第11話 初めて父が黙った日
徳川斉昭が英語を学び始めてから、三日が経った。
正確に言えば。
本人は、まだ「学び始めた」とは認めていない。
「わしは英語など学んでおらん」
朝から父はそう言った。
俺は目の前に置かれた紙を見た。
そこには。
かなり大きな字で。
**A B C D E**
と書いてある。
下手だ。
ものすごく下手だ。
人のことは言えないが、それでも下手だ。
「父上」
「なんだ」
「これは?」
「紙だ」
「そういうことを聞いていません」
「なら何だ」
「ここに書いてある文字です」
「異人の文字だ」
「誰が書いたのです」
「……」
「父上?」
「知らん」
「筆跡が父上ですが」
「似ておるだけだ」
「昨日もそう言いましたね」
「うむ」
「一昨日も」
「うむ」
「三日続けて、父上にそっくりな字を書く謎の人物が、この部屋に侵入していると?」
「その可能性はある」
「捕まえた方がいいですよ!」
「七郎麻呂!」
「はい!」
朝から怒鳴られた。
もう慣れた。
いや。
五歳の耳には、まだ少し痛い。
だが心は慣れた。
父は不機嫌そうに紙を裏返した。
「とにかく」
「はい」
「わしは学んでおらん」
「では、昨日覚えた文字は?」
「知らん」
「Cの次は?」
「Dだ」
「覚えているではありませんか!」
「今のは偶然だ!」
「どんな偶然です!」
玄庵先生が俯いた。
笑っている。
もう隠す気もないらしい。
最近。
父と俺が一緒にいる時、周囲の人間はよく笑うようになった。
最初の頃は。
五歳の息子が水戸藩主に言い返すなど、とんでもないことだったのだろう。
皆、青い顔をしていた。
今は違う。
どうせまた始まった。
そんな顔をしている。
慣れとは恐ろしい。
「玄庵」
父が言った。
「はっ」
「次だ」
「はい?」
「文字の続きを申せ」
俺は父を見る。
「学んでいるではありませんか」
「お前は黙れ!」
「でも」
「黙れ!」
「はいはい」
「はいは一度だ!」
「はい」
このあたり。
本当に細かい。
玄庵先生が紙を開く。
「では、昨日の続きから」
「うむ」
「F」
「えふ」
「G」
「じい」
「H」
「……」
父が黙った。
「殿?」
「待て」
「はい」
「今、考えておる」
「どうぞ」
「……えいち」
「はい」
父の顔が少し緩む。
俺は言った。
「正解です」
「お前に褒められたくない!」
「なぜです!」
「腹が立つ!」
「理不尽です!」
「それを言うな!」
玄庵先生がとうとう声を立てて笑った。
父が睨む。
「何がおかしい」
「いえ。失礼いたしました」
「最近、そなたも遠慮がなくなったな」
「殿と若君を見ておりますと」
「なんだ」
「細かいことを気にする方が馬鹿らしくなってまいりました」
沈黙。
俺は父を見る。
父も俺を見る。
「父上」
「なんだ」
「私たち、今、馬鹿にされました?」
「されたな」
「そうですよね」
「玄庵」
「はっ」
「あとで覚えておけ」
「殿」
「なんだ」
「そういうことをおっしゃるから笑われるのです」
強い。
玄庵先生も強くなっている。
この屋敷。
大丈夫なのだろうか。
◇
英語の勉強が終わった後。
俺は父と二人になった。
玄庵先生は書物を片づけ、部屋を出ていった。
父は不機嫌そうに茶を飲んでいる。
俺も飲む。
苦い。
相変わらずだ。
「父上」
「なんだ」
「少し薄くしてください」
「茶は苦いものだ」
「前にも聞きました」
「なら慣れろ」
「五歳ですよ」
「都合のよい時だけ五歳になるな」
「父上こそ、都合のよい時だけ父親になりますね」
「何?」
しまった。
これは少し危険だ。
「今のは忘れてください」
「嫌だ」
「忘れてください」
「嫌だ」
「子供ですか!」
「お前に言われたくない!」
まただ。
俺はため息をついた。
「父上」
「今度はなんだ」
「一つ、お願いがあります」
「嫌だ」
「まだ言っていません!」
「お前の願いは大体面倒だ」
「偏見です」
「清が負けると言った」
「本当に負けました」
「十五年後に異国船が来ると言った」
「来ます」
「英語を学べと言った」
「学んでいますね」
「学んでおらん!」
「では、Hの次は?」
「Iだ」
「ほら!」
「うるさい!」
俺は笑った。
父は怒った。
でも。
少しして。
「……それで」
父が言った。
「願いとは何だ」
俺は真面目な顔に戻る。
「異国について、もっと知りたいのです」
「今も調べさせておる」
「足りません」
「まだか」
「はい」
「お前は欲張りだな」
「十五年しかありませんから」
「十五年もある」
「その話は前にもしました」
「なら蒸し返すな」
「父上が言ったのでしょう!」
