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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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12/14

第11話 初めて父が黙った日

 徳川斉昭が英語を学び始めてから、三日が経った。


 正確に言えば。


 本人は、まだ「学び始めた」とは認めていない。


「わしは英語など学んでおらん」


 朝から父はそう言った。


 俺は目の前に置かれた紙を見た。


 そこには。


 かなり大きな字で。


 **A B C D E**


 と書いてある。


 下手だ。


 ものすごく下手だ。


 人のことは言えないが、それでも下手だ。


「父上」


「なんだ」


「これは?」


「紙だ」


「そういうことを聞いていません」


「なら何だ」


「ここに書いてある文字です」


「異人の文字だ」


「誰が書いたのです」


「……」


「父上?」


「知らん」


「筆跡が父上ですが」


「似ておるだけだ」


「昨日もそう言いましたね」


「うむ」


「一昨日も」


「うむ」


「三日続けて、父上にそっくりな字を書く謎の人物が、この部屋に侵入していると?」


「その可能性はある」


「捕まえた方がいいですよ!」


「七郎麻呂!」


「はい!」


 朝から怒鳴られた。


 もう慣れた。


 いや。


 五歳の耳には、まだ少し痛い。


 だが心は慣れた。


 父は不機嫌そうに紙を裏返した。


「とにかく」


「はい」


「わしは学んでおらん」


「では、昨日覚えた文字は?」


「知らん」


「Cの次は?」


「Dだ」


「覚えているではありませんか!」


「今のは偶然だ!」


「どんな偶然です!」


 玄庵先生が俯いた。


 笑っている。


 もう隠す気もないらしい。


 最近。


 父と俺が一緒にいる時、周囲の人間はよく笑うようになった。


 最初の頃は。


 五歳の息子が水戸藩主に言い返すなど、とんでもないことだったのだろう。


 皆、青い顔をしていた。


 今は違う。


 どうせまた始まった。


 そんな顔をしている。


 慣れとは恐ろしい。


「玄庵」


 父が言った。


「はっ」


「次だ」


「はい?」


「文字の続きを申せ」


 俺は父を見る。


「学んでいるではありませんか」


「お前は黙れ!」


「でも」


「黙れ!」


「はいはい」


「はいは一度だ!」


「はい」


 このあたり。


 本当に細かい。


 玄庵先生が紙を開く。


「では、昨日の続きから」


「うむ」


「F」


「えふ」


「G」


「じい」


「H」


「……」


 父が黙った。


「殿?」


「待て」


「はい」


「今、考えておる」


「どうぞ」


「……えいち」


「はい」


 父の顔が少し緩む。


 俺は言った。


「正解です」


「お前に褒められたくない!」


「なぜです!」


「腹が立つ!」


「理不尽です!」


「それを言うな!」


 玄庵先生がとうとう声を立てて笑った。


 父が睨む。


「何がおかしい」


「いえ。失礼いたしました」


「最近、そなたも遠慮がなくなったな」


「殿と若君を見ておりますと」


「なんだ」


「細かいことを気にする方が馬鹿らしくなってまいりました」


 沈黙。


 俺は父を見る。


 父も俺を見る。


「父上」


「なんだ」


「私たち、今、馬鹿にされました?」


「されたな」


「そうですよね」


「玄庵」


「はっ」


「あとで覚えておけ」


「殿」


「なんだ」


「そういうことをおっしゃるから笑われるのです」


 強い。


 玄庵先生も強くなっている。


 この屋敷。


 大丈夫なのだろうか。


     ◇


 英語の勉強が終わった後。


 俺は父と二人になった。


 玄庵先生は書物を片づけ、部屋を出ていった。


 父は不機嫌そうに茶を飲んでいる。


 俺も飲む。


 苦い。


 相変わらずだ。


「父上」


「なんだ」


「少し薄くしてください」


「茶は苦いものだ」


「前にも聞きました」


「なら慣れろ」


「五歳ですよ」


「都合のよい時だけ五歳になるな」


「父上こそ、都合のよい時だけ父親になりますね」


「何?」


 しまった。


 これは少し危険だ。


「今のは忘れてください」


「嫌だ」


「忘れてください」


「嫌だ」


「子供ですか!」


「お前に言われたくない!」


 まただ。


 俺はため息をついた。


「父上」


「今度はなんだ」


「一つ、お願いがあります」


「嫌だ」


「まだ言っていません!」


「お前の願いは大体面倒だ」


「偏見です」


「清が負けると言った」


「本当に負けました」


「十五年後に異国船が来ると言った」


「来ます」


「英語を学べと言った」


「学んでいますね」


「学んでおらん!」


「では、Hの次は?」


「Iだ」


「ほら!」


「うるさい!」


 俺は笑った。


 父は怒った。


 でも。


 少しして。


「……それで」


 父が言った。


「願いとは何だ」


 俺は真面目な顔に戻る。


「異国について、もっと知りたいのです」


「今も調べさせておる」


「足りません」


「まだか」


