第12話 それでも父は攘夷論者だった
翌朝。
俺は、少しだけ期待していた。
本当に少しだけだ。
昨日、父は黙った。
俺の話を聞いた。
英国だけでなく、露西亜も、仏蘭西も、亜米利加も調べると言った。
英語だって学び始めた。
まだ本人は頑として認めていないが、AからHまでは覚えた。
ならば。
もしかすると。
本当に、もしかするとだが。
徳川斉昭という人間は。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
攘夷という考えを改め始めたのではないか。
そんな期待を。
俺は抱いてしまった。
結論から言おう。
甘かった。
非常に甘かった。
父と半分にした饅頭より甘かった。
「異人は追い払う!」
朝から父が怒鳴った。
「……」
俺は黙った。
「どうした、七郎麻呂」
「いえ」
「何だ」
「何でもありません」
「申せ」
「嫌です」
「なぜだ!」
「言ったら父上が怒るからです!」
「言わなくても腹が立つ!」
「理不尽です!」
「またそれを言うか!」
朝から元気だ。
本当に。
どうしてこの人は、こんなに元気なのだろう。
ちなみに俺は、まだ少し眠い。
五歳児の身体は朝が早いくせに、夜も早く眠くなる。
昨日だって未来について考えていたら、途中で寝落ちした。
目を覚ましたら布団が掛けられていた。
誰が掛けたのかは知らない。
お喜乃に聞いたら、
『さあ』
と言って笑っていた。
たぶん父だ。
絶対に認めないだろうけれど。
「父上」
「なんだ」
「昨日、何を聞いていました?」
「お前の話だ」
「どのあたりを?」
「全部だ」
「では、なぜ結論が『異人は追い払う』になるのです?」
「当然であろう!」
「何が当然なのです!」
「清を見よ!」
父は机を叩いた。
どん、と大きな音がした。
俺の肩が少し跳ねる。
心は六十二歳でも、身体は五歳。
大きな音には正直だ。
それが少し悔しい。
「阿片を売りつける!」
「はい」
「断れば戦を仕掛ける!」
「はい」
「港を開けろと迫る!」
「はい」
「土地まで奪う!」
「はい」
「そのような者どもを、なぜ我が国に入れねばならぬ!」
俺は黙った。
これは。
間違っていない。
少なくとも。
父が怒る理由は分かる。
英国が清にしたことを見て。
『もっと外国と仲良くしよう』
と思う方が難しい。
むしろ。
日本を守りたいと思えばこそ。
父のような結論になる。
異人は危険だ。
近づけるな。
追い払え。
それは。
感情だけではない。
この時代なりの。
一つの理屈でもある。
「七郎麻呂」
「はい」
「なぜ黙る」
「考えています」
「珍しいな」
「父上に言われたくありません」
「何?」
「何でもありません」
「今、申しただろう」
「夢です」
「便利に使うな!」
いつものやり取りだ。
俺は息を吐く。
「父上」
「なんだ」
「一つ、確認してよろしいですか」
「申せ」
「父上は、外国人が嫌いなのですか」
「嫌いだ」
即答だった。
「では、会ったことは?」
「ない」
「話したことは?」
「ない」
「顔を見たことは?」
「絵ならある」
「本人には?」
「ない」
「では」
俺は少し首を傾げた。
「知らない人を嫌っているのです?」
父の眉間に皺が寄った。
「屁理屈を申すな」
「屁理屈ではありません」
「ではなんだ」
「確認です」
「お前の確認は腹が立つ」
「父上の答え方も腹が立ちます」
「七郎麻呂!」
「はい!」
また声が大きくなる。
部屋の隅にいた家臣が、ちらりとこちらを見た。
今日もいる。
最近、父は俺との話に一人か二人の家臣を同席させるようになった。
多分。
本当に五歳の息子と話した内容なのか。
後から自分でも不安になるからだと思う。
違うかもしれない。
だが、ありそうだ。
「父上」
「なんだ」
「私は、父上が外国を警戒することを間違いだとは思っていません」
「……」
父の顔が変わった。
少しだけ。
意外そうに。
「本当か」
「はい」
「ならば」
「最後まで」
「……」
「最後まで聞いてください」
「分かった」
「本当ですか」
「分かったと言っておる」
「では、怒らずに」
「努力はする」
「そこは断言してください」
「無理だ」
「正直ですね!」
家臣が咳をした。
まただ。
この屋敷では、本当に風邪が流行っているらしい。
もちろん。
笑いを誤魔化しているだけだ。
俺は続けた。
「英国は危険です」
「うむ」
「露西亜も」
「うむ」
「他の国も、日本に利益があると思えば来ます」
「だから追い払う」
「でも」
「なんだ」
