なことを考えている場合ではない。


 俺は一度、息を吸った。


「いいですか、父上」


「よくない」


「まだ何も言っていません!」


「英語を学べというのであろう!」


「そうです!」


「なら嫌だ!」


「そこを説明しようとしているのです!」


 駄目だ。


 最初に戻った。


 俺は頭を抱えた。


 部屋には父と俺。


 そして、家臣が二人。


 一人は年配の側近。


 もう一人は三十歳前後の若い侍だった。


 先ほどから二人とも、できるだけ存在感を消そうとしている。


 気持ちは分かる。


 巻き込まれたくないのだろう。


 だが。


 逃がさない。


「そこの二人」


 二人の肩が同時に揺れた。


「はっ」


「今の話、どう思います?」


「七郎麻呂!」


 父が怒鳴る。


「家臣を巻き込むな!」


「父上が話を聞かないからです!」


「だからといって家臣に聞くな!」


「では父上が聞いてください!」


「嫌だ!」


「だから!」


 また戻った。


 本当に。


 どうすればいい。


 俺が大学教授だった頃。


 こんな学生がいたら、どうしていただろう。


『先生、質問があります』


『どうぞ』


『でも先生の説明は聞きたくありません』


 単位を落とす。


 即決だ。


 だが。


 父は学生ではない。


 しかも単位を落としても俺が困る。


「分かりました」


 俺は言った。


「英語を学ばなくても結構です」


 父がぴたりと止まった。


「……何?」


「嫌なのでしょう」


「うむ」


「では学ばなくても構いません」


「そうか」


「はい」


 父は少し得意そうな顔をした。


 俺は続ける。


「ただし、今後、英国人が何を言っても父上には分かりません」


「通詞を使えばよい」


「通詞が嘘をついたら?」


「何?」


「あるいは間違えたら?」


「……」


「父上は確かめられません」


 黙った。


 よし。


「条約を見せられても読めない」


「……」


「相手の新聞も読めない」


「……」


「手紙も読めない」


「……」


「軍事書も読めない」


「……」


「相手が何を欲しがっているのかも、何を怖がっているのかも、誰かの説明を待つしかありません」


「七郎麻呂」


「はい」


「お前」


「はい」


「性格が悪いな」


「父上にだけは言われたくありません!」


 家臣の一人が、ぶふっと吹き出した。


 やった。


 ついに。


 父がそちらを見る。


「今、笑ったか」


「い、いえ!」


「笑ったな」


「咳でございます!」


「最近、皆よく咳をするな」


「季節の変わり目ゆえ!」


 必死だ。


 可哀想なので助けることにした。


「父上」


「なんだ」


「話が逸れています」


「お前のせいだ!」


「笑わせたのは父上です!」


「わしか!」


「そうです!」


 また言い合う。


 すると。


 年配の家臣が、小さくため息をついた。


 俺も父も同時にそちらを見る。


「今、ため息をついたか」


「いいえ」


「つきましたね」


「ついておりませぬ」


「絶対についた!」


「殿と若君の仲睦まじいご様子に、感服いたしておりました」


「どこがだ!」


「どこがです!」


 今度は俺と父の声が重なった。


 年配の家臣が目を伏せる。


 少し笑っていた。


 くそ。


 遊ばれている。


 俺は咳払いした。


「話を戻します」


「うむ」


 父も咳払いする。


 似ている。


 少し嫌だ。


「父上は、攘夷をしたいのでしょう」


「当然だ」


 即答だった。


 迷いがない。


「異人をこの国から追い払いたい」


「そうだ」


「日本を守りたい」


「無論」


「では」


 俺は父を見る。


「なおさら、学んでください」


 父の顔から、少しだけ怒りが消えた。


「なぜだ」


「戦う相手を知らずに、どうやって勝つのです?」


「……」


「英国人は何を食べる」


「知らん」