「はい」


「お前は欲張りだな」


「十五年しかありませんから」


「十五年もある」


「その話は前にもしました」


「なら蒸し返すな」


「父上が言ったのでしょう!」


 危ない。


 また脱線する。


 俺は首を振った。


「英国だけではありません」


「他にもか」


「はい。露西亜。仏蘭西。亜米利加」


 父の眉が動いた。


「最後は何だ」


「アメリカです」


「聞いたことがない」


「そうでしょうね」


「大国か」


「これからなります」


「これから?」


「はい」


 父が俺を見る。


 さっきまでとは違う目だ。


 俺が未来の話をすると。


 父はもう笑わない。


 信じきっているわけでもない。


 でも。


 無視はしない。


 アヘン戦争が。


 父の中で何かを変えた。


「十五年後」


 俺は言った。


「日本へ来る黒船は、アメリカの船です」


「英国ではないのか」


「違います」


「なぜだ」


「太平洋を越えて、さらに西へ進むためです。捕鯨船の補給。清との交易。太平洋での拠点。理由は一つではありません」


「待て」


「はい」


「ほげい、とは」


「鯨を捕ることです」


「鯨?」


「はい」


「異人は鯨を食うのか」


「それだけではありません。油を取ります」


「油?」


「灯りなどに使います」


 父の顔が変わった。


「……鯨を殺して、油にするのか」


「はい」


「わざわざ海を越えて?」


「はい」


「そこまでして?」


「はい」


 父は黙った。


 俺も黙る。


 父が何を考えているのか。


 少し分かる。


 この時代の日本人にとって。


 海の向こうの国々は、遠い。


 ものすごく遠い。


 しかし。


 彼らは鯨を追って。


 利益を求めて。


 世界の果てまでやってくる。


「父上」


「なんだ」


「異国人は、来ます」


「……」


「嫌だから来るなと言っても」


「……」


「日本が望まなくても」


 俺はゆっくり言った。


「来ます」


 父は茶碗を置いた。


「ならば追い返す」


「どうやって?」


「またそれか」


「何度でも聞きます」


「大砲だ」


「何門あります」


「……」


「射程は」


「……」


「船は」


「……」


「火薬は」


「七郎麻呂」


「はい」


「お前は人の痛いところを突くのが好きだな」


「好きではありません」


「嘘を申せ」


「本当です」


「楽しそうだ」


「父上がすぐ怒るからです」


「それはわしのせいか!」


「かなり」


 父が睨む。


 俺は少し笑った。


 だが。


 すぐ真面目な顔に戻った。


「父上」


「なんだ」


「追い返すことが悪いとは言っていません」


「……」


「日本を守りたい気持ちも、間違っていない」


 父は何も言わない。


「でも」


 俺は続ける。


「守りたいなら、まず知らなければなりません」


「何を」


「日本が、今どれだけ弱いか」


 空気が変わった。


 父の目が細くなる。


 怒る。


 そう思った。


 でも。


 父は怒鳴らなかった。


 だから。


 俺も続けた。


「強いところもあります」


「……」


「人がいる。農地がある。識字率も高い。商いもある。職人もいる。藩ごとに人材もいる」


「ならば」


「でも」


 俺は止めた。


「それを一つに使えません」


「……」


「水戸の兵は水戸。薩摩の兵は薩摩。長州の兵は長州。幕府は幕府」


「それが幕藩体制だ」


「はい」


「何が悪い」


「外国から見れば、日本は一つです」


 父が黙る。


「英国は、水戸だけと戦うのではありません」


「……」


「アメリカも、薩摩だけと交渉するのではない」


「……」


「日本という国を相手にします」


 父の表情が。


 少しずつ変わっていく。


「でも日本は」


 俺は言った。


「一つの国として、戦う準備ができていません」


 父の指が。


 膝の上で動いた。


 一度。


 強く握られる。


「七郎麻呂」


「はい」


「お前は」


 少し間。


「幕府が悪いと申すのか」


「違います」


「では諸藩か」


「それも違います」


「なら何だ」


「仕組みです」


 即答した。


「誰か一人が悪いのではありません」


「……」


「幕府にも事情がある。藩にも事情がある。朝廷にも。武士にも。百姓にも。商人にも」


「……」


「皆、自分の立場で正しいと思って動く」


 前世で。


 何度も言った。


 政治学とは。


 正しい人と悪い人を分ける学問ではない。


 人が。


 それぞれ違う利益と価値観を持つ中で。


 どう共存するか。


 どう壊れない制度を作るか。


 それを考えるものだ。


「だから」


 俺は言った。


「誰かを悪者にしても、国は強くなりません」


「……」


「必要なのは」


「何だ」


「皆が嫌でも協力できる仕組みです」


 父は。


 黙った。


 俺は待った。


 すぐ怒鳴ると思った。


 そんなことはできない。


 理想論だ。


 五歳児が何を知る。


 そう言われると思った。


 でも。


 言わない。


 父は。


 ただ。


 黙っていた。


 その沈黙が。


 妙に長い。


「……父上?」


 返事がない。


「父上」


「聞こえておる」


「では何か言ってください」


「今考えておる」


