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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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11/12

第10話 嫌いだから見ない、は子供の喧嘩です

 翌朝。


 俺は、自分の膳を見て固まった。


「……お喜乃」


「はい」


「これは何です?」


「椎茸でございます」


「それは知っています」


「では、なぜお尋ねに?」


「多くないですか」


 昨日は一つだった。


 今日は三つある。


 明らかに増えている。


 しかも、俺の嫌いな、妙に肉厚なやつだ。


「若君は育ち盛りですので」


「椎茸だけ三倍にする必要があります?」


「栄養がございます」


「他にも栄養のあるものはあります」


「好き嫌いはいけません」


「それを言うなら、父上は英語を学ぶのですか」


「私には分かりません」


 お喜乃は平然と答えた。


 怪しい。


 非常に怪しい。


 俺は椎茸を一つ箸でつまみ、裏返した。


 ひだがある。


 当たり前だ。


 だから何だ。


「父上から何か聞いていますね」


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


「私の目を見て」


「お味噌汁が冷めますよ」


「逸らしましたね!」


「お魚もございます」


「話を逸らしましたね!」


「今日は良いお天気ですね」


「完全に逃げましたね!」


 間違いない。


 父が何か企んでいる。


「お喜乃」


「はい」


「私はあなたを信頼しています」


「ありがとうございます」


「だから正直に話してください」


「嫌です」


「早い!」


 交渉の余地すらなかった。


「なぜです!」


「殿に口止めされておりますので」


「今、全部言いましたよね?」


「……」


「父上に口止めされていると」


「言っておりません」


「言いました!」


「夢では?」


「便利に使うな!」


 とうとう俺の専売特許まで奪われた。


 この屋敷。


 日に日に俺への遠慮がなくなっている気がする。


「とにかく」


 俺は椎茸を見た。


「一つ食べます」


「三つございます」


「一つです」


「三つです」


「一つ」


「三つ」


「二つ」


「三つ」


「今、交渉ですよ?」


「存じております」


「普通は少し譲歩するものです」


「私は料理番ではありませんので」


「なら最初からなぜ交渉相手の顔をしていたのです!」


「若君が勝手に始められました」


「……」


 負けた。


 悔しい。


 六十二歳の大学教授が。


 二十歳そこそこの侍女に。


 椎茸を巡る交渉で完全敗北した。


 俺は仕方なく一つ口へ入れた。


 噛む。


「……嫌いです」


「存じております」


「二つ目は?」


「どうぞ」


「そういう意味ではありません!」


 俺が抗議した、その時だった。


 廊下の向こうから。


「七郎麻呂!」


 聞き慣れた大声。


 俺は目を閉じた。


「今度は父上ですか」


「そのようですね」


「朝から元気ですね」


「良いことです」


「呼ばれる側は大変です」


「ご家族ですから」


「便利な言葉ですね、家族」


 都合の悪いことを全部それで押し切れる。


「七郎麻呂! まだか!」


「まだ呼ばれていません!」


 俺も廊下へ向かって怒鳴り返した。


 少しの沈黙。


 そして。


「今呼んだ!」


「では最初からそう言ってください!」


「早く来い!」


「朝餉の途中です!」


「椎茸は食ったか!」


 俺は固まった。


 お喜乃を見る。


 お喜乃が目を逸らす。


「やっぱり父上ではありませんか!」


「私は何も」


「全部分かりました!」


 廊下の向こうから、さらに父の声。


「三つとも食え!」


「嫌です!」


「約束を守れ!」


「一つしか約束していません!」


「細かい男だな!」


「父上に言われたくありません!」


 朝から屋敷に怒鳴り声が響いた。


 近頃。


 家臣たちはもう誰も驚かなくなった。


 慣れとは恐ろしい。


     ◇


 結局。


 椎茸は二つ食べた。


 三つ目は残した。


 これは俺の小さな抵抗である。


 父のもとへ向かうと、部屋には見知らぬ男がいた。


 年は四十前後だろうか。


 細身。


 少し神経質そうな顔。


 膝の前には、何冊かの書物が置かれている。


 俺は父を見る。


「この方は?」


「異国の言葉を学んでおる」


「蘭語を?」


「それもだ」


「では」


 俺は男を見る。


 男は深く頭を下げた。


「英吉利の言葉につきましても、わずかながら」


 俺は父を見る。


 父は俺を見ない。


 わざとらしいほど見ない。


「父上」


「なんだ」


「呼んだのですか」


「何を」


「この方を」


「たまたまだ」


「たまたま?」


「うむ」


「英語を学ぶよう言われた翌日に?」


「たまたま屋敷に来た」


「何の用で?」


「……」


「父上」


「うるさい」


「まだ何も言っていません」


「顔がうるさい!」