危ない。
また脱線する。
俺は首を振った。
「英国だけではありません」
「他にもか」
「はい。露西亜。仏蘭西。亜米利加」
父の眉が動いた。
「最後は何だ」
「アメリカです」
「聞いたことがない」
「そうでしょうね」
「大国か」
「これからなります」
「これから?」
「はい」
父が俺を見る。
さっきまでとは違う目だ。
俺が未来の話をすると。
父はもう笑わない。
信じきっているわけでもない。
でも。
無視はしない。
アヘン戦争が。
父の中で何かを変えた。
「十五年後」
俺は言った。
「日本へ来る黒船は、アメリカの船です」
「英国ではないのか」
「違います」
「なぜだ」
「太平洋を越えて、さらに西へ進むためです。捕鯨船の補給。清との交易。太平洋での拠点。理由は一つではありません」
「待て」
「はい」
「ほげい、とは」
「鯨を捕ることです」
「鯨?」
「はい」
「異人は鯨を食うのか」
「それだけではありません。油を取ります」
「油?」
「灯りなどに使います」
父の顔が変わった。
「……鯨を殺して、油にするのか」
「はい」
「わざわざ海を越えて?」
「はい」
「そこまでして?」
「はい」
父は黙った。
俺も黙る。
父が何を考えているのか。
少し分かる。
この時代の日本人にとって。
海の向こうの国々は、遠い。
ものすごく遠い。
しかし。
彼らは鯨を追って。
利益を求めて。
世界の果てまでやってくる。
「父上」
「なんだ」
「異国人は、来ます」
「……」
「嫌だから来るなと言っても」
「……」
「日本が望まなくても」
俺はゆっくり言った。
「来ます」
父は茶碗を置いた。
「ならば追い返す」
「どうやって?」
「またそれか」
「何度でも聞きます」
「大砲だ」
「何門あります」
「……」
「射程は」
「……」
「船は」
「……」
「火薬は」
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は人の痛いところを突くのが好きだな」
「好きではありません」
「嘘を申せ」
「本当です」
「楽しそうだ」
「父上がすぐ怒るからです」
「それはわしのせいか!」
「かなり」
父が睨む。
俺は少し笑った。
だが。
すぐ真面目な顔に戻った。
「父上」
「なんだ」
「追い返すことが悪いとは言っていません」
「……」
「日本を守りたい気持ちも、間違っていない」
父は何も言わない。
「でも」
俺は続ける。
「守りたいなら、まず知らなければなりません」
「何を」
「日本が、今どれだけ弱いか」
空気が変わった。
父の目が細くなる。
怒る。
そう思った。
でも。
父は怒鳴らなかった。
だから。
俺も続けた。
「強いところもあります」
「……」
「人がいる。農地がある。識字率も高い。商いもある。職人もいる。藩ごとに人材もいる」
「ならば」
「でも」
俺は止めた。
「それを一つに使えません」
「……」
「水戸の兵は水戸。薩摩の兵は薩摩。長州の兵は長州。幕府は幕府」
「それが幕藩体制だ」
「はい」
「何が悪い」
「外国から見れば、日本は一つです」
父が黙る。
「英国は、水戸だけと戦うのではありません」
「……」
「アメリカも、薩摩だけと交渉するのではない」
「……」
「日本という国を相手にします」
父の表情が。
少しずつ変わっていく。
「でも日本は」
俺は言った。
「一つの国として、戦う準備ができていません」
父の指が。
膝の上で動いた。
一度。
強く握られる。
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は」
少し間。
「幕府が悪いと申すのか」
「違います」
「では諸藩か」
「それも違います」
「なら何だ」
「仕組みです」
即答した。
「誰か一人が悪いのではありません」
「……」
「幕府にも事情がある。藩にも事情がある。朝廷にも。武士にも。百姓にも。商人にも」
「……」
「皆、自分の立場で正しいと思って動く」
前世で。
何度も言った。
政治学とは。
正しい人と悪い人を分ける学問ではない。
人が。
それぞれ違う利益と価値観を持つ中で。
どう共存するか。
どう壊れない制度を作るか。
それを考えるものだ。
「だから」
俺は言った。
「誰かを悪者にしても、国は強くなりません」
「……」
「必要なのは」
「何だ」
「皆が嫌でも協力できる仕組みです」
父は。
黙った。
俺は待った。
すぐ怒鳴ると思った。
そんなことはできない。
理想論だ。
五歳児が何を知る。
そう言われると思った。
でも。
言わない。
父は。
ただ。
黙っていた。
その沈黙が。