「どこから来る」


「海の向こうだ」


「広すぎます」


「うるさい」


「英国はどれほど遠い」


「……」


「人口は。国の仕組みは。王は誰か。議会とは何か。税をどう集める。軍をどう養う。船をどこで造る。鉄をどれほど作る」


 父は黙る。


「分かりませんよね」


「……うむ」


 珍しい。


 素直だ。


 明日は雪かもしれない。


「七郎麻呂」


「はい」


「今、失礼なことを考えたな」


「考えていません」


「顔に出ておる」


「お喜乃にも言われます」


「では出ておるのだ!」


 俺の顔はそんなに分かりやすいのか。


 気をつけよう。


「とにかくです」


 俺は続けた。


「敵を嫌うのは自由です」


「うむ」


「信用しなくてもいい」


「当然だ」


「ですが」


 少し身を乗り出す。


「嫌いな相手ほど、学ばなければなりません」


 父の目を見る。


「嫌いだから見ない。嫌いだから聞かない。嫌いだから知らなくていい。それは、ただ目を閉じているだけです」


「……」


「目を閉じている間にも、相手は大砲を作ります」


 部屋が静かになった。


「船を造ります」


「……」


「地図を描きます」


「……」


「日本語を学びます」


 父の眉が動いた。


「異人が?」


「学びます」


「なぜだ」


「日本と交渉するためです」


「……」


「日本に来るためです」


「……」


「日本から利益を得るためです」


 父の顔が険しくなった。


「つまり」


 俺は言う。


「相手がこちらを学んでいるのに、こちらだけが『嫌いだから学ばない』では、最初から負けています」


 今度こそ。


 父は何も言わなかった。


 怒鳴らない。


 否定しない。


 黙っている。


 俺は。


 少しだけ緊張した。


 言いすぎたか。


 いや。


 これくらいでいい。


 父には遠回しな言葉より。


 正面から言った方が届く。


 多分。


「七郎麻呂」


「はい」


「お前は」


「はい」


「異人が好きなのか」


「いいえ」


 即答した。


 父が驚いたように見る。


「好きではないのか」


「会ったこともありません」


「ならば、なぜそこまで」


「好き嫌いと外交は別です」


「がいこう?」


「……国と国との付き合いです」


「それくらい分かる」


「なら聞かないでください」


「確認だ!」


「父上は本当に何でも言い返しますね」


「お前もだ!」


 それは。


 否定できない。


 俺は少し考えてから言った。


「父上」


「なんだ」


「嫌いな人間と話したことはありますか」


「ある」


「誰です?」


「たくさんおる」


「多いですね」


「政治をしておれば増える」


 重い。


 妙に説得力がある。


「では、その嫌いな相手と話す時、相手の言葉を知らなくてもいいですか」


「同じ日本語だ」


「そういう意味ではありません」


「分かっておる」


「また確認ですか」


「うむ」


 ちょっと腹が立つ。


「相手が何を考え、何を欲しがり、どこで怒るか。それを知らずに交渉できますか」


「できぬ」


「なら同じです」


 父は再び黙った。


「英語を学ぶというのは、英国を好きになることではありません」


「……」


「英国人になることでもない」


「……」


「まして国を売ることでもない」


 俺は。


 少しゆっくり言った。


「日本を守るために、相手を知るのです」


 静かだった。


 障子の向こうから。


 風の音。


 鳥の声。


 それだけ。


 父が。


 長く。


 長く考えた。


 そして。


「嫌だ」


 俺は崩れ落ちそうになった。


「ここまで話して!」


「嫌なものは嫌だ!」


「父上!」


「なんだ!」


「少しは進歩してください!」


「話は分かった!」


「では!」


「だが嫌だ!」


「どういうことです!」


「頭では分かる!」


「なら!」


「心が嫌だと言っておる!」


 人間臭すぎる!