「顔に音はありません!」


 男が、ほんの少しだけ俯いた。


 肩が動いた。


 笑った。


 間違いなく。


「先生」


 俺が声をかける。


 男がびくっとする。


「はい」


「今、笑いました?」


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


「顔を上げてください」


「それはちょっと」


「なぜです」


「若君」


 父が割って入った。


「学びに来たのであろう」


「父上が?」


「お前がだ!」


「なぜ私が!」


「お前が言い出した!」


「父上に学べと言ったのです!」


「ならば、お前が先にやれ!」


「子供ですか!」


「だから五歳のお前に言われたくない!」


 男がまた俯いた。


 絶対に笑っている。


「先生」


「はい」


「お名前を」


「藤田玄庵と申します」


「玄庵殿」


「若君、私のような者に殿など」


「では玄庵先生」


「は」


「父上が英語を学ぶまで帰らないでください」


「七郎麻呂!」


「何です!」


「勝手に決めるな!」


「では父上が決めてください!」


「わしは学ばぬ!」


「昨日、考えておくと言いました!」


「考えた!」


「結論は?」


「嫌だ!」


「何も進歩していません!」


 俺は頭を抱えた。


 本当に。


 なんという男だ。


 清国が負けた。


 自分の息子の予言が当たった。


 異国を知る必要性も理解した。


 それでも。


 嫌なものは嫌。


 人間というのは、本当に面倒くさい。


 正しさだけでは動かない。


 父は腕を組んだ。


「よいか、七郎麻呂」


「はい」


「わしは異人が嫌いだ」


「知っています」


「奴らは勝手に海を越え、他国へ押し入り、自分たちの都合を押しつける」


「はい」


「清で起きたことを見よ。阿片を売りつけ、拒めば戦だ」


「その通りです」


 父が少し驚いた。


「否定せぬのか」


「なぜ否定するのです?」


「お前は先ほどから、異人の言葉を学べと」


「学ぶことと、褒めることは違います」


 俺は言った。


「英国が清にしたことを、立派だとは思いません」


「……」


「むしろ、警戒すべきです」


「ならば」


「だから学ぶのです」


 父の眉間に皺が寄る。


「またそれか」


「何度でも言います」


「しつこい」


「父上よりは」


「何?」


「何でもありません」


「今、何か言ったな」


「夢です」


「便利に使うな!」


 また怒鳴られた。


 玄庵先生が完全に俯いている。


 もう笑いを隠す気もないらしい。


 俺は父へ向き直った。


「父上」


「なんだ」


「嫌いだから見ない、は子供の喧嘩です」


「……」


 言った。


 言ってしまった。


 父の顔が変わる。


「もう一度申せ」


「嫌いだから見ない」


「そこではない!」


「子供の喧嘩です」


「七郎麻呂!」


 やっぱり怒った。


「怒鳴っても事実です!」


「父を子供扱いするな!」


「なら大人らしくしてください!」


「五歳児に言われる筋合いはない!」


「だから五歳児に言われないようにしてください!」


 玄庵先生が咳き込んだ。


 笑いすぎだ。


「先生、大丈夫ですか」


「はい……少々」


「風邪ですか」


「いえ」


「この屋敷、最近風邪が流行っているのです」


「そうでございますか」


「皆、父上と私が喧嘩すると咳をします」


「なるほど」


「なるほどではない!」


 父が怒鳴る。


 先生はまた俯いた。


 俺はため息をついた。


「父上」


「なんだ!」


「怖いのですか」


 ぴたり。


 空気が止まった。


 父の表情が消える。


「……何がだ」


「英語が」


「馬鹿を申せ!」


「では、なぜ学ばないのです?」


「嫌いだからだ!」


「本当に?」


「本当だ!」


「読めないからでは?」


「……」


 父が黙った。


 俺は。


 その顔を見て。


 少しだけ。


 分かった。


 ああ。


 そうか。


 これは。


 俺が手習いの先生の前で、字を書けなかった時と同じだ。


 六十二歳の知識がある。


 大学教授だった。


 それなのに。


 五歳の手で上手く筆を扱えない。


 悔しかった。


 恥ずかしかった。


 だから紙を睨んだ。


 父も。


 同じなのかもしれない。


 水戸藩主。


 徳川御三家。


 家臣の前で。


 異国の文字が一つも読めない。


 分からない。


 教えを請わなければならない。


 それが。


 嫌なのだ。


「父上」


「なんだ」


「分からないのが恥ずかしいのですか」


「違う!」


「では、これを読めますか」


 俺は玄庵先生の前に置かれた本を指さした。


 父が睨む。


「読める」


「どうぞ」


「……」


「父上?」


「今読もうとしておる!」


「静かですね」


「集中しておる!」


「どの文字を?」


「七郎麻呂」


「はい」


「お前を庭に放り出してもよいか」


「駄目です!」


 怖い。


 さすがにそれは困る。


 だが。


 俺は笑った。


「父上」


「なんだ」


「私も字が下手です」


「知っておる」