妙に長い。
「……父上?」
返事がない。
「父上」
「聞こえておる」
「では何か言ってください」
「今考えておる」
「珍しいですね」
「七郎麻呂」
「はい」
「黙れ」
「はい」
俺も黙った。
庭の向こうで鳥が鳴いた。
風が障子を揺らす。
茶から湯気が上がっている。
しばらくして。
父が言った。
「皆が嫌でも協力できる仕組み」
「はい」
「そんなものが作れるのか」
「分かりません」
父がこちらを見る。
「分からぬのか」
「はい」
「さっきまで偉そうに申していたではないか」
「偉そうなのは父上も同じです」
「お前な」
「でも」
俺は笑わなかった。
「作らなければならないと思っています」
「……」
「人間が善人だから協力するのではなく」
「……」
「悪人がいても」
「……」
「怠け者がいても」
「……」
「欲深い者がいても」
俺は言った。
「それでも簡単には国が壊れない仕組みを」
父は。
俺を見ていた。
今度こそ。
本当に。
長く。
黙っていた。
初めてだった。
怒鳴らない。
言い返さない。
俺を五歳だと笑わない。
ただ。
考えている。
俺はその顔を見ながら。
少しだけ。
怖くなった。
歴史上の徳川斉昭。
烈公。
尊王攘夷。
強情。
激情家。
そんな言葉で。
俺は前世で、この男を知ったつもりになっていた。
でも。
違う。
この人は。
考える。
迷う。
腹を立てる。
意地を張る。
恥ずかしがる。
そして。
時々。
人の言葉を聞く。
歴史書には。
そこまで書いていない。
「七郎麻呂」
「はい」
「一つ聞く」
「何です」
「お前の夢では」
父の声が。
少し低くなった。
「わしは、何をしておる」
心臓が跳ねた。
答えられない。
いや。
答えたくない。
将軍継嗣問題。
安政の大獄。
蟄居。
そして。
死。
「……怒っています」
俺は言った。
父の眉が動く。
「またそれか」
「はい」
「誰に」
「たくさんの人に」
「具体的には」
「言えません」
「なぜだ」
「父上が怒るからです」
「今も怒っておる!」
「だからです!」
いつもの父が戻った。
少し。
安心した。
父は鼻を鳴らした。
「もうよい」
「はい」
「今日は下がれ」
「はい」
俺は立ち上がった。
襖へ向かう。
その時。
「七郎麻呂」
「はい」
振り返る。
父は。
こちらを見ていなかった。
「異国について」
「はい」
「もう少し調べさせる」
俺は何も言わなかった。
父が続ける。
「英国だけではない」
「……」
「露西亜も」
「はい」
「仏蘭西も」
「はい」
「その……」
父が少し嫌そうな顔をした。
「亜米利加もだ」
俺は笑った。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「なぜです」
「まだ何もしておらん」
「でも」
「下がれ!」
「はいはい」
「はいは一度だ!」
「はい」
襖を閉める。
廊下に出る。
そこに。
お喜乃がいた。
「聞いていました?」
「少しだけ」
「どこから」
「『珍しいですね』のあたりから」
「かなり前ではありませんか」
「はい」
「盗み聞きです」
「廊下におりますので」
「便利な言葉ですね」
「夢ほどでは」
「それ、まだ使います?」
「便利ですので」
俺はため息をついた。
そして。
少しだけ笑った。
「お喜乃」
「はい」
「今日、父上が黙りました」
「まあ」
「驚かないのですか」
「時々は黙られます」
「そうなのですか」
「眠っている時など」
「それは違います!」
お喜乃が笑った。
俺も笑った。
でも。
今日のことは。
多分。
忘れない。
徳川斉昭が。
初めて。
五歳の息子の言葉に。
怒鳴り返さず。
黙って考えた日。
国は。
まだ変わっていない。
幕府も。
軍も。
制度も。
何も変わっていない。
ただ。
一人の頑固な男が。
自分の知らない世界を。
少しだけ見ようとした。
それだけだ。
でも。
歴史を変えるというのは。
多分。
こういうことなのだ。
誰かを一晩で別人にすることではない。
嫌いだったものを。
次の日から好きにさせることでもない。
一度。
立ち止まらせる。
一度。
考えさせる。
一度。
自分が間違っているかもしれないと。
ほんの少しだけ。
思わせる。
それで十分だ。
少なくとも。
最初は。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
父上が完全に開国論者になるまで。
……いや。
それは多分。
無理だ。
俺は早くも。
目標を修正することにした。
政治とは。
できないことを諦める勇気も。
案外。
必要なのだ。