 俺は頭を抱えた。


「父上」


「なんだ」


「政治家として、それはどうなのです」


「人間として正直だ!」


「開き直らないでください!」


「お前は嫌なものがないのか!」


「あります!」


「何だ!」


 思わず答えた。


「椎茸です!」


 沈黙。


 全員。


 俺を見る。


 やってしまった。


 前世から嫌いだった。


 なんとなく。


 食感が。


「……椎茸」


 父が呟いた。


「はい」


「お前、昨日の煮物に入っておった椎茸を残していたな」


「見ていたのですか」


「お喜乃が困っておった」


「告げ口ですか」


「食え」


「嫌です」


「身体に良い」


「嫌です」


「好き嫌いするな」


「父上」


「なんだ」


「今の父上と私、何が違います?」


 父の顔が固まった。


 家臣が。


 また顔を伏せた。


 今度こそ。


 肩が揺れている。


「英語が嫌な父上」


「……」


「椎茸が嫌な私」


「……」


「同じですね」


「違う!」


「何が!」


「椎茸は食い物だ!」


「英語は言葉です!」


「だから違う!」


「嫌だから拒否する構造は同じです!」


「屁理屈だ!」


「論理です!」


「五歳児が論理を語るな!」


「年齢で逃げないでください!」


 また喧嘩になった。


 そして。


 なぜか最終的には、


 **俺が椎茸を一つ食べるなら、父も英語を少し考える。**


 という、訳の分からない約束になった。


「納得できません」


 俺は言った。


「わしもだ」


「では、なぜこんな話に」


「お前が椎茸の話をするからだ!」


「聞いたのは父上でしょう!」


「答えたのはお前だ!」


「では最初から聞かないでください!」


「嫌いなものがあるかと聞いただけだ!」


 まただ。


 もう。


 誰か止めてくれ。


 家臣を見る。


 二人とも。


 目を逸らした。


 逃げたな。


     ◇


 その日の夕餉。


 俺の膳には。


 椎茸が一つ。


 あった。


 明らかに。


 わざとだ。


「お喜乃」


「はい」


「これは」


「椎茸でございます」


「知っています」


「では、なぜお尋ねに?」


「なぜ一つだけ」


「殿からのお申し付けです」


「やはり!」


 父め。


 本当に。


 なんという執念。


「若君」


「何です」


「召し上がらないのですか」


「……」


「お約束では?」


「知っています」


「では」


「分かっています!」


 箸でつまむ。


 見る。


 椎茸。


 嫌いだ。


 六十二歳まで嫌いだった。


 五歳になっても嫌いだった。


「若君」


「急かさないでください」


「見つめても、味は変わりません」


「知っています」


「では」


「分かっています!」


 口に入れる。


 噛む。


「……」


「いかがです?」


「嫌いです」


「正直ですね」


「人間として」


「殿と同じことを」


「やめてください!」


 飲み込んだ。


 水を飲む。


「食べました」


「はい」


「父上に伝えてください」


「何と?」


「約束は守った、と」


「かしこまりました」


 お喜乃が笑う。


「それと」


「はい」


「英語を学ばなかったら、明日は父上の膳に椎茸を十個入れてください」


「できません」


「なぜ!」


「殿に怒られます」


「私も今、怒っています!」


「怖さが違います」


「正直すぎます!」


 その夜。


 父から返事が届いた。


 短い。


 ただ一言。


 **考えておく。**


 俺は、その紙をしばらく見ていた。


「……考えておく、か」


「良いお返事では?」


 お喜乃が言う。


「政治家の『考えておく』は信用できません」


「若君」


「何です」


「五歳ですよね」


「それはもういいです!」


 でも。


 本当は。


 少しだけ。


 嬉しかった。


 拒否ではない。


 完全な否定でもない。


 父は。


 考えると言った。


 それだけで。


 十分だ。


 今日は。


 それでいい。


 人間は。


 一晩で変わらない。


 正しいことを言われたからといって。


 すぐに納得もしない。


 頭で分かっても。


 心が追いつかないこともある。


 俺だって。


 椎茸を食べたからといって。


 好きにはならなかった。


 父も。


 多分。


 同じなのだ。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 父上が英語を学ぶ気になるまで。


 残念ながら。


 椎茸が、あと何個必要になるかは。


 誰にも分からなかった。


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