「追い払える力がなければ?」
父が黙った。
「父上」
「……なんだ」
「追い払え、と言うだけで、船は帰りますか」
「帰らせる」
「どうやって」
「大砲だ」
「射程は?」
「……」
「数は?」
「……」
「火薬は?」
「……」
「船は?」
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は同じところを何度も突くな」
「答えが変わらないからです」
「腹が立つ」
「私もです」
「なぜお前が腹を立てる!」
「父上が話を進めないからです!」
また喧嘩になった。
しかし。
今日の俺は少し違う。
怒鳴り合うだけでは駄目だ。
父を論破しても意味がない。
むしろ。
論破された人間は。
大抵、考えを変えない。
人前ならなおさらだ。
負けを認めることと。
考えを改めることは。
同じではない。
「父上」
「なんだ!」
「一つ、提案があります」
「嫌だ」
「まだ何も言っていません!」
「お前の提案は大体面倒だ!」
「それは認めます!」
「認めるのか!」
「はい!」
一瞬。
父が言葉に詰まった。
俺も少し笑った。
「では」
俺は言う。
「攘夷してください」
父が止まった。
家臣も。
部屋が静かになる。
「……何?」
「攘夷してください」
「お前」
「はい」
「熱でもあるのか」
「ありません!」
「医者を呼ぶか」
「なぜそうなるのです!」
「昨日まで異人を学べと言っていたお前が!」
「今もそう思っています!」
「ならばなぜ攘夷しろと!」
「父上が攘夷したいからです!」
「話が分からん!」
「最後まで聞いてください!」
まただ。
本当に。
話を進めるだけで体力を使う。
「いいですか」
「うむ」
「父上は、異人を追い払いたい」
「そうだ」
「私は、それを今すぐやめろとは言いません」
「……」
「言ってもやめないでしょう」
「当然だ」
「そこは少し迷ってください」
「嫌だ」
「でしょうね!」
もう。
そこは諦める。
「なら」
俺は言った。
「本当に追い払えるようにしてください」
「……何?」
「気合ではなく」
「お前は本当に気合が嫌いだな」
「嫌いではありません!」
「では」
「気合だけが嫌なのです!」
俺は身を乗り出す。
「異国の船より速い船を持つ」
「……」
「遠くまで届く大砲を持つ」
「……」
「火薬を作る」
「……」
「砲弾を作る」
「……」
「海岸を測る」
「……」
「地図を作る」
「……」
「外国語を学ぶ」
「待て」
やっぱり止めた。
「そこだ」
「どこです」
「なぜ攘夷するために異人の言葉を学ぶ」
「まだ言いますか!」
「気に入らん!」
「好き嫌いの話ではありません!」
「わしにとっては重要だ!」
「国より?」
父が止まった。
俺は。
少し言いすぎたと思った。
だが。
もう遅い。
「父上」
「……」
「英語が嫌いなのと」
「……」
「日本を守るのと」
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
「どちらが大事です?」
父は答えなかった。
部屋が静かになる。
家臣も。
息を潜めている。
俺は思った。
ここで。
勝った顔をしてはいけない。
父に。
負けたと思わせてはいけない。
必要なのは。
論破ではなく。
動かすことだ。
「私は」
俺は続けた。
「父上の攘夷を否定したいわけではありません」
「……」
「でも」
「……」
「追い払いたいなら」
一度。
息を吸う。
「追い払えるほど強くなってください」
父が俺を見る。
「学んで」
「……」
「作って」
「……」
「育てて」
「……」
「備えて」
「……」
「その上で」
俺は言った。
「まだ追い払いたいなら、追い払えばいい」
長い沈黙。
父の顔が。
険しい。
でも。
怒鳴らない。
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は」
「はい」
「わしを騙そうとしておるな」
「なぜです!」
「攘夷をさせると言いながら、結局、異人を学ばせようとしておる」
「……」
「違うか」
鋭い。
さすがだ。
俺は少し迷った。
誤魔化すか。
でも。
やめた。
「半分は」
「半分?」
「はい」
「では残り半分は」
「本気です」
父の眉が動く。
「本気で?」
「はい」
「わしが異人を追い払ってもよいと?」
「もし」
俺は答えた。
「その時の日本が、本当にその選択をしても滅びないほど強いなら」
「……」
「私は止めません」
父は何も言わない。
俺も。
嘘は言っていない。