「即答しないでください!」


「昨日見た」


「……」


「かなり酷かった」


「そこまで言います?」


「事実だ」


「父上は人の心がありませんか?」


「お前に言われたくない」


 くそ。


 だが。


 少しだけ。


 父の顔が緩んだ。


「私は悔しいです」


「何が」


「六十二年――」


 危ない。


「長い夢の中では、たくさん本を読みました」


「うむ」


「なのに、今はまともに字も書けない」


「五歳だからな」


「悔しいです」


「……」


「恥ずかしいです」


 父は黙る。


「でも、書けるようになるには」


 俺は言った。


「下手な字を書くしかありません」


「……」


「読めるようになるには、読めないと認めるしかない」


「……」


「分からないなら、教えてもらうしかない」


 俺は父を見た。


「恥ずかしいですけれど」


 少し笑う。


「知らないふりをするよりは、ましです」


 部屋が静かになった。


 父は俺を見ていた。


 長い。


 本当に長く。


 それから。


「玄庵」


「はっ」


「その書物を開け」


 玄庵先生の目が少し大きくなる。


「殿」


「何だ」


「よろしいので?」


「一度だけだ」


 俺は思わず口を挟んだ。


「一度では覚えませんよ」


「うるさい!」


「事実です!」


「一度と言ったら一度だ!」


「では明日は二度目ですね」


「七郎麻呂!」


「はい!」


 父が睨む。


 俺も見返す。


 やがて。


 父が大きく息を吐いた。


「……まず何をする」


 玄庵先生は少し迷ってから、一冊の書物を開いた。


「では、文字から」


「文字?」


「は」


「いくつある」


「二十六」


「多い!」


「そうですか?」


 俺が言うと、父が睨んだ。


「お前は黙っておれ」


「はい」


「……二十六か」


「はい」


「覚えられるか」


「殿ならば」


「今、少し笑ったか」


「滅相もございません」


「皆、わしを見ると笑うようになっておらんか?」


「気のせいです」


 俺が答えた。


「お前には聞いておらん!」


 その日。


 徳川斉昭は。


 生まれて初めて。


 異国の文字を学んだ。


「これは何だ」


「Aでございます」


「えい?」


「はい」


「次は」


「B」


「びい」


「はい」


「その次」


「C」


「しい」


「……」


 父が黙る。


「どうしました」


「まとまりがない!」


「文字に怒らないでください!」


「なぜ、えい、びい、と来て、しいなのだ!」


「私に言われても!」


「異人は何を考えておる!」


「知りません!」


 玄庵先生が。


 とうとう。


 声を出して笑った。


 父が睨む。


 俺も笑った。


「何がおかしい!」


「いえ」


「七郎麻呂!」


「はい」


「お前もやれ!」


「なぜです!」


「わし一人に恥をかかせる気か!」


「やはり恥ずかしかったのですね!」


「うるさい!」


 結局。


 俺も隣に座らされた。


 五歳の俺。


 三十代の父。


 二人並んで。


「A」


「えい」


「B」


「びい」


「C」


「しい」


 と。


 声に出した。


 何だこれ。


 未来から来た六十二歳の大学教授と。


 水戸烈公・徳川斉昭が。


 二人で英語の文字を読んでいる。


 歴史書には。


 絶対に書かれないだろう。


 いや。


 書かれても困る。


 その夜。


 俺はお喜乃に言った。


「父上が英語を学びました」


「まあ」


「驚かないのですか」


「若君が昨日、椎茸を召し上がりましたので」


「何の関係が?」


「似た者親子でございます」


「違います」


「そうですか?」


「絶対に」


 お喜乃が笑った。


「では、明日も椎茸を」


「それは違います!」


「殿も明日、英語を?」


「それとこれとは別です!」


 言った瞬間。


 俺は固まった。


 お喜乃も。


「……若君」


「何です」


「今の言い方」


「忘れてください」


「殿にそっくりでした」


「忘れてください!」


 最悪だ。


 本当に。


 最悪だ。


 だが。


 少しだけ。


 嬉しかった。


 父は。


 分からないと言えなかった。


 恥ずかしかった。


 だから嫌った。


 見ないようにした。


 拒んだ。


 でも。


 今日。


 初めて。


 知らないものを前に。


 座った。


 たった三文字。


 A。


 B。


 C。


 国は、まだ何も変わっていない。


 幕府も。


 軍も。


 制度も。


 何一つ。


 それでも。


 徳川斉昭が。


 自分の知らない世界へ。


 一歩だけ足を踏み出した。


 俺は思う。


 歴史なんてものは。


 案外。


 こういう小さなところから変わるのかもしれない。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 父上がZまで覚えるまで。


 ……正直。


 黒船より先に間に合うか。


 少し不安だった。


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