「珍しいですね」


「七郎麻呂」


「はい」


「黙れ」


「はい」


 俺も黙った。


 庭の向こうで鳥が鳴いた。


 風が障子を揺らす。


 茶から湯気が上がっている。


 しばらくして。


 父が言った。


「皆が嫌でも協力できる仕組み」


「はい」


「そんなものが作れるのか」


「分かりません」


 父がこちらを見る。


「分からぬのか」


「はい」


「さっきまで偉そうに申していたではないか」


「偉そうなのは父上も同じです」


「お前な」


「でも」


 俺は笑わなかった。


「作らなければならないと思っています」


「……」


「人間が善人だから協力するのではなく」


「……」


「悪人がいても」


「……」


「怠け者がいても」


「……」


「欲深い者がいても」


 俺は言った。


「それでも簡単には国が壊れない仕組みを」


 父は。


 俺を見ていた。


 今度こそ。


 本当に。


 長く。


 黙っていた。


 初めてだった。


 怒鳴らない。


 言い返さない。


 俺を五歳だと笑わない。


 ただ。


 考えている。


 俺はその顔を見ながら。


 少しだけ。


 怖くなった。


 歴史上の徳川斉昭。


 烈公。


 尊王攘夷。


 強情。


 激情家。


 そんな言葉で。


 俺は前世で、この男を知ったつもりになっていた。


 でも。


 違う。


 この人は。


 考える。


 迷う。


 腹を立てる。


 意地を張る。


 恥ずかしがる。


 そして。


 時々。


 人の言葉を聞く。


 歴史書には。


 そこまで書いていない。


「七郎麻呂」


「はい」


「一つ聞く」


「何です」


「お前の夢では」


 父の声が。


 少し低くなった。


「わしは、何をしておる」


 心臓が跳ねた。


 答えられない。


 いや。


 答えたくない。


 将軍継嗣問題。


 安政の大獄。


 蟄居。


 そして。


 死。


「……怒っています」


 俺は言った。


 父の眉が動く。


「またそれか」


「はい」


「誰に」


「たくさんの人に」


「具体的には」


「言えません」


「なぜだ」


「父上が怒るからです」


「今も怒っておる!」


「だからです!」


 いつもの父が戻った。


 少し。


 安心した。


 父は鼻を鳴らした。


「もうよい」


「はい」


「今日は下がれ」


「はい」


 俺は立ち上がった。


 襖へ向かう。


 その時。


「七郎麻呂」


「はい」


 振り返る。


 父は。


 こちらを見ていなかった。


「異国について」


「はい」


「もう少し調べさせる」


 俺は何も言わなかった。


 父が続ける。


「英国だけではない」


「……」


「露西亜も」


「はい」


「仏蘭西も」


「はい」


「その……」


 父が少し嫌そうな顔をした。


「亜米利加もだ」


 俺は笑った。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「なぜです」


「まだ何もしておらん」


「でも」


「下がれ!」


「はいはい」


「はいは一度だ!」


「はい」


 襖を閉める。


 廊下に出る。


 そこに。


 お喜乃がいた。


「聞いていました?」


「少しだけ」


「どこから」


「『珍しいですね』のあたりから」


「かなり前ではありませんか」


「はい」


「盗み聞きです」


「廊下におりますので」


「便利な言葉ですね」


「夢ほどでは」


「それ、まだ使います?」


「便利ですので」


 俺はため息をついた。


 そして。


 少しだけ笑った。


「お喜乃」


「はい」


「今日、父上が黙りました」


「まあ」


「驚かないのですか」


「時々は黙られます」


「そうなのですか」


「眠っている時など」


「それは違います!」


 お喜乃が笑った。


 俺も笑った。


 でも。


 今日のことは。


 多分。


 忘れない。


 徳川斉昭が。


 初めて。


 五歳の息子の言葉に。


 怒鳴り返さず。


 黙って考えた日。


 国は。


 まだ変わっていない。


 幕府も。


 軍も。


 制度も。


 何も変わっていない。


 ただ。


 一人の頑固な男が。


 自分の知らない世界を。


 少しだけ見ようとした。


 それだけだ。


 でも。


 歴史を変えるというのは。


 多分。


 こういうことなのだ。


 誰かを一晩で別人にすることではない。


 嫌いだったものを。


 次の日から好きにさせることでもない。


 一度。


 立ち止まらせる。


 一度。


 考えさせる。


 一度。


 自分が間違っているかもしれないと。


 ほんの少しだけ。


 思わせる。


 それで十分だ。


 少なくとも。


 最初は。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 父上が完全に開国論者になるまで。


 ……いや。


 それは多分。


 無理だ。


 俺は早くも。


 目標を修正することにした。


 政治とは。


 できないことを諦める勇気も。


 案外。


 必要なのだ。


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