俺は開国が絶対善だとは思わない。
攘夷が絶対悪だとも。
歴史は。
そんな単純ではない。
問題は。
できるか。
できないかだ。
実力がないのに。
気分だけで戦争を始める。
それが一番危険だ。
「父上」
「なんだ」
「選べる国にしましょう」
「……」
「戦うしかない国ではなく」
「……」
「従うしかない国でもなく」
「……」
「戦うことも」
「……」
「話すことも」
「……」
「断ることもできる」
俺は父を見る。
「そういう国に」
父は黙っていた。
また。
長い。
本当に長い沈黙。
やがて。
父が言った。
「お前は」
「はい」
「やはり気味が悪いな」
「ひどい!」
「五歳の子供が申すことではない!」
「また年齢ですか!」
「当然だ!」
「父上はそれしかありませんか!」
「五歳は十分大きな問題だ!」
「そうですけれど!」
家臣が。
とうとう笑った。
「おい」
父が睨む。
「申し訳ございませぬ」
「何がおかしい」
「いえ」
「申せ」
「殿と若君は」
「うむ」
「少し似てまいりましたな」
「どこがだ!」
「どこがです!」
また。
俺と父の声が重なった。
最悪だ。
絶対に似ていない。
いや。
似ていないと思いたい。
◇
その日の午後。
俺は父と一緒に庭を歩いた。
本当に珍しいことだった。
俺の方から頼んだのではない。
父が、
「来い」
と言った。
理由は言わなかった。
聞けば、
「散歩だ」
と。
それだけ。
だから。
俺も何も聞かなかった。
父の歩幅は大きい。
俺の足は短い。
「父上」
「なんだ」
「少しゆっくり歩いてください」
「なぜだ」
「五歳です」
「都合のよい時だけ――」
「物理的な問題です!」
「ぶつり?」
「足が短いのです!」
父が俺の足を見た。
「確かに短いな」
「改めて言わないでください!」
「五歳だからな」
「知っています!」
父の歩調が少し遅くなった。
こういうところだ。
口では何も言わない。
でも。
歩く速さは合わせる。
面倒くさい人だ。
本当に。
「七郎麻呂」
「はい」
「わしは」
父は前を向いたまま言う。
「異人が嫌いだ」
「知っています」
「信用もせぬ」
「はい」
「清でやったことを忘れる気もない」
「はい」
「日本へ来れば」
一度。
声が止まる。
「追い返したい」
「はい」
「それでも」
父は歩く。
「知らぬままでは」
少し。
苦い顔。
「駄目なのだろうな」
俺は。
すぐには答えなかった。
「はい」
それだけ言った。
余計なことを言えば。
また怒る。
今は。
これでいい。
「父上」
「なんだ」
「私は」
少し笑う。
「父上に開国論者になってほしいわけではありません」
「そうなのか」
「はい」
「では何だ」
「考え続けてほしいのです」
父がこちらを見る。
「異人を嫌いでもいい」
「……」
「怒ってもいい」
「……」
「でも」
俺は言った。
「嫌いだから考えない、だけはやめてください」
父は何も言わなかった。
ただ。
少しして。
「お前もな」
「何がです」
「椎茸」
「それは別です」
「なぜだ!」
「食べ物と外交は違います!」
「嫌いだから食わぬのであろう!」
「味覚です!」
「同じだ!」
「違います!」
「同じだ!」
「父上!」
「なんだ!」
「話を台無しにしないでください!」
「わしのせいか!」
「かなり!」
また。
庭に怒鳴り声が響いた。
遠くで。
お喜乃が笑っている。
絶対に。
後で何か言われる。
分かっている。
でも。
俺も少し笑った。
父は。
開国論者にはならなかった。
多分。
これからも。
そう簡単にはならない。
いや。
一生ならないかもしれない。
それでいい。
人間は。
こちらの都合に合わせて別人になるものではない。
父は父だ。
頑固で。
短気で。
声が大きくて。
異人が嫌いで。
日本を守りたくて。
だからこそ。
面倒なのだ。
でも。
その面倒さごと。
動かさなければならない。
歴史を変えるというのは。
人間を消して。
都合のよい駒に置き換えることではない。
この人の。
嫌なところも。
頑固なところも。
怖がるところも。
譲れないところも。
全部残したまま。
それでも。
少しだけ。
違う方向へ歩いてもらう。
それが。
多分。
政治なのだ。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
父上が開国論者になるまで。
……これはもう。
数えるのをやめようと思う。
無理なものは無理だ。
俺は早くも。
政治家として。
現実的な判断を覚え始めていた。




